廃線レポート 奥羽本線旧線 赤岩地区 その5

2005.1.13


 奥羽本線の旧線跡を探る旅。
その舞台は、明治32年竣工の初代線に始まる。
その対岸には、明治44年竣工2代目線の隧道群も現存すると言われる。
さらに、明治29年頃に一時期利用された、工事用軽便鉄道の遺構まで、存在する。

明治の遺構に囲まれて、いつになく煉瓦分の濃い探索である。
そして、いよいよ絶壁との闘いが、近づく。


 



 2代目 東赤岩臨時乗降場跡 
2004.11.20 10:27


 初代7号隧道東口と、6号隧道西口間は、森の中の短い明かり区間である。
僅か150m程度だが、木々が茂っており、晩秋の今でも、7号隧道からは次の6号隧道は見えない。

それにしても、すごい景色だ。

ここを堂々の幹線鉄道たる奥羽本線が通っていたのだ。
僅か11・2年とはいえ。

この景色が奇妙に思える訳は、おそらくただ森と化しているからではない。
あるべきものが、余りにも無いのである。
例えば、これだけの斜面であれば雪崩防止柵や法面の施工はあって当然だろうし、豪雪地なのだから、鉄道防砂林(杉の林)が設置されていてもおかしくはないはずだ。
それなのに、無垢な自然林が地表を覆っているのだ。

衝撃的な景色である。




 明るい森を少し歩くと、そのまま直線上に次の隧道、第6号隧道が現れる。
この間、かつてレールが敷かれていただろう直線は平坦さを維持している。
また、僅かだが、谷側には側溝の跡らしき凹みが沿っている。

記録によれば、この僅かな明かり区間には、ごく短い期間駅が置かれたことがある。
それは、明治43年10月8日から、翌年9月4日までで、東赤岩臨時乗降場といった。

この設置時期を見て頂ければ予想できると思うが、まさに7号隧道の変状による使用停止・新線建設期間中の、乗客徒歩連絡に要された駅である。
乗客達はこの期間内、今は閉塞している7号隧道内に設けられた通路を歩いて(なお、貨物は乗客通行のない時間に小型無蓋車の手押しにて隧道内を通行していたと言われる。7号隧道が末期には幾重の支保工に囲まれた極狭隧道になっていた様子がうかがえる)、現赤岩駅に連絡していた。
なお、前回などに述べた「7号隧道越えの徒歩連絡路」は、この場所に東赤岩臨時乗降場が設置される以前に、6号隧道と7号隧道の2隧道を迂回する形で利用されていた。
よって正確には、ここに置かれた臨時乗降場は、2代目ということになる。

いずれにしても、現在ではその痕跡となるものは、なにもない。


 振り返ると、そこには7号隧道東口が見えている。

この短い平地に、旅客達が降り立った時期がある。

これもまた、一連の遺構が秘めた一級のメルヘンであろう。

度々引き合いに出して申し訳ないが、相互リンク先『ニヒト・アイレン』管理人TILL氏は、いち早くこの地をネット上に紹介した一人である。
その彼が、メールのやりとりで言っていた言葉が、印象的である。

「あんな場所が存在する事自体信じられない…」

まさしく!
まさに言い得て妙ではないか。
廃線遺構数あれど、この景色は生涯忘れられないものであると、私も思った。






 第6号隧道 
2004.11.20 10:30


 厳しさとは無縁の廃線跡を、ユルユルと歩く。
まるでピクニック。
男三人、満面の笑顔で、続々現れる遺構にホクホクしまくり。

これぞ、廃線歩きという醍醐味を感じながら、間もなく6号隧道に着く。
贅沢なことを言うが、この廃線跡に、明かな踏み跡が付いていたら萎えるだろう。
しかし、この区間だけに限って言えば、逆に踏み跡一つ無いことが不自然なくらい、歩きやすい。
まるで、自分達が最初の到達者ではないかと思えるような手垢の付いていない遺構というのは、貴重であり、嬉しいものだ。
全国的に紹介されているわりには、本当に荒らされていない。



 谷側にも隧道を迂回するような平坦部がやや続くが、すぐに斜面に消えてしまう。

こちらから見る6号隧道は、正面から見たのとやはり同じで、とても大人しい印象。
おそらく当時の施工としては最大限にシンプルな造りなのだと思われる。
どんな景色にも馴染む、美しい隧道である。

背景の谷には工事用軌道や徒歩連絡道があったはずだが、痕跡はここからでは見分けられなかった。




 第6号隧道(第二松川隧道)は、延長110mの短い直線隧道である。
内部は貫通しており、保存状況はよい。
煉瓦の剥離なども殆どなく、洞床には土と、その上に落ち葉が積もっている。
壁・洞床の様子とも一様であり、通過点といった印象の小隧道である。

だが、この小さな隧道にも、他の隧道には見られない特徴があった。





 内壁のごく一部、恐らくはこの一カ所だけだったと思うが、煉瓦が取り払われて、地肌の露出している箇所があった。
故に、煉瓦巻きの様子を細かく観察することが出来る状態にある。

それによると、煉瓦は地肌まで3重巻きとなっている。
最も地肌側の煉瓦は直接地肌に接しているようで、見える範囲に木材の使用はないが、その範囲は縦横30cm×60cm程度の狭さであり決定的ではない。

奇妙なのは、地肌まで露出するほどの煉瓦の剥離でありながら、地面には一つの煉瓦や欠片も落ちていないと言うこと。


 間もなく隧道を通り抜ける。

いよいよこの先で初代線は松川を渡る松川橋梁である。
2代目以降は全て赤岩駅の傍で松川を渡っているが、初代線のみ、ここまで松川の左岸を貫いてきた。
地形的には、右岸も左岸も同様に急峻だが、初代線のルートが、もっとも隧道と橋梁の計延長を削減できているように思える。
2代目以降の線が左岸を避けたのは、言うまでもなく、初代線放棄の原因となった土砂崩れをはじめ、地形の強度に不安があったからだろう。
写真に写っている平坦部の先は、松川に落ち込んでいる。
この平地には、かつて東赤岩臨時乗降場(初代)が置かれていたし、ここから赤岩までの建設工事中に利用された軽便鉄道の起点でもあった。





 でも、まだ6号隧道の観察は終わってなかった。
代わり映えのない隧道のように見えて…実は…。


出口付近の壁に無数に開けられた小孔。

あきらかに、自然ののもではない。
等間隔に並んだ、直径1cm程度の孔。

どうも、この隧道には作為的な破壊というか、何らかの調査対象となった痕跡がある。




 そして、その推論は決定的な物件にたどりつく。

坑門付近の煉瓦に描かれた、まだ色鮮やかな白のチョーク文字。
そこには、鮮明にこう記されていた。

 「H9.11.19 仙土技 検査V」

我々の探索の7年と一日前、“仙土技”というところで、隧道の構造か、恐らくは煉瓦隧道の経年変化を見るような検査ではないかと思われるが、いずれ何らかの検査が実施されたようである。
“仙土技”とは、仙台土木技術?
これに該当するグループは、ネット上を検索した限り見つからなかったが…。

無用の隧道も、まだ何処かしらで必要としている人も、いるようである。
また、我々の生活の安全にも、どこか役になっているのかも知れない。



 そして、6号隧道東口である。
足元に広がっている平地は、初代東赤岩臨時乗降場の跡地だ。

この隧道は、両方の坑門でデザインが大きく異なっている珍しい例だ。
しかも、長い隧道でもないのに、奇妙である。
この東坑門の特徴は、帯石のみ煉瓦製ではなく、石製であることだ。




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 初代東赤岩臨時乗降場跡
2004.11.20 10:37

 『奥羽本線福島・米沢間概史』より一枚拝借。
臨時乗降場現役当時の貴重な写真である。

手前は、初代の松川橋梁。
列車が停車しているのが臨時乗降場で、奥が6号隧道である。
隧道上の山肌には、鮮明な道筋が見えるが、これが徒歩連絡道だと思われる。
よく見ると、この徒歩道らしき影は、写真中央で九十九折りを描き、乗降場に続いている。
山腹の道自体は写真右端外にも通じており、これが工事用軌道跡なのか、全く別のものなのかは、想像が付かない。
今後さらなる調査が必要と感じる。

なお、この初代臨時乗降場は、先ほど紹介した2代目以上に短命で、利用開始が明治43年8月19日から同年10月7日まで。
たったの2ヶ月足らずだ。
それにしては、写真には無数の建物が写っており、にわか集落のようにも見える。
これは、同時期に対岸で施工中の2代目線関連の飯場などと思われる。



 我々の足元にも、何か臨時乗降場の遺構があるかも知れないが、まずは何よりも我々が気にしていたのは、この先の探索が可能であるかどうかと言うことだ。

実は、我々が最も参考にしていた廃線マニアのバイブル『全国廃線鉄道跡を歩く[』にも、その他ネット上の多くの情報にも、この場所が探索の終点のような書かれ方をしていた。
僅かな例外としては、相互リンク先サイト『ようこそ山口屋』さんが挙げられるが、肝心の前進の策はぼかされており、ただ、ひたすらに危険である旨が強調されているばかりだ。

このような前人未踏を感じさせる“美味しい”場所は、いわば山行が探索隊にとってはネタの“ジャックポット”(大当たり)である。
だが、安易な挑戦は命の危険を意味するばかりか、あの粒様のように、結局は力不足で敗退という可能性も小さくない。

私とくじ氏は、この松川橋梁越えが今回の探索の最大の山場とを考えており、念入りに事前学習をしていた。
その結論としては、手がかりの木々さえあればどうにかこうにか対岸に行けるだろうという、楽観的なものであった(笑)

だ、だが!

深い!!

そして、遠い!!



 …。


これは、写真で見てきた以上の、激烈なシチュエーションのようである。
真っ正面にポッカリと口を開ける初代5号隧道西口。
その手前には僅かにも平地はないようで、直、煉瓦製の橋台となっているようだ。

たしかに、ここを探索の終点と感じるのは、至って正常な感性だと思う。
そもそも、橋が落ちているのだから対岸には行けないというのが普通の考えだし、仮に川を渡れても、この崖ではおおよそ…。


冷静になれ!


確かに、崖は深く、対岸の様子も険しさ有り余る。

だが、粒様の時ほど、見た瞬間にダメだというものは感じない。

慎重にコースを検討すれば、直接隧道に登攀する術が、あるかも知れないと、そう感じる。




 と、とにかく、
一度谷を降りたら、もう同じ場所へは戻れなそうなので、先にこの足元を散策しておくことにしよう。

最後の平地である。


僅かに煉瓦の残骸が散乱する平地。
それは、破壊された松川橋梁を構成していたアーチの一部らしい。
かつてレールが通っていた痕跡は見られないものの、かなり広い平坦地が、松川に沿うようにして上流側に続いている。
当時の写真にはいくつもの建物が写っていた辺りだ。





 こっ これわァ!


石垣多数残存!
山肌には、苔生した石垣が、無数に残されていた。
おそらくは、この平場を確保するための法面や土留めであろう。
そして、微かだが上部へ至るつづら折りの痕跡らしきものも、見られた。

今日は残念だが、後にどれだけ時間が掛かるか分からないので、これ以上深追いはしないが、この場所には他にもなにか発見があるかも知れない。
造りは雑だがそこそこ大規模な石垣が、散在している。




 なんですか、この陶器の破片は?

まさかまさか、当時のもの?

これ一つばかり、落ち葉の中に半ば埋もれているのを発見したが、その時は深く考えず放置した。

しかし、今考えると、古い物に見えはしないが、それは素人考え。
こんな場所におそらくは小皿だが、こんなものが落ちているだけで十二分に怪しいのだ。

もしやもしや、当時のもの?!





 さあ、いよいよだ。

いよいよ百尋千尋の谷に挑む。


まずは、この煉瓦散乱する斜面を崖下まで降りなければならない。
散乱している煉瓦は、もともとは松川橋梁の一部で、アーチ部分の破片である。
そして、斜面に屹立しているのは、壊されず残ったアーチの支柱。


次回は、この歴史ある松川橋梁の残存遺構から紹介しよう。

待望?のアタックシーンは、もう少し待ってくれ!













その6へ

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