廃線レポート 奥羽本線旧線 赤岩地区 その6

2005.1.15


 初代 松川橋梁跡
2004.11.20 10:44


 初代松川橋梁は、明治29年にこの地に架橋されたアーチ3連(福島側1連、米沢側2連)上路デックトラス1連の複合橋である。
延長64m(うちトラス部分64m)、河床からの高さ40mという、初代線随一の巨大橋である。
また、当然のように、大変な難工事であったと伝えられている。

なお、本橋は初代線と運命を共にしたわけだが、そのたった開業12年の歴史のなかで一度架け替えられている。
それは、わずか開業三年目の明治35年、機関車の重連が当たり前の急勾配区間にあって、そのトラス部分の構造上の強度不足が指摘されたことによる。
そして、同年中には、新たな設計の上路プラットトラスに交換されたのである。
結局は、この新しいトラスもまた、わずか8年ほどで、この地での任を終えることになるのだが。

廃止後の2代目トラスは埼玉県の秩父鉄道に転用されたことが知られているが、初代のトラスは解体後どこへ行ったのかは、分からない。




 これは、完成当時の松川橋梁の貴重な写真である。(『奥羽本線福島・米沢間概史より』)

写真は松川下流から撮影したもので、向かって右が現在地点。
左が目指す5号隧道である。
写真に写っているのは、初代の桁ということになる。

もしこの景観が現在まで残っていれば、間違いなく鉄道風景の名所となっただろう。
まるでローマの水道橋を彷彿とさせる煉瓦アーチとスリムなトラス橋とのコントラストは美しく、5号と6号の隧道に挟まれた僅かな谷間に大橋梁が架かるというシチュエーションも、旅感を駆り立てずにおかない。

間違いなく名橋である。
まるでバベルの塔のような大重力式橋脚が迫力満点の2代目に、勝るとも劣らぬ、名橋であった。


 だが、現在では主桁のトラスが撤去されているばかりではなく、両岸のアーチ橋部分も、殆ど破壊されてしまっている。
写真は松川河床近くから6号隧道側を見上げたものだが、2連トラスの下部のみが斜面に屍を晒している。

ここまで目撃した初代線の遺構は、現在線に干渉している7号隧道西口を除いて殆ど完全な姿で残されていた。
それだけに、本橋の保存状態の悪さは、作為的なものを感じさせる。
地面には崩壊した煉瓦の破片が散乱しているものの、アーチ部全てが瓦解しているにしては、その瓦礫の量も少ない。
はたして、いつどのような撤去工事が行われたのか、その記録は見つけられなかったが。

無惨なアーチの残骸を、さらに見てみよう。




 廃止後93年。(竣工からは105年経過)

斜面の木々は既に、残されたアーチ橋脚よりも高く生長している。
奔放に伸びた枝振りが、ひび割れた巨躯を包むイバラの棺桶のようである。

特に下流側の側面の破壊が著しく、すでに元来の表面は失われ、なお剥離が続いている。
そして、その無数の亀裂には、容赦なく森の浸食…根が割り込んでいる。

もう100年後には、果たしてこの遺構はどのような姿になっているのだろう。
まだ、ここに立っているのだろうか。


 左岸の2本の煉瓦橋脚のうちより高い位置まで残っているのは、上手の橋脚である。
写真はその、もっとも破壊が進んでいる下流側側面の様子である。

根が亀裂に割り込んでいる。

橋脚の上端部分も無造作に破壊されているが、僅かに反りが見て取れる。
これは、アーチの一部と思われる。





 現在の松川橋梁は、左図の通り、橋脚の一部が残存するのみである。



 松川橋梁の無惨な残骸を足がかりに、河床まで降りる。

約1時間前にも松川を歩いたが、当然水量の穏やかさは変わらない。
しかし、その印象は大きく異なる。
2代目松川橋梁付近に比べて、こちらが断然、両岸ともに険しく、谷底まで太陽も届いていない。
夜気を残すひんやりと冷たい空気が、谷底を包んでいる。
見上げた山腹には光が眩しく差し込んでおり、その対比がますます、崖を険しく見せているのかも知れない。

戦意喪失となることだけは、避けねばならぬ。
まだ、諦めてはならない。




 5号隧道を目指して! 
2004.11.20 10:48


 これが、第5号隧道への登り口である!


河床から、ほぼ垂直な崖が、約40m頭上の坑口へと一直線に迫り上がっている。

そのうち、下半分の20mほどは、複雑に組み合わされた石垣。
上部は、恐ろしい斜面によくぞ積み上げたと思われる煉瓦の橋台である。

奥の赤っぽい煉瓦が竣工当時の橋台(竣工当時は1連のアーチであった筈だが、アーチがない!なぜだ?!)であり、手前の灰色の部分は、トラスを乗せていた切り欠きの部分。(色が異なるのは、トラス架け替え時に改造したためと推定するが不明)

もしこれを直接登るとしたら、その斜度は70度以上あると思われる。
これは、無装備の素人の手に負えるものではない。
だが、なにも直接登るだけが、方法ではない。
向かって右側には、木々が茂る斜面があり、こちらから迂回してなんとかならないだろうかと言うことに、我々の関心は移った。




 5号隧道への直接登攀を諦めたとしても、まだ進む手立てが完全に断たれるわけではない。

実は、この初代松川橋梁付近は、廃線の坩堝というに相応しい、凄まじい立地なのである。
おそらく日本中探しても、このような場所はないだろう。

この写真は、松川河床から南を見たものなのだが、そこにもくっきりと廃線跡が、複数の隧道坑口と、巨大な橋脚を従えた姿で君臨している。
これぞ、2代目奥羽本線の旧線跡なのだ。
明治44年から、昭和35年まで利用されていた2代目線も、いまや地上に姿を見せぬ3代目・4代目線によって用済みとなり、初代と共に松川峡谷にその骸を晒している!

写真左端には、2代目線へのアプローチを模索するくじ氏が小さく写っており、その右側には横一直線に連なる一連の2代目線遺構が写る。
その景観の中心を成すのは、すっかり橋桁の消えた長沢橋梁。
松川断崖を渡る長い桟橋である。

くじ氏の先行探索の結果、この2代目線へのアプローチは、無装備でも十分に可能であるとの結論に達した。
2代目線を経由しても、初代の5号隧道へと至ることは可能で、閉塞でもない限りは、遙か頭上の初代松川橋梁福島側袂に立つことも出来よう。

事実上、ここに赤岩旧線跡攻略への道筋は示された。
確かに危険は少なくないが、この初代線から2代目線を経由して再び初代線へと戻るルートは、充分に利用価値があるものと見えた。


だがそれでは不満足!


 以下は、完全に自己満足の世界である。
興味のない方は太字をそのまま読み飛ばして頂ければ結構である。

我々(特に私とくじ氏)は、この松川に廃線探索に来たのではない。
いや、それもあるが、最大の目的は、ドキドキしに来たのだ。
己の命が危険に晒されることを納得できるだけの遺構(←これ重要)を前にして、あのヒリヒリするような緊迫感を、体感したいのだ!
それに、通り一般の安全性、再現性最重視の探索など、これからいくらでも成す輩が出てくるだろう。
我々は、あくまでも、初代線をこのまま極めてみたい!
それが無理だと分かってから、ほぼ確保された2代目線経由ルートを利用しても良いはずだ。

下らぬ自己満だが、他ならぬ誰のためでもない、己が為だけの冒険。
己が力と、度胸を、この崖で試してみたくはないか!

私とくじ氏は、試したかった。
心が、躍った。



 直登ルートへ方向転換!



 直登を目指すとは言っても、やはりどう足掻いても、素人に橋台を直接よじ登ることは出来ない。

まずは、橋台が斜面に足を降ろしている地点まで、脇の林を利用して接近だ。

この森も、かなりの急斜面(斜度45度以上)ではあるが、手がかりは豊富で、慎重に登れば危険はない。

このルートで、橋台の付け根まで接近することが出来た。

しかし、その先こそが唯一最大の難所であった。





 先行したのは、くじ氏だった。

例によって、超危険箇所での写真撮影は最小限である。

故に、あれだけ登ってしまうまでの過程は撮影していない。

ではなぜこの写真があるかといえば、この位置で完全に、くじ氏の動きが止まってしまったのだ。

完全にだ。


確かに、
確かに彼のいる位置は、かなり危うい。
それが容易に見て取れる。
だが、岩盤に自然に刻まれた一条の亀裂に沿う、くじ氏が辿っているルート以外は、無装備で登れないことはあきらかである。

くじ氏も、あそこまで登ってしまえば、もう踵を返すことも、容易ではないだろう。

苦しそうだ。

呼びかけると、かれは平常心を保っており、すぐに落ちるような心配はさせなかった。
でも、「こえー」を連呼しており、どうも足元が不安定と言うより、この高さに参っているようである。
一気に登ってしまうつもりだったのだろうが、次の一歩は不安定で、どうしても恐怖が先に立つようである。

分かる。

その気持ち、分かるぞ。

だが、いま頼れるは己のみだ。
仮にくじ氏が滑り落ちていっても、下で支えようなどと考えれば私も無事では済むまい。
我々の誰として、安全な場所にはいないのだ。

それが、我々の暗黙の了解。

どうする、くじ氏!



 くじ氏の選んだルートは、かなり難しいことが感じられた。
くじ氏も仕切り直しに一度降りることを努力しているようであり、私は現在地点から橋台の反対側にまわってルートを開拓することを考えた。

そして、橋台上の、ちょうどトラスが乗せられていた切り欠き部分に飛び移った。
ここを経由して、橋台の反対側の斜面を確認しようと思ったのだ。
だが、この試みは橋台上で頓挫した。
橋台の北側(下流側)斜面はさらに急峻で、とても登れそうにない。
くじ氏の選んだルート以外には、もはや道は無さそうである。

いよいよ断念するしかないか。
でも、高所への耐性だけは自信がある私には、身体的に不可能な崖には見えない。
私を上回るくじ氏の身体能力であれば、恐怖さえ克服できれば、おそらく登り切れる。
次の一歩を踏み出せると思うのだが…。

写真は、橋台から見下ろした松川の川原。
その比高は、おおよそ35m。
高すぎて恐いという感覚は麻痺気味。




 対岸の橋脚の残骸たち。

穏やかに日光を浴びる6号隧道前の平坦地と、此方側とでは、全くの別世界。

『鉄道廃線跡が歩く』シリーズも、険しと紹介しなかった5号隧道。
そして、
その奥、赤岩の秘中の秘。

4号隧道。


我々はどうしても辿り着きたい!!




 くじ氏、姿勢こそ変わっているが、まだ断崖に張り付いていた。

上に見えている煉瓦の壁は、坑門である。

もう、手が届くのではないか。
あと、2メートルだ。
なんとかならないか、もう2メートルだぞ!

くじ氏、その姿勢はもろに下見てるだろ。
かなり克服されてきているとは言え、まだ高所恐怖症の気がある彼は、相当に怖さを感じているはず。






 ここで、カメラマンが捉えた決死の断崖攻略中のくじ氏の映像。

なぜカメラマンが先に上に行っているのかは、探険隊永遠の謎というか、暗黙の了解というヤツなので、突っ込みは不可だ。

とにかく、カメラマンはいち早く坑門に立つと、くじ氏と細田氏の登攀サポートにあたったのである。


やはり、くじ氏は一線を越えてきた。
恐い筈だが、彼は一線を越え、堂々とした足どりで、登ってきた。
その一歩も踏み込み、危なげなく、上り詰める。

最後は、私の伸ばした手を振り払いながら、(ベジータを思い出したぞ)
やはり単独登頂に成功したのである!!



細田氏。
彼の名誉のため敢えて触れずに先に進もうかと思ったが、本人の希望もあるので。
結局、10分ほどの説得の果てに、彼は登らなかった。
しかし、冗談抜きで、この選択こそ正しく、尊重すべきものだ。
自己責任を標榜する我々の関係において、甘っちょろい仲間意識などで無理矢理登らせようとするのは間違っていた。
危うく、我々は大きな誤りを犯すところであった。
(一時はまじめに、くじ氏の持っているロープでの引き上げも検討していた)

細田氏は英断(皮肉でなく)した。


私とくじ氏の二人は初代5号隧道へ。
細田氏は2代目5号隧道へと、この先にあるはずの新旧合流点での合流を誓い、別れた。



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 初代 第5号隧道
2004.11.20 11:08

 これが、初代5号隧道だ。

いきなり洞内の写真になっており、坑口部はどうしたといわれそうだが、坑口部には満足な“引き”が取れるスペースが無く、対岸から撮影する以外には、坑門全体を一枚の写真に納めることは出来なさそうである。

断崖を上り詰めた者にもたらされる第一の眺めは、まさに、この景色なのだ。

まるで、嵐の明けた朝のような、穏やかで、大人しい、短い隧道の姿。
記録によれば、延長は105m余り。
見ての通り直線で、閉塞や崩落は一切見られない。
坑門も、立地的に余計な装飾をしている猶予が無く、壁柱を持たないコンパクトな物である。

我々二人は、まるで人跡未踏の地に足を踏み入れたかのような、異様な高揚感を感じた。
少なくとも、いままで本で見たことのない景色だ。
先がどうなっているのか、分からない。


 そして、この隧道にはエンブレムがあった!

シンプルな坑門の向かって左上には、錆び付いた「5」の文字。
紛れもなく7号隧道東口で見た物と同様、隧道番号を示すエンブレム。

第5号隧道の、誇らしげな自己主張。
しっかと、見届けた。



 シンプルな坑門。

地山の様子も7号や6号隧道のそれが土山だったのに比べ、ゴツゴツとした岩山の様相を呈している。
大きくは生長できない栄養不足の木々が、その岩肌を寒々と覆っている。
苔や地衣類が主体の斜面である。





 これが、赤岩旧線群ではおそらく到達が最も難しい、5号隧道西坑口部分。

隧道の外には、5m四方ほどの敷地しかない。
その向こうは須く、松川に切れ落ちている。


それでは、いざ隧道へ進入。
まだ見ぬ世界へ。



 隧道は何の変哲もない通過路。

いや、これでよいのだ。
この隧道が閉塞などしていたら、かなり悲しかったし。

地山の様子は険しいが、その分堅牢そうとも思えた。
固い岩盤をくり抜いた隧道は、煉瓦の剥離一つ無く完璧。
足跡・ゴミの類も一切無し。

風だけが通り抜けてきたような、無色の隧道。

あっけなく、突破。






 興奮はいよいよマキシマム!

5号隧道東口から先は、険しい断崖に素堀の廃線跡が伸びている。

マジでこんな場所を奥羽本線が通じていたのか!

一切加工された気配のない、削られたままの青い法面。
降り積もる落ち葉に落石。

そして、行く手を遮るように見える、煉瓦の構造物。
見た瞬間私は直感した。
直感というか、地図を暗記するぐらい事前学習をしていたからなのだが、あの煉瓦はきっと、2代目5号隧道だ。

ここはまさしく、廃線新旧の合流点。

前代未聞の、廃線交錯ゾーン



 合流地点のすぐ手前には、初代線オリジナルとしては最も福島寄りの遺構がひっそりとあった。
上の写真にも僅かに写っているが、路床上に煉瓦の段差のように見える部分があろう。
これは、段差ではなく、その直前が幅1mほどの谷となっている。

すなわち、極めて小規模の、橋、だと思われる。
残念ながら、この橋については一切記録が残っておらず、本当に存在した証拠もないのだが、明らかに煉瓦で仕切られた幅1mの亀裂が横切っている。

そこを覗いて撮ったのが、左の写真。
やはり幅1mほどの、非常に狭いクレバスのような谷が、40メートル下方の松川渓谷に落ち込んでいる。
ちょっとゾクッとした。




 初代5号隧道東口。

あまり綺麗な保存状態ではないが、とりあえず目立った崩壊はない。

もう少し近代まで利用されていれば、間違いなく落石覆いなどの付帯設備が設けられただろう、極めて落石や雪崩の危険が大きい地形だ。
しつこいが、
明治32年竣工。
明治44年廃止の、廃線跡の景色である。
使われていた時の10倍近いそれを、廃墟として過ごしている。
秘境駅として名高い赤岩から、幾度も谷を越え、やっと辿り着いた我々の感慨は、一並みではなかった。





 新旧合流地点。

方や廃後105年。
方や廃後43年。

どっちも、充分に、旧(ふる)い。


そして、前方に現れた隧道は、当区間最後の廃隧道。
第4号隧道に、違いない。
その内部で現在線と競合していると地形図は語るが、現実の光景は知らない。
初代線と、2代目線が共有した、唯一の隧道でもある。







次回、再び細田氏と合流し、初代4号隧道。
そして、2代目5号隧道へ。

いよいよ赤岩の探索も、終盤戦!










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