廃線レポート 奥羽本線旧線 赤岩地区 その4

2005.1.11


 「その3」では、今後の探索の計画を明らかにした。
その探索の主な舞台は、初代線と、2代目線である。

初代線は、僅か12年間しか利用されなかった短命の路線で、2004年は廃後93年という、途方も無く古い廃線である。
2代目線は、初代線に代わって昭和35年までの半世紀、幹線鉄道の重責を担い続けた線である。
こちらも、明治44年竣工と、決して近代的な線ではない。



 



 7号隧道 東側坑口 
2004.11.20 9:46


 松川は穏やかであった。
上流には、板谷集落や幾つかの温泉地もあり、生活廃水も流れ込んでいるだろうが、そう言うことを感じさせぬ清純な流れである。
この7号隧道の迂回には、かなりの苦労を覚悟していたものの、実際にはこの河床を歩くルートは、非常に容易に感じられた。
もっとも、水量次第では、危険極まりない沢歩きに化けるだろう。

おおよそ200mほど河床を歩くと、早速にして、左岸上方に巨大な煉瓦の構造物が現れる。
7号隧道東側坑門である。




 河床から旧線跡までは、斜度50%ほどの急な雑木林を登らねばならない。
ただし、手がかりは豊富にあり、時間を掛ければさして大変ではない。

見上げればそこには重厚な煉瓦製坑門が見えており、ここでの苦労など、わき起こる興奮に掻き消されだろう。


 いよいよ接近。
恋い焦がれた廃後一世紀の隧道跡である。

この隧道は事実上、初代線で最も知られたる遺構であると同時に、象徴的な存在でもある。
その理由は幾つかあり、この隧道が初代線で最も長い535mと言う延長を有すると同時に、その変状が初代線の廃棄の直接の原因となったこと。
そして、鉄道遺構としては他に類を見ないほど古参であることをこの上なく物語る、坑口に育った木々のありよう。
さらに、そこに一級の鉄道が通っていた矜恃を今に伝える、明治の威厳というに相応しいその構造。

そういった景色自体が持つ特徴に加え、全体的に接近しづらい一連の遺構群の中では比較的容易に近づけることも、これまでいくつもの書籍やWEB上のレポートにも取り上げせしめ、結果的に、本隧道の象徴性を高めたと言えよう。



 そういうわけで、7号隧道東側坑口の紹介としては、かなり後発となった我々山行が隊である。

だが、我々にとっては、まだここはスタート地点に過ぎないのも、また事実である。

本来の目的は、知られたる遺構の再発見ではなく、5号及び4号隧道といった、松川断崖の先に眠る遺構の探索である。
とはいっても、目の前に隧道が口を開けているのに入らないわけもなく、やはり、7号隧道へは入らねばなるまいな。

私の知る限り、一般的な本に紹介された唯一の隧道閉塞地点が、この先にはあるはずだ。
廃隧道に立ち入らないという世間の良識も、さすがにこの物件の前では立ち消えになったのだろうか?

相互リンク先『ニヒト・アイレン』でこの“坑口に生えた巨木”を見た時、
私はこの地への強い憧れを抱いた。
いまやっと、想いを果たした。




 私にとっては背後に口を開けている“先の見えた隧道”よりも、遺構を探す視線からは取り立てて紹介するにも及ばないと思われるような、坑口の前に続く広場の方が衝撃的であった。
坑口から続く広場とは、すなわち、廃線跡。
森林軌道だと言われても驚かないが、普段我々が目にする鉄道と殆ど同じレールが通っていたのだとしたら、それは驚くべきことではないか。

もう、なにも残っていない。
廃線跡を感じさせるものは、背後の煉瓦の遺跡のみ。
100回以上も訪れた冬が、何百回の嵐が、風雨が、あらゆる地上の痕跡を押し流したかのようだ。
風化という抗えぬ作用によって、鉄道は森の一部となり掻き消されたのだ。




 7号隧道の坑口は、不思議な静穏に包まれている。

考えてみて欲しい。

この隧道は、崩壊の危険が高まって放棄されたのだ。
放棄後、実際に圧壊したのか、そうはならなかったのかは不明だが、とにかくいつ崩壊するか分からぬ危険の坩堝な筈。

それなのに、坑門前にはありがちな“重さ”がない。
もはや、崩壊という危機すら長い年月に色褪せ、風化してしまったかのようだ。
そもそも、なんからの進入を抑止するような構造物があって然るべきではないのか?

もうここは、危険な廃道などではない、…道ではなく、遺跡そのもの。
道であったことなど、とうに忘れられているようだ。



 かつて国幹を成した鉄道が、この隧道を通じていた。

坑門の一角に掲げられた「7」の文字は、隧道の名称を示す。

道は機能を失っても、誇らしげなエンブレムは朽ち果てず残った。

細田氏が、特に感じ入っていたのが、このプレートの現存だった。






 先に紹介した坑門の前に立ちふさがる巨木は有名だが、この洞内から光を求め伸び出した木は、余り知られていない名脇役。

おそらくは今から100年近く前。
鳥か、風の仕業か分からないが、隧道の坑口からほんの少しだけ日陰に入った場所に、一つの種が落ちたのだ。
東向きの坑門には、毎朝僅かに光も差し込んだのだろう。
種は芽吹き、しかも、光足らぬ逆境に耐え、猛烈な冬の吹きだまりにも耐え、枯れず、育ち続けたのだ。

木は、光を求め這いだし続けた。
幹から奇妙に伸びた根が、坑門を噛むようにして枯れている。
それらもまた、生への無欲の所作であったのだろう。

木は、いまは坑門よりも高く生長している。
逆境に耐えて育ち続けた木の物語に、私は思いをめぐらせた。





 7号隧道 東坑口 内部
2004.11.20 9:55


 これが、内部の様子だ。
風はもちろん無く、なんら音もしない。
閉塞隧道にありがちなかび臭さや土の匂いもなく、乾いた印象だ。
洞床はすっかり地面が露出しており、バラストは残っていない。
また、当然ながら轍も見られず、乾いている為か、足跡なども残されてはいない。
さらには、かなりメジャーな廃線跡と言うことで覚悟していたのだが、ゴミ一つ落ちていないのには感心した。
歴史ある廃線跡を愛する者のマナーは、なかなかによろしいようである。

それはそうと、天井の色が不自然だ。
天井の頂点の左右でまったく色が異なる。
煉瓦のただの一つも崩れておらず、現時点では異常なほどに状況はよいが、何とも不気味な浸食が進んでいる気がする。



 少し進むと、その変色ぶりに思わず言葉を失う。

元来の煉瓦の赤は息を潜め、白と黒の強烈なツートンカラーである。
これだけ豪快に白化している隧道は、稀である。
やはりここでも、煉瓦一つ崩れていないが、そこがまた、妙な怖さを感じさせる。

白と黒。
まるで、木乃伊のような、乾いた廃隧道。

独特だ。




 どうにも、実感が湧きにくいが、105年前、明治32年というのは、我々普段から古い物に興味を向ける者にとっても、かなり古い。

たとえば、歴史の教科書に倣えば、明治27年日清戦争。明治37年は日露戦争だ。
隧道が変状により使用停止となった明治43年は、日韓併合の年でもあった。

この暗い隧道を、蒸気機関車が客車や貨車を引いて力走していたのだ。
その頃の機関車は、まだ有名なD51やC62など影も形もなく、海外から発注したF1やF2型と呼ばれるものだった。
非力なこれら機関車には、当時日本一の急勾配(アプト軌道利用の信越本線を除く)と言われたこの奥羽山脈越えは厳しく、機関車を連ねる重連や前後に付けての運転が当たり前であった。
それでも、時速は20kmも出ず、ときには隧道内で車輪が空転、そのまま乗務員が充満した黒煙で窒息死した事故なども起きている。
無論、その下りも、いつ暴走するか分からぬ、危険な運行であった。





 おおよそ坑門から100mほどで、それまで緩やかな左カーブを描いていた隧道が、直線に転ずる。
そして、その景色の変化には、さらに大きな変化が付随する。
煉瓦の壁に小さな明かりが、漏れている。
そこに、竈でもあるかのような、淡い色。

その正体は、7号隧道のただ一つの横坑である。
松川の断崖の一角に口を開けた、人一人が屈んでやっと通れる小さな横坑。
これもまた、知られたる存在ではあるが、実際に目の当たりにすると、やはり興奮する。




 小さな横坑も、丁寧なアーチが築かれている。
これまでいくつもの煉瓦隧道を見てきたが、このようにまったく改築された気配のないものは、初めてかも知れない。
奥羽本線に限って言っても、明治時代に開通している隧道のうち、この他にも幾つも廃棄されたものがあるが、この初代線の5〜7号隧道を除いては、いずれも何らかの後補の改築の痕跡が見られる。
例えばそれは、コンクリートに巻き立てであったり、部分的な支保工の設置などである。
そして、コンクリ巻き立てはかなり剥離したものが少なくなく、実際の隧道の強度以上に、崩壊が近いように錯覚させるケースも少なくないと感じられる。
まあ、それを差し引いても、煉瓦のひと欠片も落ちていないこの7号隧道。
本当にその延長の半分もが変状するような事態が起きたのか、信じがたい。
ただ、内壁を斑に覆う白化の凄まじさに、なにか不吉なものを感じるのみだ。





 そして、これもまた事前に情報を得ていたので驚きはなかったが、横坑の目と鼻の先で、隧道は完全に閉塞している。

その閉塞が、本当に本当なのか、山行がとして確かめぬ訳はないのだが、結果的には、まったくもって完全に閉塞していた。

次に、閉塞部分の接近画像をお見せする。





 崩落土砂面までも、なぞの白化に覆われつつある。
湿ってはいるが、泥と言うほどでもない。
かなり密度のたかい土砂である。
煉瓦など、内壁構造物の破片の混入は見られない。
白いのは、カビなどでも無さそうで、何らかの結晶と思われるが、不明。
自然崩落にありがちな、付近の壁の亀裂や、地下水の流出なども見られない。
隧道の総延長535mのうち、約半分に変状が見られ、支保工を設置したと記録されているが、それらも見つけられない。
実際の崩壊危険箇所は、もっと奥ではないかという印象を受けた。
ということは、天井まで覆い尽くしたこの土砂は、やはり、隧道の圧壊による2次災害を防止するための“埋め”であろうか。




 と言う上記の所見とは矛盾する発見が、さらに天井と土砂が接する部分まで接近した私にもたらされた。

これは、明らかに天井の煉瓦を突き破って、土砂の壁が出来ている。


…やはり、圧壊は起きてしまったのだろうか?

分からない。
これ以上は、専門的な観察眼が必要かも知れない。





 壁によじ登ったまま振り返る。

緩やかなカーブの向こうの大きな明かりは東側坑口。
すぐ傍の小さな明かりは、横坑のものだ。

結局、我々がこの7号隧道について進入を許されたのは、全長の4分の1程度でしかなかったことになる。
内壁に生じた亀裂の幅が末期には18cmにもなったという本隧道の変状は、廃止後も継続したのであろうか?
だとすれば、今我々が目にしている埋没も、その一端なのか。

或いは、単に危険防止のために埋め戻されただけなのか?
また、この土砂の壁の向こうには、もしや、94年間分の廃空間が、骸骨のような支保工に囲まれたまま、眠っているというのだろうか?


山行が調査隊、7号隧道、完全解明には至らず!




 横坑から外へ
2004.11.20 10:00

 木乃伊の胎内から脱すると、そこはまさに険谷の真っ直中だった。

落ち葉や、それが転じた土の堆積に、小さき横坑が埋もれ消えるのは、おそらくそう遠くない未来だろう。

明治の建造物は往々にしてそう言う傾向があるが、人目には触れない場所も、大層に飾り立てられている。
まあ、煉瓦の建築物に不慣れな我々現代人の見方が誤りで、煉瓦建築には無ければならぬ構造が大部を占めているのだとは思うが、やはり装飾的な部分も少なからずあるように見える。
例えば、一見デザイン的な坑口を囲むアーチは、必要不可欠なものだ。
一方、横坑の左右にまるで隧道坑門のそれのように築かれた壁柱や、その上端に乗せられた笠石などは、煉瓦構造物の伝統美的なものだろう。

これが、多くの旅客が目にする隧道の出入り口であればその装飾も自然なのだが、ここは対岸から見る者もない、松川断崖の中途である。 馬鹿正直というか、なんというか、現代ならば予算の無駄遣いだと、叩かれかねないだろう。



 横坑から見上げた松川の谷。

なお、我々は今回河床からアプローチしたが、一般的にはこの斜面を赤岩駅付近から水平移動してこの横坑付近へ至るルートが使われているようである。
しかし、斜面はかなり急であり、何か道などでもない限りは、命懸けになりそうだ。

で、実は道がある。
今まで誰も、その存在を敢えて口にしなかった道。
というのは大げさすぎるけど、余りにも古く、そして取るに足らない存在故、だれも正面から見ようとしなかった道だ。
その道は、我々も全容を把握しているわけではなく、そもそもその道を記した地図など、現存しないだろう。

知られざる道、

それは、工事用軽便鉄道の跡である。





 「序」にて参考書籍として挙げた『奥羽本線福島・米沢間概史(進藤義朗著)』に所収されている絵図の一つを拝借した。

この絵図は、『福嶋米澤間鉄道工事并付近之勝景 (全24図)』というものの一つで、奥羽本線同区間の工事中に描かれた図である。
そのうちここに挙げたのは、『第六図 第七号隧道付近ヨリ松川ヲ距テ々李平沢ヲ望ム景』である。

描かれたのは明治29年で、開通の3年前ということになる。
当時は松川橋梁(初代)の架設が終わり、福島方より松川橋梁まで完成したばかり。
ちょうど描かれている6・7号隧道が軽便線による資材運搬によって建設されている最中である。
福島から赤岩までの工事は福島側から一方的に進められており、同区間では最後の開通となったのも、この辺りである。




 分かりやすいように、私の注釈を加えたのが、左の図だ。

この作者はかなり精緻な描写をしているとされ、確かに他の図を見ると、現在の位置関係をかなり忠実に表してたりする。
この第六図においても、やはりありのままを書いたと信じる。

そこには建設中の6・7号隧道を繋ぐ奥羽本線の他、山肌に頼りなく伸びる軽便鉄道線を見ることが出来る。
しかも、その線は7号隧道東口の赤岩側へ少し入った場所で、岩中に小さな点を穿って消えている。
これすなわち、隧道であろう。

工事用軽便線にも、少なくともひとつの隧道が存在したのである!

我々は、このたった一つの図を頼りに、その捜索に当たった。




 横坑から斜面を這い登ると、そこには幾筋かの斜面に沿った線が見られることに気が付いた。
全てが道であったのか或いは錯誤も含まれるのか、地形的にも容易ではなく、さらに風化著しいために検証は出来ない。
そもそも、どれが正解だという根拠もない。

ただ、この写真を見て頂ければ、たしかに斜面に道らしきものが見えるだろう。
道でないとしたら、山腹全体が滑ったような土砂崩れの崩落面という線もあるが…。
位置的には、7号隧道上の山腹であり、絵図とは一致する。
さらに、隧道の痕跡を求め、くじ氏の健脚も活かすため、ここは別行動で彷徨った。





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 軽便隧道を求め
2004.11.20 10:10

 時期が良く、非常に視界はひらけている。

一見、人跡の考えられないような山風景だが、実はこの斜面の上端は、来る時に通った太平集落がある平坦地となっている。
とはいえ、手つかずの山林は、地形の起伏一つ一つに何かを期待させる。

暫し探索すると、私とくじ氏はある地点で合流した。
それは、声を掛け合ったわけでもなく、自然だった。
お互い、自分が見つけた“道らしきもの”を追いかけた結果、ある地点にたどりついたといって良い。

いずれかは軽便線の痕跡ではなかったことになるが、まあそれは大きな問題ではない。
その地点からは、思いがけない景色が望まれた。



 横坑付近は、一帯の中では、ぜんぜん楽な地形と言えた。
そう断言できるほどに、ある地点よりも西側は、急な断崖…正確にはそれでも木々が生えていたりするのだが、断崖と言って差し支えのない斜度、になっていた。

考えてみれば、我々3人が(細田氏も)一点に会したのは偶然などではなく、ある線上よりも西側には踏み込めなかったからである。
とりあえず、軽便線が斜面上をこのまま赤岩まで行こうとするなら、長い桟橋を用いるか、隧道しか無さそうだと思われた。

そして、ここでは隧道である線が、強い。

写真は、遠くに見えた4代目松川橋梁。




 もし見つけられれば、「今回の探索の早くもメインディッシュ?!」と、我々は色めき立った。
特に、私の期待は大きかった。

だが、地形は容易ではなく、そもそも軽便の跡らしき道なりも、極めて不鮮明な、斜面の微かな凹凸に過ぎなくなっていた。
それすらも、この辺りで完全に崖に消えている。

この辺りに、隧道があったと思われるのだ…。

気掛かりは、真下の7号隧道を屠ったという大土砂崩れも、おそらくはこの辺りである。
もろともに消失していたとしても、何ら不思議はないし、そもそも、明治20年代のごく短い時期にだけ利用された隧道など…。




 余り期待して頂くのも、胸が痛いので、結論から言うと、発見できないで終わった。

だが、恐らくはここだという当たりは付いた。
それが、この写真の窪地である。

例の土砂崩れの影響なのか、自然に崩れ落ちたのか、窪地の先には、期待された穴はなかった。
それでも、直前まで続く僅かな道形。
そして、この窪地を最後に潰える平坦地。
窪地には、周囲の地表では殆ど見られない、白い石がまるで石垣のように見えなくもない感じに露出していたりもした。

なににしても、決定打ではない。
悔しいが、これが今回の限界である。
また、この林の反対側にも、何らかの痕跡がある可能性もあるが、それも今回は時間の都合で捜索できなかった。

もしかしたら、反対側にはポッカリと口を開ける穴があるのかも?!




 これが、窪地から来た方向に伸びる道形。

これが工事用軽便線の痕跡なのか。

その奥は松川の急谷である。

メインディッシュは食い逃したが、そのまま道形を辿って見ることにした。
これが軽便線の跡ならば、絵図の通りに、7号隧道の坑門上まで導いてくれるはずだ。








 もはや、レールを敷く幅など残っていない道形。
近年人が歩いている痕跡も一切無い。
ただ、やはり自然地形ではなく、何らかの道であるように見えた。

それと、これも全くの想像だが、この軽便線跡が、先にも少し触れた、7号隧道使用停止時の徒歩連絡通路として再利用された可能性が期待される。
見たところ、このあたりの斜面には、決定的に通りやすい場所などはなく、となれば、一度苦労して切りひらかれた軌道の跡を、利用しないこともあるまい。

工事用軽便線と、徒歩連絡通路、
この二つは、いずれも起点が6号隧道東側(これから訪れる)の初代松川橋梁の袂である。
そして、終点も赤岩駅と、全く一致しているのだ。
(正確には工事用軽便線は松川橋梁架設以前には、さらに福島方に敷設されていた記録があり、工事の進捗と共にその起終点は西進してきていた。)





 急な斜面にも、ちゃんと痕跡は続いていた。
ただし、石垣など、確実なものはなにも見つけられない。

工事用軽便線がどれだけの期間利用されたかは、大体想像できる。
松川橋梁が完成し工事がその西側の本区間に移った明治29年7月前後から、明治30年の赤岩信号所建設工事開始までの、一年程度でしかない。
さらには、工事が次の赤岩以西に移ると、すぐに軽便線のレールは取り外され、赤岩板谷間でも同様に敷設された軽便線に利用された。
枕木はおろか、桟橋などを構成した丸太資材までもしっかりと回収再利用されたと、記録されている。

何も残っていないのは、当然だ。

そして、仮に歩道としての利用があったとしても、こちらはもっと短期間だ。
利用開始が明治43年8月19日、利用終了は同年10月7日。(その後2代目線開通までは、支保工で補強した7号隧道内を徒歩連絡したという…大胆…)
これは僅か、50日足らずでしかない。
これでは、旅人がどれほど多かったにせよ、しっかりとした踏跡が刻まれるほどではなかっただろう。




 そして、数分歩くともう、7号隧道東口の直上に我々は達した。
写真の真ん中に黒い点が写っているが、あれは坑口前に置き去りにした私のリュックサックである。
結構軌道跡と鉄道跡とでは高度差があったことが分かる。

このまま軌道の行き先を確かめたい気もしたが、リュックを捨てても行けず、それに本線上の遺構も気になるので、ここで軌道とは別れを告げて、強引に斜面を駆け下った。

こうして、7号隧道周辺の工事用軽便鉄道隧道探しは、決定打を欠いたままに終了した。



 




 転げるように下ると、7号隧道東口を、出会った時とは逆に、上から見下ろすことになった。

ここで、ちょっとした思いつき。

斜面に体を寄せて、さらに坑門直上へと進み出た。

見守るくじ氏と細田氏、滑り落ちるのではないかとヒヤヒヤしたかも知れない。
確かに、少し恐かった。




 「7」のプレートにタッチ!!


…ただ、それがしたかっただけです。
はい。

でも、このプレートが大好きらしい細田氏は、いつになく積極的に後を追ってきた。

そして、彼もタッチ。

「7」のプレートは、まだしっかりと金属の足数本で煉瓦に取り付けられており、頑丈だった。
もう数十年は、錆びて落ちるなんてことは、無さそうである。








< 次 回 予 告 >




訪者を拒絶しつづける

第5号隧道に続く絶壁。


その突破が、我らが願い!

いよいよ牙を剥く松川谷!!







その5へ

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