廃線レポート 元清澄山の森林鉄道跡 第3次探索編 最終回

公開日 2017.03.26
探索日 2017.02.07
所在地 千葉県君津市

これは必見! 隧道の出口が予想以上に凄かった。


2017/2/7 14:21

朝日と競争するようにしてスタートした本日の探索だが、ひたすら田代川と戯れているうちに時は流れ、今や日射しにも夕日を予感させる色合いが濃くなってきた。
果てしなく長いと感じていた往路の“谷底通行”も、ゴールまであと1.5km、全体の3分の1を残すだけになった。

本日3度目の隧道探索を終えた私は、今一度の危険に耐え、相棒(自転車)が待つ河床へ生還した。
せっかく一度は辿り着いた隧道を、もし相棒と共に通過出来たなら500mを一挙に短縮出来たものを、口惜しい…!

これからしばしの間、あらゆる軌道跡の痕跡を見られなくなるだろうことを哀しみながら、仕方なく、迂回の流れを進み始めた。
――何か発見があるまで、飛びます。



14:28 【現在地】

隧道発見現場から250mばかり進むと、隧道がショートカットしている蛇行の頂点手前へ到達した。
谷はこの先、まさしく地図に描かれている通り、ヘアピンカーブのような無駄のなさで一気呵成に180度の進路転換を行っている。

これで、迂回の半分を終えたことになる!(読者諸兄にはたった“一行”後の出来事でも、現地の私には経過時間分の労働がある。むしろ、発見が無いために飛ばされている場面こそが、オブローダーとしては苦行に近い。)
この倍を進めば再び軌道跡と出会えるうえに、その出会いの場面は、とても鮮烈であることが期待出来るのだ。先ほど隧道内探索で一瞬だけ“出口”へ立った私は、そんな強い予感を持っていた。

なお、この場所へは右岸側から2本の支流が相次いで合流している。
(チェンジ後の画像は、その支流のうちの片方だ)。



軌道跡との再会!

を喜ぶには、ここはまだ想定の手前過ぎる。

これはどういうことだろう?!
谷の180度カーブの最中から、右岸のかなり高い位置に、写真のような明瞭な平場が現れ始めたのである。
さらに少し前を振り返ってみると、上の写真にもそのラインは写っている。

これは、軌道の旧線 なのか?!

隧道迂回の最中という、本来なら路盤の発見は期待出来ない場所で見つかったこの平場。
林鉄探索のセオリーとしては、旧線の存在を疑うべき場面だ。
しかし、私はそうではないと考えている。



現在地附近で発見された路盤は、軌道の旧線ではなく、左図に紫色の線で示したような支線があったのではないかと考えている。
そう考える根拠はいくつかあるが、軌道の利用期間が長くない(昭和初期に開設され戦前か戦後まもなく廃止)ので、大規模に路線を付け替えることは時間的にも費用対効果的にも可能性が低いこと。ちょうどここには支線が入り込みやすそうな支流が2本もあり、その合流地点を境にして明瞭な路盤跡が出現し始めたこと。以上二つが、主要な根拠である。

とはいえ、本当にこれらの支流に支線があったのだろうか。
実際に立ち入って確かめれば良いのだが、正直もう今日については、この手の谷歩きはお腹がいっぱいだ。また1〜2年経てば新鮮な気持ちで取り組めると思うので、次の楽しみに取っておきたいと思う。

それに、路盤があると言っても、それが本当に林鉄の軌道なのか、グレードの低い作業軌道なのか、はたまたレールすら敷かれない木馬道や牛馬道なのかの判断は難しい。
この界隈の谷であれば、大抵どんな支流にも何らかの“道”を見つけうるということを、私は既に理解していた。ゆえに、気軽に踏み込むのはリスクが高い。何か(多分“孔”)を見つけてしまい、すぐには引き返せくなる可能性が高い。繰り返すが、ここは数年後に再訪するか、読者の情報を得るかして、ちょろっと追記することになるだろう。



右岸に軌道跡(支線?)の存在を意識しながら、隧道の出口を目指して迂回後半の直流区間に差し掛かると間もなく、一枚岩のスラブがとても美しい河床に、これまた予想外のものを見つけた。

路盤が河床とは別に設けられるようになってからは久々に目にする、顕著な河床の“孔”だった。

しかし変わっていたのは、二つ並んだ孔のどちらにも、太い(直径25cm程度)木材が挿されたままになっていたことだ。
もしこれが林鉄の橋脚孔であれば、本日…いやそれどころか、前回や前々回の探索でも一度も見つけることのなかった木橋の構造材発見という、地味に色めくニュースに違いないのだが、あまり軌道の橋がありそうな位置ではないことと、川を渡るならば孔が二つしか無いのは不自然であることから、結局は、“正体不明”という判断で終わった。



更に進むと、左岸の切り立ち方がもの凄くなってきた。
高さ30mはあろうかという尾根までほぼ垂直に立ち上がっており、既に見てきた上流側の斜面の印象と合わせれば、この蛇行を作っている尾根が、大袈裟でなく刃物の鋭さを持つことが分かる。

これはトンネルを設けるに最も効率的な地形であり、昭和初期に森林鉄道を敷設する話が出たときに、迷わず掘り抜かれたと思う。
しかし、大工事の末に作られたはずの森林鉄道は(全国的に見ても稀な)短期間で廃止され、それから20年前後も空けた昭和40年頃になって、ようやく自動車が通る田代林道が敷設された。しかし、林道は谷底を避ける新たなルートで開設され、そのため軌道跡の大半は田代川の原始的な山岳風景と共に放置される結果となったようだ。


これまで私は多くの森林鉄道跡を探索してきたが、これほど廃止時期の早い森林鉄道の探索は、初めてかそれに近い。
しかし、その割に遺構の人為的な破壊(転用含む)が少ないことは、房総半島ではもともとの入り組んだ地形や薪炭材の生産を中心としていた貧弱な経営規模などが原因となって、大規模造林を伴う近代的な林業経営があまり根付かなかったことと無関係ではないだろう。首都圏という大消費地に近いメリットも活かせず、房総林業は早い段階で斜陽を迎えてしまった。

ゆえにこの谷にあるものは、林鉄の遺構を含む、この地でかつて行われた全ての営みの遺構といってよい。
人の通わぬゆえに自然の豊かな、しかしどこか淋しい森なのだった。

今は、右岸に支線らしき明確な路盤跡が続いている。
谷は100mほど先で、大きく右へカーブしているのが見えてきた。
まちがいなく、隧道の出口はあのカーブ附近に待ち受けているはず。
支線と本線の合流する場面が見られそうだ。




14:38 【現在地】

ヤバいヤバいヤバいヤバい。

【坑口という名の窓から覗いた景色】の中へと、私は間もなく入り込む。

今見えている左側の岩場は、どこもかしこも絶望的に切り立っているが、その中に坑口があることは確定だ。


わくわく、どきどき…。




見ぃーつけた…。


……思った通りだった。


なんとも絶望的な場所に、口を開けていた。



先に見つけて探索を終えている上流側の坑口も、かなり厳しい条件の場所に口を開けていて、
植物の配置や微妙な岩場の凹凸といった条件が少し違えば、私のような徒手空拳では内部に辿り着けなかったと思う。
それでも、あそこで頑張っておいて本当に良かったと、今ならはっきり断言出来る。問題を先延ばしにしなくて正解だった。

この下流側の坑口は、私ごときでは完全に到達不可能である。
水面に近い位置の崖は垂直を通り越して完全にオーバーハングしており、まるで手に負えない。
水面と坑口の比高も数メートルは大きく、これがそのまま川の500mの下刻量であった。



この場所には、これまで最も長く、そして高い橋が、架かっていたものと思われる。
河床に三つの橋脚孔が残っており、いずれの孔の大きさも直径30cmはあろうかという大径だ。
太い木造橋脚の支える純粋な木造橋が、隧道と零距離で接続していたのである。

言葉にすればそれだけのことだが、これは林鉄ファンの唾液腺を緩ませる、第一級の興奮的立地を持った隧道だ。
そして、この隧道が持つ立地の妙を最も強く味わうことが出来るのは、この谷底ではなく、既に探索した隧道内でもない。
それは、次に私が立った場所に他ならない。個人的にこの日の探索で最もボルテージが上がったのも、次の眺めだった。



貫通は、正義だ!

隧道対岸の路盤(橋頭であったろう位置)から眺めた景色が、めっちゃ格好良くてテンション上がった。

おそらくここが、一連の長大なる“元清澄山の森林鉄道”の中で、最も外見的魅力の高い場面であると思う。
もしも、ここがもっと人目につきやすい、例えば県道沿いの眺めであったりしたら、林鉄としての歴史は同じであっても、
とうの昔にその存在は広く曝かれて、むしろ千葉県唯一というよりは全国有数の林鉄風景という評価をこそ得ていた可能性がある。
そのくらい、ひと目見れば忘れることの出来ない眺めであると私は評したい。林鉄に限らない廃隧道として見ても、衝撃的な光景だ。
よくぞこんな場所に、人は隧道を掘り抜いて、木を運び出したものである。この状況においては、橋がまるで残っていないことも、
残念だという平凡な感想を通り越して、神秘性の魅力を高める美点になっているようにさえ思った。



14:45 【現在地】

思えば、ここまで長い道のりだった。

本日だけでも、軌道跡らしき場所をどれだけ歩いたか。源流部でおおよそ2km、中流部では約4km。
そのほか、軌道跡以外を自転車や徒歩で移動した距離が、既に10kmオーバーだ。
そのうえでいまはもう、あと1kmほどで軌道跡の探索を全て終えようとしている。

しかも今日の探索は、このエリアでの3度目の林鉄探索であり、この間に4年を掛けている。
はじめは右も左も分からない、ほんの僅かな情報だけを手掛かりに始めた、そんな一連の探索における、
まさしく有終を飾るに相応しい場面が、ここに待っていたのだ!


今日ばかりは、恥ずかしげもなく言わせてもらおう。

私は愛されているのかもしれない、オブローディングの神とやらに。

我ながら出来すぎた話しの流れだ。全てをこの順序で探索したことは、いったい誰が仕組んだことだというのか。



久々に路盤に立ったが、自転車は相変わらず谷底に置き去りだ。
孤高なる隧道の眺めを存分に堪能してから、居慣れた河床へ降り立った。
それからまた、二度も三度も振り返りながら、徐々に現場を離れた。

現在地は、上流の入渓地点から約4kmで、河床探索の終了予定地まで、あと1km弱となった。
この隧道くらいまでなら、また気軽に訪れても良いだろう。というか、皆さまにもお薦めだ。マジで良い景色だぞ。




田代川本流探索の終了。


最後の1kmの探索が始まった。
思えばこの5kmの河床探索の間で、路盤の姿は大きく変貌した。
序盤は、田代川の源流部や、以前に小坪井沢で見たのと同じ、河床と同化した奇天烈な路盤であったが、次第に河床から分明となって、今では全国の森林鉄道でもよく目にする、川岸を削った路盤が延々と続いている。

今回は自転車という大荷物を運んでいることと、河床からもよく見えるということを“言い訳”に、ほとんど路盤を歩いてみることはしなかったが、実際に歩くとすれば、頻繁に欠壊があるために、相当の苦労が予想される。それでもレールが敷かれていれば報われるが、河床に一切の散乱レールが見られないから、回収は徹底的になされた可能性が高い。

『笹生活史』によれば、全長11.5kmの小坪井軌道が利用された時期は、昭和5年頃から17年3月までである。木炭や官用材のほか軍需材も運搬されたというから、この戦時中になされた廃止は、それこそレールの供出を目的になされた可能性がある。しかし、(場所は不明ながら)戦後にも約2kmの作業軌道が利用された記録があるので、これは改めてレールを敷設したのだろうと思う。(ごく僅かながらも回収されないレールが残っていた小坪井沢に、戦後の廃止区間はあった気がする)


少し進むと、右岸にあった軌道跡が、頭上を横断して左岸へと移動していた。
横断地点の河床を見ると、確かに橋脚を挿し込んでいたであろう孔が、いくつも残っているのが見えた。

あらゆる橋という橋がことごとく消失しているが、往時はまさしく“木橋の楽園”と呼ぶに相応しいものであったろう。
写真が残っていればと思いはするが、今のところ発見されたという話しは聞かない。

元清澄山のある国境稜線より南側は、戦前までは東京湾を防衛する要塞地域であったため、部外者が写真の撮影やスケッチをすることが禁じられていたらしい。
ここは国境稜線より北側ではあるが近隣であり、わざわざ憲兵の疑いを買いそうな写真撮影を試みる人は少なかったのかもしれないと、そう思ったりもする。




こ、これは…… 

シイタケでは?!




15:06 【現在地】

隧道出口から600mほどで、印象的な場面に出合った。
本流へ注ぎ込む支流の出口が、面白い形の滝になっていたのである。

支流のU字型をした河道が、本流に切断されて、まるで谷の断面図のようであった。
この支流は田代林道が「仙境橋」で跨いでいた小さな谷だが、本流との侵蝕力の違いが、この奇妙な景色を生んだのだろう。
なお、軌道跡はこの前で再び本流を渡って右岸へ移動しており、この滝を対岸に見る。




河床の堆積物が再び増えてきて、ただでさえ少ない河川勾配がますます弱小になっているのを感じる。
軌道跡は引き続き右岸にある。高さもほぼ一定しており、見失う余地は無い。

入渓からは既に3時間を30分を過ぎており、スー氏が逆コースで辿ったよりもだいぶ時間がかかっている。
自転車という大荷物のことや、隧道探索のための寄り道など、言い訳は色々考えられるが、一言この感想を述べるとすれば、「疲れた」。
もう、ハンドルを押すという生産性のかけらもない作業を終わりにしたくて仕方なかった。前にどこかの六厩川でも同じような気持ちになったが、自転車は乗り物なのだ。馬を背負って歩く行商人がどこにいるかという話である。



15:21 【現在地】

キター!!!

ほぼ5kmぶりに見る、田代林道の姿だ!
今朝まだ日の昇る前に通行し、「ここが軌道跡ではなかったのか?!」という強烈な落胆と焦りを与えたあの急坂道が、今度は「お迎えに上がりました」と傅(かしず)く執事のように見えた。

朝はまるで気付かなかったが、田代林道を左岸に見るこの状況でも、右岸にはくっきりと“何かの平場”が見えている。
おそらく、田代林道からもこの“何かの平場”は見えるはずで、見たならば、それを軌道跡と考えることも出来たはず。
朝はまだ暗かったとはいえ、内心で見たくないと思っていたから見えなかったのか。おかしなこともあるものだと思う。
とまれ、結果オーライと言いたい。



田代林道が急坂になる地点で軌道跡と林道が分かれていると考えた私の読みは、当たっていた。
2年前の探索で、私を小坪井沢の奥地へとワープさせてくれた【作業道の橋】のあたりに、ちょうど軌道の橋もあったようだ。
いまさら橋の痕跡がないことを騒ぐ私ではない。
そして、この先は軌道跡と田代林道は重なっている。

繰り返すが、右岸に見える路盤が軌道跡だ。
枕木もレールもないから、ここだけを見れば正体不明の怪しげな小径に過ぎないが、これが有するバックボーンを私は知っている。
この路盤は上流へむかって延々と続いており、2本の隧道と明確に繋がっていることを私は知っている。たとえ枕木やレールがなくても、これだけの輸送距離および緩勾配を木馬によって運ぶとは考えにくく、かといって自動車が自走出来る規模でもない。これは、人力トロッコによる単車乗り下げ運材が行われていた、森林鉄道の軌道跡であったと考えてよい!




ぐお〜っ! 頑張れ俺ー!

最後の力を振り絞ると言えば大袈裟に聞こえるかもしれないが、終盤の1kmでどっと疲れを感じていた私にとって、林道へ復帰するための10mほどの登攀は、大袈裟ではなく最後の頑張りどころであった。

今日は何度も谷を転げ落とした相棒の“重み”を感じながら、覚束ない足どりで、滑りやすい枯れ草の斜面を担ぎ登る。
そして遂に、3時間40分ぶりに辿り着く。
懐かしのアスファルト路面へ!




15:25 【現在地】

これにて、田代川本流沿いの軌道跡は、全線を探索完了!

やっぱり、林道側からも軌道跡の平場は見えた(笑)。

とはいえ、近くで見るほど目立ってはいないので、気付かなかったのもやむを得ない。



このあと私は、車へ戻る過程で一つだけ寄り道をした。

本日一日を過ごした田代川沿いの軌道と、4年前と2年前の探索でお世話になった小坪井沢の軌道跡を結んでいた、
今は笹川湖の水面ギリギリに辛うじて口を開ける長大なる連絡隧道。その田代側坑口へ4年ぶりに再訪した。

【4年前】よりも水位は僅かに低く、またカメラも少し上等になったせいか、、前よりも少しだけ奥まで見通せた。
あと1m位も水位が下がれば、ボートを利用して立ち入れる余地が生まれるかもしれない。
この隧道をはじめとする笹川湖面の軌道跡探索は今後の課題であり、ボートの出動や笹川湖の水位変動を
小まめにチェック出来る立場にある地元の協力者さまを、1名ほど募集させていただきたいと思う。



16:01 探索完了!

なぜか私が脱ぎ捨てた長靴から大量の水が零れだしているが、
最後の寄り道探索で調子に乗っていたら深みに落ちたせいだ(苦笑)。
今日は珍しく最後の最後まで濡れずに頑張ったのに、アホすぎ。

(しかし、懲りない私は、翌朝から「支線A」を探索した。最後にその模様を簡単に紹介して完結する)




執念の小探索: 支線A(66小林班支線)は実在したか?


この「支線A」の存在は、私にとってなかなか根の深い問題であった。
この支線の存在を意識したのは、左に掲載した手書き地図によるものであり、平成26(2014)年12月に第三の証言者の出現によって、小坪井軌道の全貌に関わる情報を初めて得た時まで遡る。

第三の証言者により提供されたこの地図には、小坪井沢へ入り込む“本線”とされる線の他に、先ほど紹介した湖底の連絡隧道を通じて田代川の支流へ入り込む“支線”が描かれていた。
当初は名付けるべき仮名を思いつかなかったこの線を、便宜上「支線A」と呼んできたのである。
(今持っている資料を用いて、もう少しだけマシな名前を付けるとしたら、「66小林班支線」というのがいいだろうか。この支線があるとされる流域は、「小坪井国有林66小林班」と呼ばれていた場所である。(参考)

そして、この「支線A」を取り巻く認識は、今回(2017年2月7日)の探索で大きく変わった。
支線の規模を遙かに上回るに違いない長大な軌道跡の存在が、田代川の本流沿いに確認されたことによって、小坪井沢に入る線を本線とする場合、この線は“支線の支線”というべき立場に追いやられることになったのだ。
仮にこの路線が実在しなかったとしても、これまで明らかになっている机上資料との矛盾も特になさそうである。“第三の証言者の地図”だけが存在の根拠になったのだ。

軌道の“全貌”の把握を追求するならば、この支線の有無を確認する必要があった。
現地の遺構だけでは有無を判断出来ない可能性もあるが、とりあえず現地の実見は欠かせまい。
そんな動機付けに支えられたこの探索は、田代川本流の探索の翌日、2017年2月8日の早朝から行った。
前日は飽きたと思ったのに、執念の行為であったと思う。



ここから華々しく“新編”が始まることを期待された人もいるかもしれないが知れないが、残念ながらそうはならない。これから少しの文章で紹介出来る程度で終わりである。

この探索は午前6:30から始まり、10:45頃までおおよそ4時間を要した。
右の図は、当日のGPSの生ログデータを地図上に表示したものである。
見ての通り私は、“第三の証言者の地図”に線が描かれていた場所を、概ね踏破することが出来ている。
しかし、この谷の探索は、当初想像していたよりも遙かに困難だった。

考え違いが生じた最大の原因は、笹川湖の湖面の広がりが地形図に描かれているより遙かに広かったことである。
通常、地形図が描く人造湖は、その最大水位の汀線を示していると思うが、笹川湖は(なぜか)そうなっていなかった。
“66小林班の谷”へ入り込んだ笹川湖の水域は、右図に網掛けで表示した範囲に広がっており、そのために私は何度も撤退とルート変更を余儀なくされたのである。
ぶっちゃけ、この谷でも大きな発見の成果があったならば、レポートは試行錯誤で盛り上がる展開になったことだろう(苦笑)。そのくらいの苦労と危険のある小探索だった。

右図の数字@〜Iは、探索の順序に対応している。以下、それぞれの地点を簡単に紹介しよう。 (右の地図と、下の各画像は、クリックで拡大出来ます。)



@地点A地点B地点

6:30
当初は、衛星センター近くのこの地点から、湖畔を辿って“66小林班谷”の入口へ向かうつもりでスタートした(“湖畔ルート”)。しかし、湖畔には想定していたような道も踏跡もなく、写真正面の森へ強引に入山することにした。

6:56
湖畔を進むべく努力したが、地形図ではただの涸れ沢になっている谷へ苦労して降りてみると、そこは満々と水を湛えた湖面だった。対岸へ進まねばならないが、泳がねば渡れないうえに、猛烈な崖で取り付く島がない。しかも、まだまだ目的の谷は遠い。“湖畔ルート”をここで断念した。

8:04
地形図よりダム湖の水域が広いことを感じた私が次に狙ったのは、西側にある清水集落付近から尾根越えで直接“66小林班谷”の中枢へ入り込む手だった。図中の「出発地2」から、道のない小さな沢を尾根まで詰め(尾根上に顕著な踏み跡あり)、そこから目指す谷の方向を見下ろすと、20mばかり下に大きな炭焼き窯の跡を見つけた。

C地点D地点E地点

8:17
源頭に炭焼き窯の跡を持っていた支谷だが、軌道跡らしい遺物はなく、狭い回廊状の谷を順調に下った。そうして目指す本流が見えるところまで来て、唖然となった。なんと、湖面はこの奥地にまで入り込んでいたのである。一時は腰まで浸かって進んだが(写真)、命の危険を感じたので、湖畔へ迂回を開始した。

8:21
水没した本流の谷を見下ろしながら、湖畔の崖に沿って上流へ向かう。その最中に見つけた、本流の谷底にまるで島のように盛り上がった炭焼窯の跡。舟がなければ決して近付けないこの場所にも、かつては人が出入りしていた証拠である。軌道跡発見への期待も高まった。

8:31
最初に本流に近付いた地点から、左岸沿いを100mほど上流へトラバースすると、ようやく水が引いて陸が現れたのが見えた。しかし湖畔の崖がほぼ垂直で高さ30mもあるため、写真のような草付きを怖々下るハメになった。ここが、この小探索の行程では圧倒的に危険な場面で、まずないとは思うが、もし再訪するならば復路に用いたルートを逆に辿るべきだ。

F地点G地点H地点

8:37
今朝のスタートから約2時間におよぶ悪戦苦闘の末、ようやくダム湖に追い立てられ孤立した“66小林班谷”の河床へ降り立つことに成功した。
即座に軌道跡の有無の捜索を始めたが、バックウォーターに近いこの辺りは堆積物が多く、見つけられない。ここから、ほとんど水涸れになっている谷の遡行を開始。

8:42
河床を少し進むと、谷が二手に分かれていた。どちらも同じ程度の水量と谷幅に見えるが、地形図だと向かって右の谷が奥深いし、“第三の証言者の地図”でも右の谷に赤線を引いている。何をも見逃したくないという執念から、先に左の谷を調査することにした。

8:48
左の谷は、地形図では読み取れないものの、序盤に写真のような猛烈な蛇行があって、まるで九十九折りのような造形の妙に驚かされた。河床はちょうど軌道を敷設するのに良いくらいのスラブで……あ、あった! この谷にも、小規模ながら橋脚孔らしきものが発見された!写真1写真2
しかし、これはあくまで、通路があった可能性が高いというだけのことだ。軌道跡の証明とはならない。

I地点J地点K地点

8:49
でっかい孔があった!
小さなナメ滝の河床に深く穿たれた、前後二つの孔。天然の甌穴のような造形だが、円の正確さやサイズや深さから見て、これまで他の谷で目にしてきた橋脚孔と同類のものと言えた。間違いなくこの谷にも木製桟橋状の通路が入り込んでいたとみられる。急な勾配は木馬道を思わせた。

9:00
G地点から300m弱進むと、それまでの回廊状の谷が終わり、多くの谷が一挙に集まってくる源頭らしい地形になった。これといって人工的な地形は見られなかったが、陶器の茶碗の欠片を拾った。おそらくはこの辺りにも小屋掛けをした炭焼き窯があったのだろう。小坪井沢と本坪井沢を隔てる長大隧道が見つかった現場も、このような谷の奥だったので周囲を調べたが、これ以上道が続いている様子がなかったので引き返した。

9:37
続いてG地点で分かれた右の谷を調査した。“第三の証言者の地図”のこともあるので念入りに捜索したが、ごく小さな橋脚孔を一つと陶器片を一つ見つけただけで、400mほど奥で源頭状の地形に至った。そこには写真のような路盤に見えなくもない平場があったが、炭焼き窯がそばにあったので、そのためのスペースと考えた方がしっくりくる。この谷は総じて遺構に乏しく、これ以上先に軌道跡の痕跡がある見込みも低いと考え、撤収した。


この“66小林班谷”に軌道が入っていたかについてだが、率直に言って、可能性は低いと思う。
田代川に較べれば流域面積がとても小さく、開発のメリットも相応に小さいと思われるうえ、遺構自体も少ない。ゆえに、もし軌道が敷かれたとしても、一時的な作業軌道程度だろう。
炭焼きに従事する人々の出入りは間違いなくあったようだが、軌道を用いて搬出を行うほどの距離でもない、ごく小さな谷なのである。

以上が、翌日に行われた支線調査の冴えない顛末だ。





さて、「導入」からこれまで、全21回にも及ぶ取り留めのない長編にお付き合いいただき、おつかれさまでした。
はじめは本当に与太話かもしれないと思った…

その沢には、木を伐るためのトロッコの跡があり、今もトロッコのレールが棄ててある。
そしてそこに、長さ500m、幅2mくらいのトンネルがあり、鉄砲うちで通った事がある。

――という、偶然出会った古老の証言から始まったこの探索は、房総半島の最も人里に遠い境域に眠るオブローダーの夢の体現を、心ゆくまで私に見せてくれた。
本当に楽しい時間だった。

右図は、これまでの全探索の成果を総合的に判断し描いた、小坪井軌道の全体図である。
この図では、「小坪井軌道」と通称される(実はこの路線名も一次資料に出ていないので、正式ではない可能性がある。国有林林道の命名パターンに照らせば「小坪井林道○○線」というのが正式名ではないかと個人的に考えているが、それだとただの林道と区別が付けづらいので、当サイトでは正式名が明らかになるまでこの通称を用いる)、東京営林局千葉営林署が戦前に運用して戦後も一部が作業線として利用された森林鉄道は、小坪井土場を起点に小坪井沢を遡って本坪井沢奥地へ届く小坪井線(小坪井林道小坪井線)と、途中で分岐して田代川沿いに元清澄山山頂直下へ届く田代線(小坪井林道田代線)の二線からなっていたと推測している。いずれも車道転用を受けた区間は極小で、大半の区間が生粋(一部は“喫水”)の廃道である。
これ以外にもいくつか支線の候補があるが、それらは前記二線に較べれば低規格で、軌道ではなく、木馬道や牛馬道だった可能性の方が高いと考えている。

私が森林鉄道(軌道跡)であったと考えている距離は、小坪井線が5.3km程度(分岐以下は1.7km程度)、田代線が8.0km程度であり、合計は13km程度である。

このような数字は、資料に出てきた全長(『経済更生計画の概要』は全長7.2kmで「更に延長する計画なり」とあった。『笹生活史』は全長11.5kmとしている)よりも長いが、その理由として最も可能性が高いと思われるのは、小坪井線と田代線の最長であった時期がずれているという考え方だ。
例えば、はじめに土場から分岐までの小坪井線と、その先の田代線を開設して事業を行い(この時点で全長1.7+8.0=9.7km程度)、次いで奥地のレールを撤去しながら、そのレールで分岐以奥の小坪井線を敷設したと考えれば、ある時点に存在した軌道の長さは13kmよりは短くなるだろうし、小坪井線の跡地にのみ(たった二個所だが)レールが見つかった事実との整合も取れる。
そもそもレールは極めて貴重な資材であったから、全国の多くの林鉄でこのような移転方式の路線改廃が行われた記録もある。
しかし、二本の路線の終点を正確には把握は出来ていないので、この全長不整合問題も未解決といわざるを得ない。




本軌道についての広範な机上調査はこちらで書いたとおりで、今のところ大きな進展はないので、改めて追記する新情報はない。
だが、これまでの数度にわたる探索とレポートの公開が縁となって、既に数人の堅強な協力者を得ることが出来ている。
今までがそうであったように、これからも様々な情報提供が一層の解明をもたらすことを信じている。
時間は要するかもしれないが、幸いにして、この地の遺構に残された時間は相当に長い。もはやこれ以上風化の進まぬところまで来ているのだから。
私自身としても、いくつかの支線や湖底の隧道に、なお探求の余熱を残している。

嗚呼、この辺りの地形図を見ているだけで、様々な谷の底に怪しい“孔”のあることが想像されるのだ……
恐ろしい! 房総の迷宮的山河のなんと蠱惑的な魔力だろう!! 
この地に張り巡らされた艶(つや)やかな峡谷の秘奥に、未だ知られぬ大きな成果が眠っているかもしれないと想像することをやめられない!

また一人、暗い蜜に取り込まれた。