国道291号清水峠 隧道捜索編 <最終決戦> 序

公開日 2012.11.13
探索日 2012.11.03

このレポートは、「道路レポート 国道291号清水峠(新潟側)<リベンジ編>」の続編です。先に左記のレポートをお読みください。

私達はなぜあのとき、

  すぐ手の届く所にあった

  “影”の正体 を、確かめなかったのか。


2008年10月にくじ氏と2人で行なった探索では、その前年10月の探索と合わせて、ついに当時前人未踏といわれていた清水国道の新潟県側を、ほぼ全部踏破することに成功した。

もはや清水峠、そして清水新道に思い残すこと無し。
探索成功の時点では、これが大団円だと疑わなかった。

だが、帰宅後にレポートを作成するため改めてその行程を整理してみると、清水国道には隧道があったのではないかという思いが、強くするようになった。
そして、検証回で皆様の意見を請うてみたりもした。
(ちなみにその結果は、2012/11/13時点で65.2%の読者さんが隧道を肯定している)

この検証回で拾った机上の資料や、過去の航空写真、さらには探索中に撮影した現地写真からは、ついに隧道の存在を証明する事が出来なかったのだが、その現地写真の中の1枚(左の写真)が、冒頭で述べた悔恨をながく私に強いることとなったのだった。

その“影”の正体を確かめなかった理由は至って単純で、現地では「隧道があるかも」という考えに(可能性として意識しつつも)拘らなかったうえ、肉体的にも精神的にも時間的にもとにかく余力が無く、全線を踏破するという大目的に専念していた為であった。


だが、これが後悔になった。

そこに隧道が口を開けていたのか、いなかったのか、あと数歩で確かめる事が出来たのに…!





これまでの清水峠は私にとっても非常にハードで、容易く再訪しようという気持ちにはならなかった。
だが、いつかは“影の正体”を確かめなければならないとも考えていた。
喉に支えた魚骨のように、毎年10月頃になるたび気になった。

それにしても、本当のところ、隧道は有ったのか無かったのか。

もし無かったと結論付けられれば、敢えて現地へ行く必要はなくなるかも知れない。
もっとも、一般的に「有」を証明することに較べ、「無」の証明は難しいのであるが…。

とにかく清水峠での無駄足を踏みたくない私は、レポートを公開した後も、この隧道についてアンテナを立てておくことにした。
そして最も役立ったアンテナは、既に公開したレポートに他ならなかった。
というのも、レポートをご覧になった数人の読者さんから、貴重な情報が継続的に寄せられたからだ。

例えば平成23年11月には、茨城県在住の小堀氏という方が、私たちが達成していない単独での清水峠群馬側〜新潟側の全線踏破に成功した旨をご連絡くださった。
彼は2泊3日で見事群馬側から新潟側へ全線踏破に成功したが、私の隧道説には懐疑的であり、一本松尾根(隧道擬定点)には地形図通りの石垣による道があったのではないかとの所見であった。


新潟県南魚沼市の清水集落にある民宿おのづかと、「国道清水線開通記念碑」。明治18年9月7日、北白川宮親王をはじめとする政府高官よりなる開通式典の一行は群馬側から峠を越えた。その際に小野塚家が北白川宮親王の御休息所となった事を記録している。

その一方、隧道説に賛成する情報提供もあった。
中でも私を大いに勇気づけ、また動機付けもしたのが、清水峠氏による掲示板への書き込み([No.3037])であった。
彼は平成21年3月20日に、清水集落にある「民宿おのづか」のご主人より、かつて清水国道に隧道があったという証言を得たと明かした。
既に掲示板ログは失われているが、清水峠氏の書き込みの要点を以下に述べる。

 <民宿おのづかご主人の証言 by 清水峠氏 2009/3/20>
@ 明治18年の開通式で北白川宮親王が通られた後、隧道は2年くらいですぐに崩れた。
A 隧道の位置は、本谷とナル水沢の間。この区間がいちばんの難所。長い隧道ではなく、あっても50m程度だった。
B 炭焼きをするために、かつて清水集落の人々は隧道の辺りまで入っていた。
C 隧道があったことは、清水集落の古い人は知っている。

以上の証言は普通に考えれば決定的なものと思われ、私は大いに浮き足だったことを憶えているが、やはり自身で直接おのづかご主人から聞いた上で、実際の探索に赴きたいと考えた。
それほどまで、私は清水峠に対して臆病になっていた。





このような貴重な証言を得ながら、平成21年と22年は特に清水峠についての進展がなかった。
私の中での再訪の気運は、まだ高まりきっていなかったのだろう。覚悟が、出来なかった。
だが、平成23年8月16日になって、遂に次の1歩を踏み出す機会を得た。
それは、清水集落での聞き取りを行なうという機会であった。

この日、私はテレビ番組のロケ(同年秋に『ゴロウデラックス』として放映された)でスタッフ数名を清水峠に案内した。
日帰りだったので、ルートは清水国道を辿るのではなく、清水集落(新潟側)から登山道(十五里尾根)経由の最短ルートで清水峠まで往復した。
そしてこの日の清水集落にて、私はこれまで何度も素通りしていた民宿おのづかさんの門をくぐったのであった。


清水集落の旧国道と現国道。平成23年8月、この集落のあるお宅で、隧道の存在に関わる決定的な情報を入手した。

 <民宿おのづかでの聞き取り  2011/8/16>
@ 隧道があったという話を聞いたことがあるが、実際に見たことはない。
A この集落に詳しい人がいるので、紹介しよう。

清水峠氏の証言からはやや後退した感はあったが(対応された方が変わったのか)、しかし集落内に清水峠一帯の地理に詳しい方がいるとのことで、有り難くご紹介に与った。
ついに、決定的な前進があるのか。


「ごめんくださ〜〜〜い。」

集落を見下ろす所にある民家の主はいかにも闊達そうな老爺で、私がこれまで繰り返し清水国道にアタックしてきたことを話すと、まるで昨日のことを語るかのようにはっきりした口調で、次のような情報を明かしたのである。

 <清水集落での、ある古老の証言  2011/8/16>
@ 私は戦時中の清水峠にあった日本軍の航空測候所で働いていた事があり、休みの日になるとよく、当時既に廃道状態だった明治道を散策して歩いた。そして枝振りの良い松を見つけると、持って帰って盆栽として育てたりした。
A そんな散策中に、本谷にトンネルがあるのを見たことがある。
B 本谷のトンネルは、昭和20年頃でも既に内部が崩れており、空洞はあったが、通り抜けられるようには見えなかった。
C 自分が子供の頃に祖父から聞いた話だと、本谷のトンネルは開通から数年で崩壊しており、祖父が初めて見た時には既に崩れていた。
D 昭和20年頃に、隧道の中に何があるのか興味を持って覗いてみたところ…

それは本当ですか!!!

…と、思わず聞き返してしまった、それはそれは衝撃的な証言だった。


  続き、参ろうか。

 <清水集落での、ある古老の証言  2011/8/16>
D 昭和20年頃に、隧道の中に何があるのか興味を持って覗いてみたところ、「石を壁に沿って巻いているような形跡」があった。

ヤバイ! 清水峠の隧道の内部(坑口付近)には、石の巻き立てがなされていた可能性があるようだ!


さらに情報をいただいている。
ここからは主に、具体的な探索の便法についてである。

 <清水集落での、ある古老の証言  2011/8/16>
E 昭和20年頃まで、清水集落の人達は炭焼きのために清水国道周辺の山に良く入っていた。
  その際のルートは、居坪坂新道の途中から斜面をよじ登って清水国道の途中に出、そこから清水国道を左右に歩いて炭焼きの場所へ行った。
F 隧道へ行くには、清水国道を素直に歩く必要はない。
  本谷には滝がほとんど無いので、本谷をどこまでも遡行していくと、やがて左の上手にロウソクのように尖った岩が見えてくる。
  その尖った岩を目印によじ登ると、隧道近くの清水国道に出ることが出来る。

G 隧道は本谷と一本松沢の間に存在していた。


完璧! やはり隧道は我々が疑った“一本松尾根”にあった可能性が激高となった!
そのうえ、清水国道を延々と歩く以外に、本谷を遡行するという便道の存在まで教わってしまった!!

正直、本谷の支流であるナル水沢の下降を断念した苦い経験を有する者として、本谷が容易く遡行できるなどとは俄に信じがたいし、古老が最後に現地を訪れたのが昭和20年代であるらしいことから考えると、そこまで甘くはないかも知れない。
だが、もう一度夜泊のための大量の荷物を背負って清水峠に登ることなく、麓から身軽な状態で日帰りの探索が出来る可能性があるならば、これはぜひとも挑戦したい!
このルートが開拓できれば、今後の清水国道との付き合い方にも一石を投じる成果となるだろう。

私は古老に礼を言って、爆発寸前の興奮を自宅へと持ち帰ることとなった。



清水集落での情報収集の結果、従来の4回の探索
(第一次探索=群馬側の探索=未レポート化)
(第二次探索=新潟側1回目=レポート済
(第三次探索=新潟側2回目=レポート済
(第四次探索=テレビのロケ&清水集落での聞き取り調査=未レポート化)
に連なる、今回の「第五次探索」の筋道が決まった。

この探索では、清水国道の道筋には基本的に頓着せず、本谷遡行という手段で一挙に(日帰りで)海抜1310mの一本松尾根隧道擬定地点を目指す!

頼るべきは、ただひとつ古老の証言!




居坪坂新道(登山道)から、清水国道の本谷渡河地点まで、辿るべき本谷の遡行長は水平距離1500m+高低差300m。
そこから清水国道を400mほど歩行すれば、一本松尾根の隧道擬定地点に辿り着ける計算となる。
登山道を外れてわずか2kmを歩くだけで、清水国道の核心中の核心に至れるというのは、これまで考えなかったのが馬鹿らしいくらい出来過ぎているが、古老のお墨付きを信じて、このルートを今回は利用する。




あとは、いつ決行するかであったが、

平成23年の秋はくじ氏との日程の調整をしているうちに、思いのほか早く現地が積雪してしまい、お流れとなった。
そしてやっと待ちに待った平成24年(今年)の「清水峠シーズン=10月」が来たのだが、今度は残念なことに、くじ氏がどうしても都合が付かず、参加は不可能とのこと。
最悪、単独での挑戦も考えたものの、これまでの成績を考えると、やはり単独での清水峠は恐ろしい…。

くじ氏が駄目なら、かつて共に“神の穴”に挑んだ、山行がが誇るもう一人の最強メンバー、HAMAMI氏を招聘するよりないであろう。
本来は鉄道や森林鉄道の趣味者であるHAMAMI氏に、無理を承知で探索への協力を依頼したところ…

…自転車レース風に言えば、「偉大なるチームエース・ヨッキ大将の勝利のためにアシスト役ができることは名誉なことではないか」(笑)
ということで、検討した結果、現時点で11月2日に休みを取って行こうと考えています。

という、最近はロードバイクに凝っている彼らしい、…いや、普段はあまり冗談など口にしない寡黙な彼らしくない文面に、その決意のほどを感じとった私は、満を持してHAMAMI氏をパートナーにして実行することにした。


かくて決行日は、平成24年11月3日(土)と決定!


マジで今回が最終決戦だ!







!!!

探索決行への準備を進めていた今年9月、

私の“清水峠アンテナ”に、読者さまから特大の情報が寄せられた。

本来ならば、私が真っ先に見つけていなければならないような、情報。


その情報提供者の名は、あじゃぱん人氏

内容は、以下の通り。

ヨッキさまのレポートから清水峠の往時の写真を探して国会図書館の近代デジタルライブラリーを閲覧していたところ、明治28年5月発行の「新潟県魚沼三郡地誌」の第5章「南魚沼郡」の末尾のイラストに「清水隧道」なるものが含まれているのを発見しました。
残念ながらこのイラストについての解説は見当たりませんでしたが、レポートにて道が途切れていた箇所に想定されるトンネルに非常に近いものではないでしょうか?


↑ この本。

明治28年5月に松風堂という出版社が発行した、『新潟県魚沼三郡地誌』
(著作権満了資料として国会図書館デジタルライブラリーに登録済み→《URL》

この本の第5章:南魚沼郡の末尾のページ…。


↑ そこには、このように3枚の“絵”が掲げられていた。

そしてこの右上にあるのが……。


道 隧 水 清

清水隧道と、そう明らかに書かれている。


!!!!!!!!!!

情報提供者の仰るとおり、本文中では全く触れられていない清水隧道であるが、

南魚沼郡には明治28年当時、間違いなく“このような”清水隧道が存在していたのである。


【参考:南魚沼郡に清水という地名がどの程度分布していたかの調査結果】

明治28年当時の南魚沼郡には、現在の市町村でいう南魚沼市と湯沢町の全域と、魚沼市の一部が含まれていた。
この地域内にどれだけ「清水」という地名が存在したかを、『角川日本地名辞典新潟県版』で調べてみたのが左の図。

結果、本稿が対象とする清水集落と清水峠の他は、旧六日町の清水瀬があるだけだった。
もっとも、同書の収録対象は行政上の大字以上の地名や、著名な地形地名、歴史地名などに限られるので、小字レベルでの「清水」は無数にあった可能性がある。

そういう事情を考慮したとしても、『新潟県魚沼三郡地誌』が南魚沼郡の分としてわずか3枚だけ掲載した画像である。
当時としてそれなりに著名な風景であった可能性が高く、それは新造なったばかりの清水国道、清水越の隧道ではなかったかと思う。





清水隧道=清水国道の一本松尾根にあった隧道

であると断定は出来ないが。 クゥーーッ

その可能性は極めて高いと思う。

ちなみに、同書の「道路」の章には次のような一文がある。
「 清水ヲスギ、清水嶺ヲコエテ、上州湯檜曽ニ至ル、以間十二里。近年開キシ新道ニシテ、
マハリ遠キ坂ミチナリ、之ヲ清水越トイフ。東京ニ至ル國道ナリ。 」

明治28年当時はまだ不通にはなっておらず、往来が確保されていた可能性が高い。
隧道も当時まで辛うじて、健在だったのであろうか。



いざ、“清水隧道” へ!


4年越しの謎、“影”の正体”に、決着を付けろ!