2014/2/1 7:59 (59分経過)《現在地》
鋼索線の起点からおおよそ900mの地点より第二隧道が始まる。
1078mの道のりで高低差415mを攻略するという“無茶な旅”も、決着の時は近い。
本路線の最急勾配は652‰もあり、これは地方鉄道法や鉄道事業法に準拠した鉄道としては歴代のナンバーワンであったとされる。
最急勾配区間が全線のどこに、どのくらいの長さあったのかは不明だが、ここまで歩いてきた感じだと、この第二隧道の勾配は群を抜いており、「これまでに私が見たことの無い」ものだった。
第二隧道の断面の大きさ自体は、普通の単線の隧道と変わらないはずだが、とにかく仰ぎ見るしかないせいで、パースが掛かり、より巨大に見えた。
また、第一隧道は石材の意匠であったが、第二隧道は場所打ちのコンクリートで扁額も無く、ややシンプルな印象である。とはいえ、笠石や帯石の出っぱりのほか、アーチ環が微妙な凹凸で表現されていた。
風化による表面の剥離がだいぶ進んでいるのも、コンクリートゆえにやむを得ないところだろう。
それはそうと、この坑門は私が現地でとても知りたいと思っていた事を、帰宅後にこっそりと教えてくれた。
尋常でない勾配区間にある隧道だが、坑門の壁面はおそらく正確な鉛直線である。
おかげさまで、水準計を用意してこなかった私でも、
坑門を真横から写した写真から、おおよその勾配を測る事が出来たのだ。
分度器をあてて実際に測ってみたのが、次の図だ…
↓↓↓
32度だって!
このように、画面からおおよそ32度という数字が計測されたが、
これを計算式に則って「‰」に換算すると、624‰が導かれる。
記録にある最急勾配の652‰との誤差は小さく、
ほぼ最急勾配といって差し支えなさそうだ。
これ、マジですわ(笑)。
これが日本の営業用鉄道の最急勾配区間だったとすれば、そこにあるこの隧道は、日本一急な鉄道用隧道であった可能性が極めて高い。
営業用ではない森林鉄道や鉱山鉄道用のインクライン施設の中には、652‰を越えるものがあったようだが、そこに隧道があるかは未確認。
もちろん、道路用にこれを越える勾配の隧道はないだろう。
「勾配65%」などという道路が、そもそも見あたらない(車道の最急勾配はせいぜい30%台である)。
私は自動車の性能の限界を知らないが、果たして65%勾配を自動車は走行できるのかどうか。
(気になったので自動車が走行できる限界の勾配を調べてみたが、「国土交通省国土技術政策総合研究所」にある「縦断勾配の限界に関する検討(PDF)」が面白かった。最終頁に検討結果がまとめられており、それによると、東京都に実在する最急道路が25%(豊島区にある「のぞき坂」)で、乗用車のブレーキ制動力の限界は57%、タイヤの滑り摩擦係数から導かれる(乾燥路面の)限界勾配は63%だという。つまり65%というのは、通常の自動車の性能限界を超越した世界である)
それにしても、さっきから背中がえらく冷える。
スースーした感じで全く落ち着かない。
そんな感覚の原因は、背中を振り返れば確定的に明らか。
高度感が、マジぱねぇのでのである!
こんな斜面で足がもつれて後ろに転びでもしたら(そんなことはまずないだろうけど)、どのくらい下まで落ちるか知れたもんじゃない…。
野外の路盤に視界を遮る藪が無かった往時は、さらに怖ろしかっただろうなぁ…。
ここが隧道内で藪が無くて本当に良かった。
ここまで急勾配になると、階段を使わずにスロープ部分を上り下りするのは、大袈裟でなく本当に危険な行為である。
特に雨の日の下りなんて、マジで「山寺の滑り台」状態になっていそうだ。考えただけでトリハダがたつ。
ただ、この階段にしても盤石なものではない。
もともと普段から一般の人が通る事を想定していたものではなく、保線用の通路であるだけに、こんな急斜面の階段が延々と続いているのに、手すりもなければ、息を整えるための踊り場もない。
勾配が緩やかなうちはそれでも良かったが、ここまで急だと各段は両足を揃えて乗せられないほどに狭く、足を休める形を作りにくい。
その辺の神社の石段くらいに急な階段が、休み場もなく延々と1kmくらい続いている状況を想像して欲しい。鬼畜ではないだろうか。
また、幅も人一人がやっとの広さしかなくて、トンネルの壁に押されてひっくり返りそうな圧迫感だ。
…そのうえ、これが目の錯覚でないならば…
隧道の後半が、さらに急になっているような気が……。
この勾配の凄まじさを色んな視点から体験したいという素朴な理由で、少し怖さはあったが、階段を外れてスロープに踏み出してみた。
ただ、ここでの上り下りは少し試してはみたものの、やはり危険を感じたのですぐに階段へ戻った。
この写真も、カメラに内蔵されている水準計を使って水平にカメラを構えて撮影したので、傾斜を測る事が出来る。
そうして測ってみたところ、やはり32度であった。
今日の隧道内はすっかり乾ききっていたが、大雨の時とか、滝のように水が落ちるのであろう。
そんな光景も見てみたくあったが、危険過ぎる。
これ、絶対勾配増えてるよね…!
普通、勾配というのは写真では中々伝わりづらいものである。皆さまにもそういう経験があるのでないだろうか。
だが、このくらい常軌を逸した勾配になると、もはや特段工夫をするまでもなく、どう撮影しても急勾配からは“逃れられない”!!
しかし忘れないで欲しい。
この状況であっても、「写真にすると実際よりも緩やかに見える」といういつもの法則は、死んではいないことを。
つまり、私が現地で感じていたのは、この写真以上に急な斜面。
それこそ、垂直な壁が目の前にあるようで、ステップが怖ろしく小さい階段から足を踏み外せば、そのまま転落死するのではないかという恐怖があった。
ケーブルカー探索はそれなりに経験してきた私でも、これほど急勾配が怖いと感じたのは、はじめてのことだった。
急勾配は、怖いのである!
くっ! (笑)
さっきから、怖いくせに、笑いが絶えない。
こんな待避坑、反則だろ!
誰が素直に収まるんだよ、こんな穴に…。(まあ、収まってはみたけどさ…)
また、この隧道は内壁の破損がかなり進んでしまっている。
特にこの待避坑脇の亀裂は大きく、今にも待避坑ごと転倒しそうだった。
しかしそれもそうだろう。
この隧道の内壁に掛かる負担は、通常の壁面に対して垂直方向に働く地圧だけでなく、坑道の軸に沿って下方へと引っ張る力も相当働いているはず。
巨大な亀裂は、その力の大きさを感じさせた。
‥‥‥‥ (もう呆れ)
この階段を歩くのも大概なことではあるが…、むしろ…
ここをケーブル1本だけを支えにした電車で上り下りするとか、考えるだけでも、おっそろしい……。
これで運転台映像でも残っていたら神だったが、残ってないだろうなぁ…。
また、建設時の危険度や労働の厳しさも、半端なかっただろう。
地下水処理の関係から下の坑口より掘り進めたと思うが、まるでいつまでも天井を掘り進めるような辛苦だったと思う。
屈強な作業員達の死闘現場。天井での作業中に見下ろした眺めとか、どれほどの高度感があったものか。
うっかり転がした小石ひとつが、下では銃弾レベルの凶器になるのも怖ろしい。
カン カン カン カン……
足蹴にされた小石が奏でた乾いた音が、後方に長い反響音を残しながら消えた。 戦慄とは、こういう場面をいう。
↑ 動画でこそ伝えられる事もある。
私が頑張っても一歩ずつしか登れなかった、戦慄の隧道風景をご覧ください。
8:08 (68分経過) 《現在地》
動画の撮影などで足を止めたこともあるが、全長50mほどの第二隧道の通過に8分もかかった。
この日は三重県内での連続探索の5日目で、最初からある程度疲労していたというのもある。
しかし、それにしてもこのケーブルカー跡はハードワークだった。足がもつれそうだ。
それだけに、とても長く感じられた隧道の出口の向こうに、全く緩む気配のない勾配を見て取った時の絶望…
…ではなかったな。正直なところ。
あれは、高揚感だったと思う。
ここまで来たら、もう限界まで突っ走ってもらいたい。日本一記録を限界を見せろ!と思う。実際、外へ出てからも相変わらずか、それ以上の急勾配だったので、変な笑いが全く止まらなかった。
第二隧道の南坑口(→)。
意匠などは北口と変わらないが、保存状態は幾らか良い。
だが、そうした事よりも目を惹くのは――
もはやあり得ない形になっている、ここ(↑)の角度だった!(笑)
こんな角度だと、おそらく普通にアーチを組むことは出来ないと思う。
第一隧道には、半ば飾りとはいえ石材のアーチ環があったのに、
第二隧道がコンクリートに凹凸を付けてアーチ環を表現するだけに留まったのは、
もはや物理的にアーチ環を設けられない角度だったからだと思う。
第一隧道と同じように、第二隧道も南側の坑口上には簡単に登る事が出来た。
右の写真は坑門上から山上方向を撮影したものである。
生い茂る樹木のせいで直接見えはしないが、空の位置から、終点の朝熊岳駅が目前である事が分かる。
あと50mほどで駅の構内に達するハズだ。
しかし驚いたのは、終点にかけても全く勾配が緩む気配が見られず、第二隧道からの最急勾配を持続している点だった。
まさか、このままの勾配で駅につっこむつもりなのか?!
通常、山上の駅は麓側にある駅よりも急傾斜ではあるが、乗り降りの安全性や利便性のために、できる限りは緩やかになるように設計するものと思っていたが…。
右の写真を見ていて思い出したのは、過去に目にした他のケーブルカーの廃線跡ではなく、ダム湖とかにあるインクライン施設である。
この路盤には、「観光」というふわ付いたイメージとは真逆な「必死さ」が満ちている。
無理矢理徒歩で挑んだ私が歯を喰いしばるのは当然としても、機械である電車でさえ、必死に走っていたような印象。
機械のパワーで悠然と…なんていうイメージはまるで湧かない。乗客も乗員も戦戦兢兢、いつケーブルが切れて死ぬか分からない恐怖の中を運行していた、みたいなイメージがある。
もちろん上記は事実無根で、運転中の事故があった記録は見あたらないのだが、それほどまでに怖ろしい眺めということだ。
隧道上には少し広めの平坦地があり、疲れた私に最後の休息の機会を与えてくれた。
また、こうして平坦な土地と比較して見ることで、路盤の傾斜がよく分かる。
路盤の周辺にある山腹も非常に険しく、ほとんど崖のような部分もあった。
登山道さえ避ける急斜面に、ヤツは真っ正面から挑みかかっていた!!
私もだいぶヘトヘトだが、最後の登攀を頑張ろうと思う!
見えて来たぞー!!
路盤に戻って歩き出すと、すぐさま前方にプラットホームらしき両側の障害物と、その向こうに立ちはだかる駅舎らしき建造物が見えはじめた。
そしてこの時点で、最後の最後まで勾配は緩まらないことが確定。
このままの勾配でホームに突っ込むつもりらしい。
…たまげたなぁ、まったく……。
ゴールを目視したことで元気を少し回復させた私は、コンクリートの擁壁と素掘の岸壁に挟まれた急階段を一歩一歩噛みしめるように登る。
出来るだけ階段を歩くが、野外は降り積もった土砂や落ち葉で歩きづらく、適宜スロープ上も進路とした。
さっきからふくらはぎがいてぇ。
この探索が終わっても下山のターンが待っているが、帰りはさすがにこの廃線跡を歩くのは止めて、“人間向け”の登山道を使おう。
「ガクッ」と来たら、そのまま100mくらい転げ落ちそうだ…。
最初にプラットホームの姿を視認してからのラスト50mに2分少々をかけて、ようやく、あと数歩で手が届くという所までやって来たが、
馬鹿だろこれ。
暴言失礼。
でも、やっぱり馬鹿だろこれ。
この勾配、マジで一般駅なのか?
ちなみに、この朝熊岳駅の駅舎が残ってるらしいことは「鉄道廃線跡を歩くVII」を読んで知っていたが、なぜか駅舎からこのプラットホームや路盤を撮影した写真が無かったので、このホームには初見の驚きがあった。
マジで、652‰の最急勾配区間に駅がある!!
このホーム、混雑時に誰か一人が転んだら、たちまち大惨事になりそうだ。
大正末の観光地に、バリアフリーだなんだと言うのはほとんどジョークだが、
それにしてもこのホームは、平成27年には存在の許されないものだったろう。
はっきり言って、このホームが今回の探索で一番の驚きでしたわ!
8:15 (75分経過) 《現在地》
1km少々で415mの高低差を無理矢理に踏破し、朝熊登山鉄道の終着駅である朝熊岳駅跡に到着した!
機械の仕事を肉体で代用できることを証明したが、これ以上やると故障しちまいそうだ。
著しい勾配を帯びたプラットホームは旧態を留めているが、全体的にコンクリートの劣化が進み、階段の角が失われつつある。植物もかなり侵入していた。
平岩驛から一度も絶えること無く続いてきた保線通路の階段も、ここで終わり。
最後はプラットホームの階段と重なり合って、ホーム終端の平地へ達していた。
(この保線通路の階段が全部で何段あったのかは分からないが、1段の高さは常に一定だったので、概数が計算出来そうだ。たとえば1段が15cmだとしたら、415mを登るのに約2700段を要する)
残念ながら、ホームから振り返って見ても、茂る樹木のためにあまり下まで見通す事は出来なかった。
それでも第二隧道までは視線が通り、スースーとした落ち着かない高度感が最後まで付きまとった。
もしも、私がはじめてケーブルカーに乗るような小学生の低学年ならば、ここでケーブルカーへの強烈なトラウマを植え付けられる自信がある。
子供ばかりでなく、、当時の地方人は大体が現代人よりも高所への耐性は少なかったと思うから、老若男女を問わず、怖がる人は多かっただろう。吊り橋効果狙いの男性必見!
前話までの読者さまコメントで、「自転車で下ってみたら」という面白い提案があったが、おそらく第二隧道まで辿り着けずに前のめりの転倒を演じ、あとはただの回転体となって、魂ごとどこかへ吹っ飛ぶと思う。
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8:17 (77分経過)
完全に段を上りきると、コンクリート敷きの平坦な場所に出た。出迎え人はない。
ここは海抜おおよそ460m、朝熊ヶ岳山頂(海抜555m)から1km西へ離れた尾根の一角で、山上の旅の始まりの地点である。
ケーブルカーが現役だった当時の本は、「メートル」ではなく「尺」を用いて、次のように表現している。
「平岩驛につき、そこから『勾配の急峻なる点に於て日本一の称』あるケーブルカアに乗ると、忽(たちま)ち『海抜一千六百尺』の朝熊驛に達する」 (当なし行脚(昭和3(1928)年刊)より引用)
海抜一千六百尺。こういう表現をすると、メートルに慣れた我々には、低山でも一端の高山に感じられて、なんだか興奮する。
そして、山上に辿りついた私の前には、頑丈そうな一軒の廃墟がある。
これこそ、大正14(1925)年に建てられた、朝熊岳駅の駅舎である。
地上一階地下一階のコンクリート駅舎は、廃止から70年を経た今日も撤去されていない。
写真は、地上階内部から北側の「のりば」方向を撮影した。
乗り場の中央に大きな穴が見えるが、その下は地下の機械室だ。既に機材は撤去されており何も無い。
また、向かって左の窓は駅員が改札をした窓口であろうか。小さな部屋で、こちらも中には何も残っていない。
右の写真は、上と同じ位置に立って、東側にある出入口を撮影。
既に建物からは窓や扉を含む一切の備品が失われており、文字通りの廃墟である。
内壁には過去の訪問者がイタズラで刻んだらしき多くの文字が見られた。
もぬけと殻と化した廃墟だが、印象的な部分がいくつかある。
そのひとつが、有刺鉄線で塞がれた出入口の中央に立つ円柱形の柱だ。
建物の他の部分は全て四角形だが、この柱だけが円形で、かつ単純な円柱ではなく、上部ほど細くなる意匠が施されている。
武骨なコンクリート建造物の中にあって、仄かなお洒落を感じさせる部分である。
もう一つのお洒落ポイントは、白塗りの天井に掲げられていたであろう、シャンデリア形の照明だ。
出入口と「のりば」の間にある大広間の天井中央部には、直径1mを越える円形の凹凸が刻まれており、おそらくは大きなシャンデリア形の照明が、山上に似合わぬ瀟洒の空間を演出していたものとみられる。
こちらも、いかにも大正から昭和初期にかけての「趣味」を感じさせるものだ。
戦争が激しくなるにつれ、こうしたものはたちまち「不要不急」と見做されてしまったのであろう。
朝熊岳駅舎の外観。
麓の平岩駅跡は、朝熊山の登山ルートや観光ルートから離れた袋小路の淋しい場所に取り残されていたが、こちらの朝熊岳駅も同様の状態で、付近に全く人気が無い。
妙に新しい電柱(これは麓からずっと廃線跡に沿って敷かれていた送電線だ)が廃墟を挟み込むように立っているのを除けば、周囲から忘れられたような空間である。鳥の声さえ今は無い。
ところで、私が登攀に没頭していた1時間少々で、すっかり朝は明けていた。
本日最初の朝日を浴びたのもこの山上の駅跡であったから、その爽快たるや言うに及ばず、一千六百尺の冷涼な空気が、荒い呼吸を短時間のうちに落ち着かせてくれた。
それでは、これより頑張った私へのご褒美である「完登賞」を、(勝手に)頂戴することにしよう。
朝熊岳駅は単なるケーブルカー「のりば」だけではなく、展望台の機能も持っていた。
建物に備え付けられた急な石段で、展望台である屋上へ登る。
まあ、当然こうなるわな!(←ほくほく顔)
これまで、振り返るのを出来るだけ我慢していた分、山上ではじめて満喫する眺望は本当に快感だった。
あと数歩だけ前に進めば、見えかけている眺望の全てが我が物になる!!
「ヤッホーーーーー!!」
とでも叫びたかったが、恥ずかしがり屋な私は無言でこの風景を堪能。 →【周辺地図】
展望台は北側に開けており、眺めの主役は悠然と伊勢湾へ注ぐ五十鈴川の河口部である。
以前のレポートで紹介した(この3日前の夕方に探索)五十鈴川の汐合橋も綺麗に見えた。
今の私は、大正時代にここの開発を思い立った地元の人たちが、死力を尽くして見せようとしたものを見ている。
そう考えると、この眺めにはただの美しい風景写真以上の“ぶ厚い時層”が重なり合っていることを、思わずには居られない。
身を乗り出すようにして、先ほどまでの苦闘の現場を俯瞰する。
木々が繁茂したために路盤を遠くまでは見通せないが、
山体の急さや麓に対しての高度感は存分に味わえる。
北東に視線を転じれば、朝熊ヶ岳の大きな体の向こう側に、伊勢湾口部に浮かぶ秀麗な群島を望むことも出来た。
もはやこの展望台は展望台として世にあるわけでは無いから、余りに無粋な位置に送電線が被るけれども、
それも含めて「90年目の眺め」を受け入れる。
真東には、古来より金剛證寺の霊山として知られた朝熊ヶ岳の山頂(555m)が、約1kmの近傍に聳える。
記録によると、ケーブルカー開通の翌年大正15年には、当駅から山頂へと至る乗り合いバスが朝熊登山鉄道(株)の手で開通している。
どうやって山上の道路にバスを入れたのか不思議に思ったが、実はそれ以前から尾根伝いに伊勢神宮へと下る「宇治岳道」が
バス道として機能していたようだ。現在は車道ではなく登山道として使われている登山道を、以前はバスが通っていたということになる。
また、今ではこの古い登山道(バス道)とケーブルカーの後を継いで、立派な「伊勢志摩スカイライン」が山頂直下を走破している。
観光地として著名であり続けた朝熊ヶ岳を巡る交通手段の変遷は慌ただしく、それゆえに“跡地”が多く残っている。
しばらく風景を満喫したあと、下山の途へついた。
8:23 《現在地》
下山ルートは、上ってくる途中ですれ違った朝熊岳道という登山道を途中まで使うことにした。
まずは朝熊岳駅跡から朝熊峠と呼ばれる鞍部へ尾根伝いに向かい、そこから朝熊岳道をケーブルカー跡との交差地点まで下山、
残りはケーブルカー跡を下って、平岩駅跡に置き去りにしてある自転車に乗ってスタート地点の朝熊集落へ帰ろう。
朝熊岳駅跡から外へ出る車道は東へと向かう1本だけで、これが大正15(1926)年から昭和19(1944)年まで乗り合いバスが通じていた道だ。
歩き出すとすぐに真新しいフェンスゲートに行く手を遮られた。特に表示物はなし。
真新しさからみて、駅跡に建造されていた電柱関連のバリケードだろう。つまり、駅へ向かう者を遮るゲートである。
私は外へ出たいので、構わず進む。脇が甘いので、ワキニャン。
バリケードの先には、思いがけずに広い道が続いていた。
さすがはバスも走ったという道である。
今も電線絡みの交通量が僅かにあるらしく完全な廃道ではないが、往時と今の交通量を比較すれば、没落ぶりは余りにも明らか。
駅跡から50mほど離れた道端に、小さめなコンクリートの建造物があった。
作りからしていかにも駅舎と同じ時代の建物に見える、その正体は――
公衆便所!!
おそらく90年も前に建てられた公衆便所であり、中々に貴重なものかもしれない。
このように小便器がない非分離式の小便所は、本当に見る機会が少なくなった。ごく稀にローカル線の駅にあったりするが。
ちなみに男女の個室は分かれておらず、同じ入口の左右に大便所と小便所が配置されている。
大便所の下の方の壁が一部存在せず、外が見えるが、木造の壁だったのだろうか。
更に進み駅から100mほどの地点にも、再びコンクリート造りの廃屋があった。
作りからして、これも駅舎や公衆便所と同年代のものだろう。
なかなかに可愛らしい形をした、いかにも観光地らしい建物だが、正体は不明である。
ケーブルカーや乗り合いバスのチケット売り場にしては、ちょっと場所が中途半端。
お土産物屋かな?
この建物はコンクリートの屋根や壁が抜けており、遠からず完全に倒潰してしまいそうだった。
8:28 《現在地》
駅跡から150mほどで再び簡単な封鎖があり、それを越えると右から来た舗装路と合流した。
この合流してきた道が「宇治岳道」で、こちらもバス道であったというだけあって、それらしい幅と勾配があった。
このあとの私は、宇治岳道から朝熊岳道を経由して予定通りに下山しただけなので、探索レポートはここまでにしよう。(このあと約50分で平岩駅跡に下り着いた)
なお、今回は机上調査編は行わないが、朝熊登山鉄道の現役当時の姿をもっと知りたいという方のために、オススメのサイトを紹介しておこう。
比較的に短命だったこの鉄道が生きた昭和初期という時代は、我が国における絵葉書文化の最盛期であった。また、当時の朝熊山は今以上の大観光地であったから、多くの絵葉書が刷られて市場に流通した。
大手絵葉書通販サイトである「ポケットブックス」の検索窓に「朝熊 三重」と入れてみよう。
金剛證寺や朝熊山の風景とともに当鉄道の絵葉書のサンプル画像が大量にヒットする。
サイトの規約上、ここに画像を転載する事は出来ないが、ここまでレポートを読まれた皆さまなら、きっと驚くような多くの古写真を見ることが出来るはずだ。
(特に見て頂きたいのは、現役当時の朝熊岳駅の姿。マジで驚くぞ、…もちろん「急すぎて」な。)
また、jyugemuさんのブログ「いにしえの伊勢」は、多くの絵葉書を現在の風景との比較や考察と共に紹介しており、こちらも非常に面白い。
地方鉄道法、および鉄道事業法準拠の鉄道における、歴代最急勾配路線。
そんな輝かしい(狂おしい)記録を保持する朝熊登山鉄道鋼索線だが、現地にはそれを誇るような記念碑があるわけでもなく、山中に横たわる(半分立ってるけど)廃線跡として静かに訪問者を待っていた。
ただーし!
訪問者を驚かせ、また疲れさせる手筈は万端に整えてあるから、行くなら覚悟してほしい!
オマケ。 現在ある鉄道事業法準拠の最急勾配路線は、東京都にある高尾登山鉄道(昭和2(1927)年開業、スロープ長1020m、高低差271m)である。
途中に、朝熊登山鉄道よりも46‰だけ緩やかな、608‰という日本最急勾配区間がある。
なので、朝熊登山鉄道を追体験したければ高尾登山鉄道へ行くのが近道だと思う。ちゃんと隧道も2本あるんだぜ!