神岡軌道 猪谷〜神岡間 第2回

公開日 2008.7.7
探索日 2008.7.3
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第二次探索 廃線レポ トップ

試練の県境線 <前>

最初の隧道との遭遇


《現在地》

地形図にない隧道との遭遇で終わった前回。
今回は隧道をくぐってその先へ進む。

神岡軌道の駅としては東猪谷から次の茂住まで5km近くもあるが、右の図はその前半部分、富山県富山市から岐阜県飛騨市神岡町横山までを示している。
軌道跡の赤いラインは海抜300mの等高線を伴として、国道41号(名古屋〜高山〜富山)が長い横山トンネルでくぐり抜ける県境の尾根を素直に巻いている。
そこには、これ以上書き加えることが難しいほど等高線が密に描かれており、現地へ行くまでもなく嶮岨な地形が想像された。
そのうえ、今回の探索のとも『鉄歩』(鉄道廃線跡を歩く8)には、この区間で撮影されたらしい何ともハードな感じの写真が掲載されている。

今回の行程で想定していたハイライトシーンの第1が、この県境のエリアであった。






2008/7/3 9:11

空積みの石垣で囲われた次第に深くなる掘り割りの先に、満を持して直立する坑門。
肝心の坑口は、プラスチックの波板と木枠を組み合わせた新しそうなバリケードで塞がれているが、用意された扉には予想に反して施錠が無かった。

扉に手をかけたnagajis氏が「開けてしまった」とき、私を振り返って見せたイタズラな表情。クククッというような含み笑い。
我々に共通する、最大歓喜の瞬間。
仕留めたネズミを前にしたネコの気持ち、舌なめずりの心境。

隧道を発見し扉を開けた男など、既にタバコに火を付けてご満悦な表情。
私は私で、先ほど飲み損じた湧き水で顔を洗い、ペットボトルにたっぷり補給。
この隧道は、来るべきハイライトシーンの「門戸」となる存在のように予感された。

さらに歓喜は連鎖する。
開放された小さな扉に近づくと、清水よりも清冽な冷気が、たおやかな風となってゆるゆると頬を撫でてきたのである。

この隧道は、たぶん貫通している!




天然のラジエーターとなった隧道。
この日は南風がかなり強く吹いており、南向きに開口しているであろう反対側の坑口から風が送り込まれては、それがギンギンに冷やされて、我々のいる北口から吹き出しているようだった。
狭くて真っ暗でジメジメして… 普通の感覚では気持ち悪いだろう廃隧道も、日射しと蒸し暑い外気の両方から一気に開放される存在として、何より「新発見」として、我々には大いに歓迎されたのであった。

しかしなにやら洞内からは、巨大なガマガエルの鳴き声のような「げりゅッ…げろろ」という、怪しげな音がひっきりなしに聞こえてきた。



真っ暗な洞内で人知れず気味の悪い音を立てていた正体。

それは、ゴムパイプの水管から溢れだした水であった。
洞内に敷かれたパイプの継ぎ目にある蛇口から、間欠的に水が噴き出す際に、嘔吐のような、あるいは子供が無理矢理うがいをさせられているような、汚らしい音が洞内に響き渡っていた。





隧道は私の当初の想像に反し、コンクリートで完全に覆工されていた。
所々に亀裂や小さな壁面の崩れはあるが、閉塞の危険を感じるような大きな破壊は見られない。
高さ3m、幅2.5mほどの小さな断面は、何となく安定感がある。

向かって右側には、ときおり待避坑も現れた。
そして、洞床にはバラストが敷かれ、枕木も一部残っていた。
もっとも、枕木の方はバラストに埋もれているものが大半で、疎水路として埋められているのかも知れない。



隧道は途中でわずかに右へと曲がっている。
そして、なかなか出口の光は見えてこなかった。
これが今回遭遇した一本目の隧道であるが、既に100m以上の長さがある。

また、かつて隧道内には電灯も灯されていたようだ。
廃止後に生活道路として使われていたのだろうか。


カーブの先に、緑のセロファンをくぐらせたような外光が見え始めた。
出口である。
一段と興奮のボルテージが高まるのを感じた。

そして、出口にはなにやら立て看板のシルエットも見えている。
その先は緑が深そうだ。
トンネル直前まで舗装路であったが、この先はいよいよ手つかずの廃線跡が現れるのだろうか。
ちなみに、二人ともチャリはトンネル前に置いてきた。




ほとんど光が届かないカーブ途中の洞床に、葉のない白い植物が、幽霊のように生えていた。

バラスト敷きで土はなく、しかもほとんど真っ暗な洞内にあって、なおも太陽を目指すかのように鎌首をもたげる、ハリガネのような植物たち。
しかもこの植物は一本一本が別個のものではなく、外から洞内へ延ばされてきた洞床を這う何本もの太い根から発生していた。(根ではなく茎なのかも知れない)

この植物の怪しい姿には、生命の持つ本源的な貪欲さを感じた。
隧道が崩れて埋まるまで、永遠に生き続けるのか。





神岡側の坑口に進入を拒もうとするように立てられていた看板。

そこには、「キケン トンネルの通行を禁止します 東猪谷総代」と書かれていた。

やはり、この隧道は軌道が廃止されてからも日常的に使われていた時期があるらしい。「総代」というコトバに、時代を感じてしまう。


暗闇を出て、濃い緑の世界へ足を踏み入れた我々。

隧道発見の興奮も醒めぬうち、次なる遭遇が待ち受けていた!


隧道の次は… あれが!!





 発見! 現存橋梁 


9:16 

隧道を出ると、案の定踏み跡無き草の道が始まった。
足元には沢の流れる音が近い。
明るい築堤で渡っているようだ。

緑の中へ踏みだそうとした私の足が止まった。

そこには一頭のカモシカの成獣が、じっとこちらを見つめていた。
草食動物独特の優しげな表情と私は認識したが、果たして彼の心中は如何なるものであったのか。
しばし二人は足を止め、彼の次なる動きに注視した。

30秒ほど見つめ合ってから、彼は思い出したようにターンして、彼の背丈よりも遙かに深い藪へ消えていった。
後には、沢の音だけが残された。

『鉄歩』をして「神岡軌道で最大の難関」と書かしめた県境地帯はこの緑の先にある。
そんな状況だから、私はこの遭遇が、軌道跡の主であるカモシカによって“我々の覚悟のほど”を試された、そんな場面であったように感じた。




橋だった。

シカに目をとられ、また緑の深さゆえ一時は築堤のように思われたが、それは紛れもなく橋。

しかも、nagajis氏が三度の飯よりも愛する鉄の橋。ガーダー橋。

当然これは今回の新発見。
私もシカとの遭遇で一旦は冷静になったはずが、nagajis氏と「橋やん!」「現存橋梁だ!!」との大合唱と相成った。




隧道出口と、名無しの沢を渡る橋梁との位置関係はこのように近接している。

今回は橋マニヤのnagajis氏が一緒であることもあって、普段以上に橋の発見は大きなイベントとなった感はあるが、ここまでの神岡軌道には橋が一本も現存していなかっただけに、この先のさらなる橋梁発見にも繋がる、非常に嬉しい場面であったのは確かだ。

そして何より、隧道と橋が一望に連なる光景とは、廃道と廃線の別を問わず、ある種象徴的なものといえる。
このような“恵まれた”シチュエーションは、現存数がそれなりに限られている筈なのだから。




nagajis氏は、さっそく橋とデート。
わざわざ激藪も予想される廃道に三脚を持ち込む根性には頭が下がる。(三脚を、藪を払う道具としても活用しようとする貪欲さ、研究熱心さにも感心)

藪が橋上橋下の別なく繁茂しており、その全貌を一望することが出来なかったのは残念だが、ガーダー桁一本による単橋で、全長は10mほど。沢底との比高は5m程度である。
先へ進むためには、当然この橋を渡って進むのが最短である。





ポーナル桁の例

ガーダー橋というと鉄道構造物としては比較的ありふれた印象だが、中には現存数僅少という、古く貴重な作風もある。
本橋についても、そのような僅少ガーダーとしての可能性を感じさせる意匠が見られた。

左写真で黄色い破線で囲った部分。
これは桁の補剛のために添接された「補剛材」の端部であるが、ここがこのように“J”形にカーブしているものは一般に「ポーナル型」と呼ばれ、明治30年代以前に国鉄で規格化されて建造されたガーダー橋の特徴とされる。

しかし、大正生まれの神岡軌道に明治時代に建造された橋が(転用無しで)存在する可能性は低く、またポーナル型と良く似てはいるものの、よく見ると微妙に形状も異なる。そもそも、本橋は私鉄に架けられたものであるから、国鉄規格とは異なっていて不思議はないというわけで、どの程度貴重な橋であるかについては断言を避けなければならない。

…と、nagajis氏が申しておりました。




nagajisにばかりいいカッコはさせられないとばかり、彼のデート中に私も付近を捜索してみた。

そして発見。
ガーダー橋の10mほど上流に両岸対となって残る、空積みの橋台遺構。
さらに、相当に風化してはいるものの、この橋台と連なるであろう道の跡も一部発見した。


コンクリート橋台に架かるガーダー橋に平行して存在する、石積み橋台の廃橋遺構。
その正体を考えるとき、先ほど隧道を発見する直前に、私が墓場の中へ直進しようとした場面を思い出して欲しい。
あの直進の道も、明らかに軌道跡らしい雰囲気があった。

つまり、左の地図に赤い破線で示したような「旧線」が神岡軌道には存在していたのではないか。
空積み石垣とおそらくは木橋を主たる構造物とした第1世代と、コンクリート擁壁と鉄橋を利用した第2世代。
大きく分けてこの二つの世代の存在を、私は神岡軌道に想定したい。




レポート本編から少々脱線するが、神岡軌道の沿革を調べていくと「旧線」が存在していた可能性はますます高いと思われてくる。
神岡軌道の歴史をすこし紐解いてみたい。

明治に入り神岡鉱山の経営に三井財閥系の三井鉱山(後の三井金属鉱業)があたるようになってから、従来は馬の背によって飛騨街道を細々と運ばれていた鉱石を初めとする物資の輸送について、新たに馬車鉄道の建設が試みられるようになった。
明治43年にまず土(ど)から茂住付近の杉山まで、軌間430mmという馬車鉄道のレールが敷かれた記録がある。(ルートなど詳細は不明)
ついで大正3年に富山軽便鉄道の終点であった笹津と神岡を結ぶ、全長38.8km、軌間762mmの馬車鉄道「神岡軌道」建設を決定し、大正9年に開通している。
おそらく、これが「第1世代」構造物の由緒だろう。

昭和3年には、合理化と輸送近代化を図るべく、ガソリン機関車を導入している。
同6年に、国鉄飛越線との並行区間となった笹津〜東猪谷を廃止し、新たに国鉄連絡線として猪谷〜東猪谷間を新設。
また、この同じ時期には坑内線と同じ610mmに改軌をしている。
上記三つの事象はいずれも軌道敷きの改良を要するものであり、この昭和初期にも構造物の増設や新線の建設が行われたかも知れない。

太平洋戦争時には輸送量が最大となるが、内燃機関車が燃料不足により利用できず、新たに新造された蒸気機関車が使われている。蒸気機関車は内燃式の機関車よりも一般に重いので、このときも路盤の補強は必要であったかも知れない。
さらに、戦後の昭和24年からは地方鉄道として旅客輸送を正式に開始し、機関車も再び内燃式に戻された。
旅客輸送の開始にあたっては当然、安全輸送に対する厳格な審査があったであろうから、この時期にも構造物の増設や新線への付け替えが行われただろう。

結局、神岡鉄道には3世代くらいの構造物や路盤があっても不思議はないと思われるのだが、いかがだろうか。




9:20 

さて、隧道と橋を手中に収め、さらなる発見を求めての前進を再開する。
まずは目の前のこの橋を渡らねばならない。

心配なのは、橋の上に乗っている枕木で作られた路盤の強度だが、かなり腐朽が進んでいるように見える。
ガーダーの桁に乗っていない中間部分は穴あきでガタガタだ。
枕木はその両端で廃レールとハリガネ固定されているので、枕木による上部構造自体が落ちる可能性は少ないだろうが、誰かのように橋の真ん中を踏み抜いて墜落する危険性があった。




また、日なたになっている橋の南半分は、足元が見えない激藪となっている。(←)
この状況もかなり怖くて、一歩一歩つま先で草を払ってからでないと踏み込めない。
南側たもとがウルシ林であることも、気持ち的に“まけそう”だった。
私は体質的に“まけない”自信があるが、“まけやすい”体質だというnagajis氏など、早速じんましんのような凸凹を両腕に沢山作っていた。(でも本人的にはさほど痒くもないしすぐに直るらしい…事実翌日には回復していたが)

右写真は橋の上から谷側を覗き込んだもの。
さほど高くはないが、墜落したら骨折が予想できる現実的に怖い高さとも言える。




橋の南側に連なる軌道跡。

猛烈な激藪であり、さっそくチャリを持ち込まなかったことを正解だと確信。
橋を3mも離れると、もう背後は全く見えなくなった。
今回は、nagajis氏のアドバイスにより購入したナタを私も装備するようになった。
まだ不慣れながら、必要最小限の刈り払いを実行した。




一瞬、ドキッとした光景。

現存レール出現かと「」の最初の音…u…を吐息と共に漏らしたが、続く「おー!」は口から出す前に踏みとどまった。

橋が、また現れたのだった。
今度はうっかり見過ごすほどに小さな橋。
しかし、前の橋と同じように枕木の両側が廃レールで固定されていた。
その廃レールを勘違いしかけたのだった。




まさに雑草のフラメンコ。
激しすぎる!!

…これが橋上の様子。




そしてこれが橋下の様子。

小さな橋(長さ5m、高さ3mほど)だが、これまた堅牢なガーダーである。塗色も先ほどの赤とは異なり、グリーン系。補剛桁も一般的な端処理であって、個性は薄い。

nagajis氏はそれでもサイッコウに楽しそうだったが(笑)。




2本の橋を相次いで渡り、杉の植林地へと進んだ。
ここにも法面に空積みの石垣が散在している。

我々のオブローディングエンジンは完全にかかって、安定した巡行状態に達したのを感じた。
その証拠は、一歩一歩進む度に感じる昂揚。興奮。幸福感。

引き金となったものは、私の場合は隧道。
nagajis氏は、鋼鉄の橋であったろう。

第1のハイライトシーンへは、新発見に彩られた、我々にとってこれ以上なく幸せな接近が実現できた。




ここは地形図においては道らしい道のない山林だが、下から登ってきた造林作業路を合わせると、軌道跡は鮮明さを増した。

我々もここで一休止挟むことにした。
休憩の最中、nagajis氏がリュックをゴソゴソしながら「またORJのCDを持ってきてる」と、何か自分の困った習性を愛でるような口調で告白。
私が彼と廃道を歩くのはこれで3度目(京都愛宕山での合同調査と、万世大路の巡視)だが、私の知る限り彼は毎回ORJのバックナンバーCDを持ち歩いている。
しかも、お守りとかではなく、いつでも販売できるようにということと、あと、廃道のどっかに置いて,バックナンバーCDの有る廃道の風景を撮影する事を目論んでいるらしいのだ。(しかも毎回それを実行し忘れている)
そのこと自体は面白い事だと思うが、今回は一つ問題が発生。
彼がORJのCDのつもりで持ってきたCDが、実は×××のCDだったのだ。
「別のCDを持ってきてしまった」「何かは言いたくない」との本人の弁であるから、これ以上追求はしないが、一体彼が何を持ってきていたのか気になったのである。




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崖の上へStandby


穏やかな杉林の区間は数百メートルにわたって続いたが、やがて軌道を挟む山の傾斜が増してくる。

ときおり、古い崩壊地の跡なのか、森が途絶えて谷間を見晴らす場面もあったが、神通川から高原川に変わった水面はあくまでも青く、そして遠かった。
これから最後までずっと、この川から大きく離れることはない筈だ。




人工的な森が終わると、踏み跡も急激に薄くなる。
しかし、ときおりは刈り払いの手が入っているらしく、歩きやすい。
もし神岡軌道の中で誰にでもお勧め出来る箇所があるとすれば、この辺りはポイントが高いと思う。
崖に面する箇所でも路盤はまだしっかりしているので、路肩に寄りすぎなければ危険は少ないだろう。
石垣も随所に残っていて、我々の目を楽しませてくれた。




眺望を得られる頻度が増えてきた。

高原川の対岸には、照りはじめた日射しに白く際立つ国道41号の路面と、まだ廃線には見えない神岡鉄道の線路が並んで見下ろされる。
神岡鉄道は廃止からまだ2年目でレールもほぼ完全に残っているとなれば、オブローディングの対象としてはまだ熟成不足と判断したのだが、間違っていなかったようだ。
もっとも、あまり熟成を待っていると、やがて橋が消え隧道が埋まり、いろいろと失ってしまうのも事実なのだが。

ともかく、いまはよく熟した神岡軌道に全霊を傾けたい。



目立たないが、これも鉄道に附属した構造物だろう。

廃レールが法面と少し間隔を空けて何本も立てられている。
木の板でも渡せば落石、落雪防止の簡単な防護柵になる。
神岡軌道では廃止後すぐに三井鉱業の手によって積極的に廃レールが撤去・再利用されているとのことで、路盤に敷かれたままのレール発見は期待が持てない。




9:46 《現在地》

また現れた。

架かったままのガーダー橋、3本目である。

すぐに藪の中へ顔をツッコミ、その構造を確かめるnagajis氏。
私にとっては本橋が今まで以上に枕木がスカスカで、いよいよ細田氏と研究を続けた渡橋術をお披露目する場になるかという期待が持てた。

しかし、橋は長さ高さ共に小さく、またネットのように藪が覆っているために、あまりスリルを楽しむような感じではなかった。
一応、枕木には乗れないので、一本橋状態となった幅15cmほどの桁を渡る必要はある。




この橋は先の隧道と同様、軌道跡の利用度を区切る存在である。
すなわち、橋の先は再び猛烈な藪が現れた。
ここを渡れば、『鉄歩』が神岡軌道最大の難所だと評した県境まで残り300mほどだ。

“NO エスケープ!”

難度A廃道の接近を予期する私の脳内のアラームが、この日はじめて鳴動した気がした。

写真右は、事も無げに一本橋に踏み込んでくるnagajis氏。
さすがだ。




橋の先は、路盤の状況が明らかに変化した。

豪雪地特有の、法面から真横に伸びた灌木。
これは、道がかなりの歳月を刈り払いされぬまま過ごしたことを意味する。
当然、路盤にも落石や崩土の山が随所に出来ている。

これはもう、完全廃道と言って良い状況。

歩くペースも一気に遅くなる。




辺りの地形や眺望されるものから、現在位置をこまめにチェックしながら進んでいたが、重要な目印となるものが見えてきた。
高原川を渡る国道の橋である。
国道はあの橋で高原川を渡った直後、全長800m超の横山トンネルにて県境直下を貫いている。
軌道跡はあくまで地形に素直に崖沿いを進み、トンネル坑口上を二度渡る事になるのだ。
1度目に渡るのは富山県内で、2度目には岐阜県だ。そして、この間が最も険しいハイライトで有ろうと考えていた。



雪の重みによるものか、飴細工のように折れ曲がって地に倒れたトラス構造の電柱があった。
これと同様のものは、この先でも何度も見ることになる。

豪雪地であることを思い知るが、そういえばこの辺はすっかり日本海側なのである。
何となくあたりの山河には心休まるものを感じたが、慣れ親しんだ秋田の緑と共通するものを感知したのだろう。





 永冨さん。

   「なんや?」


 あそこ、暗ぐね?


  orz






またも、古地形図にもない隧道か?







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