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廃線レポート 中津川発電所工事用電気軌道 反里口〜穴藤 最終回

公開日 2024.07.31
探索日 2020.05.09
所在地 新潟県津南町

 未踏の中間領域到達へ 最後の賭け!!


2020/5/9 11:10

本線と支線を合わせて全長47kmもあったとされる本軌道中、たった1箇所だけの中津川本流を渡る橋の跡(中津川橋梁(仮称))には、その短命に似つかわしくない立派な橋脚や橋台、築堤が残っていた。
この橋は軌道共々、歴代の地形図には一度も描かれなかったが、本編前説でも紹介した昭和26(1951)年版の地形図には、軌道跡を転用したと思しき3本のトンネルを有する道路(軽車道)が、反里口から穴藤の対岸ま、全て右岸伝いに描かれていた。

3本のトンネルのうち、1本目と2本目については確かに軌道由来であることを、これまでの探索で確認した(2本目は埋没していたが…)。
残るは3本目のトンネルであるが、それはちょうど「現在地」のすぐ下流辺りの右岸に描かれており、その正体としては、橋を渡る軌道とは別の支線が存在していた可能性を当初から考えていた。

もしここに支線があったとしたら、その跡を辿ることで、中津川の激流に阻まれ未だ到達が出来ていない“中間部のエリア”へ入り込める可能性があり、諦めの悪い私としては、確かめないわけにはなかった。
というわけで、これより旧地形図に描かれていた“3本目の隧道”探しを始める!

(なお、私の中にはこの時点で、当初の“支線説”の他にもう一つ、探索前は思いもしなかった“新説”も生成されていたが、それについては後述する)



少し上流側から撮影した橋の跡地。
立派な橋脚が立ち尽くしている。
右に見える対岸に軌道跡が続いているはずだが、激流のため到達出来ていない。

で、問題の3本目の隧道は、この少し上流の対岸川べりに描かれていた。



それは、この辺りなはず。

が、隧道が見当らないのはもちろん、現在進行形で激しく侵食されている崖地になっていて、とても歩けそうには見えない。
橋の対岸の橋台が見当らなかったように、激しい浸食で何メートル、所によっては何十メートルも岸が後退している右岸であるから、ここにあった隧道も陸地ごと削られてしまったのだろうか…。

その可能性は大いにあるが、さらに上流側へ目を向けると、しっかりとした護岸が設置されている部分も見える。
あそこ(チェンジ後の画像で拡大)へ行けば、もしかしたら道や隧道の手掛かりが得られるかも知れない。
ここからだと迂回は大きいが、次はあそこを目指すことにした。

見事な遺構を見せてくれた橋の跡地から撤収する。



11:17

自転車に再び跨がり、今朝の出発地点でもある穴藤橋を渡って右岸へ向かう。
置き去りになって間もなく7時間を経過する橋の袂の我が愛車よ、もう少しだけ待っていてくれ。ちゃんと決着をつけてくるぜ!



薄暗かった朝方もほぼ同じアングルの写真を撮ったが、これは穴藤橋から撮影した上流側の風景だ。

橋の約400m上流に、この軌道によって建設された中津川第一発電所が、背後の山を駆け上る超高高度の水圧鉄管路を従えて、極めて大きな存在感を示している。
また、発電所のすぐ上流に見える中津川を堰き止める巨大な水門は、昭和47(1972)年に同発電所の増設工事に伴って完成した穴藤ダムである。

今日の探索の後半戦の舞台となる予定であるこれらの場所に背を向けて、朝と同じ道を少しだけ再走する。



11:19 《現在地》

穴藤橋から100mちょっと進むと、農機小屋らしき建物が目印となる分岐地点があった。
朝はこの右の広い道(町道見玉穴藤線)を登って国道へ出たが、今度は左の激狭な道へ行く。
この道は地理院地図にも描かれていないが、想定通りの支線が存在した場合、その跡地の可能性が高い道だ。

“想定”の成否を確認するべく、左の道へ。



11:19

出来れば支線があって欲しい。
だから、この道には、できるだけ、軌道跡らしくあって欲しい。
そんな私の勝手な期待を、道は簡単に裏切って見せた。

分岐から200mくらい進むと、それまでの軌道跡っぽく見えた平坦路が急に逸れ、護岸がある川岸へ雑な感じにテイクダウン。
その直後に鉄板を渡しただけの【簡便な橋】で小さな中沢の谷を渡った。
周辺に軌道由来の橋の跡を探したが見当らず。




11:21 《現在地》

分岐から約400m、最近整備されたらしい真新しい護岸がある広い空地で道は終わった。
護岸に立って下流へ視線を向けると、300mほど先に例の橋脚がポツンと見えた。

昭和26年の地形図だと、この目の前の岸に車道として表現された道が延びて橋の辺りに通じている。そしてその途中に結構長い(150〜200mくらいありそうな)3本目のトンネルが描かれていた。
当時はこの足元の護岸がなかったのは当然としても、岸の位置そのものも変化している可能性が高い。

地図の隧道は、なんだったのか? そして、どうなった??



何かを察知できたわけではなかったが、とりあえずスギの木立を目印に少しだけ奥の山へ分け入ってみることに。
軌道の支線があったとしたら、(橋の高さと比べても、)もう少し高い位置だと思うので。

で、5mくらい上った所。分け入って1分も掛からなかったが……



11:22

これは、水路跡!!

幅1mほどの石積みの水路跡が、等高線をなぞるように南北方向へ続いているのに遭遇した。

こいつの正体だが、本編をここまで注意深く読み進めてくれた緒兄には説明不要かも知れない。



この水路は、約4時間前に遭遇した【1枚の石碑】によって存在を始めて知った、初代・正面ヶ原用水の水路跡に違いない!

同水路は、大正8年に開鑿され、昭和24〜25年ごろまで利用されたと、碑文にはあった。
碑文に言及こそされていないものの、軌道と並行して整備された区間が多かったようで、特にこれまで遭遇した2本の軌道隧道は、いずれもこの水路を床下に埋設した兼用構造物であった。

で、軌道は穴藤の下流に橋を架けて左岸へ移っていたようだが、水路はどうしていたのかという謎が生じていた。
だが、その答えがいま明らかになったようだ。
この場所に続きが見つかった以上、水路は川を渡らず最後まで右岸通しに設置されていた可能性が高い。

そして、この水路と出会った場所に微かな冷気が漂っていたことを、当然私は見逃さない。
水路跡の縁に沿って北上すること、わずか数メートルにて……



11:23

隧道発見!

間違いなく由来は水路だ。

そして残念ながら、昭和26年の地形図が軽車道のように描いていた3本目のトンネルは、この水路隧道を(誤って?)道路用として描いた可能性が高いと思う。
なぜなら、周辺に他の隧道や道は見あたらない。

ただ、水路としての利用が終わった後に、道路用(雪中トンネルのような人道トンネルの規模ではあるが)へ転用した可能性は残っている。
軌道橋が早々に撤去されていたようだから、ここに通路があると便利ではあったはず。
(それでも昔は今ほど川岸が浸食されていなかったようだから、普通に岸辺を歩く歩道があった可能性が高いと思うが)



11:24

というわけで、おそらくこちらに来る軌道の支線はなかった模様。
それ自体は少し残念だが、疑いが残ったままとならなかったのは有り難いし、何より、この隧道の出現によって、私にもう一度だけチャンスが与えられた。
激流に阻まれて近づけなかった“中間エリア”到達の可能性だ!

この隧道を無事潜り抜けることができたら、おそらくそこは……。

淡い期待を胸に、暗き水路穴へ三度突撃!



ボロボロだ。
壁はボロボロ。足元は水浸しと泥濘み。正面からは熱烈歓迎コウモリの突撃が連発。
はっきり言えば、一刻も早く抜け出したいという気持ちしか湧いてこない不快な穴だ。臭いし。

だが、

同じ正面ヶ原用水に由来する隧道でありながら、1本目と2本目で見た【特徴的な台形断面】ではないことが、私に気付きの興奮をもたらした。
これは、1本目と2本目だけが軌道トンネルの地下埋設という特殊な立地にあることを物語る“違い”だと思う。

また、この3本目の隧道の断面が水路隧道の一般的なものであるかは経験値不足のため分からないが、私の経験の範囲内でいえば、古いダム周りでよく見られる雪中歩廊用の隧道や覆道にそっくりだと思った。
幅1m弱、高さ1.8mくらいのサイズ感といい、アーチ形の天井と良い、そっくり。
(灌漑用水路とのことだが、発電所の工事絡みで作られたなら、関係があるのかも…)



11:25

風がある!

風を感じた私は、隧道の貫通をほぼ確信!! これは行けるはず!
動画の中の私の歩くペースも、未知の廃隧道に怖じけた者の動きではない。完抜を目指す確かな歩みだ!!
イケイケヨッキーーーッ!!



入口から50〜60mの地点から、坑道は短い間隔で右、左と、連続して屈折した。
そしてこの辺りから足元の泥の厚みが増してきて、一歩一歩の足が重いだけでなく、グッチャグッチャときちゃない音が反響する。
狂乱したコウモリの密度も多く、もともと非常に狭い洞内だから、次々とボディアタックをかましてくる。写真だと1匹ずつしか写っていないが、肉眼では夜の街灯に羽虫を見るような慌ただしさだった。

色々と厭な隧道だが、私を新天地へ運んでくれさえするならば何も言うまい!

さあ、このカーブの向こうに光がッ!!



11:26

光ない……。 くっそ…。

つか、マジでぬかるみがヤバくなってきた…。

微妙に下っていっているから、進むほどに泥が溜まっているようだ……。

やばいぞ……。このままだと、貫通していても、人体は通過できない畏れが……。

もうシューズじゃなくてズボンまでぐっちゃぐちゃだ。ここまで犠牲にしたんだから、貫通はさせてくれよ〜〜〜。




11:28

クソが〜〜〜!

(いや、さすがに失敬。言葉が悪った)

でも、貫通してね〜じゃねーか!

風があると思ったのは、頬わきでのコウモリの羽ばたきに騙されたようだ……。

入口から推定100m附近の地中で完全閉塞、突破不可能 BAD END.

撤収!!



11:30 《現在地》

最後の希望であった突端叶わず、悔しみ深き元の地上へ。

しかも、まだ今日は中盤だというのに、腿から見るも無惨な下がク●ドロ塗れに……。

もうこうなったら……、 足を洗うぞ俺は!!!



11:32

そうだそうだ。このまま行っちゃえば良いんだ川岸を。
崩壊地がなんだってんだ。今の俺はむしろ足をよく濡らしたいんだ!
怖い物なんてない!! 
目指す橋脚の向かいまで、あと100mくらい。
さっき地中で乙った場所の最寄り地表まで、あと50mくらいか。

イケイケヨッキ!!




11:36




うん。



これは死んじゃうヤツだから、やっぱ帰ります。 はい…

というわけで、色々と悪あがきはしてみたものの、この日は軌道跡の一部へ到達すること叶わぬまま、後半のステージへ移動したのでした。

実はこのレポートがしばらく更新停止していたのは、ここを再訪してスッキリしてから続きを書こうかと思ったのも理由だったんだけど……、とりあえず再訪はしていないけど書くことにしましたよ。再訪は今度また水量の少ない時期にね。




 工事の一大拠点となった“穴藤停留所”跡


本区間の最後に紹介するのは、工事用軌道の拠点の一つ、“穴藤(けっとう)停留所”の跡である。
その跡地へ赴く前に、穴藤が本工事におけるどのような地位を占めた場所であったかを復習しておこう。

信越電力株式会社による中津川発電計画における穴藤は、第一発電所の所在地であり、かつ第二発電所の取水口であった。
谷間の決して広いとは言えない土地に、これらの大掛りな施設がわずか3年足らずで建設されたが、そのために必要な莫大な量の工事資材の輸送を一手に担ったのが工事用軌道であり、工事期間を通して穴藤には路線中最大規模の貨物取扱所が稼働した。上流部での工事に必要な物資についても、多くはこの軌道で穴藤に一度集められたうえ、インクライン装置で上部軌道へリレーしていたから、その忙しさは容易く想像できるだろう。

なお、通常の鉄道であれば迷わず「駅」と表現されるだろう重要な荷役施設だったが、あくまでも営業運転の存在しない工事用軌道であるゆえか、多くの資料は駅とは呼ばずに“穴藤停留所”としている。
在りし日の穴藤停留所の写真が、昭和52(1977)年に刊行された『津南百年史』に掲載されていたので転載しよう。(↓)




『津南百年史』より転載

これが、大正後期に撮影された穴藤停留所の風景だという。

触覚みたいなトロリーポールを高く掲げた奇妙な電気機関車(10t機関車で、一部は工事終了後、草軽電気鉄道や栃尾鉄道に譲渡されて活躍した)や、それに牽かれる長大なトロ列車を中心に、たくさんの同形機関車、資材とみられる土嚢袋などが所狭しと置かれた盛況の貨物ヤードだ。働く人々も大勢見える。
電気機関車だからさほど煙を立てることはなかったはずだが、背後の空は夥しく煙っており、砂塵舞い立つ工事現場の賑わいを思わせる。
2階建ての事務所らしき建物もたくさんあり、わずか4年足らずで現れ消えた“一夜城”よろしき駅とはとても思われぬ賑わいである。

なお、トロ車の側面には「信越」の文字と貨車番号らしき数字がペイントされているのが見えるが、元画像はこれが左右反転しているため、裏焼きであると判断し、この画像では修正してある。


では今から、その跡地とみられる場所へ行ってみよう。
そこが次の探索ステージの入口にもなっているぞ……。




11:46

前回の続き。
右岸にある水路隧道の跡を撤退した私は、この日だけでもう何度も往復している穴藤橋に戻ってきた。

橋の対岸に数軒の家が見えているが、あそこが穴藤集落である。
背後に山を背負っていることまでは“山村としての普通”だが、その山に「石落し」から連なる極端に傾斜のキツい岩脈の部分があって、その偉容とスケールの誇示に全く遠慮が無いために、集落を含む風景全体も何やらただならぬ雰囲気を醸している……気がする。
少なくとも私には、ここをただの平和な山村として終えられる未来が見えなかった……。

橋を渡って、【左岸の分岐】も直進して、集落へ。



11:50 《現在地》

ここが穴藤集落のメインストリートというか、この町道に沿って両側に10軒ほどの家が建ち並ぶのが集落のほぼ全てだ(あとは、前回の橋跡の方に数軒あるだけ)。
写真は来た道(橋の方)を振り返って撮影したが、だいたいこの1枚に収ってしまうくらいの小さな集落である。

で、このメインストリートが、軌道跡を転用したものだと思う。
というか、軌道が敷設される以前からある通りなのかも知れないが、車道となったのは軌道の導入が最初であったはず。
前後のつながりから、あるいは消去法的にも、ここが軌道跡だろう。ただ、遺構的な証拠は見当らない。

ちなみに、秘境として有名な“秋山郷”は、近世以前から中津川上流の山間地域を指す地域名として使われており、越後(新潟県)の8集落と信州(長野県)の5集落が含まれていた。穴藤は越後秋山郷の左岸側の最下流にある集落で、右岸の見玉と共に地域の玄関という位置ではあるが、高台で街道が縦貫していた見玉と異なり、谷底で極めて交通が不便であった当地は、近世を通じてほんの数戸の寒村に過ぎなかったらしい。

それが、大正時代に突如湧いて出た一連の発電工事のために、集落とその周辺は徹底的に改造され、家も土地も人の生業までも、あらゆる部分が作り替えられたという。とはいえ、そんな文明の嵐も台風のようにあっという間に過ぎ去って、今ではすっかり元の静けさを取り戻している……といった感じである。
まあそれでも、発電所と関連施設だけはちゃんと更新されながら残っている。



この地図には穴藤周辺にある様々な発電所関連施設(紫)と軌道関連施設(赤)を示した。
穴藤ダムだけは昭和40年代の東京電力による発電所増設工事で作られたものだが、それ以外は大正時代に信越電力が整備したものを踏襲している。
集落の周辺が様々な発電所の関連施設に占領されている状況が感じられるかと思う。

チェンジ後の画像は昭和26(1951)年の地形図で、これも工事盛期の風景からは随分と経過しているが、現在よりはだいぶ多くの建物がある。
発電所が完成したことで数千人もいた労務者は潮の引くように消え去ったが、それでも昭和47(1972)年の発電所無人化までは、勤務する多くの職員がここに住んでいたという。

改めて、集落から道なりに南へ進んだ十二神社がある辺りが、かつて穴藤停留所や多数の工事関連施設のあった場所だ。
だがそこはいま、こんな景色である。(↓)



11:51

広〜〜〜い空地。

耕地でもない、空地である。
無数の空地たちが、頑強そうなコンクリートの段でいくつもの区画に分れ、山の麓から川べりの低地にまで幾重にも並んでいる。
所々に置土産のような樹木があって、いずれも太く高く生長しているのは、歴史の浅くない土地であることを思わせる。が、人は一人もいない。

ここが、穴藤停留場の跡地だ。

とはいえ、広く複雑な構内配線を有していた施設だけに、どこが中心地であったかは分からない。
線路が敷かれていた直接の名残であるとか、由来を伝える案内板のようなものも見当らない。
穴藤は、観光客を喜ばせるようなものを何も用意していない。
わずかな住人を除けば、あとは土地の過去に引き寄せられた者だけが訪れて、何もないところを見て、何かを感じ取る、そんな場所であるようだ。



停留場の跡地より、山際の集落全景を振り返る。

広い構内配線の存在を想像させるだけの十分な土地の広がりがある。
集落に隣接する平地の大半が、このような空地となっている状況は、いくらか異様だ。
だが毎年の草刈りは行われているようで、見通しが良い。



集落中心からは少し外れた、むしろ空地の中心辺りの山手にある産土の十二神社。
社殿は見当らない。
昔は賑わっていたろうに、ポツンと佇む白いコンクリート鳥居や石段の上の狛犬が寂しげだ。


残念ながら、工事用軌道に関する遺物は、その最大規模の拠点であった当所にも、ほとんど見られなかった。

それを補う意味も込めて、当地に置かれた中津川第一発電所の沿革と、同所の工事に伴う穴藤集落の変容を、文献から引用して紹介したい。
まず、第一発電所の沿革については、昭和59(1984)年に発行された『津南町史 資料編 下巻』に掲載された、「東京電力信濃川電力所編『水力発電史』手書き稿本よりの抜粋」を転載する。(この稀少な文献は机上調査編でも再登場する予定。以下『水力発電史稿本』と略する)

中津川第一発電所・概要
(1)沿革 
この発電所は、大正5年魚沼水力電気株式会社が水利権を得、その後中津川水電株式会社、信越電力株式会社と引継がれ、信越電力株式会社が大正11年10月建設工事に着手し、大正13年9月9日一部落成(調整池が未完成)出力10000KWであったが、大正13年11月25日調整池竣工により制限が解除され許可最大出力39000KWとなった。
昭和3年12月、信越電力は東京発電株式会社となり、昭和6年4月東京電燈株式会社と合併、昭和16年10月には電力国家管理のため日本発送電株式会社、さらに昭和26年5月電力再編成のため東京電力株式会社となった。
昭和41年10月には水圧鉄管取替工事(鉄管3条を1条に)より、許可最大出力39000KWから40000KWとなり、昭和43年6月中津川第一発電所増設工事の建設所が開設され、増設工事に着工、昭和46年12月竣工、許可最大出力40000KWから60000KWとなり(穴藤ダム未完成のため)、昭和47年7月穴藤ダム完成し、許可最大出力126000KWの大発電所となった。
昭和47年8月信濃川自動制御所発足と同時に無人化され、信濃川自動制御所から遠隔制御されている。

『津南町史 資料編 下巻』掲載『水力発電史稿本』より

バトル漫画の主人公みたいにインフレ気味にパワーアップ(許可最大出力10000→126000)してくるのがいいね!

次は、発電所工事で変容を余儀なくされた穴藤集落の暮らしについて、『津南町史 通史編 下巻』からの引用だ。
当時の穴藤には全部で18あった工区事務所の一つが置かれていたが、その中でも規模は大きく、最盛期である大正11〜12年頃は2000人近い工事関係者がここにいたという。その大半は請負業者(大林組や大倉組など当時の大手土建会社が請け負っていた)やその下請によって全国および朝鮮などから集められた労務者たちで、その数は元の住民の十数倍にも及んだから、村の変容は次のように凄まじいものとなった。

多数の工夫や工事関係者が中津川流域の村々に入ってきたことによって、村民の生活も大きく変わった。中津川第二発電所関係の工事に続いて、同第一発電所工事が着手された大正11年6月ころの下穴藤地区の変貌ぶりについて、当時の新聞は次のように伝えている。

此の地は……戸数21戸と比較的耕地貧弱の上に今は水電工事の為めに其の大部分は要地として買収され爰に信越会社第二線の取入口と第一線の発電所とが出来るのであるから是所ほど急激の変りを来す所はないが、聴く処に依れば土地売却の為めに各戸は少なくも2、300円から最も多いものは8、9000から12000円の現金を受け取ったものもあるそうである。又其の外に現今では手足の働ける者は空手で出ても日に2円や3円の収入はあるのであるから万福一時に来る感じがする……(『十日町新聞』大正11年6月15日)

大正11年当時、22戸を数えた穴藤集落では、発電工事が始まると、土地を売却して農業から離脱した労働力は、工事関係の仕事に吸収された。土地売却とひきかえに信越電力に入社したもの、工事人夫や電気倉庫の管理人、ポンプ職員、あるいは女子の場合には電話交換手や賄婦など就業形態は多様であった。また、自分の馬と馬車を使って資材を運搬し、日に10円という破格の日当を手にするもの、冬場の除雪人夫として日に2円50銭を稼ぐもの、さらに女子でもダイナマイトを背負って運搬し日に7〜8円の収入を得たなど、工事関係の仕事は良い収入になった。当時の農業日雇賃は日に40銭であったから、除雪人夫など1日の仕事でその6日分余りを稼いだ勘定になった。この工事によって出稼ぎの数は減ったという。
さらに集落の中で雑貨屋を開業した者もいた。人夫目当ての射的やカフェー、芸者置屋などができて、にわか造りの街の様相すら呈した。素行の悪い人夫や問題のある社員もなかにはいて、大正11年には請願巡査がおかれた。夏祭りのころになると、集落の氏子の祭りは別に、会社が映画やいろいろな催しをやり、集落の対岸にある見玉集落のほうからも大勢見に来たという、景品の出る運動会やスキー大会、将棋大会も人気を集めた。貨幣経済の浸透と都会の文化との接触は衣、食への嗜好を変え、農業を基盤にかたちづくられていた共同体意識や集落の秩序に対する考え方にも微妙な変化が現れた。
こうした生活の変化は、穴藤以外でも工事に関係する集落では大なり小なり共通していた。

『津南町史 通史編 下巻』より



『写真集ふるさとの百年 十日町・中魚沼』より転載

これは、昭和56(1981)年に新潟日報事業社が出版した『写真集ふるさとの百年 十日町・中魚沼』に掲載された写真で、大正後期に撮影された穴藤の風景だ。対岸から見下ろすように撮影している。

中津川に面して建つ高層の第一発電所建屋が一際目立つ。
背後には同所の発電タービンを回転させるための3条の鉄管路が延びており、手前には下流の第二発電所に水を送る取水堰も見える。
穴藤集落はいまと同じ位置にあるが、家の数は段違いで、家並みに隠されて道……当時は軌道が敷かれていたであろう部分……は見えない。
集落の左側、今は空地が広がっている土地にも工事関連の無数の建物が犇めいている。

これらの施設に必要な物資のありとあらゆるを補給したのが、工事用軌道である。
地区内に複雑に張り巡らされていたようだが、ここでは捲揚線(インクライン)へ通じていた本線と考えられる位置だけを示した。



古写真とぴったり同じアングルとはいかなかったが、対岸から撮影した現在の穴藤集落である。
小さな集落の左に広大な空地が広がっているのが分かる。
というか、空地の隅っこに押し込まれたような集落配置というべきか。

空地は、発電工事が始まるまで先祖伝来の耕地として大切に扱われていたのだろうが、買収によって会社所有となり、工事が終わった後も一部に社宅などが建てられていた。
発電所が無人化した今は大半が利用されていないようだが、なお草刈りがされていることなどから、依然として社有地なのかもしれない。



穴藤ダムから撮影した風景。
古写真で見覚えがある丸みを帯びたシルエットの高層建築が、大正13年9月竣功の第一発電所建屋だ。会社は何度も変わっているが、今は「東京電力中津川第一発電所」のプレートを掲げる現役発電所である。その左に見えるのが、昭和40年代に増設された発電所建屋。
足元のダムも増設工事の産物である。


遊撃隊的に時系列を離れて撮影した遠望写真が続いたが、最後は、“この地点”で締めようと思う。




次の探索のスタート地点、“穴藤捲揚線”の入口だ。



11:53

集落から300mほど南下した地点で、軌道跡と重なっていた町道が左へ反れて発電所やダムがある低地へ下って行く。
残された直進は相変わらず空地が目立つが、雰囲気的には最も貨物駅構内っぽい気がする。
これでホームの一つでも残っていたら言うことはなかった。

で、そんな空地っぽい駅の跡地の終わりに待ち受けているのが、これまで何度も遠景やら古写真やらで目にしてきた鉄管路。
こいつが広い人工の谷に横たわっている。
それを跨ぐことから、次のステージは始まるのだが……。

鉄管路に近づくと、自ずから見えてくる、




異常な落差。

おう……。



( それでも、次の区間、行きますか? )







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