廃線レポート 元清澄山の森林鉄道跡 第11回

公開日 2016.12.06
探索日 2014.12.27
所在地 千葉県君津市

起点の探索にて、第四の証言者と遭遇!!


仮称“トロッコ谷”での探索を終了させた私の次なる目標は、第三の証言者の地図に示された肉筆の軌道跡上にある、4本の隧道のうちの未知の3本目だ。
同地図によれば、隧道は片倉ダムのすぐ下流の笹川右岸に描かれている。
そして注記には、はっきり「現存」と書かれていた。

そこは地図を見る限り、これまでのトロッコ谷とは違い、幹線道路から簡単に訪れる事が出来そうな沿道の土地である。近くには集落もある。
にもかかわらず、第一の古老もこの隧道のことは語らなかったし、それ以外のあらゆるルートからも、これまで「千葉県に林鉄の隧道がある」という情報が私に触れる事はなかった。

故に、この地図を含む第三の証言を得るまで私は、この千葉県唯一と考えられる林鉄は“トロッコ谷”のような極めて人通りの乏しい秘境内で完結する路線であったために、これまでほとんど知られざる存在であり続けたのだと解釈していた。
それだけにこのような幹線道路の近くに隧道という明確な遺構が現存しているという話しは、“トロッコ谷”奥の長大隧道とは別の意味で、私に驚きを与えるものだった。




2014/12/27 13:24 

11:43に元清澄山の奥深くより撤収を開始した私は可能な限り素早い下山を心がけ、80分後に自転車まで帰還すると、そのまま自転車で片倉ダムのすぐ下流にある片倉集落入口を目指した。
そしてそこ(写真の地点)に辿りついたのが、撤収開始から約100分後となる現在時刻だった。

写真を見ての通り、既に秋の日はススキの穂色を帯び始めている。
依然として探索の時間に余裕は無さそうなのだが、隧道を探しに行く前に、起点の貯木場と製材所があったとされる場所だけは、見ていきたいと思う。
第三の証言者の地図によれば、その場所は片倉集落の外れに位置する笹川蛇行の舌状地の先端付近で、現在地からは道なりに800mほど離れている。

【復習】 第三の証言者による、この軌道についての情報の全文は以下の通り

さて、千葉の軌道の件ですが、地図や記録などに記載されていないこの軌道のことを知りましたね。
現在残っている軌道の隧道は、送って頂いた写真の隧道の他に、片倉ダムの少し下流右岸に第1号隧道があって、ここはもう少し上に出ているはずです。

この軌道の起点はもっとダムよりも下流で、現在広場になっていますがそこに製材所と貯木場があったということです。
さらにダム喫水線近い場所に1箇所と、奥にも隧道があったそうなのですが、平沼さんの地図は線形がかなり違っているので、書き直して後日お送りいたします。

この軌道は、旧東京営林局千葉営林署の軌道で、線名は戦前期小坪井という記述があるので小坪井軌道としています。途中の橋に小坪井橋という名称が名残として残っています。
戦後はこの辺は千葉営林署の笹事業区となっています。
廃止時期は昭和12〜3年頃だと思われます。動力は手押しだということです。


それでは、千葉県唯一の林鉄の痕跡を求め、起点跡へレッツゴー!!



…と、勇んで県道から脇道へ入り込むと、そこはもう長閑な長閑な田園風景。
ここで左を向くと数軒の民家が見え、地形図に「片倉」と注記がある。
すぐ上流に建設されたダムの名前の元になった、小さな集落だ。

まるで畦道のように続く一本道はしばらくの間平坦で、その先にある地面の終わりを感じさせないように続いているが、やがて笹川の流れに囲まれた舌状地の先端へ下り込んでいくことになる。
なお、この道が軌道跡というわけではないようだ。
本来の軌道跡は、これから向かう先で出会えるはず。




入口から500m弱進むと道は下り始めるが、まだ勾配は緩やかで、周囲には葉を落とした果樹園が長閑に広がっている。
前方に鬱蒼とした杉林が近付いてきたが、どうやら目指す“起点”はあの中にあるようだ。
また、杉林の更に奥には、際立って険しい灰白色の崖がそそり立っているのが見える。
地形図と照らし合わせると、あそこは笹川の対岸で、蛇行する河により激しい浸食を受けている現場であるようだ。
ほんの2時間前まで私が探索していた上流部と較べ、川や谷の規模が段違いに育っていることを、実際の水面を目にするよりも先に実感出来た。



この果樹園で、私は“第四の証言者”を得た。

第三を除く全ての証言者は、現地で偶然に出会い声をかけた古老である。
怪しい私に対する古老たちの親切には、本当に感謝している。
そして例によって、今回も非常に有用な情報を多く含んでいた。
以下にその内容を列挙しよう。

  • 今年で65歳の証言者が55歳の時にダムが出来た。それまでは時々狩猟のために沢へ入り、そこで(先ほど探索した)隧道を通った事がある。
  • 隧道は、“小坪井(こつべ)沢”と“本坪井(ほんつべ)沢”を結んでいた。地元の人は“坪井”と書いて「つべ」と呼ぶ。
  • 本坪井や小坪井の山一帯を、地元の人は“奥山(おくやま)”を呼ぶ。
  • 確かにこの坂を下った先が軌道の起点で、製材所があった。この場所は“真崎(まさき)”と呼ばれている。
  • トロッコやレールの記憶はほとんど無いが、子供の頃に祖母に連れられて山に入った時に、手押しのトロッコが山を下ってくるのを見た記憶がうっすらとだけある。

この第四の証言における最大の収穫は、地形図には記載されていない沢の地名が明らかになったことだと考える。

第三の証言により、「小坪井軌道」という名前が初めて示されたが、小坪井という名がどこから来ているのかは、いまいちよく分からなかった。
今日の探索の序盤に田代林道沿いで「小坪井国有林」と書かれた看板を新たに発見し、“トロッコ谷”のある山域がそのように呼称されていることが分かったが、より具体的に、“トロッコ谷”や“隣の谷”の名前が、それぞれ「小坪井沢」と「本坪井沢」と呼ばれていることが判明したのは、とても大きな収穫だと思う。

国有林森林鉄道の場合、路線名が隣接する沢の名から付けられるケースは非常に多いので、「小坪井軌道」(あるいは小坪井森林鉄道)と呼ぶ事には、全く違和感がない。
(なお、隧道そのもののにはおそらく名前は付けられていなかったと思われるが、仮に名付けるならば、その目的地から、「本坪井隧道」というのが良さそうだと思った)

沢の呼称については、本レポートの第1回公開直後に寄せられた読者さま(滝おやじ氏)のコメントも、上記古老の証言を裏付ける重要な内容である。
既に“おぶコメ”として公開中だが、以下に転載する。

房総で最も奥まった沢ですよね。そんな所に林鉄があったとは驚きました。このあたり滝の調査で、片倉ダムができる前、ゴルフ場が撤退直後の時期に、滝を探して入渓していた方に案内してもらって、入ったことがあります。その方は、骨組みだけの廃橋を渡ったといっていましたが狂気の沙汰と思いましたね。
そのとき知った沢の名前を紹介します。この水系は、「ツボイ沢」といいます。橋付近で北から合流する支流が「ビル沢」。ヨッキさんの「仮称トロッコの谷」は、ツボイ沢の支流で、「コツボイ沢」といいます。ツボイ沢水系は、山深いけど大きな滝はなく、コツボイ沢合流点から少し上で、ツボイ沢に落ち込むツボイ沢の大滝ぐらい。それも、ゴルフ場造成で滝の上半分が削られてしまい破壊されてしまいました。その跡地を、別荘地に開発ということですが、イノシシ・シカ・サル・山ヒルの聖地まっただ中で、そこに別荘を造成する・購入するなど言語道断です。まあ、ヨッキさんの聖地とも言えるかも。(^_^;)


第四の証言の他の内容も重要である。

坪井沢のトロッコ隧道を狩猟のために通行したという話し。これは奇しくも第一の証言者の語ったことと一致している。
山奥の見棄てられた廃隧道のように見えても、狩猟という日常の一部の中で活用している人が(少なくとも10年前までは)居たのである。
活用の機会を永遠に失ってしまったダムの水没隧道よりは、遙かに上等な運命かもしれない。

それにしても、私が地元で声を掛けた古老3人のうち、男性である2人が2人とも、「狩猟のために件の隧道を通った」と証言したのは偶然だろうか。
私にとってはとても“知られざる”ものに思われていた“千葉県の林鉄の存在に関する情報”が、こうも地元の人口には膾炙していたのである。
ネットに積極的な情報発信をあまりしない世代の情報を、我々は積極的に汲み上げていく必要があるとつくづく感じる、一連の聞き取りの成果だ。

話しが少し脱線した。
この証言のなかで、「子供の頃に手押しトロッコが山から下りてくるのを見た記憶がある」という内容も興味深い。
証言者の年齢が65歳であるから、この記憶は60年前後の昔、すなわち昭和29(1954)年頃の記憶と思われる。
だがこれは第三の証言にあった、「廃止時期は昭和12〜3年頃だと思われます」という内容とは矛盾するのである。
果たして廃止の時期は戦前なのか戦後なのか。それとも二度に分けて廃止されたのか。 …謎だ。




起点の貯木場跡と、そこから始まる最初の軌道跡


正直なところ、時間的に今日は残り二つあるという隧道を見て回るだけでギリギリかもしれず、そもそも全線の完全踏破を目指しているのでは無いから、今回は“起点”の調査はしない選択肢もあったのだが、これら証言を得られただけでも寄り道を決行した意味があったと思った。

私は果樹園の古老に丁重に礼を述べてから、既に急坂と呼べる勾配になっている下り坂への進行を再開した。
この坂の尽きる先が、起点であるはず。




道は下りの最後に広い杉林へ突入した。
すると右手下方に、規模の大きな二階建ての木造家屋が現れた。
見るからに、廃屋である。

この建物については事前情報になかったが、集落から外れたところに一軒だけポツンと建っていることや、第三第四の証言でここに製材所(と貯木場)があったとされているので、それだろうか?
正体の確認は出来なかった。



13:40 《現在地》

廃屋のすぐ先で道は小さな広場に着いて終わった。自転車から降りた。
周囲は平坦に近い植林地で、よく手入れのされた杉が鬱蒼と茂っている。林の全体を穏やかな川の音が包んでおり、まさに地形図で見たとおりの川の蛇行に取り囲まれた土地と分かった。

貯木場跡という話しだったので、大きな空き地が残っているかと思ったが、実際は車が転回出来る小さな空き地しかない。つまり、貯木場跡がこの植林地なのだろう。
そう考えると、最大200m四方ほどの規模の大きな貯木場も想定しうる。

ただ、この立地だと今通ってきた狭い道が唯一の出荷ルートなのだろうが、大型のトラックが通れず不便だったろう。或いは笹川での流送が行われた時期もあるのだろうか。川縁なので親和性は高そうだ。




これは広い植林地の中を移動し、別のアングルから撮影した写真だ。
正面奥の一段高くなった上に見えるのは、先ほどの廃屋である。

この貯木場が軌道の起点でもあったらしいから、当然このどこかにレールも敷かれていたのだろうが、残念ながらその痕跡は見あたらない。

小さな手押しトロッコに乗せられ、滝を渡る危うい桟道や不気味な長い隧道を通ってきた原木たちが、この場所に山積みされていた往時の盛況の場面を想像するのは、もはや難しい。
もはや、林業の土地として利用されていることくらいしか、当時との共通点はないのだろうか。

否である。
この土地にも、先ほどまでいた“奥山”の終点付近と共通するものが、他にも残っていた。
それは、植林地の林床には似つかわしくない古びた湯呑み茶碗。これに同じ息吹を感じた。



第三の証言者の地図では、この“起点”から笹川の右岸沿いに軌道跡の赤線が始まっている。

実際にその線の始まる辺りに行ってみると、川縁に予想外の現代的建造物が待ち受けていた。
表札に「片倉下流警報局」とあり、片倉ダムの放水時にサイレンを鳴らす無人施設であるようだ。

建物の右側を通って、さらに奥へ進んでみると――




これはまさしく、軌道跡!!

べつになんてことのない見馴れた風景ではあるが、

千葉県唯一と思われる、この奇想天外の林鉄では、こんな平凡な場面が、

いままで見つかっていなかったのだ!(苦笑)




起点を出発した軌道は、すぐさま崖と川の間に追いやられ、予想外に急峻な地形となっていた。
左の足元には、笹川の広い水面が静かに流れ去っている。
2時間前まで目にしていた小坪井沢や本坪井沢の僅か4kmほど下流に過ぎないが、それらを集めた笹川の本流は見違えるほどに大きな川に育った。
対して右の崖の上には先ほど通ってきた果樹園やら畑やらがあるのだが、上からでは窺い知れない険しさだ。そして、薄暗い。

この最初の区間、既に道としては全く機能しておらず、堆積した崩土によって全体が斜めに傾斜した嫌らしい廃道である。
起点からいきなりこの有り様というのは、これまで色々な林鉄跡を探索してきたが、なかなかに珍しい体験だ。
廃止時期の早かったことはもちろん、廃止後に別の道として活用する機会がなかったのかもしれない。




一瞬色めきだった、法面に穿たれた小さな穴。

人工的な穴(隧道)に違いは無いが、明らかに水路サイズである。
このレポートの序盤の数回で散々見たとおり、この界隈の人里に近い川縁には、どこにでもこうした水路隧道が穿たれている。

私はこの小さな穴を無視して、そのまま川縁の路盤跡を辿ったが、非常に崩壊が進んでいて、緊張する場面であった。




一向に状況の改善しない川縁の崩壊路盤を進む事、50〜100m。
ついに私は水際に押しやられてしまった。
前方を見ると、相変わらず此岸(左岸である)にうっすらとしたラインが見えており、大きく左にカーブしていく川崖に続いているが、どうやらそれは軌道跡ではないらしい。
そこに見えるラインは直前に見た水路隧道の続きとなる水路跡であるらしく、本来の軌道は、ちょうどこの辺りで対岸へ渡っていたはずなのである。

…というのは、例によって第三の証言者の地図の受け売りなのだが、実際にここに架橋の痕跡があれば、これが肯う事が出来る。
ちょうど水面近くに降ろされたので、浅い川底に橋の跡がないかを探してみると――




← ありました!橋脚の跡!!

左岸に近い川底に、小さな丸い穴が4つ直線状に並んでいるのを見つけた。
これ全体で1つの橋脚だったのだろう。木橋でしばしば見られる穴の配置だ。

また、このあとで対岸寄りにも同様のものが発見され、ここに川を45度くらいの方向で渡る斜橋があったと判断出来た。

ただ、驚くべきことに、これらの橋脚は川の流れに対して直角に近い方向に並んでいた。
普通、河中に建つ橋脚は、川の流れで壊される事を避けるため、できる限り水流方向に短辺を向ける形で並べる。
それが敢えて川の流れを遮りかねない方向に並んでいるのは、橋を斜めに架けて線形を良くする為の策だったとしても、洪水があればひとたまりもなかったのではないかと思う。

この川は滅多に増水しないような川だったのだろうか。
これはだいぶ不思議な光景であった。



13:59 《現在地》

川幅は広いが、その割に水量は多くなく、したがって水深も浅い。
さすがに足を濡らさず渡る事は出来ないが、これまでの探索でもなんだかんだで靴の中は湿っていたので、もう夕方にも近いこともあり、諦めて膝までざっぷり濡れながら横断する事にした。

写真は、これまでは対岸であった右岸より、推定架橋地点を振り返って撮影したもの。
推定される橋の長さは2〜30mで、高さは低いが、結構な長さである。
橋脚を含めて全て木造の純木橋だったのか、痕跡は橋脚孔のみである。
両岸とも、橋台さえ残っていなかった。




そしてこれが、進行方向だ
が、ここで私の冒険は終わってしまった!!

……というのは冗談だが、この先おおよそ350mの区間は泣く泣くショートカットすることにした。理由は、日没までのタイムリミットを考えての事である。
今日はあと2箇所の隧道擬定地点での探索を残しているが、気付けば日没まであと2時間強しかない。
しかも、自転車は貯木場跡に置いてきてしまっているので、このまま進むと、戻りの時間を倍に要することになる。

地形図を見る限り、ここからしばらくはやや広い川縁の森を通るだけのようなので、今回は深追いせず、その先にある隧道擬定地点付近へ先回りします!