2014/9/14 7:35 《現在地》
これは10年前に今回と同じように点検水位になったときに撮影した写真である。このように駅の全体を俯瞰するアングルでは今回撮らなかったので、この写真を使って大荒沢駅の大雑把な構内配置を説明する。(「現在地」は、今回の探索のもの)
まず、この写真で黄色く塗った範囲は、駅の敷地として周辺よりも高くなっている(盛り土されている)場所である。
ほぼ平坦な大荒沢の集落跡にあって、駅だけがホームの高さ分だけ高いために、草木がまるでない状況ではよく目立っていた。
そして大荒沢駅には複数のプラットホームが存在する。
湖畔から見て奥、つまりかつての和賀川の流れに近い側に改札口と1番線ホームがあったとみられる。1番線ホームは片面の単式ホームで、おそらくは北上方面への列車が発着していたものと思う。
ちなみに、駅前には一般県道大荒沢停車場線があり、大荒沢集落の間を縫って和賀川対岸の平和街道(国道107号の水没した旧道)へ通じていた。
そして1番線と複線の線路を挟んで向かい合っていたのが、2番線と3番線を有する島式ホームで、そのどちらかが横手方面の乗降場だったのだろう。
また、ホーム間の移動通路は、現在でもローカル駅でしばしば見られる平面交差であっただろう。
そしてもうひとつ、改札の北上寄りに行き止まりの頭端式ホーム(幅は複線分だが車止めは北側の一基だけ存在)が存在している。これは貨物用ホームと思われる。
以上のように、大荒沢駅は、交換可能な旧国鉄駅の典型的な体裁を整えた立派な駅であった。
この撮影から10年後の我々は、湖底の泥濘を踏みしめて、はじめてこの駅のホームに立ち入ろうとしている。
まずは、最も“陸”に近い3番線。次いで2番線から1番線へ渡り、例の「あれ」を確かめたい!!。
意を決して、泥濘の大海へ漕ぎ出す。
いま見ているのは、3番線ホームの北上側端部の辺りで、地表の凹凸に浮き上がった最も大きな膨らみが目指すホームである。他にも薄らとした膨らみがあるが、バラストを盛られた線路の盛り上がりに他ならない。このような形で廃止前の線路配置が分かるというのも、なかなかに貴重な体験だった。
なお、これまでの偵察的要素を持った探索により、干上がってからあまり時間が経っていないこの泥濘の世界では、行動の自由が相当に限られていることを理解している。
陸地に見える部分の中にも、実際に足を踏み込むと単独では脱出困難になるような危険な深沼が存在しており、その安全と危険を見極める最大のヒントが、泥の表面に刻まれたひび割れにあることも理解した。
すなわち、ひび割れの大きさや深さが乾燥の進行度を示している。
そこまでを理解して行動するとしても、この泥濘での探索は、普段の探索以上に単独行動を謹むべきと感じていた。
ひとことで言って、ここは見た目の平板さ以上に危険で怖ろしい場所だった。
振り返る湖畔と鷲合森鉱山索道所の跡。
大荒沢は鉱山との関わりの深い集落で、近くに大荒沢銅山があったほか(横黒線開業以前にも和賀川沿いに鉱山軌道が存在し、当地付近が終点だったが、湖底にその痕跡は見あたらないようだ)、近隣にあった鷲合森と卯根倉という二つの鉱山から鉱石運搬用の索道が、この駅裏まで伸びていたのである。
大荒沢駅の存在意義の最も重要な部分が、これら鉱山の鉱石積み出しにあった。
二筋の踏み跡が、真新しい大地に刻まれた。
恐らく2ヶ月ばかり先に再び水没するまで、このまま残り続けるだろう。
そしてまた10年後に再び湖底が現れたとしてもた残っていまい。
現に10年前の私たちが大勢で刻んだ足跡は、今回の湖底のどこにも見る事が出来なかったから。
2014/9/14 7:46 《現在地》
3番線ホームに“上陸”成功!
今回初めてこのホームに立ち入って分かったことだが、3番線ホームは現代の駅ではほとんど見られない木造であったようだ。
そしてホーム上にも泥は厚く堆積しているが、縁の部分が見えている事から、今歩いてきた線路上に堆積した泥の厚みを大凡想像出来た。
日本国有鉄道の客車用プラットホームの高さの標準は、レール上面から76cmとされていたそうだ。
今露出しているホームの縁の高さはせいぜい15cm程度なので、昭和41(1966)年の湛水開始から半世紀で堆積した泥の高さは60cmほど。
年平均1cm以上のペースで泥没したことになる。
この作用が今も安定して続いているとしたら、壮大な駅の痕跡も、やがて完全に泥の下に覆い隠されてしまうだろう。
3番線ホームへの“上陸”から、わずか10歩ばかり歩けば、同じ島式ホームの反対側に作られた2番線ホームに立つことが出来る。
こちらは木造ではなくコンクリートでしっかり施工されており、3番線ホームよりも重要度のより高い、日常的に使用されていたホームであったことを伺わせた。
また、縁の部分には何かコンクリートの板状のものが不等間隔に並んでいたが、その正体は不明である。
現代の駅で私は見たことの無いものだ。ご存じの方がいたらご教授いただきたい。
いま見ているこの北上側には、駅から約900m離れた地点に、横黒線内最長の仙人隧道が存在した。
それは忘れもしない、10年前の私と我々にとって最大の攻略目標だったのだが、あのときは奇蹟的に開口していることが確認され、そのまま内部探索に至った記憶は未だに鮮明である。
今回は(新たに出来る事もないと考え)再訪しなかったが、後日ある読者さんが現地を訪れ、10年ぶりの坑口の有り様を報告して下さった。
曰く、隧道は完全に瓦礫に埋もれ、坑口の一部さえ見る事が出来なくなっていたそうだ。
あの夢(悪夢?)のような探索は、一期一会の機会であったのだ。
対してこれは同じ地点から眺めた横手方向の眺めである。
この方向には約500m離れた地点に、名前の分からないコンクリート製のスノーシェッドがある。
スノーシェッドの先には本内隧道という廃隧道もあるが、これらはダムの通常運用の範疇でも、渇水時には地上へ出るので、私も11年前(執筆時から見れば12年前)に探索したことがある。
とはいえ、このアングルでスノーシェッドを眺めたのはもちろんはじめてのことで、興奮した。
この駅が生きていた時代に、汽車を待つ旅人の眺めていた景色というものを、私はおおよそ半世紀ぶりに目にしている。
ここは山峡の土地でありながら、周囲の視界を遮るもの(草や木々や建物)が無いために、異常なほどの解放感があった。
もはや泥の上に立つ不快感など、忘れそうになっていた。
さて、いよいよ1番線ホームへの“渡り”である。
このぶ厚く堆積した泥の下には、今でもバラストが残っていると思われる。
さすがにレールや枕木は回収されていると思うが、発掘して確かめるのは困難だ。
7:50 《現在地》
1番線ホームに“上陸”!
2番線ホームの横手側端部は緩やかなスロープになっており、1番線ホーム側の対面する位置には、幅1mほどの小さな切り欠けと階段があった。
おそらく、この位置には利用者が線路を渡るための通路があったと思われる。
いささか階段の狭さや急さが気になったが、昭和40年代以前の地方駅のユーザビリティなどはこんなものでは無かったかと、勝手に納得した。
少なくとも、地下道や跨線橋が設けられていた形跡はない。
そしてこれが、1番線ホームの横手側端部近くから眺める北上側の眺め。
“例のあれ”もすぐ近くに迫っているが、その正体が「改札」である可能性は、いよいよもって高まったと感じる。
というのも、その周辺には駅の本屋(待合室、駅事務所、改札などを含む駅のメイン建物)らしき建物の痕跡が、くっきりとしたラインとして見て取れたし、駅の正面通路を挟み込むように植えられていた判断している“枯木”の位置も、多くの古風な駅が駅前道路と駅本屋玄関と駅改札が一直線に並ぶ配置を持っている事との符合を見せていた。
後は近付いて、ディテールを確かめる必要がある。
我々は相変わらず宜しくない足元に汗を滲ませながら、脇目も振らず、“それ”を目指した。
…などと勿体ぶるまでもなく、
これはもう、旧大荒沢駅の改札口の遺構と判断していいだろう。
決定的な根拠と考えるのは、駅本屋の外壁跡との位置関係である。
駅本屋の外壁には全部で4箇所途切れている場所があり、それぞれ出入口と考えられるのだが、このうちホームに面する側で途切れているのは2箇所ある。
そのうち、待合室であったと見られるスペースとホームを繋ぐ出入口は、この1箇所しかないのである。
この駅の構造を考えたとき、待合室とホームを結ぶ所に改札があると考えて、間違いはあるまい。
これは“出来すぎた”話しのように思えてしまうが、私が見た現実の光景だ。
昭和37(1962)年に廃止され、その4年後に水没の運命を辿った大荒沢駅は、本屋については外壁さえも残らなかったにもかかわらず、脆弱な木柵に過ぎない改札口の一部が、なんと半世紀を経て残っていた。
こんなことも現実にあるのだと思い知った。
改札跡の木柵越しに見る1番線ホームの風景。
私が立っている位置は、今でこそ燦々と太陽の照りつける野天であるが、かつては本屋建物内(待合室)だったのだ。
列車は2度とここを走らないが、ホームと改札の距離感だけは、現代でも日本中で見る事が出来る駅のそれである。
大荒沢と杉名畑という2集落の住民約900人にとっての最寄り駅であり、また鉱山関係者なども大勢出入りしただろう当駅は最後まで有人駅であったらしいから、この改札口には改札鋏を手にした駅員が廃止まで立っていたはずである。最後の列車もここから見送ったに違いない。
なお、ネット上の画像検索で見る事が出来る木造の改札口を幾らか調べてみたが、これと同じ形ものは見あたらなかった。
大抵は横棒ではなく縦棒を中心とした構成になっていたようで、この木柵は標準的なものでは無かったとみられる。
しかし、それが所在する位置からして、これが改札と無関係のものであったとは考えにくい。
ところで、既に述べた通り、10年前の平成16(2004)年の秋にも大荒沢駅は地上に出現した。
結局私はその期間内にホームへ立つ事は無く、今回目にした改札の遺構である木柵の存在にも気付かなかったが、当然ながらそれは当時から存在していた。
その事を教えてくれたのは、北秋田市在住の探索仲間HAMAMI氏(Facebook)である。
HAMAMI氏は10年前の水位低下期間中に私よりも早い9月に現地を訪れ、そして単独でホームへの到達を果たしていた。
さらにそこで多くの写真を撮影しており、今回改札の話を伝えた私に、当時の写真を快く提供して下さったのだ!
早速ご覧頂こう!
貴重な10年前の大荒沢駅と、その改札の姿を!!
こうして見較べてみると、10年ぶりに地上へ帰ってきた改札口には、確かに老朽化という言葉で括られるであろう変化があった。
上部の横棒が壊れているのが一目瞭然である。
私はてっきり、この壊れた状態のまま水没したのでは無いかと思っていたが、そんなことはなかった。
水中で過ごした10年間という誰にも見られなかった時間に、こうした変化が起きていた。
しかしその事よりも私に衝撃を与え、同時に未来への大きな不安を感じさせたのは、ホーム上に積もった泥の丈が、この10年で明らかに増えている点だ。
10年前には駅本屋の外壁の基礎(木造)が明瞭に出っぱっていたのに、今回は全体が泥の下に隠されて分かりづらい。
木柵についても、一番下の横棒が泥の中に埋もれて見えなくなった。
先ほど線路部分に堆積した泥の深さの推測から、1年に1cm以上のペースで泥の堆積が進んでいるのではないかと書いたが、どうやらそれは本当のことなのだ。
木柵にはまだまだ高さがあり、これが完全に泥没するにはまだ時間がかかるだろうが、ホーム上の建物の配置などを知る手掛かりは、この10年で急激に失われてしまったといえる。
これは1番線ホームの中ほどから北上側を撮影した写真で、今回もほぼ同じアングルで撮影しているので、比較していただきたい。
写真の中で赤く囲んだ位置に改札跡の木柵があり、青く囲んだ位置には、金属の芯棒を持つ柱の基部のような出っぱりが三つある。
後者の正体はホームの一部を覆っていた屋根の柱と見られるのだが、10年前にはその左側に非常な明瞭な形で建物の痕跡が残っていたにもかかわらず、今回は全体に泥が堆積して、凹凸が分かりにくくなっている。
そのため今回の現地調査だけでは、駅本屋の形を脳内に再現することは難しかった。
一方でHAMAMI氏の写真には、駅本屋の間取りを知る手掛かりが豊富にあった。
赤い線はいくらかの予測も含めて再現した間取りである。
この手の駅舎の定番通り、内部は待合室と事務室に分けられ、待合室には玄関と改札口がある。
このような作りの駅は少なくないと思うが、事務室のホーム側にある出っぱりの形などが具体的に似ている駅をネット上で軽く探したところ、例えば北海道の上厚内駅(画像検索)は非常に似ていると感じた。
改札口の位置もばっちりである。
以上のような仲間の手助けもあって、私は件の木柵を改札口の遺構と断定するに至っわけである。
またこのほか、大荒沢停車場線のレポートでも引用しているが、道の駅錦秋湖に展示されている水没前の俯瞰写真2点も、現役時代の大荒沢駅を捉えた貴重な記録である。
見たとおりなので説明は省くが、2枚の写真の駅周辺をトリミングしたものを、以下に掲載しておこう。
もちろん、本編執筆にも活用させてもらった。
改札を背にしてまっすぐ前を向くと、正面に2本の枯木が門柱のように立っているのを見る事が出来た。
シンボリックなあの場所こそが、由緒正しい駅の正面入口に違いない。
本屋外壁と入口の間には広場があるが、現代であればバスやタクシーが待つ舗装された駅前広場。
昭和40年代以前の当地なら、自転車、カブ、リアカー、オート三輪、ボンネットバスなどが跋扈する、賑わいの駅頭であったろうか。
鉄路と道路の結節点、街の玄関口、日常と旅路の境界。
そんな“ハレ”の土地を彩るのに、日本人はしばしばサクラなどの季節ある樹を用いてきた。
この木の正体は分からないが、何れも数十年をこの地で過ごしたに違いない太さを持っていた。(近接写真)
大荒沢駅の開業は大正13(1924)年に遡るが、その当時に植えられたものかも知れなかった。
嗚呼!
私はここではじめて知ってしまった。
これらの木が、幹の途中で伐採された姿であることを!!
このことを残酷だとは思わなかった。むしろこれは、人が慈しみ親しみ育てた木に対する、礼ある姿と感じた。
街が仄暗い湖底へと堕ちていくとき、そこにある生きた木が生を保ったままで、水の手により殺されるのを良しとはしない。
人のせいで枯れざるを得なかった命ならばこそ、人の手により殺し、恨まれでもしなければ、お詫びのしようも無いではないかと考える。
私はこの風景を見たことで、これらの木がとても愛されていたのだと考えた。
(湖面を航行する妨げになったり、漂着物が集まるなど、湖底に木を伸ばしておけない理由ももちろんあった。)
8:01 《現在地》
そして駅の入口から、大荒沢集落のあった大地と道の跡を眺めた。
この駅と国道107号(平和街道)を結んでいた県道については、かつて一篇を設けるほどに愛したのであるが、遂に今回そこに足を踏み入れる機会を得た。
が!
足跡を与えることは、僅か数歩しか許されなかった。
線路の川側は一様に土地が低く、目で見る事は出来ても、人が歩むことを拒んでいたのである。
とはいえ、確実に一歩は記したのである。
水没以降、この県道跡を僅かでも歩ける機会は、今回と10年前の合わせて数ヶ月の他には無かったと思う。
切り倒されたままに横たわる駅頭の大木と、そこから始まる廃県道の行く先の眺め。
廃県道の両側に広がる低地には大きな波紋のような模様が見えるが、それは沈んだ田圃の畦である。
現代のように四角く区画されていない、昔の田圃の風景だ。
畦も泥色であることに目を瞑れば、空の青と山の緑を映す浅い水面の連なりは、田植え前の生きた田圃のようであった。
ところで、私が駅での発見を伝えるのに夢中となり、細田氏のことを語り忘れていた。
だが、この日の彼は普段以上に気合いが入っていた。
この年に鉄道友の会秋田支部の支部長となった彼は、せっかく国鉄の駅跡を訪れるのだからと、国鉄時代の駅助役の本物の制帽と、(なんとなくそれっぽい)白手袋を持参していたのである。
そして、今やこの満面の笑み!
彼の幸せが絶頂にあるだろう事は、全く想像に難くない。
8:05 《現在地》
駅のホームを踏み、改札を確認し、駅頭の県道にも足を伸ばした。
これにて大荒沢駅でのお役目は大体終える事が出来たと感じたが、蛇足にならない程度に、もう少しだけ周囲の探索の成果をお伝えしよう。
次に向かってみたのは、1番線ホームの北上寄りにある頭端式の貨物ホーム方面だった。
写真は貨物ホームを背に、改札や1番線方向を撮影したもので、先ほど紹介した駅本屋とは異なる、より小規模な建物の跡があった(リュックが置いてある辺り)。
そこには二つの水溜めのような窪みがあり、そのサイズからしても、昔の駅風に言えば「便所 LAVATORY」、現代風に言えば「お手洗い」の跡と考えられた。
そしてこれが貨物線ホームである。
広いホーム上に8m四方程度の建物の基礎が残っていたが、これは貨物上屋と呼ばれる倉庫の跡と思われた。
この複線の幅を持った頭端式ホームは北上側に開けており、このことは大荒沢駅の貨物取り扱いが、北上側を主たる取引相手と見ていたことを窺わせる。
具体的には鉱石輸送が主であったろうから、東京方面へと運び出していたのだろう。
またこの貨物ホームの端部には、コンクリート製の車止めが残っていた。
現代の駅ではコンクリート製の車止めを見ることはほとんど無いと思うので、これも貴重な遺物かも知れない。
よくて10年の1度しか見られないことは、貴重性を高めているとも思えるが、同時に省みられない理由でもある。
貨物ホームから眺める、小さくなった湯田ダム(錦秋湖)の水面。
湖上を横切る黒い影は、昭和15(1940)年に東北電気製鉄株式会社が建設し、戦後も同社が運用した大荒沢ダムである。
戦時中は空爆を避けるべく、全体を迷彩色に塗られていたという、嘘のような誠の話が伝わっている貴重な産業遺産である。
このダムの堤体も10年ぶりに地上に現れたのであるが、残念ながらこの日の水位は10年前ほど低くはなく、湖上に孤立していて地続きでは無かったから、内部の再探索は出来なかった。
なお、この方面の“泥濘大地”は、駅の敷地の外もある程度まで乾いていて、歩き回ることが可能だった。
中でも赤い丸で囲った部分には、何か“謎の物体”が見えたので、近寄ってみた。
8:08 《現在地》
なんなんだこれは?
近付いて見た瞬間は、ストーンヘンジのような古代遺跡を彷彿とさせられたが、まさかそんなものがあるはずもない。
素材としては全部木材で、中央の太い木材を囲むように、多数の細い木材が円形に植えられていた。
周囲に同じような物や建物の痕跡も見られず、ますます正体不明である。
再び1番線ホームの横手側端部の近くに来たところ、鉱山の駅らしく、煉瓦状に成形された゚石(からみいし、鉱滓を固めた物)がいくつも転がっているのを発見した。
表面は土で汚れていたが、その内側には金属的な光沢と緻密さを感じさせる赤茶けた色が見て取れ、実際に手に取ってみても、゚ならではの重量感があった。
…で、この駅で活動する時間の最後に再びホームの端へやって来たのは、細田氏の発案であった。
その目的とするところは……(↓)
タブレット交換の真似事だそうです!(笑)
細田氏が所有する本物のタブレットキャリア(内部の金属板は異なる)を手に、真摯に駅助役の業務をこなす姿が、ここにはありました。
彼の脳裏には今、幻の列車が到着しているのでありましょう。
ちょうどその頃、湖底を見下ろす現在線の高みを駆け抜ける列車の姿。
駅は街や人とともに消えたけれど、それでも鉄路が残ったことは、この地にとっての救いの出来事。
湖底にあるときも、稀に地上に出るときも、いつだってあの独特の震動や音を感じていられるのだろうから。
私はそう思った。
細田氏は去りがたく、いつまでも駅に立っていた。
またHAMAMI氏は、駅舎の消えた湖底の廃駅に改札の木柵だけが残った理由を、次のように述懐した。
駅舎の建物は全く残っていないのに柵だけが残っている不思議な光景。
駅舎に限らず民家など木造建築は後々ダム湖の漂流物にならないよう解体・撤去されるものだと個人的には思う。
そんな中で、駅員を始め、その改札を通り利用した住民の駅に対する愛着、感謝、思い。
その駅や思いを全て消し去ってしまわないよう、小さな改札の柵を一つ残したのではないだろうか。
そして、その感情を理解し、柵が残っていることを暗に容認した施工業者や県職員。
それぞれの思いが一体となって、消えゆく駅跡にたった一つに柵を残すことになった・・・。
この駅は愛されている。
本レポートを公開後、複数の読者さまより、この大荒沢駅の現役当時の描写が、内田百闔≠フ小説『阿房(あほう)列車』シリーズにあるとの情報が寄せられた。
小説のジャンルはノンフィクションで、作家本人が好きな鉄道に乗って旅をした紀行作品である。さらに調べてみると、大荒沢駅への訪問があるのは「雪解横手阿房列車」という作品で、『小説新潮』昭和28年6月号に収録されたのが初出だそうだが、『第二阿房列車』(新潮文庫)にまとめられているらしいので、これを入手して読んでみたら楽しかった(まる)
ではなく、作品の中の記述を紹介しよう。
百闔≠ェこの旅の中で大荒沢駅を訪れたのは、同駅が廃止される9年前の昭和28(1953)年、3月2日のことである。
横黒線の終着駅は黒沢尻である。この前もそこ迄は行かずに、途中の大荒沢で降りて引き返したが、今度もそうしようと思う。雪のちらついている大荒沢で下車し、帰りの汽車が来る迄、駅長事務室で時間をつぶした。今年の冬の雪の晩、横手を出て汽車がここまでやっと辿り著いたが、構内に這入ってからひどい吹雪で動けなくなり、立ち往生した。大荒沢には宿屋が一軒もないので、乗客はみんな車内で、雪に包まれて夜明かしをしたと云う話を駅長さんがしてくれた。
以上が大荒沢駅に関する内容である。
駅の構造など詳しくは書かれていないが、列車を待つ間に駅長事務室で駅長と会話し、前年の冬の出来事を聞いている。また、大荒沢の集落には宿屋が一軒も無かったということも書かれている。文字通りの寒村ということが伺えるような内容だ。
また、文中に「この前も…」という記述があるように、百闔≠ェ大荒沢駅で下車するのは2度目である。
では一度目はといえば、この2年前の昭和26年10月26日に横手駅から黒沢尻駅まで横黒線全線を往復するつもりで乗車したが、途中で計画を変更し、引き返すために大荒沢駅で下車している。
こちらは「奥羽本線阿房列車」の作中のシーンで、以下のように描写がある。
(横黒線の)全線六十粁(キロ)余りの半分より少し先へ行った所に、大荒沢と云う駅がある。どんな所だか勿論知らないが、そこで汽車を降りて、十九分待って、向うから来る七一五列車で帰って来よう。
これは全くの想像だが、全国を舞台に鉄道旅を続けていた百闔≠ェ、たまたま下車しただけの大荒沢駅へ2年と空かず(目的地として)再訪を企てたのは、氏がこの駅を好ましいと感じたからではなかったろうか。
『阿房列車』の本編中に登場する大荒沢の描写は、(おそらく)以上で全てなのだが、鉄道文学の金字塔とされる同シリーズには解題書も多く出版されている。
そしてそのうちの一冊である『「阿房列車」の時代と鉄道 (KOTSUライブラリ)』(2014年発行/和田洋著)という本に、現役当時の大荒沢駅の駅舎を近距離から撮影した写真が収録されているのを発見した。
ついに!である。
さっそくご覧頂こう。 答え合わせだ!
↓↓
これで、1番線ホーム上に残る木柵の正体が改札だったことが確定した。
また、写真の出典元である「湯田ダム建設誌」には、さらに多くの写真があるかも知れないので、引き続き調査を続けたい。
この駅を巡る旅は、まだ終わりそうにない。