何かに憑かれたかのようにただ前進を続ける私。
いつしか、後を付いてきているはずの細田氏は、そこにいなかった。
行く手には、まるで鯨の頭のような絶壁が現れた。
あの頂の向こうが木野部だが、果たしてたどり着くことは出来るのだろうか?
仄かにその存在を期待した大間線の未知なる明かり区間は、やはり幻であったのか。
そのとき、背後から叫びが聞こえた。
声に驚き振り返るも、そこに仲間の姿はない。
辺りに目を凝らす私の耳に、今度ははっきりとした声が、聞こえてきた。
なんだと、平場だと?!
彼らしい遠慮がちな主張だが、まさか、まさか大間線の遺構なのか?!
はじめどこから彼が声を上げているのか分からなかったが、「どこにいるー?」と大声で問うてみると、海岸線から少し上った緑の中らしい。
私は、慌てて岩肌を駆けずり上がり、灌木が茂る草地へと踏み込んだ。
果たして、そこに細田氏はいた!
私は、促されるようにして、彼が指さす方へ歩みを進めてみた。
これはッ?
もしや、これは本当に、本物かも知れない。
周囲の地形から考えると、はおおよそ自然にはあり得ないような平らな空間が、確かにそこにはあった。
四方を薄暗い薮に取り囲まれ、下からでは気がつけなかったのも無理はない。
細田さん! これはもしや?!
【午後1時44分 謎の平場に遭遇】
目で見ただけでは平坦であるようには見えない辺り一帯だが、瑞々しい緑に覆われた地面を歩くと、確かに平坦だ。
これほど険しい崖の中腹にありながら、足元が岩場でないだけでかなり不自然である。
しかも、細田氏が平場に“上陸”した地点を中心に、少なくとも南北に30m以上の広がりがあり、かつて道があったとしても不思議はない。
ただ、5m先も見通せないほどのもの凄い密薮であり、これが大間線と関係のあるものなのかは、まだ何とも言えない。
とにかく、もはや他に頼るべきルートもない現状である。
そもそも細田氏がこの平場を見つけた経緯からして、彼自身がもうこれ以上岩場を前進出来ないと感じて、やむなく上にエスケープした結果だというのだから、この平場が大間線の明かり区間であることに賭け、進んでみるしかないであろう。
地形図と睨めっこしてみたが、もしこれが大間線であれば前後に隧道があるはず。
その口は塞がれているかも知れないが、もし坑口の痕跡だけでも発見できれば、これが大間線跡であると特定して良いだろう。
まずは、今来た方向へと平場伝いに戻ってみることにした。
少し前、はらはらしながら通り抜けた海岸線が、足元に切れ込んでいる。
足元が薮のために見通せないので、どこまでが平場でどこからが崖なのか分かりづらく、怖かった。
一歩一歩、爪先で確かめながら、ギリギリの縁を進んだ。
しかし歩けば歩くほど、確かに不自然な地形に思える。
どれくらい南下しただろう。
酷い足場に苦労はしたが、ほんの数十メートルだったろうか。
やがて、眼前には一際険しい斜面が近付いてきた。
もし、隧道があるなら、この岩場を貫通しているはずだ。
だが、近付くにつれ、足元の感触はガレはじめる。何やら海へ向けて傾斜する斜面となってきた。
やはり、大間線は幻だったのか!
おそらく、もう数歩あるけば、答えは出るだろう。
その瞬間にどんな景色が目の前に飛び込んでくるのか、私は、心した。
「ズガーーン!」
私は、そこにコンクリートの坑口を見つけてしまった。
「細田さん!」
振り返ってそう急き立てた、私のただ事でない様子を見て駆けつけた細田氏が、突然耳元でそう叫んだもんだから、私は驚いた。
彼の場合、「キター」ではなく「ズガーン」なんだな。
そんなどうでも良いことを今になって考えているが、これを発見した瞬間の我々の精神状況は、確かに正常ではなかった。
特に、細田氏は私の興奮の遙かに上を行く、いつもの細田氏ではない細田氏だった。
だが、細田氏の異常な行動はこれに留まらなかった!
私が、細田氏の突然の叫びと隧道の発見に呆気にとられているなか、
細田氏はおもむろに坑口前に積み上がった瓦礫の山をよじ登ったかと思うと、
振り返るやいなや海に向かって仁王立ちの姿勢となった。
両腕は腰、頭にはいつもの海軍帽。
そして、
ばんざーい!
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ちょっとうるさいレポになってしまったかも知れないが、許してほしい。
この坑口の発見の瞬間のボルテージは、確かにここ数年でも最大級の高まりを見せていたと思う。
我々が遭遇したこの場所は、これまで多くの書籍などにもまったく未知であるかのように書かれていた部分で、また実際に、たどり着くのにも苦労したので、その達成感と感激はひとしおどころか、ビッグウェーブそのものであった。
しかも!
なんと反対側は塞がれている筈の隧道が、口を開けているのである。
まさに、埋めた人たちでさえ「まさか此方から接近する奴はいないだろう」と思ったに違いないのだ。
不謹慎な言い方だが、「してやったり」 そんな気持でいっぱいである。
そのような状況から来る感動の大きさに比して、坑口自体のデザインはあまりに凡庸である。
だが、そのことさえ、神ですら見落とした空間に自分たちが居るような、得も言われぬ興奮に繋がったのである。
【午後1時49分 木野部第一隧道へ進入開始】
坑口は、半ば瓦礫の山に埋もれていた。
果たしてそれが自然の崩壊によるものなのか、或いはこちら側の坑口も埋め戻そうとした名残なのかは、分からない。
しかし、どちらにしても、残された開口部は狭く、やがて崩壊が起きれば容易に消滅してしまいそうである。
我々は、瓦礫の斜面に滑り込むようにして、行き止まりの隧道へと、進入した。
坑口付近の内部には外から流れ込んだ泥が厚く堆積している。
また、驚いたことにそこかしこには足跡があるではないか。
我々が工事中止後最初の訪問者なのではないかなどと、あり得ない妄想を抱きかけていたが、それは誤りだと気付かされた。
だが、ここにある足跡は、果たしてどこから来たのだろう。
隧道内部という風化しにくい特殊な環境では、何年どころか、十年も二十年も昔の足跡が残る場合があると私は考えている。
ここにある足跡にしても、隧道の外の景色とはどうしても釣り合わない数である。
私は、これらの足跡の全てか或いは一部分は、隧道の埋め戻し工事に関わるものや、それ以前のものではないかと考えている。
隧道は、まだ見ぬ第二隧道と共に、確かにバス道路として利用されていた。
この探索の数時間後に、木野部集落の古老から直接聞き取りを行ったので間違いない。
そして、本の記述や様々な証言をつなぎ合わせると、昭和48年頃に大間線工事跡の一連の隧道は塞がれたと考えられるのだ。
おそらく、この木野部の隧道群も、その頃に塞がれたのだろう。
山側の内壁下部に設けられた水抜きの穴からは、水が勢いよく噴き出していた。
海岸線に近い場所にもかかわらず、大量の出水が今も続いているようだ。
『鉄道廃線跡を歩くV』によれば、この隧道は工事中にも事故が多発し、労働者の犠牲者が大勢出ているとのこと。今回の我々の聞き取りではその話は出なかったが、確かにこの出水量を見る限り、困難な工事だったに違いない。
なお、現在は塩ビのパイプが各水抜き穴に取り付けられている。
このパイプは、塞がれた大畑側坑口のコンクリート隔壁の下から外へと排水しているようである。(大畑側坑口での大量の湧水を思い出してほしい)
おそらく、このパイプの設置も隧道を塞ぐ時に行われたのだろう。これをやらないと隧道内に大量の水が溜まり、決壊する畏れがあると考えたのだと思う。
確かにもの凄い勢いで水が噴き出している。
『鉄道未成線を歩く(国鉄編)』によれば、この隧道の延長は260mあることになっている。
おそらくは直線に近い隧道の筈だが、やはり出口の明かりは見えない。
我々が一時間前に見た塞がれた坑口に繋がっているのだろう。
近隣の人たちが大間線開通を心待ちにする中、この隧道が竣功したのは昭和17年の8月頃である。
首都から遠く離れたこの地でも、確かに世界戦争の足跡は近付いてきていた筈だ。
難所に隧道を穿ち克服したと思われた矢先の翌18年3月には、大間線全線の工事中止が突如発せられ、さらに終戦の年には要塞のあった大間の町は米軍機の爆撃を受け死傷者が出ている。
坑口から100mほど進むと、大量の湧水のせいで洞内は水没をはじめている。
その水底に一枚のお菓子袋が沈んでいた。
サンリツ ビスケット のれん
そういう商品だ。
三立製菓株式会社のWEBサイトを確認したが、情報はなかった。
三立は大正10年創業の老舗で、少し年配の方には大変お馴染みのカンパンやかにぱんのメーカーとして、最近ではチョコバットや源氏パイがメジャーである。
私も源氏パイには大変お世話になっている。
この「のれん」という商品は、パッケージの文句によれば「せんべいビスケット」とのことだが、ちょっと想像できない。
製造年月日は不明だが、値段が「¥20」とあるところからも、結構古いものだと思う。
まさか、昭和40年代にここを通った村人が捨てていったものか?!
入口から遠ざかるほどに足元の泉は深さを増していく。
すぐに長靴よりも深くなり、最後には膝丈ほどの水深となった。
どこまでも透き通った清水が、山側の壁の所々から渾々と湧き出していた。
隧道は掘削途中だという話しもあったが、それは間違いだった。
コンクリートですっかりと巻立てられ、所々に待避坑がある隧道内部の様子は、水没さえなければ、最近に完成したようにさえ見える。
戦前の完成などとは、とても信じられないほどに、よく整っている。壁もまだ白く美しい。
少し手を掛けてやれば、今も鉄道の隧道として何不自由なく使うことが出来るに違いない。
なんと、塞がれている坑口にも、僅かだが隙間があった。
微かに外の光が漏れ入ってきている。
コンクリートで塞がれた大畑側坑口の裏側である。
小指の先ほどの幅だが、外の光が通じている。
我々は、この坑口が間違いなく最初に見たその坑口であることを確認するために、隧道内部の水を両手で掬うと、それを勢いよく隙間目がけて投げ掛けた。
それを10回くらい繰り返し、壁の内側がかなり水浸しになった。
後ほど、実際に外から再び坑口を確認したが、確かに濡れていた。
間違いなく、これが木野部第一隧道の全容である。
難所、木野部峠には、いまから60年以上も昔にそれを克服した隧道が、使われぬまま、確かに存在していた。
我々は、この最高の発見に大満足して、閉塞壁を意気揚々と引き返した。
だが、「第一」があったということは、この3倍以上、全長860mという「第二」隧道の存在が俄然信憑性を帯びてくる。
或いは、第二隧道も口を開けているのだろうか。
次回は、いよいよ大間線最長隧道の真実が、 明かされる!
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