釣屋浜・木野部間に立ちはだかる木野部峠の未成線跡に、残された未踏査区間はあとわずか。
木野部駅が予定されていた木野部集落から、封鎖されている木野部第二隧道坑口まで700mほどである。
うち、200mほどは未成線跡を利用した町道となっており、踏査区間はその先より始まる。
大間線最大の謎・木野部峠のレポートは今回で最終回!
釣屋浜・木野部間に立ちはだかる木野部峠の未成線跡に、残された未踏査区間はあとわずか。
木野部駅が予定されていた木野部集落から、封鎖されている木野部第二隧道坑口まで700mほどである。
うち、200mほどは未成線跡を利用した町道となっており、踏査区間はその先より始まる。
大間線最大の謎・木野部峠のレポートは今回で最終回!
国道279号線木野部峠を急坂で下ると再び海が右手に近付いてくる。
坂が緩やかになるあたりがかつて大間線と国道が交差していた部分だが、特に痕跡はない。
付近には海岸沿いに南下する市道が分かれており、この道に少し入ると砂浜を取り囲むように連なる民家が現れる。(写真のシーン)
木野部集落の一部である。
写真右側の一段高い平場が大間線跡で、市道が重なっていく。
奥に写っている路上駐車のあたりで市道化した部分は終点である。
市道は集落内で小さな沢を跨ぐが、大間線の暗渠をそのまま利用していた。(写真奥のアーチに注目)
この橋のすぐ南で鋪装された市道は行き止まる。
我々は終点に車を置き、木野部峠の直下にある塞がれた第二隧道の坑口を探しに入山を開始したのである。
ただ、見るからに薮は深かったので、海岸線を始めから迂回することにした。
【午後3時44分 木野部集落より探索再開】
私は、もはや木野部峠にこれ以上の遺構があるとは思っていなかった。
坑口を確かめると行っても、比較的容易に発見できるだろうと思っていた。
地形図にも、点線とはいえ坑口までの路盤跡が記されており、問題はないはずだった。
そんな油断もあって、私は濡れた靴に再び足を通すのが嫌でビーチサンダル履きのまま車を出ていた。
時間が押していたので少し先を急いでいた私の、だいぶ背後で、細田氏がおばあちゃんに捕まっているのが見えた。
帰り今度は二人揃ってお話を伺うことが出来たのだが、この人物こそがこれまで何度もレポに登場している「木野部の古老」その人である。
たいした期待もせず浜に一人で浜に降りた私だったが、早速にして興味深い発見をすることになる。
弓なりに続く砂浜の山際に、巨大な箱形の鉄屑が放棄されている。
かつて窓だったと思われる部分から中を覗き込むと、内部も朽ち果てており、塗装の一部さえ残っていない。
しかし、鉄は分厚く、相当に頑丈な造りであったことが想像される。
さらには、正面に回り込んでみると、そこには、ヘッドランプを取り付けていただろう凹みまであるのだ。
すぐ傍にも、もう一台。
私は、これらが鉄道の何らかの車輌(工事車両?)の残骸なのではないかという疑念を抱いた。
その答えは、我々の帰還を迎えてくれた古老の口によってもたらされることになる…。
!!
木橋の残骸である……。
鉄屑の背後のハマナスの茂る山裾には、大量の木材が散乱していたが、よく見ると、それらは間違いなく木橋の残骸であった。
錆びきって痩せ細り、ただの棒きれのようになった鉄のねじが無数に見られた。
これも、倒木ではない。
先端の部分には、多数の鉄ネジが露出しており、薮の中にある木橋残骸に繋がっている。
自然木を使ってはいるが、橋脚の残骸であろう。
背後には、赤茶けた鉄屑も写っている。
これらの木橋が、大間線跡に架けられていたものだったことは間違いない。
ただ、いくら戦中の資材に乏しい時期だからといっても、木橋を本式の鉄道に架けたのかという疑問が湧く。
穏やかな砂浜の終わりが近付くと、木野部断崖は再び我々に牙を剥く。
そして、地形が険しくなると共に、ここに造られた未成線跡もまた、その姿を鮮明に見せ始めるのである。
山肌に続く巨大な石垣、そして、立ち並んだ橋脚。
それらの延長線上にも、微かだがラインの様なものが見える。
となると、隧道の位置はあそこか!
メロドラマばりに砂浜を猛ダッシュで掛けてきた細田氏と合流した私は、ビーチサンダルに包まれた足に力を込めた。
石垣の一角に、まるで隧道の様な暗渠を発見した。
これまで大間線で目撃した全ての遺構の中でも、もっとも自然による風化が著しい印象を受ける。
とくに、構造が複雑な石垣の屈曲部分については、崩壊の度合いが大きく、暗渠のアーチ自体は健在なれども、全体的には廃墟の印象が強い。
オオイタドリの猛烈なブッシュに覆われた築堤上を、かつて鉄道の代わりに、一般の車やバス、自転車も歩きの人も通行していた時期があるはずだが、足元の暗渠を気にとめる者がいただろうか。
暗渠はかなりの奥行きがあり、反対側に向かってだいぶ登っている。
反対側までくぐってみたが、特に内部は問題ない。ただ、出てもどこにも行き場はない。
暗渠内の底部は弓なりに凹んでおり、そこを透明な水がさらさらと流れている。
流れ出た水はそのまま砂浜を蛇行して、打ち寄せる波と一になっていた。
地図には記載のない、木野部峠から流れ出る小さな沢である。
暗渠も鉄道構造物の台帳上では橋梁として管理されているもので、この暗渠にも何々橋梁といった名称も与えられていたはずだが、もはや知る術は無いかも知れない。
これまで大間線跡で見た中では最も大規模な石垣である。
浜に沿って、おおよそ100mほど続いている。
地面から1mほどの高さに横一文字の亀裂が走っており、二度にわけて築造されたものであることが分かる。
下部は直接海水に触れる事も考え、構造に何らかの工夫が成されているのかも知れない。
そして、この石垣が途切れると、今度は巨大な橋脚が連なっている。
これまで殆ど知られてはいなかったものの、この海岸線に架けられる橋は、大間線有数の橋梁であったものと想像させる。
目立つ橋脚は二つだけだが、近付いてよく薮の中をうかがってみると、等間隔に5本の台錐形のコンクリート橋脚が立ち並んでいることが分かる。
橋脚の形状からして、ここにはお馴染みのアーチ橋ではなく、鋼鉄製のガーダー橋を設けるつもりだったのだと思われるが、重要なことは、この橋が最後まで竣功していなかったという証言を得たことである。
これも木野部の古老に聞いたことだが、バスがこの未成線跡を道路として利用していた当時から、この橋脚はこのように、橋桁のない状況だったというのだ。そして、ただの一度も橋桁が乗せられたことはないだろうという。
ではバスはどこを通っていたのかという質問には、この橋を迂回するように山側に桟道を設けていたというのだ。
現在は、近寄ってみても分かるとおり、迂回桟道の痕跡は消え失せているようだが、おそらく先ほど近くで目撃した木造橋の残骸もまた、鉄道用ではなく、車の通行のために施設されたものではなかったか。
山行がは再び新事実に行き当たった。
昭和17年3月に竣功したと伝えられてきた同区間だが、まだ明らかな未成工事が存在していたのである!
と、ここまでは期待通り順調な進展。
だが、“傍観者”でいられたのはこの辺りまでで、やがて海岸線は飛び石も無くなり、徐々に高度を上げる路盤跡との高低差は決定的になりつつあった。
坑口跡を確認するためには、やはり薮へ分け入り、路盤跡をある程度歩かねばならぬのだ。
……だが、私の足は青いビーチサンダル……。
我々は結局、この写真の崖をよじ登って路盤を目指すことにした。
ここはかなり大規模な崩壊地で、しかもまだ崩れてからそう経っていない様に見える。
古老が言うには、もともと隧道の木野部側は落石や崩壊が多く、バス道路が廃止された直接の引き金も、この付近の大規模な崩壊にあったという。
さもありなんと思わせる、大崩落である。
きわめて当たり前の事象ではあるが、やはりビーチサンダルで土の崖を登るのは得策ではなかった。
特に、地肌とサンダルとの間だに泥が侵入してからの滑りッぷりは酷いもので、靴の裏のグリップが良くない以上に私を何度も滑落させしめた。
一度など、3m以上もずりずりと這い蹲った姿勢のまま滑り落ち、そのまま海岸の岩場まで墜落するかと戦慄した。
泥に濡れたビーチサンダルは、足と靴、靴と地面という、2層の潤滑面が存在する、いわばピラミッド作りの知恵・モアイ像作りの知恵とも言われる、“コロ”を装着しているかのようだった。
大間線の険難さと無縁ではないとはいえ、ビーチサンダルに探索を諦めたとなっては末代までの恥とばかり、ムキになって登ったざまが、この足(左写真)である。
どうにか20mほどの斜面を登り切ってたどり着いた路盤跡。
……のはずが、上も下も崩壊地のまっただ中ゆえ見晴らしはいいものの、どこが路盤なのか分からない有様。
崩壊地の前後は共に猛烈な薮であり、背の丈ほどの緑の中に何もかもが隠されている。
とりあえず、先ほど見た橋脚の高さから、路盤の高さを大体想像し、あたりを付けて南下してみることにした。
そんなに捜索範囲は広くないので、やがて何かを見つけられるだろう……。
ビーチサンダルで藪漕ぎ……。
写真は、崩壊地から振り返った木野部の浜。
遠く弓なりに海岸線が続いているが、次の突起である甲(かぶと)崎までは靄がかかり見えない。
天候に恵まれれば、おそらく海の向こうには北海道の陸地が見えていたはずだ。
嗚呼、 またしても始まった激藪。
しかも、今度は僅かな踏み跡さえ見当たらない。
低木と下草の濃密な二層構造となったまるでジャングルのような薮の足元には、草に隠れて見えないが大小の岩石が散乱しており、この地が崩壊を繰り返してきた歴史を見るようだ。
距離はないはずだが、10歩が何百メートににも感じられる、苦痛の道行きだ。
露出した足に、瑞々しい葉っぱが直に触れる。
(注:蛇や害虫などに喰われるのが嫌なら、山歩きはサンダル厳禁!)
空を覆う木々が晴れ、一層豪勢なオオイタドリの群生が行く手を阻んだ。
ここも、そう古くない崩壊地らしい。足元が痩せている。
滑り落ちればそのまま海の藻屑だ。
霧雨が海風に舞い始めた。
靄が海霧と一体化し、振り返れば見えていた村も、既に見えなくなっていた。
再び孤立する我々。
目指す隧道は、どこなのか。
木橋だ!
我々は、薮の中に桟橋状に架けられたままに残る小規模な木橋を2つ発見した。
いずれも渡ることは辛うじて可能だが、いつ崩壊してもおかしくない痩せっぷりだ。
鉄道用に設置されたものだとしたら奇想天外だが、おそらくこれもまた車道時代の置きみやげなのだろう。
釣屋浜〜木野部間には、ここを含め何箇所か未完成を匂わせる箇所があり、もしかしたら橋梁の設置を見ぬままに工事中止命令が来てしまったのかも知れない。
……あった。
薮を掻き分け進んだ我々は、遂にその場所を突き止めた。
不可思議な“L字型”の擁壁が築かれた場所にたどり着いたのだ。
Lの字の短い辺はコンクリート製、長い辺は丸石の石組みである。
足元には小粒の採石が短辺を頂点にするように山なりに積み上げられており、この直下が埋め戻された坑口である事を示している。
1mほど掘り返せば坑口の上端部が現れるはずだ。
地形図には一応記載されている道が、これほどまでに荒れ果て、もはや道の体裁を少しも持っていないとは、思いがけぬ苦労をした。
【午後4時15分 木野部第二隧道 木野部方坑口位置特定成る】
しかし、同じ時期に同じ工法で建設され、同じような末路を辿った遺構でありながら、それが置かれた自然の環境の差異によって、これほどまでにその様相は異なるのかと驚かされる。
かたや、いかにも未成線を匂わせるコンクリートの白々しい坑口。
一方、薮と土に埋もれた此方は、まるで発掘調査を待つ遺跡の断片のようだ。既に自然と同化している。
埋め戻しという行為が、隧道の隧道たるアイデンティティをどれほど崩壊させるのかという、好例と思われる。
……と、これは些か擬人化が過ぎる考え方か。
我々は、この発見に満足すると共に、遂に木野部峠の全遺構を確認し得たと自覚し、峠を後にすべく踵を返したのである。
二人の前には、再び苦難の薮が待ち受けていたが、気持は弾んでいた。
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ちょっとだけ!ヨッキれんの宣伝。
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霧雨に追い立てられるようにして、道とも知れぬような薮から転げ出てきた我々を、清楚な海岸線が癒す。
振り返れば、すでに絶海の孤島のように霧に浮かんだ木野部(きのっぷ)岬。
ここが、本州最北の未成線遺構であることを、強く意識させる光景であった。
我々が背を向けると、ますます霧は深くなり、やがて岬は完全に視界から消えてしまったのである。
最後に、まるで我々の帰りを待つかのように軒先に佇んでいたおばあさんへ、我々がこの地で見た物を披露した。
そして、そこではこれまで本編でいくつも述べたような、重要な証言が得られた。
合わせて、砂浜に放置された、まるで鉄道車輌のような鉄屑の正体が、何十年も前に棄てられた漁船の残骸であったことも判明。
長年の放置で船体は完全に消滅しても、操舵室だけが残ったらしい。
我々は、木野部峠の全てを見続けてきたかのような老婆に、最後には深々と礼をして車へと戻った。
【午後4時43分 木野部峠の探索を終える】
大間線にとって、木野部峠越えはわずか2kmほどの道程で、しかもその半分以上が隧道ではあったが、我々の探索はしめて4時間を要した。
町道の終点に停めておいた車へたどり着き、いよいよ発進という時、それまで気が付かなかった物に、気が付いた。
そして、その発見が、この壮大な木野部峠の物語を、“かつてない異様な後味” で “どぎつく味付け” したのである……。
出来れば、気が付かない方が、幸せだったと言えるだろう。
この先き、はいるな、見たら
手、足切る
我々がゾーッとしたのは、言うまでもない。
しかも、同じ文句が辺り一面の至る所に書き記されている。(右写真の赤い旗には全て書かれている)
スペースが小さい場所には、ただ「手足切る」とだけ書かれており、これを書いた誰かの意図は、入るな!よりもむしろ、手足…のほうにあるのかと思わされる。
傍らにひっくり返して立てられた箒は、「帰りなさい」を暗喩する行為だとも…。
最後の最後、大間線とは直接関係のないこの発見。
レポートで紹介するかどうかもかなり悩んだのだが、今後の訪問者によって不要な住民とのトラブルが起きる事は私の意に反するところなので、注意を喚起するために紹介することにした。
皆さんはどうか別の場所に車を停めて探索してください。
くれぐれも、町道終点から直接大間線遺構の築堤に踏み込まないように……。
なんとなく、後味悪いまま…
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