大間線〈未成線〉   釣屋浜〜木野部間 その4

公開日 2006.06.15


 脱出なるか!?

 大間線最大の難所である木野部(きのっぷ)峠に穿たれた2つの隧道の実在を確認、今まさに、その最後の出口へ接近せんとする我々。
 このとき、釣屋浜の海岸線を出発してから既に100分を経過。
探索開始時点では快晴だった空には、徐々に灰色の大きな雲が集合し始めていた。

 我々の行く手に、再び空は現れるだろうか。



 数十年ぶりにネットという白日の下に曝された、木野部第二隧道の中間付近にある2つの並んだ横穴。
木野部の古老曰く、“めがね”だ。
彼女は、もうだいぶ昔の話だと前置きをしながら、バスの車窓から何度もこのめがねから漏れ入る光を見た記憶を語った。

 【午後2時28分 横穴から再び隧道へと戻る】



  やばい!

  やばい! やばい!

 “めがね”から隧道に戻ってさらに北上を開始した数秒後、ほんの数歩歩いた時点で、私には何百メートルかは先だろう“終着地”の情景が、ありありと見えた気がしたのである。

 ……ヒントは、この写真の写り方……。

ピンと来たあなた、 …穴経験ありオブローダーですね……?



 ここからさき、もう、
フラッシュ撮影は使えない。

 フラッシュを無効にして、代わりにスローシャッターにする。
撮影された画像はそのまま見ると真っ暗の闇に過ぎないが、画像処理ソフトで最大限に明るく加工すると、手持ちの照明の明かりによる、左のような画像が得られる。
かなりノイズが目立つとはいえ、湿気や埃、自身の吐く白い息などで旨く写真が撮れないと言う場面では、このような撮影は常套手段だ。
 ちなみに、実際の探索時に肉眼で見る景色は、フラッシュを焚いた撮影で得られた景色よりもむしろ、このような明るさ、見え方であることも付け足しておこう。



 猛烈な湿気が白い霧となって洞内に充満しており、呼吸することで肺がその白い気体で充たされるのではないかと錯覚するほどだ。
相変わらず真っ暗な空間は先へと続いてはいたが、結末はもう予感されている。
この白い気体が全てである。
 僅かな光に照らし出された山側の内壁には、1m四方ほどがの崩壊が2箇所あって、地山にまで届いてはいないが、おそらく粗悪な品質のコンクリートが使われた事による経年劣化だろう。
本来の目的には使われることのないまま、隧道自体の崩壊が始まっている実情を見た。

 200メートル、300メートル……、
徐々に歩幅も大きくなり、予感された結末をいち早く捉えんと視線は闇を泳ぐ。
隧道はそれを拒むように、長い、長い左カーブを始めた。
手持ちライトが照らし出すは、歩けども歩けども、しばし、外側の壁となった。



 SF501の白い明かりが足元の近くを照らし出す。
その数十メートルも遠方をオレンジに浮かび上がらせるたのは、細田氏の持つ通称“百万カンデラ”。
その名の通り、1000000カンデラの光量を公称するバッテリー式の照明である。連続灯光45分前後というのが心許ないが、我々の隧道探索ではいざというときの頼りだ。

 で、その百万が照らし出したものは……。




   ……終点。


 残念ながら、隧道は木野部の出口側でもしっかりと塞がれており、外界への接点は無かった。

 木野部峠の一連の隧道群は、それぞれ集落に面した側だけをコンクリートで厳重に塞ぐという、きわめて合理的な手段によって決着していた。
だが、この二本の隧道を除いた大間線跡の他の隧道のほぼ全てが、両側ともコンクリで塞がれている状況から考えると、やはりこれらの隧道の中間である明かり区間をわざわざ探して、そこから隧道内部へとアプローチするような奇特な行為は、管理側の「想定の範囲外」だったことが窺えよう。



   閉塞壁付近の模様。

 天井には環状の大きな亀裂があり、そこから止めどなく地下水が降り注いでいる。
吹き出していると言っても良い量だ。
亀裂を辿っていくと、側壁のあたりでは太くて黒い木の根が、二本、洞内へ侵入し、そのまま重力に任せて地面へと吸い込まれている。

 そのいずれも、ここが坑口からきわめて近い場所であることを暗示しているようだ。



 我々を思わず色めき立たせた、最後の壁の下の方に取り付けられた、小さな朽ちた木製の扉。

 まさか… まさか?!



 だが、結果は見えていた。
そんなに薄っぺらな木の扉なら、外の光が漏れ入らぬ訳がない。
こんなに湿気に洞内が曇ることもないのだ。

 案の定、木の扉の隙間の向こうにも能面のようなコンクリートの壁が控えており、扉自体はびくりとも動かなかった!

 これにて、木野部隧道群の捜索及び洞内探索を完了する。

 【午後2時34分 木野部第二隧道最深部にして最浅部より 帰投開始】



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 もうひとつの 帰路


 今一度隧道全体を振りかえって見る。
木野部第一、第二の両隧道は共に、海岸線の絶壁を穿っており、第二隧道の中程には横穴があるなど、全体的にそう深くない地中を貫通する。
第一隧道は直線であり、第二隧道はほぼ直線だが木野部側に緩やかなカーブが続いていて光は通さない。
残念ながら、現状ではそのいずれの隧道も片口を塞がれ、通り抜けは不可能である。

 写真は、カーブの起点付近から第二隧道の開口部を振り返る。
途中に見える明かりは横穴で、横穴はほぼ中間地点にあるようだ。


 これまで何度もその発言を紹介してきた「木野部の古老」であるが、他にも、この隧道にまつわる“生きた”証言が、ここよりさらに5kmほど北上した下風呂(しもふろ)地区でガソリンスタンドを経営する男性によってももたらされた。
 彼が子供だった頃には、現在は完全に塞がれている下風呂一帯の隧道群も全て開通しており、良くその中に入って遊んだという話し。
そして、大人になり車の免許を取ってからは、実際に自分の運転する車でこの木野部隧道を通ったという話しも。

 それによれば、やはりというかなんというか、この隧道は車がすれ違えないし、カーブしていて反対が見通せないので、予め入口でライトをハイビームにして、さらにクラクションを鳴らしてから、対向車の無いことを確かめて進入する暗黙の決まりになっていたという。

 この道、従来言われていたバスだけではなく、普通に生活道路としても使われていたのである。
また、やがて廃止された経緯は、古老の語りに戻り、「崩壊」のためだと言う。
木野部側の取り付け部分が崩れた事が発端だったようだ。
そして事の前後は不明だが、おそらくその頃には遠回りだが安全な現在の国道が開通しており、未成線利用の非公式道路はひっそりと廃止されたのであろう。



 第二隧道の鑿跡がびっしり残る岩場の脇には、おそらくは工事用道路としてくり抜かれたと思われる通路の跡がある。
坑口前に飛沫を散らす滝壺を経由し、対岸の路盤へと通じていたのだろう。
対岸側は一面の草付き斜面である。
おそらく、海岸線を付き固め、石垣を設け、ここに暗渠(今はない)が設置される前には、このような岩盤をくり抜く難路さえ拓かねばならぬほど、足元ギリギリまで海が接していた、断崖の一角であったと想像されるのだ。

 ここで、細田氏に促され長めの休憩。
その間私は、視距確保のため、路盤上の刈り払いに精を出した。誰の役にも立たぬと思うが……。



 さて、難題だ。

 来た道とはいえ、またこの断崖へと自ら戻るのには勇気が要る。

 あんなに晴れ渡っていた空も、いまや全体に鈍色となって、大畑の町並みや港が霞んで見えた。
雨が来るのかも知れない。
退路を急がねば。



 間もなく、感動の舞台、絶叫の地、第一隧道へと帰還。
この辺りから、海岸の岩場へと下るルートを探したが、かなり急で、しかも分厚い草付きのために足元が判然とせず踏み切れない。
やはり登ってきた場所を探して下らねばならぬかと踵を返しかけたとき、まだ見ぬ、僅かな踏み跡のようなものが、隧道を迂回するかのように坑口の左へ続いているのを見つけた。

 もしや、工事用の歩道の名残か。はたまた杣道か。
来た道を戻るよりは見所ありと考え、我々はこの小径に足を踏み入れた。



 写真からは、とてもそこが道であるようには見えないだろうが、歩いてみれば微かな地面の凹凸や草付きの様子から道だと分かる。
そんなレベルだ。
もともとが車の通るようなものでは到底無く、あくまでも、人が通うのみだったろう。
海岸線の絶壁と、隧道が潜り込んでいる急な山斜面との隙間に、僅かな緩斜面を見つけては、そこを繋ぐよう上下の移動も細やかな小径が続いている。
これでも、海岸の岩場よりもだいぶマシ。
濡れないし。



 だが、この迂回ルートもまた、切り立つ断崖の恐怖から無縁ではない。
むしろ、かなり高い位置まで登る箇所もあり、そこではこの写真のような、絶景と出会うことになる。
来たときは、この足元の岩場をどうにかこうにか、潜り抜けてきたのである。
下を通りながら、険しさを避ける何らかのルートがどこかに存在しないのは不自然だと、内心思っていたが、確かにルートは存在していた。



 やがて、ルートはピークを迎える。
おそらく、遙かな太古に下北半島を作り出した大噴火によって、この赤茶けた溶岩が木野部の海岸線まで流れ、大断崖を形作ったのであろう。
今も半島中心部には恐山という、噴気を上げる火山がある。
 海岸線から50mくらい高いこの位置まで小径は登り詰め、ビルのような巨石の下を潜ってから、釣屋浜の穏やかな浜辺へと急激に下っていく。


 

 そして、その岩陰にも削られた痕跡が確かに残る。
やはり、この道もまた、古く人の往来した道だったのか。
或いは、大間線の工事がもたらした、ひとときの道であったか。

 それを確かめることは、もう難しいかも知れない。



 距離にして木野部第一隧道の迂回ルートはほんの300mほど。
予めその存在を知っていれば、行きでも間違いなくこれを使っただろうが、それは無理というもの。
現に、釣屋浜側の登り口からして、その場に立ったとしても判別は不可能なほど。
細田氏が下っている斜面に道形があると言っても、とても信じられまい。
このルートは、こちら側からでは見つけられない!


 【午後3時21分 釣屋浜のデポ地へ帰還】






 最大の懸案であった木野部峠の隧道群については、その位置や現状などについて、かなり詳細に判明することが出来た。
だが、これで本当に木野部峠の捜索を終えていいのだろうか。

 そこに、その存在を強くイメージすることが出来た第二隧道の木野部側坑口であるが、その外部からの姿をまだ見ていない。

 レポとして蛇足になるやもしれぬが、これはやはり、行かねばなるまい。
木野部集落から、木野部第二隧道坑口までの、地形図上でも点線で描かれている、その道へ!



 木野部峠の国道 


 我々は約2時間半ぶりに車に戻った。
まずは濡れた下半身の装備を取り替える。
細田氏は、どうせまた濡れるからと、そのままにするらしい。
細田氏の“濡れ”についてはここではとても書けないような逸話もあるが、それはいいとして、小休憩の後、国道の木野部峠を越え木野部集落へと向かった。
峠はだいぶ改良されているが、まだまだ狭い部分も残っている。
 また、この峠道のどこかに、最近になって地元有志が「大間線木野部トンネル跡」の碑を記念に設置した、との記事を、どこかのWEB新聞で読んだが、確認には至らなかった。(というか、余り新しい標柱とかに興味が湧かない。実際の隧道の位置とも違うようであるし。…失礼。)



 間もなく、我々は木野部側の国道と町道の分岐点へ着いた。
ここから、後ろ方向へ分かれていく町道こそが、大間線の路盤を再利用した町道である。
木野部集落の中を通って、かつては鉄道の代わりに車やバスが通っていたという、木野部峠の隧道へと続いている。

 塞がれた隧道が終点の道…… その前途は、おそらく、多難だ。



 カーチャーン おかわり!

 もう一話追加で、次こそ “戦慄”の最終回。