我々は、びしょ濡れて重くなった下半身を引きずるように、外へと戻った。
隧道出口の閉塞壁のすぐ外には、海鳥が遊ぶ平和な海岸線や長閑な漁村が広がっているのは分かっていたが、嫌でも我々は絶壁の世界へと戻らねばならなかった。
この先、おそらく現れるだろう更なる隧道(第二隧道)を突破し、木野部へと通り抜けを完遂しない限り、またあの困難な海岸線を戻るしか無くなるだろう。
さて、想定される木野部第二隧道であるが、『鉄道未成線を歩く(国鉄編)』によれば、延長860mと長い。これは大間線に予定されていた隧道の中では最長である。
そして、この第二隧道は、おそらく大間線遺構として最も謎に包まれた存在である。
内部の状況はもちろんとしても、そのいずれの坑口でさえ、いまだネットや誌面上に紹介されたことがないと思われるのだ。
第一隧道でさえ、塞がれた坑口だけではあるが、その姿は以前からよく知られていた。それと比べても、第二隧道の神秘性は群を抜いている。
そして、いま我々は遂に、その神秘を白日に曝す、最大の機会を得たのである。
おそらく、いま足元にあるこの平場を辿れば、やがて第二隧道は現れざるを得ないだろう。
我々が、最初の目撃者になるのだ! (これは明らかに大袈裟だが、本当にそんな興奮に包まれていた。)
【午後2時05分 第一隧道を発つ】
第一隧道坑口から見た鉄道路盤跡の様子。
60数年前には、もうレールが敷かれるのを待つだけの真新しい道が、ここに確かにあったのだ。
この直線上に第一隧道を確認した今、自信を持ってそう断言できる。
余りにも、変貌を遂げてはいるが、これとて60年間ただ放置されていた姿ではない。
昭和40年代後半までは、鉄道の代わりにバスがここを通っていた。
自然の快復力の凄まじさを思い知らされるようだ。
細田氏が最初に平場と遭遇した地点を経て、再び薄暗い森の中へと入る。
しかし、この森は、本当に鉄道路盤分の幅しかない。
右に数歩行けば海へとせり落ちているし、左へ行けば苔生した岩場が木々の天井を突き破っている。
こうして見ると、これは明らかに平場、いや、平場どころか、間違いなく、道の跡である。
廃道の姿である。
しかも、うっすらとだが、森の中には草の薄い部分が続いており、古い踏み跡のようだ。
木野部峠に初めて車道が通ったのは、地形図を見る限り戦後かなり経ってからである。
木野部集落の古老の話では、かつての木野部峠越えは現在の車道よりもさらに山側の、とても険しい道だったという。
冬期ともなれば陸上交通は殆ど途絶しただろう。
そんな時、戦時策の絡みもあってもたらされた大間線工事に対する、村人達の期待は大きかった。
結局鉄道は通らなかったが、残った道は決して無駄にならなかった。少なくとも、この木野部では。
未成線はすべからく無念なものではあるが、一時期でも役に立ったのだと知ったとき、、いくらか救われた気がした。
足元には小さな水路が道を横断している。
そこには枕木のような木が何本も渡されていた。
本来の鉄道工事によるものなのか、車道化したときのものかは分からないが、これも道の痕跡の一つだ。
森の中の路盤跡は、踝までずっぽりと沈み込むほどに泥が深く、まるで湿原のようだった。
時期が良かったのか海沿いのせいか、不快な蚊や虻がいないのには救われた。
くわッ!
出現の瞬間、我々は揃って目をひん剥いた。
両鼻穴を全開にし、口を尖らせ、両腕はわなわなと震え、脚は直立。
こ、ここ、こうもん!
またしても、またしても、
「ズガーーン!」
あると思った!
しかも、口も開いているだろうと思った!
もう、一つ目の隧道の口が開いているのを確認した瞬間、この「勝利」は約束されていたのだ。
これが、これが、木野部第二隧道だ!!
そして、この坑口は、本当に印象深い場所に、ぽっかりとその口を開けていた。
いまから、周辺の景色を案内したいと思うが、皆さんをこの場所にお連れできないことが残念なほど。
それほど、この坑口は凄い場所に口を開けている!!
まず、
坑口の山側
滝!
落差20mくらいはあるだろう滝が、シャワーのように岩棚に注ぎ落ちている。
海から舞い上がる風で流れ落ちる水が煽られ、飛沫になって辺りに降り注ぐ。
大間線は、隧道直前の山側に、この滝を車窓に据えていた。
なんとドラマチックか。
冬には立派な氷瀑を見せるに違いない。
北国の鉄路の車窓として、是非実現してほしかったと思う。
滝は足元の小さな滝壺に一度落ちたあと、さらに海へと流れ落ちている。
大間線には、この沢を跨ぐ橋が必要だったはずだが、橋台さえ見当たらない。
この水量では、コンクリートであったろうそれらが押し流されたとは考えにくい。
だが事実、ここに橋が在った痕跡は全く見られず、当初は暗渠だったのだろうか。
滝壺には、人工的な切り口を残す木の切れ端数片が散乱しているが、上流から流れてきた物の可能性が高そうだ。
そして、
海側は
海!
絶景なるかな、海。
しかも、荒海から線路を守らんと、これまで見なかった石垣が海に面して築かれている。
海水に触れる面はコンクリートで目張りした石垣のようだが、擁壁の陸側を埋めているのはおそらく、付近にたくさんある赤い巨岩の砕石だ。
緑と黒と青の景色の中にあって、この赤は鮮烈だ。
そこは、きっと誰も立つことのない石垣である。
我々も例外なく、その石垣に立つことはなかった。(降りるのは大変だよ)
コンクリの坑門をしっかりと設営するため、坑口前の岩場はかなり深く削られている。
そこには紛れもない鑿の跡が、びっしり!
削岩機使おうよ。
これは、何だかとっても重い景色だ。
どんなに大変だったろう……。 タコ部屋という、何だかひょうきんな言葉が脳裏を過ぎる。
その名の軽さに反し、タコ部屋労働の悲惨さは残酷極まりないものだったという。
(タコ部屋についての詳細はこちらをご覧下さい→外部リンク)
実際には、法規を逸した労働とこの鑿跡が関係あるか分からないが、人が鑿を握って、ここに道を作った事は間違いない。
この隧道、たかが一介の趣味者であっても、覚悟して味あわねばなるまい。
いざ、参らん!
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【午後2時16分、 木野部第二隧道内部へ進入】
滝から落ちた水がチョロチョロと流れる沢を大股で跨ぎ、草付きの斜面をよじ登っていよいよ坑口に立つことが出来る。
こうして入口に立つと、大きな穴だと思う。
こんな辺鄙な断崖絶壁に、よもや口を開けているとは思われないような、立派な穴だ。
周囲のコンクリートはまだ白っぽく、第一隧道同様、何だか真新しいように錯覚してしまう。
入口から内部へ数メートルにはフキノトウが多く茂っている。
足元は、土だ。
坑口を振り返る。
鑿跡が刻まれた赤岩が完全には削り切れておらず、視界に出ている。
これでも建築限界には接触しないのだろうが、現役の鉄道だとしたらおそらくもう少し奥まで削られたことだろう。
それでは、本格的に奥へ入ってみる。
願わくば、このまま貫通したい。
まだ、入口から射し込む明かりが届いている。
たくさんの足跡があり、勢いよく壁面から水が流れ出る第一隧道には、その厳しい立地条件を感じさせない、ある種「活き」の様なものを感じた。
それに比べ、この第二隧道は、いかにも “本物”臭い。 「死に」隧道だ…。
それもそのはず、この隧道は長い。
そして、出口の場所も定かでなければ、それがどんな物なのかも分からない。
仮に出ても、そこがすぐに集落というわけではない。
ここには、真闇が満ちている。
そして、穴は、暗がりの奥へと真っ直ぐ続いていた。
その長さを考えれば、まだこれで閉塞だと決めつけるのは尚早だろう。
それに、地図を見る限りおそらく、直線ではないのだ。
だが、静か過ぎる内部に、不安を感じずにはいられない。
洞床には、廃線跡にありがちな枕木の跡はない。 なぜなら、一度も敷かれなかったから……。
車の轍はあってもいいはずなのに、それも見当たらない。足跡も、ない。
まるでのっぺらぼうの様なコンクリの壁は、未成線らしいと思わせる独特のものだった。
だが、この静かな隧道の時が止まったままなわけはない。
造られたままそこにあるはずの内壁には、思いがけない消耗が発生していた。
それは、地面である。
なぜか、路盤に堆積した地面と接する部分の側壁が、皆一様に深さ数センチも抉れている。
まるで、溶け出したかのように。
この現象の詳細は不明だが、長期間水没していたか、或いは塩分を含む土に接していたせいで、コンクリートが実際に溶け出しているものと想像する。
このままにしていても、やがて、隧道は朽ち果てるのだろう。
にしても、暗いフラッシュしか焚けないカメラだ。
実は、長く旅を供にしてきた現場監督(デジタル現場監督DG-5W)が、つい先日不調を訴え、この日はちょうど里帰り中だった。
思えば、監督のフラッシュは特別に明るいのだった。
やむなく、山行がアフィリエイトで集まった楽天スーパーポイントを叩いて買ったデジカメを連れてきていたのだ。
あっ、読者の皆様、ホントお世話になっております。こうして皆様の協力はレポートになって生きてますよ〜。(感謝!)
あ。
何だか、行く手にポツンと、緑色がかった点が…。
自分たちの照明を消してみると、やはり間違いない。
出口なのか……?
全然860mもないぞ、これでは?!
なんだか“光の形”も妙である。
第一隧道で見たように、塞がれた坑口から漏れてる光っぽい……。
……ヤバイかも。
点が二つ……。
ぜ… 絶望的……。
かなりピンチな現状を前に、せかせかと歩く我々の前に、一際大きな待避坑が口を開けていた。
待避坑のサイズにも大中小というのがちゃんと規格で決まっている(国鉄やJRの場合)。時代ごと、それぞれ寸法や、どの程度の間隔で設置すべきかとか、微妙な違いはあるが…、ともかく、「中」サイズの待避坑がここに現れた以上、その延長は少なくとも800m以上あるはずなのだ。(大正15年鉄道省通達『第七六六号』より)
なんでいきなりそんな事を言い出すのか?
それは……。
やっぱりこういう事だったのだ!
見えていた明かりは、出口ではなく、ただの横穴だった。
そう!
第二隧道は、珍しい横穴のある隧道だったのだ!
坑口からここまでの距離は、目測で400mほど。振り返ると小さく入口が見えた。
大体、隧道全体の中間付近だと思う。
横穴からは、大量のフキノトウが隧道内部への侵入を試みている。
なお、横穴は前後に並んで二つあった。
2つの横穴の間隔は3mほどで、この写真は奥の穴である。
手前の穴も同様のサイズだったが、外側が崩落のため殆ど埋もれており、人が出入りできる隙間はない。
木野部の古老に聞くと、しっかりとこの横穴のことを覚えており、「めがね」と呼んでいたのが印象的だ。
古老はもちろん、バスに乗って何度もこのトンネルを通り抜けていた。
細田氏、果たして何を見ている?!
なんか、硬直してますが?
なんで動かないの?
動けるスペースがない!
なるほど納得。
外へ出ようにも、すぐそこは絶壁。
海風が頬に冷たいぜ。
左右にも道は無し。
穴はあっても、ここからは逃げられない!
非常に限られたスペースに立ち、横穴の空いたコンクリートの壁を振り返る。
ここは、地形図にも描かれている沢の中だろう。
隧道が一本であるためには、どうしても何らかの接点を持たねばならなかった沢である。
実際にはこうして、沢水を上に逃がす落石覆いで2つの隧道を繋げていた。
木野部第二隧道の正体は、2つの隧道が落石覆いで連結した複合隧道であった。
気になるのは、コンクリートの壁に張られた一本のロープである。
垂直の壁をこのロープで上り下りするのは心許なく、時間的な都合もあって我々は試さなかったが……。
地形図に従えば、この上には国道がある。
ただ、高低差で50m、距離も500mくらいは離れており、沢をそのまま歩くような道無き道であることが想像される。
このレポートを書いている最中、ある読者から興味深い情報がもたらされた。
以下、メール本文を引用。
大畑町出身の同僚が、木野部峠の途中から藪を降りたらトンネルみたいな変なでっかいコンクリートがあったと証言しておりました。 学校の放送委員会か何かが作ったドキュメンタリービデオの撮影中での事だそうです。むつ市にお住まいのN氏提供情報
うむむむむ…。
やはり、国道からのアプローチルートは、いずこかには存在するようである。
いずれにしても、この“めがね”の全容を見るためには、海岸線か、或いは海上に視点を置くしか無さそうだ……。
長らく謎の枢軸であった木野部峠の大間線遺構も、その全容が判明しつつある。
次回、生還を賭けて、第二隧道突破なるか!
長かった木野部峠の戦いも、終わりは近い。
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