15:59 《現在地》
この地に泊ることを決めた私は、一も二もなくまずは背中の重い荷物を下ろすことにした。
既に見た通り、小根沢には平屋の大きな宿舎が二棟ある(ほかに離れの便所小屋がある)。
どちらも荒れ方は同程度だが、なんとなく印象が良いのは先に入った一棟目(南側)の建物だったので、この中に寝床を定めることにした。
最初に入ったときは靴を履いたままだったが、今度は、脱いで入った。
そのとき、靴とネオプレンの靴下の間に生きたまま挟まっていた一匹のヤマビルを発見。やっぱりいたか。
寸又川流域が濃いヤマビル地帯であることは前回の探索でも実感しており、靴下を重ね履きするなど対策は十分している。ただ、建物の中で寝込みを襲われるのは嫌なので、靴を脱いで、よく靴下の点検も行ってから、建物に入った。
濡れた靴と靴下を脱いだら、ちょーきもちよかったぜ!(笑)
どし〜ん!
古普請の床だけに、本当にそんな音を立てる勢いで荷物を下ろした。
なんですかこれ! 身体が最っ高に気持ちいいんですけど!!!
今なら400mの高低差をウサギのように駆け上がって、下界に繋がる左岸林道に今日の生き残り達成を報告したい気分だ。とーっても、開・放・的!
やっぱり、屋根と壁と床のある場所はいいな〜!
それから、乾いた廃屋の中をさらに精査して、特に居心地の良さそうな場所を探すことにした。
まずは隙間風がない場所がいい。
そして、出来れば建物中央の囲炉裏がある大広間ではなくて、狭く区切られたスペースが落ち着けそうだ。
広間のベニヤ板の壁の一角に黒いチョーク(炭?)のようなもので文章が書かれているのを見つけた。壁がボロボロで読み取ることが難しいが、どうやらこんな内容らしい。
小根沢小屋を 情(まま)潔に して下さい。
小根沢の 渓流のさわぐ水音 山の朝
おそらくここが廃屋になってから訪れ、私と同じように寝泊まりを試みた何者かの痕跡だ。それも一人ではなさそうだ。こうした書き置きは数カ所に見られた。
また、私が選ばなかったもう一棟の【ある個室】には、さらに濃く新しそうな生活の痕跡が残っていた。
これらは登山者や林鉄探索者の足跡の可能性もあるが、調味料などの生活雑貨品も残していることから、おそらく長期間滞在した渓流釣師によるものだと思われる。
よし、ここにしよう!
南北に長い建物の中で、南の玄関寄り西側にある一畳ほどの仕切られたスペースが、一番居心地良さそうだ。
そこには誰かが残した缶ビールや缶詰の空き缶が少し散乱していたが、それらと破れたベニヤの破片を端へ寄せ、あとは床の掃除もせずカラフルなレジャーシートで一夜城の領土を鮮明にする。
続いて、デカリュックから寝袋に食料品、照明、防寒用の上着などを取り出して、自身を取り囲むように配置。
濡れたズボンは脱いで近くに干し、ツナギタイプのインナーだけになる。インナーも下半身は濡れたままだが、体温で乾かせるだろう(どうせ明日も濡れるだろうが)。
最後に、はじめ氏から預った携帯ラジオを枕元に置いてスイッチを入れたら、渓声と文明の音が程よく聞こえる、感じ良い宿のできあがりだった。
16:25
思い立って、動画を撮影した。
これまでも要所要所でメモ的に所感を述べる短い動画を撮影しており、そのおかげで7年もたった今でも鮮明に当日を思い出しながらレポートを書けるのであるが、このときに撮ったのが、初日最後の動画だった。人に見せるために撮ったものではないが、雰囲気を伝えるのに良いと思うのでご覧いただきたい。 ↓↓
ラジオから聞こえる人の声をかくも温かいと思うのは、このような状況で聴取した者だけの感慨だろうか。
かつて文化の象徴という価値を与えられたこともあったラジオの音は、かような僻地に孤立した私にも、
帰るべき文明の都会が同じ地上に健在であることを、常に雄弁に証明してくれるのだった。
これから始まる長い夜を前に、何よりありがたく思えたのが、
はじめ氏が、同行できない自身の代わりにと預けてくれた、ラジオだった。
しかし、当のはじめ氏は、今頃どこに宿ろうとしているだろう。
昼前に別れたから、そのまま戻っていればもう大間集落にたどり着いているだろうか。
彼なりに探索を行っている可能性もある。二日後夜の集合まで、連絡を取り合う術はない。
16:30
寝床が整ったので、億劫にならないうちに、飲み水の補給をしに出た。
水場の心配は全くない。
宿舎の裏手を流れる寸又川の水は、そのまま呑むのに何ら不安を感じない。もちろん、人によってはそうは思わないかもしれないが、私は気にしない。
宿舎と谷底を隔てる斜面はなかなか急で、道らしいものもなかったが、身軽になった私に苦しみはなかった。
空のペットボトルだけを身に纏い、猿のように谷底へ跳ね下った私が見たのは、黄昏を迎えた渓流の秀美であった。
水汲みもそこそこに、放心した。
が、すぐに気づく。渓風がとても冷たい。長居をすれば心まで冷えそうだ。
そして、木々の根元や岩場の洞(うろ)から、夜闇が忍び寄り、積もっている。
谷の高みははまだ明るく見えるが、それも風前の灯火なのだ。
綺麗だったが、長く見ていたいとは思えなかった。これよりは、新しい朝日に燃える色が見たいと思った。
いつの間にか蓋をなくしていた「アクエリアス」のボトルに、塵一つ混ざらない水を詰めて、「なっちゃん」の蓋をかぶせた。
これが限定1本、「南アルプスのアクエリアス天然なっちゃん水」(製造終了)だ。
16:45
私が宿ったスペースには、ちゃんとガラスのはまった窓があった。
水汲みに行った川の方を向いている。
この窓の存在が、ここを気に入った大きなポイントだった。
私は、さすがにまだ眠るには早いと思いつつも、ラジオをつけたままで寝袋に深く身体を浸した。濡れたインナーのまま水汲みに行ったので、少し身体が冷えてしまったせいもあっただろう。
薄っぺらな寝袋でも、温かさに頬が緩んだ。
その状態で窓を見上げる。
今は私だけの窓になった。
下半分は磨りガラスで、上半分は透明なガラスだ。
その透明な部分から見える、少し雲の多い茜空。そして、宿舎の周りに生えた若木の緑と、対岸の山のやっぱり緑。
枕元から窓の外とも内ともつかない世界を眺める気分は、古い山岳小説に出てくる書生にでもなったようだった。
そして気づいたときには。 いや、
気づかぬままに、か。
私は眠りに落ちていた。
ん?
……
…窓の外が薄暗いが、まだ明るいな。
意識はぼんやりしているが、大して時間がたったような気はしない。
おそらくこれは…
単なる時計でしかない携帯電話の緑白色をしたモニターに映し出された時刻を見て、案の定だと頷いた。
現在時刻は、18:24。
普段の探索なら、ようやく足を止めようかという暮れ間になって、自然と目が覚めたらしい。
もしも、大根沢まで行く決断をしていたら、どうなっていただろうか。しかしこれで完全に選択肢はなくなった。むしろ安心した気分だ。
なぜ目覚めたのかは、言わずもがな。飯も食わず朝まで寝ていられるはずがない。それでは死んだように寝ているのではなく、本当に死んでいる。
私はちゃんと腹が減った。
飯にしよう。
19:11
飯は、せっかく重い思いをして持ってきたガスコンロで湯を炊いて、袋麺を食べた。
あとは缶詰などもいくつか開けた。
飲み物も真水だけだと味気なかったので、先ほどのペットボトルに粉末の「ポカリスエット」を投入し、「南アルプスのアクエリアス天然ポカリなっちゃん水」になった。
19時頃には本当に真っ暗になった。
半径10km以内にはきっと誰もいないだろうなぁと思うような山奥で、夜の廃屋に一人でいる。
そうやって書くといかにも心細そうだが、実際には、深深(しんしん)と夜の更けることは日中の延長でしかないと思えるくらいには、余裕があった。
ラジオの音が常に私を安心へと誘ってくれたこともあるし、宿舎の中も周囲も明るい時間にくまなく探索し、得体の知れないものがないことを知っているからだろう。
野外とは別格の安心感を身に抱きながら、程よく賑やかで温かな眠りを貪ることが出来た。
23:55
とはいえ、この夜は少しだけ長すぎた。
明朝の朝日は、この谷底の地で安全に行動出来る明るさを、何時にもたらすのだろうか。
はっきりしたことは分からないが、とりあえず午前4時半にアラームをセットして眠った。
だが、夕食後だけでも最低4度は目が覚めて、そのたびに半身を起こして何かしら思案をしたり、計画を練ったりした覚えがある。
もはや探索は3日分の太いレールに乗っており、ここから出来る計画の修正は、多くない。
撤収は可能だが、いくら地図と睨めっこをしても、探索達成のための楽な裏技など思いつくはずもない。千頭最大の難病は、この遠大さにこそあるのだから。
それでも目覚めるたびに明日の地図を眺めては、今日の最後の場面の先を夢想したのだった。
まるで、明日が試験の書生である。
長かった5月4日の夜は、こうした緊張と弛緩の寄せ合う波の中で過ぎていった。
栃沢(軌道終点)まで あと4.1km
柴沢(牛馬道終点)まで あと12.5km