廃線レポート 千頭森林鉄道 奥地攻略作戦 第6回

公開日 2017.05.07
探索日 2010.05.04
所在地 静岡県川根本町

本流谷の苦悩と決断。


2010/5/4(火) 15:41 《現在地》

宿舎や標識など、しばらくは体をあまり使わないで済む安全圏での探索が続いていたが、久々に戻ってきた本流の風景は、私の緩みかけた気分を即座にぴしゃりとした。それもなんだか、ずいぶん冷たい手で。日が傾き、リアルに気温が下がり始めているのだ。

まず驚かされたのが、自分のいる軌道跡の高いことだった。
小根沢停車場に入った段階では、これほどの高低差はなかったはずだ。
小根沢手前辺りから私が比較的に気持ちの余裕を持てていたのには、慣れなど、いくつもの理由があったが、その一つに、谷底との比高がだいぶ減少していたことがある。もしも路盤が通れない場面が現れたとしても、谷底への迂回が楽そうだと思えたことが、気分をだいぶ楽にさせた。

しかし、小根沢周辺の緩やかな地形の中で、東側へ膨らみながら勾配距離を稼いでしまった軌道跡は、ほとんど直線に流れている本流との再開において、千頭堰堤以奥では最高レベルの高位置へと陣取ることになったのである。

かてて加えて、この先の地形が相当に険しいことも、谷の中央に向かって両側から折り重なるように落ち込む稜線の群れから、はっきりと見て取った。
目指す大根沢は、この折り重なる稜線群の先だ。彼我の隔たりは2km弱。
平地ならば「たった」をつけても良い程度の距離だが、ここでの2km弱は…… 相当遠い。


本流沿いに入った軌道跡は、即座に荒れていた。

これが、地形図に破線がある区間と、ない区間の違いだとでもいうのだろうか。
……いうのだろう。

さしあたって30mくらい先から大量の落石が路盤を斜めにしているのと、倒木に視界を遮られているのが見えるが、問題はその先で、路肩が櫛の歯状に欠落しているのが見て取れるのだ。
しかも、砂一つ残らないほどの急峻な岩場が、その辺りに見えてしまっている。
それこそが、前回最後に書いた「良くない予感」の核心だ……。

あと数歩で、たどり着く。




15:43
これは、やべーかも…。

完全に、路盤が落ちてしまっている。
これまでも何ヶ所か路盤が途切れているところはあったが、多くは橋が落ちていたことが原因で、今回のような場所は少なかった。

数メートル先を境に、すっぱりと路盤が切れている。

先端に立つのが、怖い。

悪い予感がする…。




アウトォ…。

写真では遠近感を十分に伝えられずにもどかしいが、足下からすっぱりと切れ落ちた崖は、
おおよそ5mの落差を挟んで、ガレ谷の底に面していた。
左に半島のように出っ張って見える部分は、路肩を支えていた石組み擁壁だ。
これが大欠壊したために、路盤は重力に従って流出してしまった模様だ。

足下の切れ落ち方が、垂直を通り越してオーバーハングしているため、
ここから直接ガレ場の底へ下ることがどうしても出来ない。
縁の近くに立っているだけでも、危険な状況だ。




「下れない」のだから、この考察自体がほとんど無意味だが、仮にロープなどを利用して下れたとしても、それだけで攻略はできない。

今度は、ガレ谷の向こう側の斜面が、「上れない」のである。
実際に手をかけて確かめたわけではないが、これもほぼ確実だ。
手がかり足がかりのある岩場ならばまだしも、向こう側の崖は砂利混じりの土だ。
無理に上ろうとすれば、たちまち崩れて頭から大量の土砂を浴びながら滑落する羽目になるだろう。長い時間をかけて砂利にステップを作っていけば、いつかは上れるかもしれないが、現実的ではない。

天然の崖とは違う、崩れず残った“路盤”の断面が、こんな形で前進の邪魔になるとは……、さすがに想定の範囲外だ…。

ここは、下れないし、上れない。
それが私の導き出した結論だ。
つまり、直接の突破は出来ないということ。
しばらく順調に進んでいたのが嘘のように、あっけなく道を失った。

ではどうすべきか。おそらく解となるルートは一つしかない。
一度寸又川の谷底まで下りてから、向こうに見える岩尾根をよじ上って、路盤へ復帰するのだ。(矢印線のルート)



だが、

その第一ステップである、本流まで下るということが、いきなりの難関だ。

先ほども書いたように、現在地はこれまでになく本流から高く、しかも険しい。
この写真は、引き返してきた末端部から20mほど離れたところで谷底を覗いているが、容易には下れそうにない。
写真だとそうは見えないかもしれないが、途中から急激に切れ落ちており、気軽に立ち入って無事に済む自信がない。

路盤をある程度戻って、改めて谷底へ下る必要があるだろう。
例えば、150mほど手前にあった旧河道沿いの【ガレ場斜面】が、使えそうだ。

よし。この難関を突破しうる目処は、どうにかなった。
諦めるわけがない。

だが、


いま進んで良いのだろうか?


現在時刻は、15:46


この難関の突破を首尾良くやったとして、この向こう側に見える路盤に立てるのは、おそらく16:00を少しまわった頃になるだろう。
その状況から日没まで残りは約2時間。
完全に暗くなるまではもう少しあるが…。

大根沢までの距離は、まだほとんど縮められていない。小根沢停車場からは約2kmだから、ここからまだ1.7km前後はあるだろう。
とはいえ、区間内の大きな難関がこの一箇所だけだったら、問題はない。2時間で2kmは十分に可能だ。明るいうちにたどり着けるだろうから、撮影的な問題もない。
だが私はいま、本流沿いに立ち入った矢先にて、こんな目に遭っている。
もしかしたら、この先には同様の難関が連続している可能性がある。その疑いは小さくない。

そうなったときにどうするか。
中途半端に進んだところから尻尾を巻いて小根沢へ逃げ帰るのは、手痛すぎる浪費だ。かといって、今いるような場所でテントもなく夜を越えるのは、怖い。
私はまだそこまでこの山のすべてを信頼できるとは思っていない。

臆病か、賢明か。一度は決断したはずの判断を、いま一度、いっそう余裕のない状況で突きつけらた。

はっきり言えば、今回の計画は3日間あってもギリギリだ。そのことは、ここまでの実際の進行ペースを見ても頷かれる。
ゆえに、今日中に大根沢までたどり着けない場合、柴沢までの軌道跡(あるいは牛馬道跡)の完全踏破の達成は、怪しくなると言わざるを得ない。
というか、よほど歩きやすい状況が続くでもしない限り、無理になると思う。

それだけに、ここでの進退の判断は本当に悩ましのだ。

悩ましいのに! 悩む時間さえ十分に与えてはもらえない!


…………


………


……



15:57 《現在地》

10分後、私は小根沢停車場にいた。
今日の前進を断念し、小根沢の宿舎に泊まる決断を下したからである。

あともう1時間早く行動していたら、今日中に大根沢まで行く決断を下しただろう。
あるいは小根沢に手頃な宿舎が見当たらなかった場合も、同じ決断をしていたと思う。
だが、探索にイフはない。積めるのは後悔ではなく、次への経験だけなのだ。

な〜に、悪いことばかりではないのだよ。
探索という筋道のない状況に現れたこの小さな挫折を、素直に楽しんでいる私もちゃんといた。そして、一目見て居心地が良さそうに見えた小根沢の宿舎で一晩を明かせることへの期待と安堵もあった。多分いまの私の手に届くすべての寝床のなかで、一番上等な寝床だろう。
それに、今から宿りに入れば、たっぷり体を休めることが出来る。明日の朝日が昇るまで、何にも急がされない癒やしの時間が続くのだ。

柴沢まで行けない可能性が高まったのは残念だが、これについてもまあ、妥協出来る範囲がある。
というのは、柴沢付近はおそらく軌道跡と左岸林道が重なってしまっている。
はっきりしたことは分からないが、地図を見た限り、あるいは過去の登山者の記録を見る限り、そうであると思う。
軌道跡と林道が重なっていないとみられる区間だけを探索することにすれば、明日の行程は最大で5kmほど短縮が可能だと思う。
それなら、今日の2kmのロスは明日中に楽に取り返せるだろう。

いろいろと考えるうちに、私はこの決断が賢明であったと結論づけた。
ぶっちゃけ、朝からほとんど動き通しで相当疲れていたので、今日はもう歩かないということに心が靡(なび)いたことも、隠さない方が良いだろうね(苦笑)。



小根沢宿舎の夜 〜初日の終わり〜


15:59 《現在地》

この地に泊ることを決めた私は、一も二もなくまずは背中の重い荷物を下ろすことにした。
既に見た通り、小根沢には平屋の大きな宿舎が二棟ある(ほかに離れの便所小屋がある)。
どちらも荒れ方は同程度だが、なんとなく印象が良いのは先に入った一棟目(南側)の建物だったので、この中に寝床を定めることにした。

最初に入ったときは靴を履いたままだったが、今度は、脱いで入った。
そのとき、靴とネオプレンの靴下の間に生きたまま挟まっていた一匹のヤマビルを発見。やっぱりいたか。
寸又川流域が濃いヤマビル地帯であることは前回の探索でも実感しており、靴下を重ね履きするなど対策は十分している。ただ、建物の中で寝込みを襲われるのは嫌なので、靴を脱いで、よく靴下の点検も行ってから、建物に入った。
濡れた靴と靴下を脱いだら、ちょーきもちよかったぜ!(笑)



どし〜ん!

古普請の床だけに、本当にそんな音を立てる勢いで荷物を下ろした。

なんですかこれ! 身体が最っ高に気持ちいいんですけど!!!

今なら400mの高低差をウサギのように駆け上がって、下界に繋がる左岸林道に今日の生き残り達成を報告したい気分だ。とーっても、開・放・的!
やっぱり、屋根と壁と床のある場所はいいな〜!

それから、乾いた廃屋の中をさらに精査して、特に居心地の良さそうな場所を探すことにした。
まずは隙間風がない場所がいい。
そして、出来れば建物中央の囲炉裏がある大広間ではなくて、狭く区切られたスペースが落ち着けそうだ。




広間のベニヤ板の壁の一角に黒いチョーク(炭?)のようなもので文章が書かれているのを見つけた。壁がボロボロで読み取ることが難しいが、どうやらこんな内容らしい。

小根沢小屋を 情(まま)潔に して下さい。
小根沢の 渓流のさわぐ水音 山の朝

おそらくここが廃屋になってから訪れ、私と同じように寝泊まりを試みた何者かの痕跡だ。それも一人ではなさそうだ。こうした書き置きは数カ所に見られた。
また、私が選ばなかったもう一棟の【ある個室】には、さらに濃く新しそうな生活の痕跡が残っていた。
これらは登山者や林鉄探索者の足跡の可能性もあるが、調味料などの生活雑貨品も残していることから、おそらく長期間滞在した渓流釣師によるものだと思われる。



よし、ここにしよう!

南北に長い建物の中で、南の玄関寄り西側にある一畳ほどの仕切られたスペースが、一番居心地良さそうだ。
そこには誰かが残した缶ビールや缶詰の空き缶が少し散乱していたが、それらと破れたベニヤの破片を端へ寄せ、あとは床の掃除もせずカラフルなレジャーシートで一夜城の領土を鮮明にする。

続いて、デカリュックから寝袋に食料品、照明、防寒用の上着などを取り出して、自身を取り囲むように配置。
濡れたズボンは脱いで近くに干し、ツナギタイプのインナーだけになる。インナーも下半身は濡れたままだが、体温で乾かせるだろう(どうせ明日も濡れるだろうが)。

最後に、はじめ氏から預った携帯ラジオを枕元に置いてスイッチを入れたら、渓声と文明の音が程よく聞こえる、感じ良い宿のできあがりだった。

16:25
思い立って、動画を撮影した。
これまでも要所要所でメモ的に所感を述べる短い動画を撮影しており、そのおかげで7年もたった今でも鮮明に当日を思い出しながらレポートを書けるのであるが、このときに撮ったのが、初日最後の動画だった。人に見せるために撮ったものではないが、雰囲気を伝えるのに良いと思うのでご覧いただきたい。 ↓↓


ラジオから聞こえる人の声をかくも温かいと思うのは、このような状況で聴取した者だけの感慨だろうか。
かつて文化の象徴という価値を与えられたこともあったラジオの音は、かような僻地に孤立した私にも、
帰るべき文明の都会が同じ地上に健在であることを、常に雄弁に証明してくれるのだった。

これから始まる長い夜を前に、何よりありがたく思えたのが、
はじめ氏が、同行できない自身の代わりにと預けてくれた、ラジオだった。

しかし、当のはじめ氏は、今頃どこに宿ろうとしているだろう。
昼前に別れたから、そのまま戻っていればもう大間集落にたどり着いているだろうか。
彼なりに探索を行っている可能性もある。二日後夜の集合まで、連絡を取り合う術はない。



16:30
寝床が整ったので、億劫にならないうちに、飲み水の補給をしに出た。
水場の心配は全くない。
宿舎の裏手を流れる寸又川の水は、そのまま呑むのに何ら不安を感じない。もちろん、人によってはそうは思わないかもしれないが、私は気にしない。

宿舎と谷底を隔てる斜面はなかなか急で、道らしいものもなかったが、身軽になった私に苦しみはなかった。
空のペットボトルだけを身に纏い、猿のように谷底へ跳ね下った私が見たのは、黄昏を迎えた渓流の秀美であった。
水汲みもそこそこに、放心した。

が、すぐに気づく。渓風がとても冷たい。長居をすれば心まで冷えそうだ。
そして、木々の根元や岩場の洞(うろ)から、夜闇が忍び寄り、積もっている。
谷の高みははまだ明るく見えるが、それも風前の灯火なのだ。
綺麗だったが、長く見ていたいとは思えなかった。これよりは、新しい朝日に燃える色が見たいと思った。

いつの間にか蓋をなくしていた「アクエリアス」のボトルに、塵一つ混ざらない水を詰めて、「なっちゃん」の蓋をかぶせた。
これが限定1本、「南アルプスのアクエリアス天然なっちゃん水」(製造終了)だ。



16:45

私が宿ったスペースには、ちゃんとガラスのはまった窓があった。
水汲みに行った川の方を向いている。
この窓の存在が、ここを気に入った大きなポイントだった。

私は、さすがにまだ眠るには早いと思いつつも、ラジオをつけたままで寝袋に深く身体を浸した。濡れたインナーのまま水汲みに行ったので、少し身体が冷えてしまったせいもあっただろう。
薄っぺらな寝袋でも、温かさに頬が緩んだ。

その状態で窓を見上げる。
今は私だけの窓になった。
下半分は磨りガラスで、上半分は透明なガラスだ。
その透明な部分から見える、少し雲の多い茜空。そして、宿舎の周りに生えた若木の緑と、対岸の山のやっぱり緑。
枕元から窓の外とも内ともつかない世界を眺める気分は、古い山岳小説に出てくる書生にでもなったようだった。

そして気づいたときには。  いや、

気づかぬままに、か。

私は眠りに落ちていた。




ん?


……

…窓の外が薄暗いが、まだ明るいな。

意識はぼんやりしているが、大して時間がたったような気はしない。
おそらくこれは…

単なる時計でしかない携帯電話の緑白色をしたモニターに映し出された時刻を見て、案の定だと頷いた。
現在時刻は、18:24
普段の探索なら、ようやく足を止めようかという暮れ間になって、自然と目が覚めたらしい。
もしも、大根沢まで行く決断をしていたら、どうなっていただろうか。しかしこれで完全に選択肢はなくなった。むしろ安心した気分だ。

なぜ目覚めたのかは、言わずもがな。飯も食わず朝まで寝ていられるはずがない。それでは死んだように寝ているのではなく、本当に死んでいる。
私はちゃんと腹が減った。 
飯にしよう。



19:11

飯は、せっかく重い思いをして持ってきたガスコンロで湯を炊いて、袋麺を食べた。
あとは缶詰などもいくつか開けた。
飲み物も真水だけだと味気なかったので、先ほどのペットボトルに粉末の「ポカリスエット」を投入し、「南アルプスのアクエリアス天然ポカリなっちゃん水」になった。

19時頃には本当に真っ暗になった。
半径10km以内にはきっと誰もいないだろうなぁと思うような山奥で、夜の廃屋に一人でいる。
そうやって書くといかにも心細そうだが、実際には、深深(しんしん)と夜の更けることは日中の延長でしかないと思えるくらいには、余裕があった。
ラジオの音が常に私を安心へと誘ってくれたこともあるし、宿舎の中も周囲も明るい時間にくまなく探索し、得体の知れないものがないことを知っているからだろう。
野外とは別格の安心感を身に抱きながら、程よく賑やかで温かな眠りを貪ることが出来た。




23:55

とはいえ、この夜は少しだけ長すぎた。

明朝の朝日は、この谷底の地で安全に行動出来る明るさを、何時にもたらすのだろうか。
はっきりしたことは分からないが、とりあえず午前4時半にアラームをセットして眠った。
だが、夕食後だけでも最低4度は目が覚めて、そのたびに半身を起こして何かしら思案をしたり、計画を練ったりした覚えがある。

もはや探索は3日分の太いレールに乗っており、ここから出来る計画の修正は、多くない。
撤収は可能だが、いくら地図と睨めっこをしても、探索達成のための楽な裏技など思いつくはずもない。千頭最大の難病は、この遠大さにこそあるのだから。
それでも目覚めるたびに明日の地図を眺めては、今日の最後の場面の先を夢想したのだった。
まるで、明日が試験の書生である。


長かった5月4日の夜は、こうした緊張と弛緩の寄せ合う波の中で過ぎていった。





栃沢(軌道終点)まで あと.1km

柴沢(牛馬道終点)まで あと12.5km



Intermission(1) その頃、はじめ氏は……


この日の正午前(11:55)に、大樽沢トラス橋から300m進んだ地点で、二日後の再会を約束して撤退したはじめ氏
彼の粋な計らいのおかげで私は廃屋での野営という不安な状況でも、生の息吹を間近に感じながら安心して過ごすことが出来たのだったが、解散後の彼の足取りは、大略次のようなものであったという。
以下は、ご本人から最近いただいたメールより、5月4日午後の行動の抜粋となる。

ヨッキさんを見送ったあと、再びあの橋を渡り、トンネル好きの私は【大樽沢の隧道】を 四方八方からジロジロと眺めつつ、【天地測水所】付近で川と戯れたりしていました。 この林鉄のトンネルは、周囲はともかく状態がとても良いので、当時の林業に携わる人達の本気を感じることができシアワセな空間なのです。

歩いているときは、色々なことを考えていました。が、ともかくひとつの安全方向への決断を下したのだから、帰路において無理はしないぞ、という気持ちは固まっていました。
流れというのでしょうか、「こういうときは、無理しちゃいかん」という見えない波のようなものに乗っていました。


(5月4日午後、大樽沢付近にてはじめ氏撮影)
天地測水所付近の河原で湯を沸かし、コーヒーを淹れ、ゆっくりと川の流れを眺めながら、ただただ流れの音や、風の音、ときどき鳴く鳥の声などを自分の心に静かに受け入れていました。
そして、とりあえず一晩はこの山で過ごすかと決めたのです。(ちなみに写真に写っているカップは、現在も自宅にて使っています)

せっかく来たのだからという「もったいない精神」ではなく、天候も穏やかでしたし、静かだけれど川の喧騒はしっかりと主張しているこのエリアにもう少しいたいと思ったのでした。(それをもったいない精神という)
ただこれは本能的といいますか、ヨッキさんとあまり離れない方がいいかなとも感じていました。
厳しいエリアにおいて、不測の事態というのは割と早い段階で訪れてしまうケースが多いという知識と経験からです。
一切の連絡手段がない環境において、万が一にもヨッキさんが早期に撤退をする事態になっていた場合、それは身体が無事では済まない状況となっている可能性がある、と。

そんな思いから、一晩ゆっくりと、帰路に予定されているルート上のどこかで過ごそうと思ったのでした。
とはいえ、居心地の妙にいい山、というのが決定打でしょう。

千頭堰堤近い日向林道上にツェルトを張り、深く眠りにつきました。私はこういうとき、必ずラジオを聴いてから寝るのですが、今晩だけそれがない。そのラジオはヨッキさんと共に、この山の奥地にて静かな夜におけるささやかなお供をしてくれているだろうと思うと、不思議な安心感がありました。


……ううっ。

良い人(やつ)だなぁ……。

私はてっきり彼は5月4日の夜にはもう大間へ着いて、温い湯にのんびり浸かっているものと思っていたが、私の緊急下山を想定して帰り道にいてくれたとは!
また、離脱後も彼なりに愉快な時間が過ごせていたようで…、楽しんだのが私だけでないと分かったのも良かった。
今は出世してあの頃みたいにやんちゃな探索は出来なくなった彼だけど、頼れる仲間の一人であり続けている。




Intermission(2) 私が泊った建物の正体



『東京林友 第15巻第4号』より

ところで、私が一夜を過ごした小根沢宿舎の正体は、なんだったのだろう。
長期間の山泊を伴う山林労働者のために、千頭営林署が用意した宿舎であったことは間違いないと思うが、はっきり確認できればすっきりもするだろう。
というか、もはや人知れず朽ちゆくより他に道がない建物に対して、私が一宿一飯……飯は自作だが……の恩義を示す術など、その正体をつまびらかにして記録を止めておくくらいしか思いつかない。

とはいえ、この件については探索が終わった後も、長らく一切の情報を得られずにいた。
世間的には相当ニッチなジャンルであるとはいえ、一応は近年でも記録物が出版されることのある「森林鉄道」と比べても、さらに数段は一般人の興味から遠いかつての林業関係者の寝泊まりの場の情報など、そうそう目につくところに転がっているはずもなかったのである。

だが、2017年の春に農林水産省図書館の存在を知ったことで、林鉄を含む林業資料に関する新たな沃野に足を踏み入れることが出来た。
農林水産省図書館には、国会図書館にさえ所蔵されていないものを含む、明治から現代に至るまでの膨大な林野庁関係資料が収蔵されている。
私は今年の春から足繁く通い(霞ケ関の農林水産省本庁舎にある施設のためか、一般の利用者は少ないようで、トイレに行くだけで身分証明書を提示する必要があるなど、少しだけ肩身は狭い。笑)、そこで『東京林友』という、かつての東京営林局が年に数回発行していた部内誌を、つぶさに調べ上げたのである。

そして、昭和37年冬号(第15巻第4号)に掲載された「斧鉞ものがたり」という記事の中に、千頭営林署の宿舎について触れた記述を見つけ出した。
これは千頭森林鉄道現役時代末期(廃止6年前)の記録で、まさに私が知りたかった内容だった。

私が泊った小屋の正体、 その答えは…… ↓↓↓



『東京林友 第15巻第4号』より

造林宿舎!!

隣の建物が、保線宿舎だった!(苦笑)

いやぁ……。エヘヘ…。
林鉄探索者としてはどうせなら、林鉄整備を専門に行う保線員達が寝泊まりしていた保線宿舎に泊っていたら嬉しかったが、現地では私が泊った建物の方がなんとなく居心地良さそうに見えたのだから仕方ない(仕方ない)。

それにしても、この古写真は貴重なものだと思う。
建物の配置や作りが現在残っているものと全く同じなので、間違いなくこれらが林鉄時代のものであることが確かめられた。
まさに私は林鉄の世界観に足を踏み入れ、その遅れてきた一員となった感がある。

「古事記」にある黄泉戸喫(ヨモツヘグイ)の説話は、死者の世界の食べ物を口にしたものは二度と生者の世界に戻ることは出来ないという話だが、もし私が隣の保線小屋を褥(しとね)にしていたとしたら、そのまま林鉄世界に引き留められる結末もあったのだろうかと、そんなオカルティックな思考が脳裏をよぎったり。



『東京林友 第15巻第4号』より

なお、私と当サイト読者にとっては既にお馴染みとなっている“のび太君ハウス”こと、大樽沢の宿舎の正体も、この「斧鉞ものがたり」によってはっきりした。

詳しくは前回の探索を見ていただきたいが、屋内に停車場毎の呼び出し符号を記した【掲示板】【磁石式電話機】、初めて見た 【構造物標】【保線道具(ジンクロ)】【エロ部屋】などを蔵する、林鉄との極めて強い関わりを感じさせた3階建ての正体は、第4工区保線宿舎だった! (明らかに見覚えのある建物の古写真に、「第4工区“小樽”保線宿舎」とのキャプションがついているが、“大樽”の誤りだろう)

なお、「斧鉞ものがたり」によると、千頭森林鉄道全線の保線区割りは、次のようになっていたという。(この情報も、書籍などには掲載されたことがないものだ)

維持修繕は主として保線作業で、森林鉄道は支線を含めて六つの工区に分け工区毎に工区長を置いて責任体制を確立しています。
第一工区は一級線の起点より受持延長8kmで人員4名部落に近いので通勤で作業しています。二工区は測点8kmより15km間の7kmで人員4名尾崎坂製品事業所に合宿、三工区は測点15kmより21km間の6kmで人員4名本谷製品事業所に合宿、四工区は測点21kmより27kmの6kmと逆河内支線の2.6kmを受持ち炊事婦共に人員8名大樽保線宿舎に合宿、五工区は27kmより33km間の6kmで炊事婦を含めて人員5名小根沢保線宿舎に合宿、六工区は大間川支線全線の8.8kmを受持ち大間川製品事業所に合宿です。

左図は、昭和30年頃の粁程図(この図には本来記載されていない逆河内支線を書き足している)に、保線区割りを書き込んだものである。
一級線の起点である沢間停車場(千頭森林鉄道の0kmポストはここにあり、千頭〜沢間間は中部電力から無償貸与を受けて乗り入れていたに過ぎない)を起点に、本支線を6工区に分けた保線業務が行われていた。第4第5工区以外は保線員専用の保線宿舎を持たず、区域内の製品事業所で合宿していたとのことだ。




無事、二日目の朝を迎えることができた。


2010/5/5(水) 5:00頃  《現在地》

おはようございます。

ケータイのアラーム音が鳴るまでもなく、朝5時前には自然と目が覚めた。
外はまだ薄暗く、こんな谷底に朝日が届くまでにはかなり時間がかかるかも知れない。
しかし今日も天気は良さそうで、ラジオの予報も引き続き快晴といっていた。
清澄な朝の空気だが、静寂に満ちているなんてことはもちろんなく、相変わらず元気な川音が隙間の多い建物の中へ聞こえてきている。
とりあえず寝床から抜け出した私は、水汲みと顔を洗うために、川へ行くことにした。

木の床を鳴らしながら玄関へ行き、濡れたままの冷たい靴を乾いた靴下で履いた。
ヤマビルが怖いので、靴下は既に二重だ(笑)。
一晩で眠気は綺麗に飛んでいた。体調も良さそうだ。
ただし太ももが重怠い。これは疲労してますね。
でも不安になるような痛みはないので、問題ないと思う。昨日の終盤でちょっと頑張れなかった分も、今日は頑張りたい。



顔を洗い、ペットボトルにたっぷり水を補給した。

その帰り道、何気なく周囲を見回したとき、軌道跡と河原の間の斜面に、金属製らしい板状の何かが落ちているのを発見した。
小根沢の路盤上で昨日は貴重な林道標識を2枚も見つけている。そのことを思い出して、駆け寄って撮影したのがこの写真である。
(心が逸って、撮影前に少し触ってしまったせいで、“ブツ”が少しずれている)
サイズ的には、林道標識ではないようだ。それより遙かに大きく、看板らしきサイズ感だった。

これは昨日気づかなかった何かであり、おそらく川に降りるような寄り道をしない限り見つけることもなかっただろう。つまり探索の成果としては、“偶然の産物”に近いものだ。

ドキドキしながら、裏返してみると……。


看板!!
朝の呆け頭に飛び込んできた、いかにも厳格そうな文字情報に、私の脳は覚醒を余儀なくされるッ!
その気になる内容は↓


千頭車道小根沢、
大根沢間、上方林道
工事の為、危険につき
通行禁止致します。

千頭営林署長
折谷建設K.K.


以上だ。

たいした内容ではないと、そう思われただろうか。

私はそうは思わなかった。

確かに林鉄には直接触れていないが……、とてもドキドキした。

なぜなら、これは今まで知ることが出来なかった部分に関する、重要な情報だと思ったからだ。

この看板は、千頭林鉄廃止直後の状況についての重要な情報を与えるものである。

林鉄探索は廃止された林鉄跡に在りし日の面影を探す行為であるが、林鉄の廃止される状況を改めて考えてみると、災害に巻き込まれるなどの稀なケースの除けば、廃止に伴って周到な工作(レールや枕木の撤去など)が施され、その後も必要に応じて路盤跡は通路として活用されることが多かった。
だが、並行する別の林道(例えば自動車道)が完成するとか、林業自体が行われなくなるとかの理由で、最終的に完全に放棄され廃道になるということが、往々にしてあった。
そのような段階を経た廃道も、林鉄跡であるのは間違いないが、林鉄廃止後に別の形で使われた期間がある以上、林鉄そのものの跡とはいえないわけだ。

昨日から歩いてきた大樽沢以奥の千頭林鉄は、まさにそのような林鉄廃止後に転用を受けたことが明らかな林鉄跡であった。
レールや枕木が撤去されていること、橋梁部分だけ補強目的でレールや枕木が残っていること、一部の橋梁に【安全帯固定用のワイヤ】があることなど、その証拠は豊富だ。

そしてここで見つけた看板こそ、今までは状況証拠しかなかった林鉄跡転用の事実を、はっきりと証明するものだった。
つまり、この看板が設置される直前まで、林鉄廃止後の路盤は“千頭車道”として使われていたが、小根沢〜大根沢間の路盤上方で林道工事(これは明らかに寸又左岸林道のことだろう)が行われるにあたって(落石などの)危険が高まったから、通行を禁止するという内容が読み取れるのだ。

なお一点説明を要するかも知れないのが、そもそも“千頭車道”とは何かということであるが、それについては次の図を見ていただきたい。


ちょっとお勉強タイム 〜林道規程と林道種別の変遷について〜

右図は、国有林林道の種別の変遷をまとめたものだ。

林道とひとことで言っても様々な種類があり、分類の仕方も様々であるが、それは国有林林道と民有林林道に大別され、国有林林道には利用方法による種別がある。
林道の利用方法というのは、そこを歩く(歩道)のか、牛馬が通るのか(牛馬道)、自動車が通るのか(自動車道)、森林鉄道が通るのか(森林鉄道)といったことであり、こうした利用方法による種別の存在は、一般道と異なる林道の大きな特徴である。
そしてこの林道の種別は、時代によっても変化してきており、その変遷は各時代における運材手段の消長を表してもいる。

さて、聞き慣れない“千頭車道”という表現の正体だが、図中に赤で示した部分を見ていただきたい。
千頭森林鉄道が廃止された昭和43年当時は、昭和30年に林野庁が定めた「(旧)林道規程」が林道の種別を規定していたが、その中に「車道」というのがあったのだ。
規程によると、車道とは「軽車両、牛馬車及び橇(そり)の通行できるものをいう」そうで、ようは「森林鉄道」のようにレールは敷かれていないし、「自動車道」のように運材トラックが通行することも出来ないけれど、軽車両(普通乗用車を含んでいた)なら通れる道ということだ。

……まあ、枕木やレールが敷かれたままの鉄橋が多数残る千頭林鉄の路盤跡を、乗用車が通行できたとはとても思えないが、制度上は「車道」でとされていたのだろう。

なお、「森林鉄道」が廃止後に「車道」となるケースがどのくらいあったのかは不明だが、現地で「●●車道」と書かれたものを見るのは、自身の林鉄探索史上初のことである。
現在の林道の種別には「車道」は無いので、貴重な看板といえるだろう。
文字が風雨に晒されないよう、また最初のように寝かせてから、その場を離れた。



思わぬ発見にいっとき心を奪われた私だが、その後すぐに宿舎へ戻り、
袋麺と缶詰の朝食を済ませてから、ラジオのある寝床を片付けた。

少しだけ軽くなった一方で、なんだか収まりが悪くなった荷物を無理矢理ザックへ詰め込み、
玄関では足回りをしっかりと調えてから、心の中の宿の主に一礼し、
2日目の探索世界へ出立したのは、5:48であった。

昨日の断念地点までは僅かな距離しかないだけに、最初から厳しい展開が予想される。