私が最初に塩那道路を探索したのは、平成17(2005)年10月9日。
そのレポートを書き終えたのは、同じ年の12月8日であった。
私が工事用道路を用いて2度目の塩那道路へ足を踏み入れたのは、平成23(2011)年9月28日。
そのレポートは現在執筆の途中であるが、第一部(第7回まで)を書き終えたのは平成27(2015)年6月17日であった。
既に塩那道路と私の関わりは10年の年月を経ている。
たった2回しか訪れていないが、それは極端な訪問の難しさを現している(車で訪れられる両端の区間はこのほかにも何度か行っている)。
そして、この10年間の途中の平成25(2013)年2月27日、私が塩那道路への思いを一層深くするきっかけとなった一通のメールを受信した。
頂いたメールの内容を簡単に要約すれば、20年前に死去した父親が自衛官として塩那道路の工事にあたった。
父親からは生前、塩那道路の話を聞いていたが、そこがどんな場所であるかは自分には分からなかった。
「山さ行がねが」のレポートを見て、はじめて塩那道路の風景を見ることが出来たことを感謝したいというものだ。
メールの送信者はお名前もHNも名乗られておらず、文中には「宇都宮在住の60歳男性」とだけあった(本稿では仮に「A氏」と呼ぼう)。
また、その内容は私信であり、個人情報も含んでいるので、そのまま全文を公開することは出来ないが、塩那道路の絶大な規模に反して極端に不足している「建設中の話題」に関する記述があり、また一人の人間として感じ入る所が多いので、ここまで編を重ねた塩那道路のレポートにお付き合いいただいた皆さまに、最小限の加工を加えたうえでご紹介したいと思う。
その後で、普段はあまり知る機会が無いであろう「自衛隊による道路工事」について、調べたことを簡単にまとめてみた。
本稿は、塩那道路をより深く知り、愛していただくための“寄り道”である。
1.ある自衛隊員のご子息からのメール
私は栃木県宇都宮在住の60歳男性です。
20年前に死去した自分の父親に関連する情報がないか、あまりあてにせずネットで検索していたところ、あなたの塩那道路のレポート中に父の名があるのを発見しました。
レポート(7)のなかで、当時の栃木県知事、横川信夫氏が書いた記念碑の碑文の文面と写真とが紹介されています。
104建設大隊は、父の所属する部隊でした。塩那道路が開通した、つまり工事の最後の年、昭和◇年の作業隊長をつとめた「◇◇◇◇」がわたしの父です。
当時高校生だったわたしは、父からときどき塩那道路のことを聞かされていました。
とりあえずのパイロット道路であることや、凄い峻険な山中での難工事であること、殉職者が出たことなども聞いておりました。父は70歳で他界しましたが、告別式で弔辞を奉読されたのが、やはり碑文中に登場する辻昭三氏でした。辻氏は、弔辞の中でこの塩那道路の工事のことに触れて、「自衛隊の歴史のなかで未曾有の難工事」であったことを述べられましたが、あなたのレポートを読んで、それが誇張でないどころか、日本の道路史のなかでも稀有な工事であったあったことが納得できました。
その後、塩那道路は環境破壊の代名詞のような扱いになり、塩那スカイラインへと発展するはずの計画は頓挫しました。
渓流釣りが趣味の私は家族と塩原にはよく行ったのですが、通行止めのため道路の入り口で引き返さざるをえませんでした。この先の道路をおやじがつくったんだと思っても、実際にその道を通ることはできなかったのです。
ですから、あなたのレポートは、私にとっては特別な意味をもつものとなりました。
これか、これがそうか――――私は息を呑みながら、あなたの記事と写真を追いました。
20年前に故人となった父と再会できたような、そんな思いがしています。
ありがとうございます。この感謝の気持ちをお伝えしたくて初めてメールに挑戦しました。
あなたの風変わりな情熱と記録者としての執念がなかったならば、私は記念碑の存在もそのなかに父の名が刻まれていることも知らぬままに生涯を終えることになったと思います。
おかげで私にもささやかな目標ができました。入ってはいけない塩那道路に、健康なうちに私も一度行ってみたいと思います。104建設大隊の碑を拝し、石碑に父が愛した日本酒を注いでやりたいのです。石碑はおそらくその存在を世に知られることなく朽ちるでしょうし、道路そのものもやがては自然へと還るのだろうと思います。今から見れば塩那道路は人間のおろかな営為であったと批判することも笑うこともできますが、私にとっては敬愛する父が技術者としての知恵と情熱とをかたむけた、父の人生のモニュメントなのです。
今後ますますのご活躍をお祈りいたします。
メールをいただいてから2年半が経過しているが、この間にA氏が「ささやかな目標」を果たされたかどうかは分からない。
しかし、私はこのメールを頂戴した時ほど、自分の「風変わりな情熱」に誇りを感じたことは無かったと思う。本当に嬉しかった。
ここで改めて塩那道路の頂上に立つ「記念碑」の画像を掲載し、碑文を掲げたい。
そうすることで、A氏以外にも碑面にお名前を刻まれた工事関係者の方々や、そのご家族に捧げたいと思う。
廃道化が決定している現状となっては、記念碑が麓へ移設されることを願っているが、それが果たされるまでの繋ぎや、もしも果たされなかった場合の永久保存として頂きたい。
なお、写真はかつて公開した平成17(2005)年の曇天のものでは無く、快晴であった平成23(2011)年9月28日に撮影し直したものだ。
以前は読み取れなかった一部の文字も完全に読み取って記載した。
もちろんA氏のご尊父や、A氏のメールに登場している辻昭三氏のお名前も、刻まれている。
104建設大隊
塩那の峻険を拓く
栃木県知事 横川信夫著
塩那山岳道路開設の経過
塩那山岳道路は栃木県が陸上自衛隊に委託し東部方面れい下第1施設団の 第1建設群に属する第104建設大隊(宇都宮駐とん地)が昭和41年から昭和46年に 亘り全長約50粁の中約35粁のパイロット道路を拓きこの道路の礎を築いた ものである
工 事 参 加 部 隊 昭和41年 作業隊長 (第3中隊長)1等陸尉 安東 弘 以下 67名 2.5粁 〃 42年 〃 (第1中隊長) 〃 小林一郎 〃 62名 3.1粁 〃 43年 〃 (第2中隊長) 〃 三宅誠八 〃 57名 2.2粁 〃 (第3中隊長) 〃 福井正躬 〃 48名 2.0粁 〃 44年 〃 (第1中隊) 2等陸尉 薄井 貢 〃 41名 1.0粁 〃 45年 〃 (大隊長) 2等陸佐 小田利八郎 〃 190名 8.2粁 幕 僚 3等陸佐 木田久夫 3等陸佐 阿部 恒 1等陸尉 菅原慶治 板室区隊長 (第2中隊長)1等陸尉 菊池貞三 塩原 〃 (第3中隊長) 〃 島田三郎 昭和46年 作業隊長 (副大隊長) 3等陸佐 佐川一男 以下 150名 16.0粁 幕 僚 3等陸佐 辻 昭三 2等陸尉 相良作二郎 横川区隊長 (第1中隊長)1等陸尉 中村 均 板室 〃 (第3中隊長) 〃 上芝原正記
記念碑周辺の塩那道路の風景。
――以上を捧げる。
2.自衛隊による受託工事の歴史
「広報しおばら No.62(昭和42(1967)年7月20日発行)」より転載。
右の写真を最初に見つけた時には、とても興奮した。
これは、栃木県立図書館で丸一日「広報しおばら」(旧塩原町の広報誌)のバックナンバーを漁ってようやく見つけた、104建設大隊の写真である。
少し長いが、記事の本文も転載する。
歓迎一〇四建設大隊
塩那山岳道路と新湯、元湯とうたつ道路工事をしていただくために、宇都宮一〇四建設大隊が、去る七月十日来町しました。
小林一尉を隊長に、六十八名の方々は、中塩原・土平に駐とん、七月十日から十二月末まで(うち九月中は一度部隊に帰る)塩那山岳道路の工事にお骨おりをいただくことになりました。
また、相良三尉以下四十二名の隊員さんは、新湯と元湯を結ぶ約二千五百メートルの道路工事を、七月十日から八月末までお骨おりをいただくことになりました。
塩那山岳道路は、去年安藤隊長さんはじめ七〇名の隊員さんによって、約二千五百メートルができあがっています。今年はその先をやっていただくことになるわけですが、工事が進むにつれて山がけわしくなるので、難工事になることでしょう。
塩原と那須を結ぶこの山岳道路は、完成すれば日本でも指おりのスカイラインとなり、それによって観光地塩原も、更に一段と飛躍することでしょう。
写真には、塩原町の中心部を行列する104建設大隊と、道の両側から行列を見守る黒山の人だかりが映っている。
街路や人々の手には手旗や横断幕などが掲げられており、町を挙げた熱狂的と言っても良いくらいの歓迎ムードが伝わってくる。
また記事の文章からは、「お骨おりいただく」といった表現などから、隊員に対する敬意が強く感じられる。
彼らのことを「隊員さん」と呼んでいるが、これを「兵隊さん」に置き換えれば、戦前の文章に見えるかも知れない。
こうしたことは、戦後22年が経過していた当時の地方都市における自衛隊に対する一般的な感情によるものなのか、単に「外から来て工事をしてくれる」事への感謝の発露であったのかは少し判断しづらいが、黒山の人だかりを見る限り、後者の要素も大きいと思われる。
なお、この記事は前述の通り昭和42(1967)年のものであり、昭和41年から46年まで続けられた104建設大隊による塩那道路工事の2年目の風景ということになる。
「記念碑」にも、昭和42年には小林一郎1等陸尉を作業隊長として62名の隊員が工事に従事し、3.1kmの建設工事を行ったことが書かれている。
記事の内容とは微妙に人数や距離に違いはあるが、概ね一致している。
このように、本記事は塩那道路の建設中に書かれた貴重な生の資料なのだが、更に一歩踏み込んで建設現場を訪れたというような記事は、残念ながら未発見である。
別に自衛隊による土木工事現場に、一般の土木工事現場とは異なる特殊な秘匿性があったという記録は見えないが、塩那道路に限らず、彼らの現場での仕事ぶりを撮影した写真は極端に少ない。
今回掲載した写真も町で撮られたものではあるが、当時の生の空気感が伝わってくる、非常に貴重なものだと思う。
ところで、各地の道路の歴史を調べていると、しばしば「自衛隊が建設した」という記録に触れる事がある。
もちろん自衛隊というくらいだから戦後の話であるのだが、「戦前に日本軍が建設した道」よりも、それは頻出する。
戦前に日本軍が建設したのは基本的に民生用の道路ではなく、軍事道路というべきものが大半であるのに対し、自衛隊は我々が日常的に利用する道路(しかも険しい山岳道路)を多数建設しているということが、統計を取るまでもなく実感される。
試みに当サイトトップページにある検索窓を「自衛隊」のキーワードを検索してみれば、関連する過去レポートが色々とヒットする。(只今、新刊の広告もヒットしてしまうのはご了承下さい…)
自衛隊による道路工事とは、一体どのような物なのか。
ここで簡単な説明を試みたいと思う。
(より詳しく調べたい方のために、何点か参考資料を挙げておきます。「防衛ハンドブック 平成23年版/2011年/朝雲新聞社」「逐条整理自衛隊法関係規定集 下/2002年/自衛隊法覚え書編集委員会」「公益的安全保障 国民と自衛隊/2006年/大学図書/丸茂雄一」「日本土木史 昭和16年〜昭和40年」)
まず、自衛隊による道路工事の正式な呼称は、自衛隊受託工事という。
この制度の法的根拠は自衛隊法にあり、同法100条に「防衛大臣は、自衛隊の訓練の目的に適合する場合には、国、地方公共団体その他政令で定めるものの土木工事、通信工事その他政令で定める事業の施行の委託を受け、及びこれを実施することができる
」とある。
条文から分かるとおり、これは自衛隊の訓練の一環として行われているのである。
この制度の歴史は古く、自衛隊の前身である保安隊の創立時(昭和27(1952)年)に設けられている。
制度誕生の背景としては、当時の我が国は経済やモータリゼーションの急激な発展により、山間部や島嶼部のような従来の“僻地”でも道路建設の需要が大きくなっていたが、僻地ゆえに民間の土木事業者では採算があわず、引き受け手の足りない工事が多く存在していたということが挙げられる。
だが、自衛隊ならば採算性を度外視して活動ができるうえ、施設科部隊が所有する数々の大型建設重機と、その扱いに熟練した隊員がいる。
今回の塩那道路などはまさにその典型で、これだけ集落から遠い山間部の工事となると、工事用機材の輸送だけでも大変だろう。
他にも以前に紹介した新島の旧都道も自衛隊が工事を行っているが、大規模な民間土木業者が存在しない離島は、自衛隊受託工事の代表的な需要地であった。
また自衛隊の側にとっても、広大な敷地を必要とする大型建設重機の訓練を様々な条件下で行えることや、訓練のために新たな用地を取得する必要が無いことなどのメリットがあり、さらに民生協力の手段としても好適であったから、この制度は日本中で大いに活用されることになった。
自衛隊の民生協力と言えば災害派遣がその代表とされるが、受託工事が我が国の道路整備に果たした役割は極めて大きいと私は見る。
その事を確かめるために、続いて年度ごとの受託工事件数の推移を見てみよう。
昭和28(1953)年の保安隊設立から、昭和29年の自衛隊設立を経て、平成21(2009)年まで56年間に行われた自衛隊受託工事の合計件数は8263件に及ぶ。
工事の種類別に見ると、整地が5385件と最も多く、次いで道路が2245件、除雪311件、その他(「橋梁」や「通信施設」などがある)が322件である。
もちろんここには災害派遣関係のものは含まれていない(除雪などは災害派遣で行われるものも多いはずだ)。
残念ながら分かるのは件数のみで、道路の施工延長や施工箇所数は不明である(個々の箇所名も分からない)。
例えば塩那道路ならば、昭和41年から47年まで毎年1件としてカウントされている(累計7件)はずであるから、決して2245本の道路が施工されたという意味にはならない。
仮に大雑把な推定として、塩那道路の35kmが7年間で建設されたことを根拠に、1件につき平均5kmと仮定するなら、2245件で11200kmを超える道路が自衛隊の手で建設されたと見込める。
今日の(道路法による)道路の総延長は約120万kmであるから、決して侮り難い距離の道路を自衛隊の力で建設してきた事が推測できるのである(しかも難工事や危険な工事ばかり)。
だが、自衛隊による受託工事という制度は今も存続はしているものの、ほぼ役目を終えたと考えて良いようだ。
道路工事について見れば、昭和40年代前半までは年平均100件ペースで行われていたが、その後は他の工種とともに激減し、昭和60年代には毎年10件未満となり、平成13(2001)年に行われた1件を最後に、平成21年まで0件が続いている。
この理由は、もはや自衛隊を要するような僻地での道路工事が(そして僻地自体も)減少したことや、民業を圧迫することの弊害が懸念されているものと思われる。
そんなわけで、今日では自衛隊が日本中の道路を一生懸命に作ってくれたという事実を知らない人は多いと思う。
塩那道路のレポートを通じて、こんな土木の隠れたエキスパート集団の功績についても、興味を持っていただければ幸いである。