2011.1.2 13:35 《現在地》
これは一体何だ?
左岸道路の路盤を歩き出して30分後の13:35に、私は思いがけない発見をした。
ガレ谷を埋める膨大な瓦礫の隙間に、50cmほどの長さのレールを見つけたのだ。
辺りに枕木や路盤そのものはなく、ただレールだけが見えていた。
また、これまでの路盤にもレールが敷設されていたような様子はなかった。
もっとも、勾配の非常に緩やかさにその可能性を考えないではなかったのだが…
マジで… 左岸道路=廃線跡 なのか?。
さらに辺りをよく観察すると、最初の発見地点から10mほど進んだ地点でもレールを発見!
今度も1本だけだが、グネグネ曲がりながら5mくらいも露出していた。
このどちらのレールも軽便鉄道用のいわゆる軽レールであり、つぶさに測定すればその規格も判明したであろうが、この時はそこに思い至らず、単に「林鉄、鉱山軌道、或いは工事用軌道のレールと同じものだ」と判断した。そして、それだけでも私には十分な驚きであった。
もっとも、レールは路盤に敷いて使うのが基本とはいえ、廃レールを土留め工などの鉄骨として用いる事もままある。
ガレ場の崩壊した斜面内に、枕木を伴わないふた切れのレールを見つけただけで、即座に廃線跡と断定することは出来ないのである。
廃線跡と断定するためには、理想的には敷かれたままの状態と断言出来るレールを見つける事。
それが叶わぬまでも、廃車体、枕木、或いは犬釘といった、レールを軌条として用いた証拠品が出てくるまで、この発見は“参考”に留めておこうと思う。
レールを心にしまって、新たな地平へ辿りつく。
ああ! ここはなんて平和なんだろう!
崖が無いから、死にが無い! 安全地帯だ、嬉しい!!!
そしてここは何かを残すにも理想的な平坦地のようだが、レールは忽然と姿を消してしまった。
枕木ももちろん無い。
鉄道が敷かれていた証拠になるようなものは、何も見あたらない。
あれはイタズラな幻だったの…?
しかしこのように平和な場所であるが、ここを訪れる道は、私が来たハードコース1本しかないことに注目したい。
路肩から下を見ればそこは崖同然の急勾配で、遠くを早川が轟々と流れていて、もちろん橋など無いのである。
平坦地の山側に比較的若い杉の木が植えられているが、こまめな手入れは出来なさそうな場所だと思った。いずれ伐採する時には適当に索道でも敷設するのだろうが…、大変だろうなぁ……。
なお、画像に青く着色した部分は、四角い窪地になっている。
何のための物かは皆目見当がつかなかったがが、気になったので一応…。
むむッ! 何か出て来たッ!
←キャンプ場なんかにある、カマド?!
え? え? ええ?
何でそんな物が、ここに?!?!
キャンプ場なんかにある、洗い場?!→
………ウソ〜??
嘘だ嘘だ。
よく見ればこれ、土管の土台でしょ?
かつてここには何かの施設があり、この二つのコンクリートの遺物は、その残骸と思われた…。
振り返る広場の全景。
ここには、大規模な「何か」の展開を想像するに足るだけの十分な土地の広がりがある。
しかし基本的にはまっさらな更地であり、人工物の痕跡といえるものは、(1)断続する列状に設けられた浅い溝×3以上、(2)謎の台座状のコンクリート残骸、(3)土管を設置する台座状のコンクリート残骸、という三つしかない。これで「何か」を当てろと言うのはあまりに酷ではないか。
立地的に左岸道路との関連が極めて濃厚なのは間違いないが、これまで見てきた頼りのない狭隘路とは、大いに印象を異にしている。
本格的な森林鉄道や鉱山に付属する作業場の跡と言われても、全く不思議を感じない規模だった。
もし直前に見たレールが真実ならば、この広い土地には幾重にもレールが分岐する操車場然とした光景が展開していたのだろうか。
或いは幾棟もの飯場が軒を連ね、この土地で「何か」の仕事をする人々を、収容していたのであろうか…。
こんな天然の“タコ部屋”のような土地で……。
タイトルに付けた「楽園」というのは、ちょっと大袈裟だった。訂正したい。
これまでの険しさに較べて命を失う危険が無いという意味では“楽園”的だったが、ただそうだというだけで、実態はとても荒涼とした土地だった。
これを楽園などと言ったら、私たちが普段住んでいる場所は何かという話になってしまう。楽園を遙かに超越した快適さじゃないか。
謎だらけで結局何も分からなかった平坦地は、100mほどで端から端へ突き抜けて、結局また一条の道に絞られた。
そしてあの塩辛い険しさが戻って来た。
…なんかある。
13:40 《現在地》
これは、地下水路へ続く横坑だな。
左岸道路を歩き出して間もなく一度見つけており、これは二度目の遭遇となる。
コンクリートの坑門であることは前と同じだが、形はこちらの方が古風というか正統派で(普通の隧道のよう)、内部の造りも前とは違っていて水が流れ出ていない。
どうやらこちらは純然たる人の出入りのための横坑らしい。
また扁額こそないものの、何かの目印となる文字が、坑門の中央および右側に描かれていた形跡があった。白いペンキのような塗料である。
文字は擦れていて判読出来なかったが、中央の文字は「●代」、右の文字は「●●札」のように見えないこともない。しかし意味不明だ。
うは! 場違いだな〜〜(笑)。
ここだけ現代だな。
前の横坑と同じく、これも東電が現役で管理している物件なのだろう。
しかし、東電の職員がここへ来る事があっても、おそらく私が歩いてきた地上の道ではなく、地下水路を通って来ると思われる。
いずれ、施錠が厳重なので、この横坑も立入る事は出来ない。
万が一のエスケープルートにもならないわけだ。
鉄格子の奥には短い坑道と、さらにその突き当たりに
“まほうのかぎ” で開きそうな鉄の扉が見えた。
静かで、何の音も風も、ここからは漏れ出ていなかった。
広場でだいぶラクに距離を稼ぐ事が出来たので、推測される「現在地」は、蓬莱橋と青崖の中間地点を既に少し越していた。
“アノ絶対的ニ無理ナ場面”が、この道の4〜500m先に現れるというのか。
平坦な道ならほんの5分ほどで辿り着ける距離で、この道が“アノ景色”に化けるとは俄に信じがたく、また何かの誤りであってくれたらと思った。
二度目の横坑を見送った先の道も、それまでと同様程度に形を留めており、まだまだ問題無く歩く事が出来たので、なおさらそう感じた。
それからすぐに写真の小さな水流が道を横切って落ちる場面が現れたが、路盤は水によってあまり深く削られておらず、ラッキーだった。
もっとも、ここをラクに横断できたのは本当に幸運であったようで、眼下の眺めは相当にヤバかった……。
後から思えば、これが県道の対岸に見えた「瀬戸の滝」の直上だったに違いない。
そしてここで、より安全な渡渉ルートを得ようと、足元をよく観察していた私は――
犬釘を発見した!!
これは…。
これはもはや言い逃れの出来ないレベルで、あったのだな。
ここには線路が敷かれていたのだな。
左岸道路 = 廃線跡 だったのだな。
もちろん、まだ全線を通じて敷かれていたとまでは判断できないが、広場の周辺にだけ敷設する必然性が無いので、おそらく左岸道路の全線にわたってレールを敷設された過去があったのだろうと思う。
探索の時点で入手していたこの(→)昭和27年の地形図を見る限り、左岸道路は確かに「道路」なのであり、レールが敷かれていたのは現在の県道の元となった谷底の道…西山林用軌道である。
はじめは左岸道路の位置に西山林用軌道があったが、昭和27年以前に下へ移ったのであろうか?
だが、先ほどの隧道の狭さは、とてもじゃないが木材を満載したトロッコを走らせられるものではない。
やはり現状から推測する限り、西山林用軌道とは全く関係なく、左岸道路にも別の目的でレールが敷設されていたと考えられる。
そしてその目的として考え得るのは、消去法的に、一つしかないように思う。
発電用地下導水路建設のための工事用軌道である。
山腹の地表から比較的近い所を通る導水路工事では、速成のため途中何か所も横坑を設けて、そこから同時に本坑を掘進するというのがセオリーだった。
そしてこの時、横坑へ先回りするために地上に設ける工事用道路は、本坑が開通するまでの一時的な施設(工事用だから一時的なのは当たり前)なので、本格的な構造を必要としない。
そこにレールを敷いて物資輸送の効率化を図る事も多かった(=工事用軌道)が、その場合でもレールの軌間は森林鉄道の762mmよりも狭い500mmが標準であり、歩道とさほど変わらない程度の路盤を利用する極めて簡易な鉄道であった。
西山林用軌道が谷底に開通したのは昭和9年であるが、現在東電が管理している導水路の完成はいつなのか。
導水路単体の記録は未見だが、その目的地である早川第三発電所の運転開始は、大正15年と記録されている。
つまり、「左岸道路=導水路の工事用軌道」という説(工事用軌道説)が正しければ、その開通時期と(工事目的での)利用を終了した時期は、共に大正15年以前ということになる。
西山林用軌道よりも古いのだ……。
……なんという…
何という、危ない物に手を伸ばしてしまったのか!!
工事用軌道説に思いが至ったのは、まさに現地この場所で犬釘を見た時であるから、本当に身震いしながら実感した。
(それが林用軌道よりも古いと知ったのは、さすがに帰宅後の机上調査による)
こんな素性の怪しいもので早川の断崖に挑むなんて、マジで恐ろしい。
ほら見ろ…
また、のっぴきならない険悪さが満ちてきたぞ…。
馴染みの県道が、どこまでも遠く、深くへ、離れていく。
私という小さな命の孤立が、止まらない。
どこかで踏みとどまる“勇気”を顕さなければ、最後は……。
4度目かと思われる、ガレ場の登場。
そういえば、隧道まで辛うじてあった手摺りというのは、何だったんだろう…。
あれがなくなったと言うことも、東電さえ「ワレ関セズ」というエリアに入った証しなんだろうなぁ。
ともかく、このガレ場というにはよく締まった斜面も、慎重に重心を低くして無事に横断した。
着実に、少しずつ、距離を詰めていく。
青崖という、おそらくは誰しもが納得せざるを得ない、そんな“終わり”を目指して…。
あ…。
この状況で、道が切れてる…。
まさか、終わった?
お読みいただきありがとうございます。 | |
当サイトは、皆様からの情報提供、資料提供をお待ちしております。 →情報・資料提供窓口 | |
このレポートの最終回ないし最新回の 【トップページに戻る】 |
|