明るいオレンジの世界をズババババと通り抜け…
2014/1/31 13:25 《現在地》
2本の長大トンネルに挟まれた、僅かな明かり区間である「梶賀橋」へ。
橋の上からは梶賀集落が見下ろされる。
言うまでもなく、今走っているのは、過去2度の挫折を乗り越えて平成12年に完成した現国道である。
2本で合計2.4kmもあるトンネルは全線にわたって約6%の上り勾配になっていて、抜け終わる頃には結構な山の高みに出るのであった。トンネルを抜ければ、熊野市境はもうすぐだ。
13:30 《現在地》
やって参りました、現国道の梶賀トンネル南口へ。
あと500mほどで熊野市境の峠なのだが、ここはぜひとも確認したいポイントであったので、車を止めて徒歩で確認に向かうことに。
それはなにかと言えば…
次の地図を見て頂きたい。
左の地図だが、カーソルを合わせる前が現在の地形図で、カーソルオンで少しだけ古い版に切り替わる。
この古い版は「山旅倶楽部(旧)」の地図であり、もととなった地形図は平成11年修正版である。
見ての通り、古い版ではまだ梶賀トンネルを含む現国道が開通しておらず、当然のように行き止まりとなった国道が描かれている。
そして、よくよく観察してみると、本当に微妙な違いではあるのだが、古い版の国道の終点は、現在の梶賀トンネルの坑口の位置ではないのである。
おおよそ100mばかりではあるが、現在の地図からは抹消された“旧国道末端部”が存在したのではないかという疑念があった。
そして、もし本当に目論みの通りそれが存在すれば、今回の探索で初めての「廃道」になっているかもしれない。
さて、どう出るか。
いよいよ確かめる時が来た。
梶賀トンネルの坑口の脇には、特に分岐する道は見あたらないが…、
道が無いならばということで、半ばヤケクソ気味に、坑門脇の法面へよじ登ってみたらば。
やりおった! やりおった!!
地形図の新旧比較から、完全に隠されていた未成道を見つけてやった!! してやったりだ!!
この瞬間の興奮は、相当に忘れがたい。
現道からは、どんなに背伸びをしても、路肩に寄ってみても、ここに路盤があることは見えないのである。
今回ばかりは、事前に地形図で予習していなければ、絶対に気付けなかったと思うのだ。
これから降り立つ路面こそ、平成12年に現国道が開通するまでの国道311号の末端部である。
梶賀集落側の末端部からは、直線で約1km離れている。
盛り土の斜面を、転げるように駆け下った。
きっと誰からも忘れ去られている小さな路面を目指す、至福のアプローチ。
見よ!! これもまた“永久終点”の姿である。
おそらくだが、現在のように道から切り離され“隔離”されてしまう前から、一般の車はここまで入る事が出来ない状態だったのだろう。
というのも、2車線分ありそうな幅広の未舗装路面には、いかなる轍の痕跡も見られなかったのである。
この雰囲気は、まさしく未成道。
1車線ではなく2車線幅であることや、路上にあまり植物の侵入が見られないことから、この道が作られた時期はさほど昔とは思われず、梶賀第1トンネルや幻の海上橋と結ばれるべき、昭和60年前後の工事に依るものと考えられた。
旧国道ルートから現国道ルートへの計画変更に伴い、トンネル坑口の位置も変化したはずで、そのため使われなくなってしまった哀れな末端部というわけだが、一時期は国道として確かに地形図に表示されていた実績を持つ。
振り返り見る現道接合部。
何ともいえない、断絶の道路風景だった。
あの巨大な盛土の山の中に、現在の梶賀トンネルの坑門が埋設されているのであるが、そのためにこちらの道は完全に命運を閉ざされてしまった。
今のところ、この末端部は自動車が通行出来る程度の路面状態を保持しているが、現実に走行を試す事は極めて困難である。
トンネル脇の急斜面を自動車で乗り越える事がもはや不可能なので、空輸でもしなければ、ここへ運び込むことが出来ない。
もう少し時間に余裕があったら、私が自転車を連れ込んであげても良かったが、まあとても短い区間なので、実際には自転車を連れ込むメリットはない…。
そして見えてきた終点。
最後に待ち受けていたのは、このかなり大きな掘り割りであった。
ここまで、路盤に降り立った所から数えても100mほどの距離しかないが、それでも区間内の土工は完備されたものであり、例えばだが、国道から分岐する林道の跡というような事は考え難い。
明らかに2車線の道路の跡であった。
また、現在の梶賀トンネルと同じように末端部は片勾配で、行き止まりへ下り続けているのだが、最後まで上り坂であった梶賀集落側の末端とは、まさしく一体の関係を見せるものであった。
世界にひとつしかないベストパートナーが間近にいるのに、もはや永遠に結ばれないのである。
これがもし人であれば、非業といわずして何というのか。
13:34 《現在地》
これが末端。
道は最後、小さな谷筋にぶつかってぷっつり跡絶えていたが、そこに蛇篭や集水渠が施工されていた。
おそらく工事中止が決定してから、土砂の流失防止のために最後の締めくくりとして施工されたものであろう。
ここは海抜が90mほどあるが、谷筋は直接海に続いていて、廃道とはいえ漁業環境保全のための配慮はぬかりない。
なお、試みに前方の森の中にも少し侵入してみたが、そこには獣道さえ見いだすことは出来ない急斜面であった。
周囲は植林地というわけでもなく、おそらくは原始以来手付かずの海岸林といえるものであった。
道路計画の変更によって、ここの海岸林は分断を免れたのであった。
終点から振り返る、未成区間のほぼ全線。
最後の掘り割りはかなり大規模なものであるが、法面の施工は完了しておらず、今にも崩れてきそうに見えた。
とはいえ、これだけの規模であるから、末永くこの遺構は形を留めるであろう。
なお、正面奥に見える一際高い尾根が、熊野市との境である。
普通であれば、峠越えの道路工事というのは両方の麓から始まって、峠のトンネルが最後に開通することが多いのだが、ここは例外的に峠のトンネルがかなり初期に開通し、それから尾鷲市の峠道が建設される流れとなったようだ。
そうでなければ、この場所に現道開通以前の未成道があるはずがない。
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至福の未成道探索を終え、現国道へ戻ってきた。
これで探索を終えても良かったが、〆に市境の様子を見に行くことに。
13:38 《現在地》
標高100m地点が国道311号の峠で、写真の須野トンネル(全長198m)を抜ければ熊野市である。
そして私はここで、まだ記憶に新しいものを再び目にすることとなった。
それに気付いた時、私は胸がときめいた。
この銘板………!
デザインも字体も、梶賀第1トンネルで目にしたものと瓜二つである。
そして、その竣工年は1981年(昭和56年)9月と、梶賀第1トンネルのわずか4年前であった。
この発見により、国道311号の2度目の新設計画は、遅くとも昭和56年以前から工事が行われていた事実と共に、昭和56年から平成12年までの約20年もの長期間にわたって、この須野トンネルが未成道の状態で存在していたという、“過去の未成道”が明らかとなった。
おそらく、先ほど目にした終点まで工事が進んだのも、昭和56年より少し後くらいの時期であったと思う。
山行がの新ジャンル?
“過去に長期間未成道であった道”。
現在は開通した国道の一部として立派に頑張っているので、そんな暗い過去(笑)があるようには見えないが、坑門にお洒落な煉瓦風のタイル貼りを持つ梶賀トンネルに較べれば、市境という象徴的な場所にあるくせに飾り気がまるでない。これは梶賀第1トンネルとそっくりな姿である。
もちろん、内部もそれなりに古びているが、別に意識しなければ普通のトンネルであった。
とはいえ、この“新ジャンル”を楽しむ為には、やはりどうしてもこの写真と文章だけでは物足りないだろう。想像力だけでは補えないものもあるのである。
だが、ここにたいへん貴重な写真がある。
読者のkitamuramasa氏が送って下さった写真である。 ご覧頂こう。
持つべきものは“神読者さま”だと、この写真を見たときには心底思った。
この須野トンネルは、明らかに現在の須野トンネルではない。
溢れ出まくる、未成道臭!!
こいつの“暗い過去”を暴き出す一枚だった。
kitamuramasa氏は、撮影の状況を次のように述べている。
撮影したのはたぶん1993年、20年前なので記憶が若干あやしいですが、バイク、自転車の友ツーリングマップル関西の80年代後半、まだB5サイズだったころの版で「開通未定」となっていたので、もう道路できてるのかなぁ、と今思えば超甘い考えで乗り込んでみました。
甫母を通過して次の集落を過ぎると、道が2車線幅になったかわりに、アスファルト舗装はクルマの轍ができるほど風化してぼろぼろ(最初砂利道かと思った位)、路肩の雑草で実質1.5車線幅状態と管理が全然されていない状態になり、なんかマトモな道路じゃないぁ、引き返そうかなぁ、と思っていたところに、路駐しているクルマとトンネルが現れて、安心した記憶があります。
とのことで、この写真は平成5年に撮影されたものである。
当時、須野トンネルは開通から12年を経ていたはずだが、見ての通り照明も取り付けられておらず、見るからに未成道だ。
kitamuramasa氏はオブローダーの先人の鑑というべきで、この無灯火の不気味なトンネルを見事に通りぬけて、その先も撮影してくれていた。
当時のトンネル内と、南口(尾鷲市側)の状況は、次のようであったという。
トンネル内部はアスファルト舗装も照明もされてなく、尾鷲側の坑門から先は整地しただけで無舗装、草ぼうぼう、踏み跡はありましたが、すぐ先の地点から木が生えている状態で、ロードモデルのバイクで突っ込んでいける感じではなかったです。
この須野トンネルから南口を通して尾鷲市側を眺めた風景は、当時の国道の限界を表している。
昭和56年には市境を穿つトンネルが早くも完成し、国道は尾鷲市内へ達していたのだが、尾鷲側の終点である梶賀集落までの下り1kmが最後の難所で、そこに3本のトンネルと海上橋を設ける予定であった。
坑門の向こうに見える青い山並みが、最後まで障壁として立ちはだかっていた。
この“草ぼうぼう”の600mほど先に、終点(先ほど見た終点)は眠っていた。
蘇った国道。
須野トンネルは、kitamuramasa氏の訪問の7年後に見事、供用開始の幸運を射止めることになった。
だが、この当時には、「このまま開通しないのではないか」と疑っている人もいたことだろう。
私の経験上でも、10年以上工事が止まっていると、危険信号が点灯する。(ここは開通まで20年かかった)
逆にいえば、我々が今の時代に触れている未成道達にも、明暗あい様々な未来が待ち受ける事が分かる。
やっぱり私は、未来の可能性に賭ける未成道達が大好きだ。