色々と過去の集落や道路の有り様を想像して、思いのままに書き連ねることは楽しいが、それだけでは空想に虚しさを憶える事もある。
特に、わざわざ時間を割いてまで空想に付き合わされる読者諸兄にとっては、なおさらだろう。
なので、ここで少しページを割いて、少しくらい根拠のある話をしたいとおもう。
とはいえ、残念なことに一番期待していた資料は空発に終わった。
探索後に取り寄せた「那智勝浦町史」と「古座川町史」のどちらも、本編が採り上げている道路や集落の歴史を解き明かす助けには、(ほとんど)ならなかったのである。
やはり、これらの町の中にあっても、ここは辺境に過ぎたと言う事なのだろう…。
だが、地形図は私の期待を裏切らなかった。
非常に見どころの多い歴代地形図(+α)の変遷を、ここでご覧頂こう。
ご覧頂く地図は全部で4枚ある。
1枚目は、この地を描いた地形図としては一番古い、明治44年測図版である。
集落と思われる地点(具体的には家が2軒以上まとまってある場所)を赤い○で強調しているが、こうして見ると、小匠よりも奥にも樫山だけでなく数多くの集落が存在した事が分かる。
特に上流部の集落は、耕作地となりそうな平坦地をほとんど持たない、純然たる谷間の山村であったようだ。
即ち山仕事で生計を立てていたものと思われ、紀伊半島の多くの山村と同様に製炭業が専らの生業ではなかったかと想像する。
だからこそ、木炭の需要が失われてしまえば、生活の困難に直面しただろうことが容易く想像出来る。
金銭を稼ぐ手段が失われた状態で、食糧自給の手段に乏しい谷間に住み続けるのは、極めて困難であろう。
ここに描かれた8つの集落も、小匠以外は既に無人になってしまった。
続いては、これらの集落へ通じる道に注目したい。
明治44年の図では、山の中の集落には車道が通じておらず、江戸時代とさほど変わらぬ、山越え最短距離の歩きの道が使われていたようだ。
徒歩道を示す破線は沢山描かれているが、より重要度が高い二重線の里道に着目すると、樫山〜クジヤ平〜山手ノ川〜高野を結ぶ山越えの道が目を引く。
他にも小匠から高野へ向かう道、小匠から亀ノ黒を経て稲荷山(から樫山)へ向かう道なども里道だが、いずれも山越えである。
そして、いずれの里道も「荷車を通せざる道」として描かれていて、車道ではなかった。
2枚目は、1枚目の42年後を描いた、昭和28年応急修正版である。
集落の配置は変化が無く、少なくとも地図の上では全ての集落が健在だった(クジヤ平は地名の注記が消えており、風前の灯火に見えるが)。
だが、集落間の道路の姿には、大きな変化がみられる。
ここでも二重線の里道に着目したいが、小匠から亀ノ黒を経て小匠川沿いに遡る道が新たに出現しているのである。
そして、この道は車道として表現されている。
さらに道は「現在地」と注記した高野川と小匠川の合流地点で二手に分かれ、1本は高野川沿いに高野集落へ通じているし、もう1本は小匠川から山手川へ入り、山手ノ川集落まで伸びている。
よく見れば、これらの道には隧道も描かれている。
上流部の集落にとって、この車道が新しい生活の生命線になったことだろう。
これらの川沿いの車道こそ、現在ある林道樫山小匠線およびその支線群である。
まとめると、現在は小匠ダムによって半水没状態にある小匠川沿いの林道は、ダムがつくられる以前の昭和28年当時から存在し、高野や山手ノ川といった上流部の集落へ達していたが、樫山までは通じていなかった。
「現在地」で発見された栃の川橋の旧橋台は、この当時の遺構と考えられる。
3枚目は、前の地図のわずか12年後を描いた、昭和40年測量編集版である。
経過した時間は僅かだが、地形図の図式の変化と共に、大量の集落がリストラされてしまった。
集落の消滅と共に地名の注記も大幅に減り、前の地図と見較べるといかにも寂しい。
大きな変化としては集落の大幅な消滅が第一だが、亀ノ黒地点に小匠ダムが出現したのも重要だ(昭和34年竣功)。
だが、ダムによって道は付け替えられた形跡は無く、この時点から洪水時には下流の無事を守るために率先して水没するという、義侠的な宿命に縛られることになった。
そんな、「いざとなったら役に立たない道」に全てを頼る生活は、どんなものだろうか。
前述した産業構造の変化に伴う山村過疎の時代に入って、林道が一旦は命脈を繋いだかに見えた山手ノ川や高野といった上流部の集落は、たちまち姿を消した。
しかしその一方で、遂に樫山へ車道が到達した。
従来の小匠川沿いの道は、山手川へ入って終わっていたが、ようやく本流へ延伸されたのである。
こうして、自らが所属する古座川町ではなく、お隣の那智勝浦町からだけではあったが、ようやく車で訪れる事が出来るようになった樫山。
だが、既に描かれている家屋の数は5軒ばかりまで減っており、周辺集落もなくなった状況で、孤立感が一層際立って見える。
そして最後の4枚目は、縮尺の関係で地形図ではなく、平成25年版のスーパーマップルデジタルから切り出した。
遂に範囲内の集落は小匠だけになり、かつて村々を結んでいた道路も、小匠ダム以奥は破線(徒歩道)に落ちぶれている。
その一方で、定住者がなくなった集落へ、「遅ればせながら」といった感じの道路整備が進んでいる。
樫山では古座川町中心部へ通じる新しい林道が開通し、高野にも、長大トンネルを含む「ふるさと林道小匠小森川線」が通じた。
もっとも、この時期の道路整備も無駄ではないと個人的には思う。
定住者がいなくなっても、集落跡に山林などの財産や、お金に替えられない想い出を残している旧住民は多いだろう。
廃村と共に道が廃れて辿り着けなくなってしまった集落跡は、本当に救いがない。
そういう意味でも、沢山ある廃村の中でも一番に不憫なのは、山手ノ川集落だったかもしれない。
古座川町と那智勝浦町のいずれから見ても一番どん詰まりの最奥で、その僻遠ぶりは樫山を遙かに超越して、不気味でさえある。
【歴地形図調査のまとめ】
林道樫山小匠線の元となった川沿いの道路は、(明治44年以降)昭和28年以前に、小匠〜山手川出合まで開通していた。
山手川出合〜樫山間は、昭和28年から40年の間に開通した。
(本編はここで一区切りで【第一部完】。 次回は寄り道から。)