道路レポート 林道樫山小匠線  第5回

公開日 2014.4.27
探索日 2014.3.27
所在地 和歌山県那智勝浦町〜古座川町

単なる林道とは思えない風格を見せつけた 〜樫山街道〜



1.前代未聞のダム貫通林道!
2.前代未聞の水没林道!
上記2つの“前代未聞”は、林道樫山小匠線を那智勝浦町小匠からスタートし、古座川町樫山へと向かう全長8kmのうち、前半の4kmに存在していた。
もはや、これだけでも「ただの林道」では到底片付けられない“衝撃的道路”であったが、まだ道は後半の4kmをまるまる残している。

果たしてそこには、どんな光景が待ち受けているのか。そして、その先に待ち受ける樫山とは、いったいどんな場所なのか。
私の期待と不安はいやが上にも高まったが、そんな後半戦の始まりは、意外な光景からだった。



↑ これは、前回最後のシーン。

水から上がって、再び“陸路”を走り始めたのは、7:34 だった。

そして、このわずか2分後の風景

↓↓↓



7:36 《現在地》

あの壮絶な水没林道が、まるで何事もなかったかのように“復活”しているのが、まず面白かった。
砂利道は明らかに廃道ではない現役道を示しており、水没さえなければ、ここまで車が入っているのだと分かった。

そして、もうひとつ目を引いたのが、林道にしては妙に年季を感じさせる橋の出現だった。
橋の欄干がガードレールではなく、コンクリートであること。その苔むし方。いずれも古風を示していた。



この古びた橋の雰囲気は、私に懐かしさと、その根底に横たわる、ある種の生活感を感じさせた。
この道は山仕事の専用道路ではなく、集落間の往来にも(生活道路として)利用されていたのではないか。
現在は林道と名付けられている道であるが、別の出自を有するのではないか。

そして、こうした印象を持ったのは、私が事前にこの道の行き先が樫山という廃村であることを知っていたからではない。
例外はあるものの、基本的に我が国における林業専用道路としての林道の歴史は浅いので(昭和40年代以降がメイン)、林道に古い橋はあまりない。
そしてその例外についても、林道では、よほど橋の規模が大きくない限り木橋をもって間に合わせる事が多かった。

つまり、林道にこのような規模(木橋で事足りる規模)の古い永久橋がある場合、林道以外の目的に(も)利用されていた可能性が高い。
過去の山行がの例で言えば、森茂橋などが、まさにそうであった。




論より証拠。
親柱に掲げられた4枚の銘板の一枚が、その竣工年をはっきりと刻んでいた。

昭和三十三年九月架設

林道で目にする橋としては文句なく古い。
また残りの銘板もチェックすると、それぞれ「栃の川橋」「とちのかわばし」「とちのかわ」の表示であった。

橋の下を流れているのは、ちょうどこの場所で小匠川へ合流している支流で、地形図には「高野(たかの)川」と注記があるが、橋が架された当時は栃の川と呼ばれていたのだろう。
こうした現在の名前との不一致にも流れた月日の大きさを感じる事が出来るが、さらに明確な変化の痕跡も見つける事が出来た。



栃の川橋の隣には、なんと旧橋の橋台がその原形を留めていた。

旧橋台も現在の橋台と同様にコンクリート製ではあるが、水際に四つの凹みがあり、木橋であったことが分かる。凹みに方杖の木桁を架け渡していたのだろう。
そして、おそらく旧橋もその幅から考えて、車道だったように推測される。

ただえさえ林道らしから古びた橋だが、さらなる旧世代の痕跡まであるとは侮れない。
ここまでは「奇抜さ」をウリにしてきたこの道だが、後半戦に入り、そうやら別の骨太な一面が見えだしたようだ。
面白い。




栃の川橋を渡った先は、丁字路になっていた。

林道の本線はここをやや濃い轍に倣って左折するわけだが、右折の明らかに鄙びた感じの道も、これまた侮れない感じがした。
ただの脇道、林道支線ではない予感。

その入口には、次のような古ぼけた看板が立っていて…。




通 行 止
この道路は林道工事の
ため高野方面に通りぬ
ける事が出来ません。
          那智勝浦町

町が設置した案内板があるということは、やはりこの道は町道だったのか。
少なくとも、林業関係者以外の往来が予期されていたという事が伺える。
そして、現在の地形図に高野という地名はないものの、前述した通り高野川という川が流れており、大字名が分かる地図で確認すると、上流一帯の山林が高野という大字になっている。

どうやら、小匠川上流の樫山と同じように、かつて高野川の上流に高野という集落があったようだ。そして、この道がそこまで通じていたのであろう。




歴代地形図解説編


色々と過去の集落や道路の有り様を想像して、思いのままに書き連ねることは楽しいが、それだけでは空想に虚しさを憶える事もある。
特に、わざわざ時間を割いてまで空想に付き合わされる読者諸兄にとっては、なおさらだろう。
なので、ここで少しページを割いて、少しくらい根拠のある話をしたいとおもう。

とはいえ、残念なことに一番期待していた資料は空発に終わった。
探索後に取り寄せた「那智勝浦町史」と「古座川町史」のどちらも、本編が採り上げている道路や集落の歴史を解き明かす助けには、(ほとんど)ならなかったのである。
やはり、これらの町の中にあっても、ここは辺境に過ぎたと言う事なのだろう…。

だが、地形図は私の期待を裏切らなかった。
非常に見どころの多い歴代地形図(+α)の変遷を、ここでご覧頂こう。
ご覧頂く地図は全部で4枚ある。


1枚目は、この地を描いた地形図としては一番古い、明治44年測図版である。

集落と思われる地点(具体的には家が2軒以上まとまってある場所)を赤い○で強調しているが、こうして見ると、小匠よりも奥にも樫山だけでなく数多くの集落が存在した事が分かる。

特に上流部の集落は、耕作地となりそうな平坦地をほとんど持たない、純然たる谷間の山村であったようだ。
即ち山仕事で生計を立てていたものと思われ、紀伊半島の多くの山村と同様に製炭業が専らの生業ではなかったかと想像する。
だからこそ、木炭の需要が失われてしまえば、生活の困難に直面しただろうことが容易く想像出来る。
金銭を稼ぐ手段が失われた状態で、食糧自給の手段に乏しい谷間に住み続けるのは、極めて困難であろう。
ここに描かれた8つの集落も、小匠以外は既に無人になってしまった。

続いては、これらの集落へ通じる道に注目したい。
明治44年の図では、山の中の集落には車道が通じておらず、江戸時代とさほど変わらぬ、山越え最短距離の歩きの道が使われていたようだ。

徒歩道を示す破線は沢山描かれているが、より重要度が高い二重線の里道に着目すると、樫山〜クジヤ平〜山手ノ川〜高野を結ぶ山越えの道が目を引く。
他にも小匠から高野へ向かう道、小匠から亀ノ黒を経て稲荷山(から樫山)へ向かう道なども里道だが、いずれも山越えである。
そして、いずれの里道も「荷車を通せざる道」として描かれていて、車道ではなかった。



2枚目は、1枚目の42年後を描いた、昭和28年応急修正版である。

集落の配置は変化が無く、少なくとも地図の上では全ての集落が健在だった(クジヤ平は地名の注記が消えており、風前の灯火に見えるが)。

だが、集落間の道路の姿には、大きな変化がみられる。
ここでも二重線の里道に着目したいが、小匠から亀ノ黒を経て小匠川沿いに遡る道が新たに出現しているのである。
そして、この道は車道として表現されている。
さらに道は「現在地」と注記した高野川と小匠川の合流地点で二手に分かれ、1本は高野川沿いに高野集落へ通じているし、もう1本は小匠川から山手川へ入り、山手ノ川集落まで伸びている。
よく見れば、これらの道には隧道も描かれている。
上流部の集落にとって、この車道が新しい生活の生命線になったことだろう。

これらの川沿いの車道こそ、現在ある林道樫山小匠線およびその支線群である。

まとめると、現在は小匠ダムによって半水没状態にある小匠川沿いの林道は、ダムがつくられる以前の昭和28年当時から存在し、高野や山手ノ川といった上流部の集落へ達していたが、樫山までは通じていなかった。
「現在地」で発見された栃の川橋の旧橋台は、この当時の遺構と考えられる。



3枚目は、前の地図のわずか12年後を描いた、昭和40年測量編集版である。

経過した時間は僅かだが、地形図の図式の変化と共に、大量の集落がリストラされてしまった。
集落の消滅と共に地名の注記も大幅に減り、前の地図と見較べるといかにも寂しい。

大きな変化としては集落の大幅な消滅が第一だが、亀ノ黒地点に小匠ダムが出現したのも重要だ(昭和34年竣功)。
だが、ダムによって道は付け替えられた形跡は無く、この時点から洪水時には下流の無事を守るために率先して水没するという、義侠的な宿命に縛られることになった。

そんな、「いざとなったら役に立たない道」に全てを頼る生活は、どんなものだろうか。
前述した産業構造の変化に伴う山村過疎の時代に入って、林道が一旦は命脈を繋いだかに見えた山手ノ川や高野といった上流部の集落は、たちまち姿を消した。
しかしその一方で、遂に樫山へ車道が到達した。
従来の小匠川沿いの道は、山手川へ入って終わっていたが、ようやく本流へ延伸されたのである。

こうして、自らが所属する古座川町ではなく、お隣の那智勝浦町からだけではあったが、ようやく車で訪れる事が出来るようになった樫山。
だが、既に描かれている家屋の数は5軒ばかりまで減っており、周辺集落もなくなった状況で、孤立感が一層際立って見える。



そして最後の4枚目は、縮尺の関係で地形図ではなく、平成25年版のスーパーマップルデジタルから切り出した。

遂に範囲内の集落は小匠だけになり、かつて村々を結んでいた道路も、小匠ダム以奥は破線(徒歩道)に落ちぶれている。

その一方で、定住者がなくなった集落へ、「遅ればせながら」といった感じの道路整備が進んでいる。
樫山では古座川町中心部へ通じる新しい林道が開通し、高野にも、長大トンネルを含む「ふるさと林道小匠小森川線」が通じた。

もっとも、この時期の道路整備も無駄ではないと個人的には思う。
定住者がいなくなっても、集落跡に山林などの財産や、お金に替えられない想い出を残している旧住民は多いだろう。
廃村と共に道が廃れて辿り着けなくなってしまった集落跡は、本当に救いがない。

そういう意味でも、沢山ある廃村の中でも一番に不憫なのは、山手ノ川集落だったかもしれない。
古座川町と那智勝浦町のいずれから見ても一番どん詰まりの最奥で、その僻遠ぶりは樫山を遙かに超越して、不気味でさえある。



【歴地形図調査のまとめ】

林道樫山小匠線の元となった川沿いの道路は、(明治44年以降)昭和28年以前に、小匠〜山手川出合まで開通していた。
山手川出合〜樫山間は、昭和28年から40年の間に開通した。


(本編はここで一区切りで【第一部完】。 次回は寄り道から。)