道路レポート 林道樫山小匠線  (高野への脇道編)

公開日 2014.7.23
探索日 2014.3.27
所在地 和歌山県那智勝浦町〜古座川町

「通行止」で始まっていた脇道へ寄り道する




7:38 《現在地》

「う〜ん。 これは気になるなぁ…。」

私は朝から林道樫山小匠線を探索中で、樫山の廃村を目指して進んでいる最中なのだが、序盤の尋常ならざる水没を無理やり突破した先に待ち受けていたのは、写真の案内板が入口に立つ1本の脇道だった。

地図を確認すると、この脇道も今までの道と同じく破線(徒歩道)で描かれているが、ここから500mほど先にはごく短い隧道があることになっている。
往復1kmほどの寄り道で、1本多く隧道を体験できる可能性が高いのである。

寄り道します!



脇道…といつまでも呼び続けるのは悲しいので、正式名は分からないものの高野川沿いの林道なので、林道高野(たかの)線(仮称)と呼ぶ事にしよう。
で、この脇み… 林道高野線(仮称)だが、初っ端からよい眺めで私をワクワクさせてくれた。

この川の近さは先ほどまでの本線譲りだが、水量は半分くらいになっていて、清流というものを感じさせる。これでも平時よりは相当増水しているのだろうが、とりあえず再び水没の困難に直面することは無さそうだと安心した。

そして、空が白く明るく見えるのは、谷を覆っていた霧や雲が今まさに地上を離れようとしているからだ。少し上空には既に透き通った青空が広がっているに違いない。
刻一刻、明るさと春の温かさを増していく谷の清気に、私は今日の晴れを改めて確信していた。
このタイミングでこの谷の道を味わえる私は、きっともの凄く幸運だったと、先ほどまでの苦闘を忘れたかのような喜びの感想を持った。私は無邪気だった。



自転車で楽しむならば、こんなに素敵な道はそうそう無いと思う。
だが、同じ“クルマ”でも四輪の自動車で体験しようとするのは、おそらく自殺行為である。

この道幅の狭さは、さすがにキツイ。
本線にも狭い箇所はあったが、向こうはもう少し路肩も路面もしっかりしていた。しかしこっちは、苔むした石垣が有ったり無かったりで、路面については完全未舗装のままである。
挙げ句の果てには、崩れた路肩には木柱で支えられた鉄板(ガードレールだし…苦笑)桟橋を宛がうなど、誰が直したか知らないが、好き放題である。

小匠川の水位が平常通りならば、小匠ダムを経由して、ここまで車で来ることが出来るだろうが、敢えてこの道に入り込む事はオススメしない。
(そんなことを書かなくても、写真を見れば十分承知して貰えるだろう…。あと、2輪の人も“ガードレール”に乗ったら転ぶからね…)




7:45 《現在地》

うおっ!来たか!!!

脇道に入って300mほど進んだ所で、突然道路脇の山肌にぽっかりと坑口が開いているのを見つけた。

これに色めきだったのは最初の一瞬だけで、すぐにこれが地図に載っていた隧道ではないと分かった。
場所が違うし、道自体も隧道へ入らずに先へ向かっている。
これは、道とはあらぬ方向へ向かう、全く別の穴だ…。

近付いて中を覗いてみる。



中は、結構な深さで水没していた。

断面の大きさも人道程度でしかなく、奥は緩やかに曲がっていた。
そのため奥行きは分からないが、入口に風が無く冷気もほとんど感じられなかったから、規模は大きくないだろう。
その進行方向は、隧道を明確に否定している。正体は“隧道以外の何か”である。

私はここまでの探索で既に太腿近くまで水に浸かっていたし、この穴に入ることも、濡れるという意味においては問題にならなかったが筈だが、逆に私は綺麗な川の水で洗われたばかりの体を、泥に澱んだ溜まり水に浸したくないと思ってしまった。 無論、隧道であれば気持ちを殺して調査したのだが、こいつの正体はたぶん…。

こいつの正体は、おそらく炭鉱の廃坑跡(採掘坑か試掘坑か)であろう。
後日『那智勝浦町誌上巻』を確認したところ、小匠地内に鉱区を有する小規模な炭鉱の存在が記録されていた。



穴を素通りして更に進む。

道は相変わらず狭く、山と川のギリギリ鬩ぎ合う隙間を、なんとも頼りなさげに続いていた。
いつ大規模な崩壊現場に行き当たるのだろうかと内心ヒヤヒヤである。

だがそんな心配を余所に、道の荒れ方は依然として乗車で進める範疇に収まっていた。
そのため、この道が本当の廃道ではないということが徐々に分かってきた。
先ほどの桟橋もその証拠なのだろうが、この道は今も何者かによって、“ほどほどに”、守られているようだった。




ざばざばと、山から勢いよく溢れ出た水流が、道を崩しながら横断していた。

完全に放置していたら、ほんの数年で通行不可能になりそうな場面なのに、未だこうして道形を保っているということは…?




そしてその直後に現れた、かつて1度は道全体を斜面に変えてしまったであろう規模の土砂崩れ現場。

現在も崩れは収まっていないようだったが、この土砂の山を強引に横切って、辛うじて軽トラが通行できる程度の平場が作られていた。

……いや、おおよそ普通の神経ならば、ここを軽トラでも走りたいなんて思わない筈だが… でも、確かに四輪の轍があったんだぜ…。




怪しげなモッコリ斜面を突破すると、

「ああ、これは来たな。」と分かる場面キタ。この暗がりはもう…。




7:50 

地形図に載っていた隧道キタコレ。

入口の旁らには、前に本線でくぐった隧道でも見た「高さ制限2.0m」の規制標識があった。
前のと同様に小さい、完全な素掘隧道である。
これを「取るに足らない」と言ってしまうのは容易いことだが、それでも余計に味わいたいと思うのは、この隧道が大切な生活道路の一部だったからだ。
その事を知っているから。

前回の古地形図による解説で登場した高野集落は、この先にある……あった。
それもまだ随分先で、本線分岐地点から数えて5km、ここからでもまだ4.5kmの奥である。
今でこそ高野へ行く道は完全舗装路の「ふるさと林道」に取って代わられているが、集落が健在であった時代を支えていたのは、むしろこの道なのである。
車が通れる道はこの道だけという時代が、集落が消滅する時まで続いていたはずだ。
村へ来る人、去る人、皆このトンネルをくぐったのだと思えば、私ごとき部外者が外見だけ見て「取るに足らない」と評するのは、私自身がこの隧道を味わう芽を棄てているに等しい。
いろいろ想像力を働かせれば、同じ風景だって何倍も楽しいぜ。




道が、つまらなければ…

隧道だけをチェックして、引き返すつもりであった。

だが私の出した結論は、探索続行。
ここでは引き返さず、「ふるさと林道」との合流地点までちゃんと面倒をみて貰うことにした。
あともう1kmほどであるから、この調子なら大した時間もかからないだろう。
私はいつもそうだが、引き返すのがヘタクソで、情がうつってしまうと簡単に見捨てられない。

隧道を抜けると、大量の流木に遭遇した。
それは道路上にも溢れださんとするほどで、おそらくは前夜の増水によるものだろう。




更に進むと急に谷幅が急に広くなり、これまでの険しさが嘘のように穏やかな山間の風景となった。

地形の緩和に伴い道幅も幾らか広くなったが、同時に水面との高度差が失われ、また水没するのではないかという危険を感じた。
しかし、空には抜けるような青空が見え始めている。
もはやあの怖ろしい激流の時は過去のものだった。川の水量は平穏を取り戻しつつあり、恐れた場面はもう現れなかった。

そしてそんな危機とは反対に、私はここでこの寄り道が正解だったと確信することになった。

ここには、嬉しい発見があった。




7:56 《現在地》

ここには、路傍に佇む一体のお地蔵さまがいた。

本当に一体だけ、ぽつんと。

周りには、何もない場所。

洪水になれば容易く押し流されてしまいそうなのに、そうなっていない。

これが神秘の力に依るのでなければ、先人の知恵がここを選んだ為だと思う。

そして、このお地蔵さまの“有り難み”は、それがあることによる平穏な美しさだけではなかった。




非常に地味でスミマセン。でも、私はこれがタマリマセン。

この柔和なお顔のお地蔵さまは、旅人に心の安らぎを与えるだけでなく、現実の旅の助けもしてくれる存在であった。
道標を兼ねたものだったのである。

残念ながら、私の力では書かれている文字の一部分しか読み取る事が出来ない。
しかし、それでも散見される地名によって、その意図を大まかには理解出来たし、ここにより古い時代の道が通っていたということの証明でもあった。

小匠ヨリ 右ハ●●ミち
左は しんミち山手ノ川●

小匠村総代上野政治

解読にご協力下さい!→【お地蔵さまの大きな画像】

果たしてこの“道案内地蔵さま”は、いつの時代のものなのだろう。
台石におそらく寄進者のものとおもわれる「小匠村総代上野政治」の記名があるが、江戸時代の庶民は公的に名字を名乗ることが出来なかったという話しに照らせば、明治以降のものだという判断材料になるのか。だが、村の総代ともなれば、名字を名乗ることが許されていた知れないし、私にはこれ以上突き止めることが出来なかった。
ただし、村名としての小匠村は明治22年に消滅しているので、それ以前だとは思われる。

いやぁ。 いいもの見たで〜。

道標で私が解読出来なかった「小匠ヨリ 右ハ●●ミち」の部分だが、レポート公開後に多くの読者さまからいくつかの解読例が示された。ここでは追記として、特に有力ではないかと思われる2例を紹介したいと思う。

<解読例1> 右ハた(多)か(可)の(能)ミち 
<解読例2> 右ハと(止)ち(知)の(能)ミち 

いずれも変体仮名を利用したものである。例1の「たかの(高野)」という地名は説明不要だろう。例2の「とちの(栃の)」についてだが、この道が添っている川の名は地形図に「高野川」とあるものの、レポート第5回で紹介した通り、この川を渡る昭和39年架設の橋の名は「栃の川橋」であった。
私の知識では、このいずれが正解であるか。或いはまた別の正解があるのか判断できないが、皆さまのご意見を引き続き乞う。
2014/7/25 追記


なんという巡り合わせ?

タイミングが神懸かっているように感じた。
お地蔵さまで和んでいる私を、2日ぶりの日光が照らした。
昨日は一日中見る事が出来なかった太陽だ。
風景に新たな陰影が加わり、新鮮な美しさを与えていく。

こんな道ならいつまでも続いて欲しいと思った私だが、前進を再開してまもなく、対岸の高い所に白いガードレールが現れ始めた。
いよいよ、「ふるさと林道」がお迎えに来たらしい。




ゴールはもう見えるほどに間近!

だが、最後にもうひとつ、

いや、

ふたつ、

難関が待ち受けていたのである。

そのひとつめが、この見るからに怪しい“ベニア板橋”



そしてふたつめが、そのすぐ先に見えていた…

全面決壊!

このふたつの難所を突破しなければ、「ふるさと林道」は私を拾い上げてくれない。

ここまではどうにか廃道化を免れていたのに、ゴール直前の最後の場面でこうなっているとは予想外だった。
それも昨晩の大雨が原因というわけではなくて、だいぶ前からこのままだったように見える。

つまり、小匠から樫山へ行くのに本線の水没区間を嫌って林道高野線(仮称)を迂回する手は、地図上では繋がっていても、実際には使えなかったということになる(自転車や徒歩ならば使える)。



…この橋…(苦笑)…。

橋台はちゃんとしたものだ。
その上に乗せられている3本の鉄骨も、まあ車道橋としては随分華奢だと思ったが、許せる。
しかし、鉄骨の上に乗せられた大切な路面が、これって……。
荷物を満載した自動車を支えられたのか、…ベニア板だぞ…。
ベニア板。

しかも、ベニア板の黄色い表面は、思いっきりツルッツルである。
探索時は濡れていたので、真面目におっかなかった。
自転車に乗ったまま走ったら、高確率で転倒して橋から落ちる(だろう)。

まあ、そんな板さえ、もはやほとんど失われていたのだが。
遠からずこの橋は、ただの骨組みだけになってしまうだろう。



そしてこれ。

最後の難関でござる。

ごっそり、ぜんぶ道が落ちていました。


結論から言うと、ここは自転車同伴で突破することは断念した。
担いで進めば不可能では無いが、リスクを冒すだけのリターンがない。
このすぐ先で「ふるさと林道」に合流しており、私はそこで引き返すつもりなのだから。

ここは自転車を残したまま、身軽になって突破した。
それでも余りオススメはしない。歩ける部分がとても狭く、バランスを崩せば擁壁の残骸へ真っ逆さまだ。




8:16 《現在地》

分岐から1.5km、探索時間35分で、「ふるさと林道」との合流地点に到達。
ふるさと林道の完成に伴って植樹されたと思しき桜が、3分咲きの麗姿で私を出迎えてくれた。

最後の最後で自転車をはぎ取られたが、なかなか密度の濃い寄り道だったと思う。

この先、高野集落跡まではまだ3km近くあり、途中にはさらにもう1本トンネルがあるようだが、地図読みからそこは「ふるさと林道」に改築されていると判断した。
そのトンネルも林道高野線として誕生した歴史あるものなので、実際に行ってみれば何か発見があるかも知れないが、これ以上の寄り道はメインの探索に障りかねない。  ここで、撤収だ。



最後に、「ふるさと林道」の高野橋の上から見下ろす、“ベニヤ板橋”の奇妙な姿をご覧頂こう。

高野橋は、銘板によると昭和63年の竣功であるという。少なくともその頃まで下の道が主役だったということだ。


このあと私は来た道を素早く引き返し、13分後には本線の探索を再開した。