2008/5/31 16:00 《現在地》
駆け足で辿る最終アプローチ。
地形的にもう私を阻む難所はない。
わずか数分で、最後の切り返しに辿り着いた。
標高1190m付近、峠までは残り400mの位置にある最終切り返しだ。
だが遂に16時になった。相変わらず携帯の電波はなく、帰りの送迎時刻の延期を連絡できない。
ごめんなさい。
1時間前に、「1時間だけ延長」を誓った気がするが、もう一度だけ延長します。
ここで時間切れなんて、死んでも嫌。
そしてこの地点は、SC(ショートカット)尾根の上口でもある。
本日の帰路は、ここをショートカット下山ルートに使うことを計画しており、成功すれば次回の塩原側の探索でも活用するつもりだ。というか、次回を山中泊装備無しで終えるためには、今回辿ってきた道を馬鹿正直に下ることは絶対に避けねばならない。
道から見下ろす限り、そこは地形図で見たとおりの単調な印象の斜面だった。
かなり急ではあるが、下って行くことはできそうに見えた。
しかし下山のことより、まずは峠。
峠を極めないと。
切り返したら、思い出したように踏み跡が現れた。
復元の手はまだここに及んでいないと思うが、逸った人々も辿り着いているであろう。
もはや道はほとんど勾配を失って、ただ峠の方へ伸びている。
峠まで、あと300m。
気付けば雨は上がっており、霧か雲も少し晴れた。
代わりに空が近い。どんよりとした空だが、それでも頭上に占める割合が広いと開放感がある。
わくわくする。
憧れの三島に、もう少しで、逢える気がする。
ああ。 来たな。
遠くに、右カーブが見えてきた。
同時に、前から風が吹いてきた。私の濡れた顔に、冷たい圧力がぶつかってきた。
実測図と、地形図と、景色と、風と、私と。
その全てが、このカーブの先にある峠を予告していた。
↓そのときの動画↓
16:08 《現在地》
桃の木峠、到着。
山王峠の下を出発して、約7時間30分。
塩原新道のうち、日光市内にある全行程約12kmを踏破し終え、
桃の木峠(海抜1200m)に到着した。
たどり着いた峠は、美しかった。
自然の神秘ともいうべき、極めて整った鞍部に、
これまでより広い平らな直線道路が整然と走って、峠の向こうへ消えていた。
地形図を見れば、峠の両側の等高線が、ここに天造の通路を与えている。
塩原新道の時代に地形図はなかったが、この地形を目の当たりにすれば、
その開削が天の意に沿ったものであるとさえ、信心深い当時の人は感じたことだろう。
三島は天与の鞍部の地形を均して、道としての形を与えたのである。
おそらくこの道の跡は、今日の古代遺跡と呼ばれるものがそうであるように、
今後、数千年は形を留め続けると思われた。
峠の掘割りは、本当に一直線に鞍部を貫いている。
ほとんどは天然の鞍部利用であり、人工的な切り下げは最大でも10m程度だと思う。
だが両側法面の上部は100m以上の比高を持つ稜線斜面であり、ここは本当に恵まれた鞍部だ。
道幅は非常にゆったりとしており、6m以上はあろう。現代の道路のようだ。
そんな掘割り部分の長さは、180m(百間)くらいある。恐ろしく真っ直ぐに、抜いている。
路面の状況も、藪や泥濘がなく良好で、少し倒木を寄せれば馬車の通行を再開できそう。
こんな恵まれた峠だが、人が来た痕跡はごく微かな踏み跡だけだ。
空き缶が捨ててあったりもしない。安易なピンクテープさえない。
荘厳な峠との語らいを邪魔するものは、なにもない。
これらの写真は同じ場所ではなく、掘割りを奥へ移動しながら撮っている。
写真ごとに法面の高さや木々の配置、そして植生にも変化があるのが分かるだろう。
だがとにかく ずっと真っ直ぐ である。
そしてこの写真は、長い長い掘り割りのおそらく中央付近で、前方の塩原側を撮影した。
ちょうどこのあたりが、日光市と那須塩原市の境界であるはずだが、それと分かるものは何もない。
到達時点で予定より1時間8分も遅れているから、峠を目視して確認したら即座に
引き返すつもりであったが、切り通しを前に足は止まってくれなかったし、踵も復らなかった。
16:10 《現在地》
掘割りの塩原側出口に達した。
第一次探索におけるリミット。これ以上進むことは自殺行為。
しかしここは“峠”である。 道はここを頂点に別の世界へ下って行く。
この場合は、北関東有数の温泉地である塩原温泉へと、道は続いていた。
三島が本路の開通を祝して建てた別荘に由来する塩原御用邸のあった文化の都邑へ、道は――
踏跡なし。
形としての道は、存在している。切り通しを出て左カーブがある。これまで通りの広さもある。
しかし、ネマガリタケが密生していて踏み跡が見えない。全く見えない。思っていた以上に見えない。藪は腰より深い。
塩原は20km先らしい。
はっきり言って、
南へ下る道の雰囲気は、
悪辣。
……いかん。
あまり深く考えると、再訪の意欲に関わりそうだ。
すぐに下山を始めないと。次回のために下山ルート工作だ。これが必須。
16時15分、峠を折り返した。
桃の木峠まで あと0km
塩原古町まで あと20km
なんと、肝心の峠を由一は描いてない!(没?)
掘り割りを見下ろす斜面に立っていてひときわ目を引いた、異形の巨木。
私がこれを即興で“三島の木”と名付けたのは、そのずんぐりとした姿が、
「六尺の身をもってよく明治の長城たり」(徳富蘇峰)と云われた男に、
印象がよく似ていると思ったからだった。
往来はなく、建碑もない。そんな裸の峠にそびえたつ、明治を知る異木。
それは私にとって、“再会を誓う記念物”となった。
下山の鬼、現る!
16:55 《現在地》
横川林道に辿り着いた! やった! すごいぞこれ!!
峠を発ったのが16時15分で、現在時刻は16時55分である。
自分でも驚いているが、たった40分で林道まで下りてきた。
まさに、転げるように下りてきた訳だが、私が目論んだ脱出路は、
ズバリ機能した。(逆路は急なんで、絶対採りたくないが…)
これで第二次探索へのパスが繋がった。今回(第一次探索)の成果としては、ほぼ完璧。
あとは、待ち合わせ場所への横川へ猛然ダッシュ!
17:26 《現在地》
それから30分後、“約束の地”横川に辿り着く1.7km手前で、私は回収された。
ここに下界と隔てるゲートがあり、ゲートの外に笑顔のボスが待っていた。
遅刻を詫びる間もなく、私を温かくて美味しい所へと連れて行ってくれた。
この第一次探索によって、明治初期に消えた幻の塩原新道(三島街道)のうち、
少なくとも日光市側区間については、ほぼ完成の程度に至った現実の道であったということが、確かめられた。
しかもそれは、三島県令が描いたグランドデザインの根幹を成すに相応しい広幅員の道であったことも分かった。
この日の私が最後に手にした
20kmの藪漕パス
それを使ったのは、2ヶ月後。
三島通庸が東北地方と東京を結ぶ幹線として整備した塩原新道。
その最大の難所が、海抜1200mの高所にある桃の木峠だった。
明治17年6月から9月まで短期間に延べ15万人以上の人夫を投じ電撃的に建設された桃の木工区(塩原新道第2工区)は、途中集落皆無の山岳地帯を切り開くものであったという。
しかし、この峠自体は、三島が初めて切り開いたものではないのかもしれない。
桃の木峠という名前も三島が名付けたものではないと思う。命名の由来は未だ不明だが…。
道は描かれていないのに、峠名だけは最新の地形図にも燦然とあるこの峠の過去を、分かる範囲で探ってみた。
江戸時代を通じて塩原付近を通っていたのは塩原街道である。
別名を会津脇街道(または会津東街道)といい、会津藩の公道であった会津西街道(下野街道)と、幕府の公道であり東北最大の幹線である奥州街道を結ぶ、尾頭峠越えの連絡路であった。
地震によって古五十里湖が出現して西街道が通行不能となった一時期、迂回ルートとして尾頭峠から小滝宿(上塩原)を経て高原宿に至る道(高原街道)が利用されたこともあったが、長くは存続しなかった。
塩原街道全体として見ても、それほど高い利用度はなかったようで、後の塩原温泉もまた山間の秘湯に過ぎなかったようだ。
桃の木峠は、塩原街道と西街道を結ぶ位置にあったが、いずれの道にも属しておらず、この頃の文献で触れたものは見当たらない。
それは、単純に道が存在しなかったからなのか、既に忘れられた古道に属するものであったか、そのどちらかだと思う。
平安時代の治承4年(1180)、勢力拡大を目指す秋田三郎致文率いる軍勢が、会津方から山を越えて塩原へ押し寄せ、迎え撃つ塩原領主塩原家忠とのあいだで、度々合戦が行われたという記述が、『那須記』(延宝4(1676)年成立)にある。
このときの合戦の一つが「桃の木峠」で行なわれたものではなかったかとする説があり、塩原の郷土誌『塩原の里物語』(平成10(1998)年発行)が、この説を採っている。
『那須記』は、那須氏の歴史を軍記物風に記した作品だが、歴史的事実とは異なる民間伝承の類が多く含まれ、歴史書としては正確とは言いがたいという評もあるのだが、明治25(1892)年に復刻されたものが国会図書館デジタルコレクションで読めるので、峠の情景に関する記述を確認してみた。
なんとも凄まじい情景が描写されている。
峠付近などは岩ばかりで樹木がなく、万年雪を戴くような高山をイメージさせる描写だが、さすがにこれは著者の誇張を通り越した空想の産物と言うべきものだろう。実際の桃の木峠は、岩山というよりは限りなく森閑とした静寂の森であった。
そもそも、峠名に関する描写がないので、これが塩原と会津の間にあったどの峠を指しているのか判然としない。
候補はおそらく二つで、一つは尾頭峠である。資料によってはこの合戦を「尾頭峠の合戦」と呼んでいるものがあり、この場合、桃の木峠の存在は等閑視されている。もう一つの候補が桃の木峠だ。
果たしてどちらが正解なのか、私には判断できかねるが、『塩原の里物語』は(文中で明瞭な根拠を示さず)桃の木峠が、この合戦の舞台であったとしている。
個人的にも、判断材料が少なすぎてなんとも言えない。ただ強いて言えば、『那須記』は塩原の地を「西と南は高山鉄壁を畳たる嶮岩なり」と述べているので、塩原の西にある尾頭峠ではなく、北にあって会津への最短ルートである桃の木峠が会津方からの侵入ルートとして意識されているのかなと思える程度だ。
ただ、この半世紀ほど後の安貞元年(1227)に、会津の田島城主長沼氏が尾頭峠(現在地の尾頭峠付近にあった“元尾頭道”)を切り開き、これが後の塩原街道の原型になったという歴史があり、尾頭峠より桃の木峠は古いのかもしれず、であるなら、治承4年の合戦の舞台は桃の木峠であるべきとも考えられる。
またいずれにしても、この安貞元年の尾頭峠開発によって初期の桃の木峠は廃れ、江戸時代にはすっかり古道として忘れ去られていたのではないかと私は考えている。
なお、『那須記』には具体的な合戦の描写もあるが、こちらも想像の産物であろうと思うから細かく引用はしない。
一応、「九十九折りなる難所」の存在や、「塩原勢が峰から大岩を落として秋田勢を攻撃した」といった記述から当時の道が谷伝いにあったことなどが読み取れる。
そして合戦の結末としては、地の利と戦略に勝った塩原方が、多勢の秋田方を一方的に退けて終わっている。
合戦の舞台が桃の木峠であったとしたら、三島無念の峠は、その暁からして、ひどく血塗られたものであったことになる。