2011/2/8 8:45 《現在地》
「明治28年(略してM28)丁場」から、その前を通る車力道に戻ってきた。
M28丁場も当然、車力道の重要な利用地ではあったろうけれど、ここが終点ではなかった。
まだ、道はもっと奥へと続いていた。
そして、そこは凄そうだということが、丁場に寄り道している間もずっとアタマにあった。
とんでもないところを、通行しているんじゃないかと。
…行こう!
ひょえぇ〜!
石を切り出すための“石切道”は、それ自体も、
石から切り出されていた!
そしてここにも、ただの道とは一線を画する、構造の秘密が…!
見よ!
この特殊な路盤形状を!
これは、人間を動力とするガイドレール方式の軌道(石軌道)ではなかったのか!!
道路と言うよりは、鉄道界の“人車軌道”に近いものだったのではないか。
が、謎は深い。
どうやってこの“単軌条”の路盤に、←この猫車を通したのか。
果してそんなことが可能なのか!?
ま さ か!
脱輪!
走行?!
馬鹿げてる?!
でも、それ以外に、
路盤より幅の大きな猫車を通す方法はあるか?。
また、現在あるような一輪車型の猫車を用いたとしたら、溝はこんな端ではなく、
中央に設置する方が便利なのではないか…。
現地でも溝の効用が大いに謎で、帰宅後に猫車を知ってからはさらに謎だけが深まった、この“単軌条路盤”。
しかし、明らかに人為的な構造だ。
また、“片洞門”となった頭上高の余裕も、何らかの“車両”の通行を支持している。
鋸山には、このほかにも数多くの車力道の遺構が残されていると聞く。
特にそれは山の北側(ここは南側)に多く知られており、そのいくつかは登山道や遊歩道になっているそうだ。
また、南側にはなかった軌道跡(採石軌道)もあるという。
時を改めて、それらにも挑戦する必要がありそうである。
車力道の事をもっと知らなければ、この一見して不可解な路盤による輸送の正体を知ることは出来ないだろう。
これまで様々な輸送に関わる廃道を見てきたが、ここまで根源的に謎だと思ったことは、ない。
終点到達をいよいよ間近にして、大きな謎が残されたのだった。
「ここまで根源的に謎だと思ったことは、ない。」とか、「大きな謎が残されたのだった。」などと、やや大袈裟にアピールしておいてその晩のうちの追記は恥ずかしいのですが…。
公開直後に戴いた、とある読者さまのコメント。
そこはもう一個一個ゾリゾリ曳き降ろしてたんじゃねえ?
なっ、なるほど! その手があったか!!
車両交通に拘らず、素麺流しの素麺を樋に流すように、整形した石材をそのままこの溝に流せば、万事OKだったのでは?(笑)
むしろこの方法ならば、急坂の方が都合が良いことになる。
溝の幅も、ちょうど尺三石を縦に流すには、ちょうど良いくらいな感じだし。
あった! あったよ! 上記を支持する重大な資料が!
これは以前の回でも転載した『房州石の歴史を探る』に掲載されている図。
前は車力道の説明に使ったが、山の上の方にある丁場から車力道まで下ろす部分には、はっきりと「スベリ台(とい)」と書かれていたのである!
これは失敬、すっかり見落としていた。
このスベリ台は何段もあったようで、地面に設ける場合もあれば、架することもあったようだ。
これにて、溝の問題は一件落着です。
おそらく隧道の先の【このあたり】で車力道とスベリ台が接していたのだろうなー。
“片洞門”は数メートルの区間に過ぎなかったが、その20mほど先にもう一箇所、同じような場所があった。
だが、今度は路盤が無事ではなく、ほとんど斜面の一部と化していた。
山側の崖(法面)も明らかにオーバーハングしていて邪魔で、しゃがまないと通り抜けることが出来なかった。
やはり、この車力道の荒廃の度合いは、鋸山の他の場所で見たどの道より、遙かに進んでいる。
単純に、古いのだと思う。
明治以来の廃道の可能性が高い。
そして私は薄れゆく道を見失うまいと、我が身を省みず、夢中にシッポを手繰った。
その結果、帰路が予想外に怖ろしいものになった。(ただの帰路だからレポはしないよ)
昇天!!!
流石にこれはもう、車道として無理がある。
でも、終わっていない。
さっきも見た“溝”が、岩壁に微かに残っていた。
見逃しようがなかった。
しかし、同時にそれは、もう路盤なんて言える状態ではなかった。
スラブに刻まれた、一条の溝。
…こんなモノが、道だと言えるのか。 言えるのかよ…。
途端に苦しい状態になった。
スラブにある僅かな手がかりである羊歯は、ほとんど根を張っていなかった。
“溝”は首くらいの高さに有るのだが、そこに登るための数歩が、なかなかクリア出来なかった。
もたついているうちに、汗が湧いてきた。
汗を拭うためにリュックを下ろしてタオルを出すとき、
何気なく背後の景色が目に入る。
そこで私は固まった。
夢中になって辿ってきた道。
それは私の後ろで、こんなにも痩せ細っていた。
つか、
怖…。
何か、悪いところに連れ込まれたのかも…。
本当はこれは道じゃないんだろ?
谷だよ谷。
ただの涸れたスラブの谷だよ。
うっすらラインが見える気がするとしても、
ここはどんなブレーキ機構を用いたとしても、石材などといった大重量物を、
車両で運搬出来る勾配ではありえないだろ。
人間が歩くのだって、自然四つ足になるような勾配だぞ。
ありえない。
だが、終点に丁場が無ければ、腑に落ちない。
何のために、少し前までは確実に存在した路盤が、ここへ入り込んだのか分からない。
分岐するような余地だって、髪の毛の先ほどもなかったのだから。
わからない わからない わからない
頭の中でその言葉を反芻しながら、
ロッククライミングの入口のような谷を、空手でよじ登っていった。
ますます死臭が濃くなる風景を、一歩一歩背負いながら。
何かを見つけるまで、登攀は止めない。
そうだろうよ。
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8:56 《現在地》
前の丁場を出発してから11分後。
現在地ははっきりいって定かではないが、鋸山山頂から真南に切れ落ちた谷筋のどこか。
標高は240m前後か。
これだけ登ったにも関わらず、まだ山頂が近い気はしなかった。
おそらく、地形図に描かれている山頂南面を屏風状に隔絶する絶壁地帯には、まだ入り込んでいないだろう。
この勾配は、辛うじて斜面といえる状態のそれであるから。
そして、これ以上はもう無理だと音を上げる直前というか瞬間に、林間の平場が目に付いた。
もう見慣れた景色と言っても良い、垂直に整形された岩盤。
そこが、「終(つい)の丁場」だった。
元名の海岸線近くに起点を有していたと思しき道は、3kmばかりも鋸山へと食い込み、進むほどに増す昇竜の如き勾配を伴って、いま山頂直下の小さな別天地に終わった。
はっきりいって、それは取るに足らない規模の丁場であった。
岩盤に期待したような「時期」の刻印も無ければ、今まで見てきた3つの丁場のどれよりも規模は小さく、森に埋もれかけた貧相な…終わりだった。
…尻すぼみか。
終点を見つけてホッとしたのは確かだが、全くがっかりしなかったといえば嘘になるだろう。
これまでの(寄り道を含めて)とても破天荒な道中。
それに見合うだけの終局への期待は、裏切られた。
…かに見えた。
ここで今一度、振り返るまでは。
丁場の一方は、山体にL字に掘り込まれた垂直なる崖だった。
そして、反対側の一方は、
空 だった。
ここからの眺めは、私の落胆を補って余りある「クライマックス」だった。
もう少し高い鋸山の山頂に立てば、誰でも見られる眺めじゃないかって?
仮にそうだとしても、私はやはり、“ここで”この眺めを得たことを、喜んだと思う。
廃道からの景色は、そこを往来した過去の人物の追体験そのものであり、私はそこに特別な思いがある。
さあ、あなたも一緒にふんどし姿(女性はもんぺ姿)の人夫になったつもりで、
職場からの“鳥の目線”を楽しもう!
これからここを240kgの石を乗せた車で駆け下ってもらわなきゃ!!
房州一名山鋸山眺望天下一品。
房総半島を侮っていた奴ら(俺もだ)は、裸足で逃げ出すな。
眺めの箱庭的な完成度が、ヤッバイくらい楽しい。
地上を俯瞰するに、遠すぎず近すぎず、高すぎず低すぎずの絶妙さだ。
何が写っているのか気になる人のために、カシミール3Dの慣れない機能を使って、地図を地形に重ねて見た。
とりあえず、一番近くに見える町並みの正体は、鋸南町第2の都会保田。
その少し奥に見えるのが、同町の役場がある勝山の町並みだった。
海はもちろん、世界海の太平洋(浦賀水道)。
保田の街、そして港。
国道有り、鉄道有り、駅有り、街有り、港有り。
箱庭的でありジオラマ的であり、
住まう数千人の誰一人として、こんな場所から見られているとは思わないだろうな。そんな想像で悦に浸る。
さらには、「平和な街だなぁ」なんて、自分のことを棚に上げて、ほくそ笑んでみたり。
カメラの望遠を最大にすると、港の風景がこんなにも鮮明に。
なぜかは上手く説明出来ないが、千葉県の房総半島の港を見ているはずが、
極東ロシアの港町風景が頭の中に浮かんだ。
え? ロシアなんて行ったこと無いよ。 千葉の顔は多彩だな。
これまで遠望がほとんど無い道中だったから、この一発は爽快だった。
でも、120年前の人夫や婦人、親方連中が見た本当の風景は、どんなんだったんだろう。
同じ時代に鋸山を究めた夏目漱石や正岡子規といった文豪の名文よりも、彼らの声が聞きたいな。
あなたたちは、どうなふうに、ここから切り出した石を運び出していたのさ?
6畳ばかりの石のお立ち台の先端で、恐怖のため下を見る事は遂に出来ず、
しかし見晴らしは得たしと、腹ばい姿勢になっての遠見、しばしの休息。
9:10 滞在15分でゆるゆると下山をはじめる。
下りはじめは、おっかない場所が何箇所かあった。
↑こことかな。
何かを言いたげな隧道くぐって。
頼りになる石畳を駆け下りて。
全てが今日の成果。
ただの復路も楽しかった。
9:34 《現在地》
無事に元名ダムへ下り着く。
ここまで来れば、チャリが待っていた。
この車力道の下山には、20分少々しか掛からなかった。
当時の人々は、巨大な石材と共にどのくらいの時間で下ったものだろうか。
車力の働きについて、私はまだ知らないことが多すぎる。
最後に今回のまとめとして、山元側からの仰瞰図を作成した。
今回判然としたのは、明治39年の地形図に描かれていた「車力道」の赤筋一本のみ。
大正期の地形図のルートはおそらく異なっているし、
また、昭和の遺構と思しき自動車道の廃道も存在している。
これらの調査も、追々計画していきたい。
モノを運ぶ多彩な手段と、その変遷と、
鋸山は、まだまだ語ってくれそうである。