今回の探索日は2013年4月1日で、翌々日の早朝に無事帰宅した私は、旅の興奮の醒めぬうちに早速、あれやこれやの机上調査をスタートした。
その成果を発表する前に、机上調査中にこういうもの(→)を見付けて笑わせていただいたことを書き記しておきたい。
私が探索中に窓口を訪ね、衝撃の“養蚕施設”証言を得た神津島観光協会の公式ツイッターアカウント(@kozusimaさん)が、こんなツイートで世の中の【島フェチ】を島へ呼び込もうとしていたのである。
フェチだぞ、フェチ。
フェチって……、あれだろ…。
まあ、私が探索中にだいぶやばくなっていることは否定しきれない(詳しくはこの漫画に…)が…。
いずれにせよ、オブローダーの説明が面倒だと思った私が、自己紹介を適当にした結果が「史跡マニア」なわけである。
で、相変わらず観光協会サイドは「養蚕場所として使われた(使おうとした?)神津島のある場所
」という(少し当日よりも自信がなさそうな)表現で、“養蚕施設”説を推している。
本当かよ!
島の外から恐縮であるが、私がっきっちり カタ 付けたる!!
文献調査 〜『伊豆諸島東京移管百年史(下巻)』および『神津島村史』を読む〜
遠くの図書館から取り寄せるまでも無く、最寄りの日野市立図書館に所蔵されていた上記の史誌が最初のターゲットとなった。(こんなとこでも、伊豆諸島が確かに東京“都内”なのだと実感する)
そして、個人的な疑義はさて置いて、島民の証言があるという理由から、最も有力な説とみられた「養蚕」について調べてみると…。
2冊とも、神津島の養蚕について専門に述べたページが1ページずつあった。
どちらも1000ページを越える大冊であるから、この分量は多いとは思えない。もちろん文章も読んだが、砂糠山で大規模な養蚕事業が行われたことについては、記述がなかった。
が、それでもこれら文献は、私の大きな誤りを正す役割を果たした。
昭和44(1969)年から再び種繭の生産に共同飼育方式が採られ、年々その生産が順調に進展し、その成績が期待されるに至りつつある。
昭和53(1978)年5月の生産量1300kg、金額にして440万円である。
このように、神津島では、現代の時代に入ってからも、養蚕がかなり大規模に営まれていたことが分かった。
どうやら私が現地で「養蚕」という言葉を初めて聞いたときに感じた、「土地、時代、採算」という3つの疑義のうち、「土地(離島で養蚕?)」と「時代(現代に養蚕?)」については、単なる見識不足であったようだ。
神津島に限らず、稲作のほとんど望めない伊豆諸島の島々にとっては、近世において年貢を米以外で代納する必要性から、漁業をはじめ、絹の生産も推奨されており(代表は八丈島の絹織物「黄八丈」)、それなりに養蚕が盛んであった事が判明したのである。伊豆諸島にとって、養蚕は伝統的と呼べる産業であったのだ。
まずは自らの不見識を改める必要があった。
なお、戦後しばらくまで養蚕が重要な産業であったことは、伊豆諸島に限らない全国的な事情であった。
右図を見れば、わが国の戦後の養蚕業は、戦前の水準を回復することは無かったものの、昭和50年頃に戦後最大のピークを迎えており、この頃までは相当に盛んであった事が分かるのだ。
が、このように神津島で昭和50年代まで養蚕が営まれていたことが、即座に砂糠山の養蚕事業に結び付くかと言われれば、それはNOである。
昭和56(1981)年に東京都島嶼町村会が発行したこの『百年史』に対し、平成10(1998)年に神津島村が発行した『村史』における養蚕の記述は、より簡素かつ、内容自体も以下のように変化している。
桑の質が非常に良いことと、孤立した島だけに桑及び蚕の病菌がなかったため、種マユに適していたので、昭和時代に入ってからも盛んに続けられたが、絹の需要が減少し、昭和初期には絶滅してしまった。
上記の文章で「養蚕」の章は終わっていて、『百年史』では昭和50年代にも盛んに養蚕を行っていたような記述が、まるで「なかったこと」になっているのが、不思議だった。
戦前に較べれば取るに足らない程度の収量だったなどの理由があって、記述を省いたのだろうか?
このやや不可解と思える記述を持った『村史』だが、さらに全体を読み進めると、「養蚕」とは関係の無いところで、重大な発見をもたらした。
それは、私のなけなしの探索成果を、大きく揺るがすほどの発見だった! (困るんだよなぁ、こういうの…)
この地図は、『村史』に掲載されていた島内地図の一部を拡大したものである。
特に引用先などは書かれていないが、おそらく『村史』が編纂された平成初年代の版の2万5千分の1地形図をベースにしたものと思われる。私が探索に用いた旧地理院地図のさらに一世代前の地形図と見ていい。
で、これを見ると、砂糠山の辺りには、現在の最新の地理院地図や、探索に用いた旧地理院地図には描かれていない「車道」(正確には平成14年図式による「軽車道」)が、砂糠山の周辺にはっきりと描かれていたのである!!
これは明らかに、私が探索した“山上に孤立した車道”を描き出していた!
しかも!
実際に私が探索した車道は、全体の5分の1程度でしか無かった…!!!
(右図の緑線は探索済み区間、青い破線は、未探索…である…)
これには、思わず、「ナ、ナンダッテーー!!」と叫んでしまった…。
ま、マジかよ……。
↑現地で確認のうえ「終点」と判断した、これらの場所のさらに先に、私が見つけられなかった道が、まだ長々と続いていたって言うのかよ…。
ちくしょう、やられちまってるじゃねーかよ……、まるっきり。俺の目がフシアナだったという現実をつきつけられた。
私のいつもの変な拘りで、探索前にはあまり下調べをしないというというのが、こういう事故を引き起こす。
でも、探索前の下調べの念入りさは、現地での新鮮な驚きとのトレードオフになるので、なかなか棄てがたいものなのだ。言い訳だけどな。
しかしいずれにせよ、再訪が面倒な離島での「取りこぼし」は、普段よりもショックがデカかったぜ…。
資料調査 〜新旧航空写真の比較をする〜
「養蚕」云々と施設の正体を論じる以前に、私自身が遺構の全てを把握できていなかった。
この事実は重く私にのし掛かった。
再訪して即座に取りこぼしを回収したかったが、再び急いてし損じる事のないよう、まずは机上調査を続行した。
文献調査の次に臨んだのは、これまた定番の調査手段である、新旧航空写真の比較だ。
いまでも思うのは、せめてネット上の作業だけで完結するこの調査だけでも最初の探索前にやっていれば良かったという後悔だが、これは以後の教訓となった。
ぬおーー !!!
昭和53(1978)年版の航空写真が、やべぇ!!
その35年後、ちょうど私が探索した年に撮影された平成25(2013)年版と比較して、世界が一つ増えている(いや、減っている)!
これが、風化の力というものなのか。
――そ、そ、そ、それにしても、
私の想像を遙かに超えた、開発の規模ではないか。
地上に明瞭な伐採の模様として描き出された開発地域の全体像は、長辺である南北方向におおよそ1kmの広がりを持っている。東西には最大500m。
開発地域の中央は、あの暴風に打たれた“稜線”であり、そこを界に南は砂糠山の西側山腹、北は天上山の東麓地帯というふうに、明瞭に二分されている。
私の最終目的地であった“施設跡”は、このうち北側に属しているが、他に建築物は見あたらないので、あの施設がこの全体を管理する大元であったようだ。
マジでマジかよ……、自分の目がフシアナだとは信じたくない。
現地では、本当に南にも北にも道が続いている様子は、無いと思ったンだがナァ…。
でもいくらブゥたれても、これを見せつけられてはグゥのネも出ないよナ……。ぬーん。
…それにしてもだよ、
この広大な地表の模様は、明らかに圃場整備の感じを受ける。
すなわち、宗教施設、観光施設、漁業加工場、産廃処分場、工場、などではないだろう。
圃場があるならば、これは 「農業施設」
あるいは……… 桑畑を周囲に配した「養蚕施設」か!
その後、さらに多くの年代の航空写真を比較して見たところ…
昭和43(1968)年版には、まだ影も形も無い。
昭和53(1978)年版は前掲した通りバリッバリであるが、その次の平成2(1990)年版では範囲が拡大することはなく、全体的にぼんやりと薄れている印象がある。しかしまだはっきりと見えていた。
だが、その後は版を重ねるごとに不鮮明となり、前掲した平成25(2013)年版では、もはや過去との比較が無ければ気づけないくらいに薄れているのである。
これらを総合すれば、砂糠山での開発事業は、昭和43(1968)年よりも後に本格化し、昭和50年前後に全盛期を迎えたが、平成以降は縮小廃止され、そのまま放置された可能性が高いという、規模の割には短期間で終焉を迎えたものだったことが伺える。
また、未成で終わらず稼動はしたと思われるが、開発事業全体を通しての採算は、「失敗」と判断されたのでは無かっただろうか…。
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文献調査 〜神津島村議会の広報誌に目を通す〜
初めは信じがたいと思っていた「養蚕説」が、いよいよ信憑性を帯びたと感じたものの、島の総面積の100分の1以上を一挙に圃場化するような大規模開発であるにもかかわらず、『村史』にまるっきり記述が見られないことは、不自然に思われた。巻末の詳細な年表にさえ記述が無いのである。
しかも前述したとおり、神津島における養蚕は、『百年史』がはっきりと、昭和44(1969)年から共同飼育方式による養蚕が再開され昭和53(1978)年時点で金額にして440万円分の生産量が上がっていると述べているのに、『村史』は「戦後は絶滅した」としていて、これも矛盾している。
ネット上にある資料から、養蚕説の真相を解き明かせないだろうか。
そして検索の末にヒットしたのが、神津島村議会が公開する『こうづしま議会だより』のうち、平成24(2012)年8月に発行された「No.153」であった。
関係すると思われる部分の誌面イメージを以下に転載する。
定例村議会の中で、議員から村の農業政策について問われた石野(前)村長の答弁した内容に、気になる部分があった。
過去に、農業構造改善事業の一環で、農業法人を養豚や養蚕事業を立ち上げたがうまくいかず、解散に当たって、借入金の返済等で辛酸をなめた。
これだけで判断するのはあまりに早計だが、「辛酸をなめた」という表現は、正直、半端な失敗ではあり得ないと思う。
いわゆる、村の「黒歴史」であったとしたら、村史が書きたがらなかったのも(消極的ながら)頷ける気がする…。
…といったような私の想像は、まあ置いておこう。
それよりも気になるのは、ここで出て来た新たなキーワードである。
それは、「農業構造改善事業」だ。
皆さまも、地方の農業倉庫などに大書きされた「(第●次)農業構造改善事業」の文字を目にした覚えは無いだろうか。
意識していれば、全国津々浦々至る所で目にする事が出来るものだが、この事業を大雑把に言ってしまえば、国が50%程度の高率の補助金を与えて、地方(市町村)の農業事業の効率化、大規模化、集積化を図るというものであった。昭和36(1961)年に公布された「農業基本法」(平成11(1999)年廃止)を法的根拠に、第1次から第4次までおおよそ10年を期限とする農業構造改善事業が全国数千箇所で行われたのである。(ちなみに第一次は全国約3000市町村で実施され、1件あたり平均4500万円の補助金が交付された)。
この事業の対象に神津島村が選ばれていたとしても、全く不思議では無い。
文献調査 〜写真集『黒潮に生きる東京・伊豆諸島(上・下巻)』を見る〜
次に入手したのは、昭和59(1984)年に伊豆諸島東京移管百年記念として、『百年史』と同じ東京都島嶼町村会が発行した、『黒潮に生きる東京・伊豆諸島(上・下巻)』という大きな記録写真集だった。
…こういうのを、流れに乗ってるというんだろうなぁ。
ここで遂に、これまで入手した各種情報をたった一つの結論へと決着させる、決定的な写真を目にしたのである。
『黒潮に生きる東京・伊豆諸島(下巻)』より転載。
「第2次農業構造改善事業により桑園となった神津島 長根地区(昭53)」
・農業構造改善事業
・養蚕(=桑園)
・昭和53年
今までのキーワードが全て繋がった!
これで決まりだ。
一連の施設跡の正体は、養蚕施設!
写真は、先ほど見た昭和53(1978)年の空中写真を別アングルからそっくり再現したような、同じ年の「長根地区」の姿だった。
この「長根地区」という名前は、ここで初めて目にしたものだが、村史掲載の前掲した地図や、現行の地理院地図にも、開発地域一帯の東側の海岸線に「長根」という注記がなされている。
本来は現地の海上に長く突き出た岩礁(写真中央にもそれが見えている)に与えられた地名だと思うが、隣接する山腹の開発地域全体も、「長根地区」と呼び習わされていたようである。私が今まで仮に「砂糠山一帯」と呼んでいたものの、正式な呼称とみていいだろう。(以後、採用)
(なお、『黒潮に生きる東京・伊豆諸島(上巻)』にも、これとほぼ同じアングルで昭和50(1975)年に撮影されたカラー写真があったので、後ほど転載する。)
以上をもって、施設跡の正体に関する机上調査は一応の決着を見た。
それで次に私は、痛恨の“やり残し”を回収するべく、再訪の計画を立てることにしたのだが、ちょうどその頃に企画が進んでいた『廃道ビヨンド 』のロケ地として、新島の旧都道と共にこの神津島の“孤立廃道”を収録することを私は望み、そしてその通りになった。
而して、トリさんとオープロジェクトの面々と一緒に、私が神津島で本懐を遂げたのは、第一次探索から約7ヶ月経った2013年11月26日のことである。
そこで私は右図の青破線で示した前回未踏破の全区間を踏破した!
新たな踏破区間の模様は、2014年3月4日に発売された『廃道ビヨンド 』に映像として収録されているので、出来うる限り読者諸兄にはそれを見て頂きたい!
…のだが、、私はこのレポートを販促の為だけに書いた訳では無いので、皆さまのストレスがマッハにならない程度には、その成果を発表してしまおう。
というか、ぶっちゃけこの新踏破区間の状況だけを期待して購入されると、別の意味でストレスが溜まる畏れがある(苦笑)。(それよりも、晴天時の稜線の美しさを期待して見てもらえれば、絶対に満足できるはずだ。マジ凄い景色だぜ!買ってくれ!!)
下の3枚の写真を見て頂きたいが、基本的に激藪激藪激藪であり、圃場(桑園)跡は既に桑木も野生樹も(私には)区別が付かないほどにジャングル化していた。
道路そのものもほぼジャングルである。素掘の法面程度くらいしか道路構造物は見られない。4台目の廃車体とか、ビニルハウスの残骸なんかはあったけどな。あと、砂糠山側の終点広場には、本事業とは無関係と思われる建設省の「GPS連続観測点」なるソーラーパネル付き無人施設の廃墟があったりもした。
(写真1) 圃場北端付近のループ道路上の風景。浅い掘り割り道で、未舗装。どれが桑かは分からん! …きつい。 | (写真2) 第一次探索では道が無いと判断した“稜線”の南側だが、崩れて埋もれて激藪になっていただけであった…けど…。キツイ!! | (写真3) 激藪を掻き分けて辿り着いた圃場南端の広場。ここに平成11(1999)年銘の「建設省GPS連続観測点」なる装置を発見!(写真A、写真B) |
こうして謎は全てなくなり、めでたしめでたし。