清水国道新潟側最大の難所と目される「一本松尾根」だが、その困難の原因は言うまでもなく、尾根を越える道が残っていないためである。
明治18年開通時点では、間違いなく馬車の通れる道がこの尾根を越えていたはず。
だが、120年余りを経過した現在、その痕跡は極めて乏しくなっている。
そのため、右図のように、隧道だったのか、尾根まわりの“明かり道”だったのかさえ、明確にし難い。
一本松尾根のルートを、検証してみたい。
仮に、一本松尾根にあったかもしれない隧道名を「一本松隧道」とする。
清水国道新潟側最大の難所と目される「一本松尾根」だが、その困難の原因は言うまでもなく、尾根を越える道が残っていないためである。
明治18年開通時点では、間違いなく馬車の通れる道がこの尾根を越えていたはず。
だが、120年余りを経過した現在、その痕跡は極めて乏しくなっている。
そのため、右図のように、隧道だったのか、尾根まわりの“明かり道”だったのかさえ、明確にし難い。
一本松尾根のルートを、検証してみたい。
仮に、一本松尾根にあったかもしれない隧道名を「一本松隧道」とする。
先に言ってしまうと、私がこれまで目を通した資料の中に、一本松隧道の存在に触れたものは無い。
つまり、既知の資料に関しては全面的に「明かりルート」支持である。
そのうえで、何例かを具体的に挙げてみたい。
なお、全ての引用において任意の補足(括弧書き)・改行・中略・下線および強調を加えたほか、一部現代仮名遣いに改めたものもある。
群馬新潟兩縣境清水越新道開鑿之儀伺
明治十四年四月三十日 (中略)
依テ明治十一年始テ實地測量二着手シ
引續當省御用掛宮之原誠藏ヲ派遣シ路脈為取調侯處其地タル所
在深山幽谷ノミニシテ最初ハ容易二良好ノ路線ヲ撰定スルヲ得サリシモ
尚百方探求シ三年ノ久ヲ積ミ其測量モ再三再四二及ヒ
遂二群馬縣下利根郡湯檜曾村ヨリ新潟縣下南魚沼郡清水村トノ間二於テ
尤モ開鑿二適ス可キ良線路ヲ得ルニ至レリ
乃此線路二依リ新道ヲ開通スルニ於テハ
路上勾配モ僅カ三二十二分ノ一ニ止マルガ故二
車馬ノ往來等爲メニ自由ナルヲ得
旦別二鑿隧等ヲ要スル所モ無
之ヲ以テ幾許カエ費二省減ヲ與へ侯塲合モ有之
(中略)
明治十四年三月十二日
内務卿 松方正義
太政大臣 三條實美殿
群馬新潟兩縣境清水越新道開鑿之儀伺 より引用
<問題点>
この文書は、着工の4ヶ月前に調製されたもので、「隧道の必要ないルートを発見できたので経費が節約できる、ぜひ工事の許可を出して欲しい」という意図のものである。
よって、建設途中に計画をやむなく変更した可能性が無いとは言いきれない。
開通後の路線データについては、『群馬県史 通史編8 近代・現代2』に次の記述がある。
(清水)新道開削は高崎以北新潟県長岡までの間、約四三里余(約172キロメートル)、こう配平均三〇分ノ一、道幅平均三間(約五.四メートル)であった。なお、総工費三五万円余、開削した岩石は八三か所、ずい道二か所、橋りょう一六六か所、暗溝八五八か所などであった。
『群馬県史 通史編8 近代・現代2』 p.385 より引用
<ポイント>
詳細な各数字の記述から、開通後に調製された「路線調書」のような元資料が別にあるものと思われるが、残念ながら確認できていない。
問題は「ずい道 二か所」の記述である。
「やはり清水越新道に隧道があったのか」と驚かれるかも知れないが(私も最初大騒ぎした(笑))、清水越新道は廃道になった「清水峠」だけではなく、高崎から長岡までの長大な路線である。
そしてこのうち、現在の渋川市上白井地区に、2本の隧道があった。
2本の隧道は「綾戸隧道」と「綾桜隧道」で、前者は現存しており、しかも国道17号として今なお現役である(もちろん拡幅されている、また傍には江戸時代の旧隧道が一部現存する…いずれ紹介する)。
「綾桜隧道」は上白井字桜の木にあったが、開削されて現存しない。ただし跡地に当時の銘板を使ったモニュメントが残っている。
2本の隧道がこうして明確に分かっているわけで、逆に「それ以外は存在しなかった」という事になる。
が、1つだけ問題なのは、この2本の隧道は明治34年に建設されたと言うことだ。
当初からあったわけではないのである。
(明治34年以前、ここは隧道を通らない別ルートであった…いずれ紹介する)
つまり、存在が仮定される元資料が明治34年以前のものであった場合は、逆にこの2本以外の隧道が路線内のどこかにあったことになる。
その場合、1本が「一本松隧道」としても、さらにもう1本不明の隧道があったという、一気に夢のある展開になる。
これについては、引き続き元資料の捜索にあたりたい。(公文書だろうな…)
<その他の資料>
『町史みなかみ』『六日市町誌』『(旧)群馬県史』などを確認したが、隧道の存在について触れているものはなかった。
『日本道路史』の「資料編」に収められている、「明治年間に開通し現在供用中の道路トンネル」一覧や、『道路トンネル大鑑』(←「隧道データベース」の元資料で、昭和40年頃までの県道以上の道路トンネル一覧である)および、『本邦道路隧道輯覧』(昭和16年時点での主な道路トンネルの記録)、『平成16年度道路施設現況調査』(平成16年時点での、全国市町村道以上の全道路トンネルのリスト)などにも該当する隧道は記録されていない。
特に『道路施設現況調査』に記載がない時点で、少なくとも現在の国道291号は明かりであることが明らかだ。
<資料検証のまとめ>
隧道は無かった可能性が高く、仮にあったとしても、重要工事として個別の記録が残るようなものではなかった。
また、少なくとも現在の国道291号には該当する隧道はない。
(だからといって、必ずしも“明かりルート”が正解と断定できないのも事実である。なぜなら、自動車交通不能区間における国道の路線指定は現状を無視したものであることが多く、かつての道をなぞっていない事があるからだ。この辺については、国道291号の『道路調書』を取り寄せて調べる以外にないだろう)
つづいて、道路状況に関する最も総覧的かつ俯瞰的かつ直接的な資料である、歴代地形図の検証を行いたい。
清水峠を描いた最も古い5万分の1地形図は、大正元年のこの版である。
まだ辛うじて国道の座にあった“清水国道”が描かれているが、国道を示す太い複線の片側の線は破線であり、「荷車を通ぜざる部」すなわち、車両交通が既に不可能な状態であったことが伺える。
問題の一本松沢の尾根越え(○印の所)は、隧道無しで素直に尾根沿いの道が描かれている。
やはり隧道は幻想か。
続いて、昭和6年の版。
既に清水国道は国道でなくなっており、当時は県道前橋新潟線といった。
(ただし、図上では県道としての表記さえされておらず、破線の「小径」扱いだ)
なお、なぜかこの頃までは、現在「地蔵の頭」と呼ばれている山が「朝日岳」と表記されていた。
問題の尾根の描かれたかは、以前の版と同じである。
隧道は描かれていない。
続いて昭和44年版。
この翌年に清水国道は国道(291号)へと返り咲いた。
岩場を描くのをサボったのか、山が妙にナデナデしている。
注目は、「上の分岐」の南北で描かれ方が変わっている唯一の版である点で、以南は「小型自動車道(1.6m以上)」の表記がなされている。国道昇格を前に清水峠以南の再車道化工事が行われつつあった(実際には途中で打ち切り)状況を匂わせる。
一方の新潟側も、「小径」よりはマシな「荷車道(1.0m以上)」の表示であり、何らかの補修が入った可能性もゼロではないが、記録はない。
またなぜか、現在「地蔵の頭」と呼ばれている山が、「高烏帽子山」と表記されている。
問題の部分については、以前と同じく隧道などは描かれていない。
その後は現行の版に至るまで、清水国道(国道291号)の表記は、破線の「徒歩道」で変化していない。
ただし、この図のみ2万5千分の1である点に注意が必要である。(明治や大正時代の2万5千分の1図というのは無い)
一本松尾根についても、等高線がよりリアルに描かれているせいか、以前よりも大幅に突出して描かれている。
もちろん、隧道は描かれていない。
<地図検証のまとめ>
隧道が描かれたことはない。
ただし、古い版については縮尺の問題から、尾根を正確に描き出しているとは言えない。
ここまで資料系の検証では、隧道の存在を支持するものは見つからなかった。
というか、もし資料に載っているならば、検証するまでもなく隧道で確定なのだが、そうはならないところが、120年前に廃道となった道の難しいところ。
やはり、一番頼りになるのは写真ということか。
これは『GISホームページ』で公開されている空中写真で、昭和51年に国土地理院が撮影したものだ。(元画像へのリンク)
画面中央を横切る本谷を取り巻くように、微かに道形が見える。
マウスカーソルを合わせると、その部分をハイライト表示する。
しかし、いくら目をこらしてみても、一本松尾根の道は見えない。
そもそも隧道が見えるはずはないのだが、尾根を回り込むような道(明かり)もまた見えないのである。
明かりには、掘り割りがあっても良さそうなものだし、掘り割りというのは空中写真では目立つものだが、痕跡は一切見えない。
なお、これ以上高精細な画像は提供されていないが、同画像の核心部を拡大してみたのが次の図だ。
やっぱり見えない。
これとは別に、戦後間もなく米軍が撮影した白黒写真も見ることが出来る(『国土変遷アーカイブ』)が、そちらは解像度がやや低く、やはりよくは分からない。
空中写真では解決することが出来ないようだ。
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右の図中に示した@〜Bは、今回の探索で一本松尾根を撮影した各地点である。
これから順に、これらの地点で撮影した写真を検証する。
また、水色で示したラインは、2万5千分の1地形図および現地地形を検討した結果導かれる、「明かり」のルートである。
この「A」〜「B」〜「C」〜「D」のうち、どこか一箇所でも明確な道が発見できれば、明かりルートの存在は証明されたと言って良いだろう。
(ただし、ごく僅かながら、明かりルートと隧道ルートがともに存在した可能性もあることを忘れてはならない)
なお、緑の枠が表示される画像は全て、マウスオーバーによって画像に注記が入り、さらにクリックで拡大出来る。
まずは、@地点(オキイツボ沢付近)で撮影した写真。
もう何度も穴のあくほど見た写真(デジタルデータに穴はあかない?)だが、画像をクリックしてもらえれば原寸大で表示する。
その、「道のなさっぷり」を確認して欲しい。
見間違えじゃないよね!
確かにないよね?!
…と、
隧道へ“誘導”してみる、悪い俺。
だって、ここまで隧道を支持するモノがなにもないんだもの!
夢が無さすぎるよ。
さて続いて、前回(第7回)辿り着いた最後の地点であるA地点(千本松沢)からの眺め。
当然今度は尾根の裏側(西側)が見えることになる。
じっくり見てみてちょうだい。
…。
…。
無くないか?
尾根の道なんて。
そして、まだ本編レポでは到達していない地点からの眺め。
B地点(一本松沢出合)だ。
ここからだと、A地点よりも遙かに鮮明に尾根の西側を見ることが出来るが、やはり道は残っていないのである。
垂直の岩崖があるばかり。
はっきり言って、尾根の突端であるC地点に近づく術は、無い。
だから、C地点に明確な掘り割りの遺構がある可能性を否定できない。
しかし、それ以外は前後に、全くと言っていいほど道の気配がない。
こんな事って、あるだろうか?
あり得ないとは言わないが、桟橋を架けるにしても長大すぎるし、隧道の方が遙かに合理的だと思える。
最後は、決死の「うんてい遊び」で辿り着いたB地点(明かりルート上)から、C地点(尾根突端)を撮影した写真を2枚。
B地点やC地点のような尾根の突端というのは、普通はどんな崩壊があっても一番崩れにくくて最後まで残る部分。
それなのに、全くなにもない。
こんな事って、あるの?
<現地撮影写真の検証>
写真検証の結果は、消去法的に隧道を支持している。
現地では、「明かりだったとしたら、相当酷く崩れているな」くらいにしか思わなかったが、改めてこうして多方向から見直してみると、尾根を回り込む道が存在していた可能性は、相当に低いと思うのである。
尾根の両側斜面の道が延々100m以上にわたって、幅3〜5mの全てがゴッソリ崩れ落ちる。
そんなことが起こるとは、信じがたい。
…と、考え直した。
結局、写真検証の結論は、 「隧道以外考えられなくない?」 だ。
こうして資料や写真を見直してみる前までは、「隧道2 : 明かり8」くらいだと思っていたが、今は「隧道5 : 明かり5」くらいに変わっている。
じゃあ、余計に迷ってるジャン!!
その通りである…。
あなたは、どう思いますか?
…なるほど、 そうですか。
ありがとうございます。
最後の最後で、卑怯なモノを出しても良いですか?
行きますよ。
でも、「もう一回見て来い」っていうのは、とりあえず無しですよ。
まあ、心霊写真と一緒だよな。
隧道だと思えば隧道の坑門の一部にも見えるし、ただの岩の凹みだと思えばそうだし。
我々が、現地で4回も視線に晒しながら、覗き込んで確かめていない時点で、ありえないよね。
ね?
ね!
隧道にしては背が低すぎるのと、さらに明度を上げると闇の中にも壁があるように見えるので、おそらく違うでしょう。
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