国道291号 清水峠(新潟側) <リベンジ編> 第8回

公開日 2009.3. 16
探索日 2008.10.12



現在地は、「上の分岐」から2.4kmを下った一本松沢。
一本松尾根の直線距離で約50mを越すのに、50分近くの時間を費やしてしまった。
まさに、越えはしたが、とても大きな痛手を被ったという状況。

清水国道の踏破達成まで、残り約1.4km。
急げば1時間でたどり着けるだろうか。

 正午までには前進を終えなければならない。

それは、我々が明るいうちに山小屋へ生還するための明瞭な条件だった。
だが、時間切れの場面を想像してみて欲しい。
そのときに、再び今度のような難所に阻まれるのならばいざ知らず、淡々と続く道を、時間切れのために放棄して引き返すことなど…

 考えられない!

おそらくそれは、もっとも悔しい敗退といえるだろう。
どんな結末よりも避けたい敗北だ。


 我々は、本当に急ぐことにした。


身体の限界を超えて、行くことにした。

それが、どんな結果を生むかを想像する余地は、眼前に示された「成功」と「敗北」のあまりに大きな落差の前に、消えていた…。

限界への挑戦が、いま始まる。




本谷展望尾根


2008/10/12 10:51

大烏帽子山(1820m)の山頂付近から落ちたカール状の谷が一本松沢で、山頂から僅か750m離れただけの清水国道徒渉地点の海抜は1300mである。
この高低差は、山岳の如何ともし難い険しさを示す一方、道が未だこれほどの高所にある事への驚きも感じさせる。

海抜1448mの峠から3.4kmの地点で、まだ海抜1300mもあるのだ。
そこに計算される勾配は4.3%に過ぎず、これは今日一般的な山岳道路よりもなだらかで、高速道路上の最も急な勾配に等しい。
未だ全国の国道には10%の急勾配が無数にあり、現行の「道路構造令」で認められた勾配の上限も10%だ。
5%よりもなだらかな勾配は、長大トンネルで峠の下を抜くような現代的バイパス道路の勾配である。

そもそも、馬という生き物を動力源とした馬車交通が求める勾配は、清水峠の地形に全くそぐわなかった。
そこに無理矢理の道を付けた結果が、これである。

そもそもが無理な話、「不可能道路」だったのだと私は思う。




色づいた灌木に全体を彩られた、険しい一本松尾根を振り返る。

地形図に示された尾根の突端を廻るルートは通行することが出来ず、無理矢理に尾根上をショートカットしてここへ辿り着いた。
その試行錯誤が、50分という時間であった。




一本松沢対岸の進路。

はっきり言って、全く道は見えない。
もう少し上流まで回り込んで渡っていたようでもあるが、両岸ともアプローチや橋台の痕跡が無い。
本谷以上に旺盛な浸食力があるようだ。

仕方がないので…




L字型に折れ曲がった灌木を手掛かりにして、強引に数メートルの段差を上り詰め、路盤へと復帰した。

ここで、右足の太ももに電撃のような痛みが走った。

それ自体は大事に至らなかったが、どうにも今日の私の右足は調子が悪い。
本谷手前からずっと土踏まずがヒリヒリ痛いし、今はそれ以上に指先が痛い。
右足拇趾(親指)の爪が、第二趾の脇に当たっているみたいだ。
爪は左足も少し痛い。
去年は長靴だったが、今年は“履き慣れた”登山靴で来た。
しかし、暫く履いていなかった“履き慣れた靴”の正体は、履き古したボロ靴の間違いだった。
いまさら靴の選択を間違ったと思っても、まさに後の祭りであった。

正直、足の指が痛いから歩けませんなんて言うのは、この男同士のマジな戦いの場面では、情けないよな。
私はやせ我慢をする羽目になった。(間違っているのは分かっている)




清水国道が再開した。

当然のように、踏み跡一つ無い廃道である。

今までとの違いといえば、灌木の背丈が増し、森に近づいた感じを受けたと言うことか。
それと、紅葉の度合いが薄れてきたこと。




11:12

法面は荒々しく高いものが、ずっと途切れずに続いていた。
そして、その随所に小規模の崩壊があり、路盤を覆う藪と土砂が嫌らしく融合していた。

15分ほど黙々と歩いていると、その高い法面から滝が落ちている場面があった。

今は岩盤の表面に沿って僅かに流れているだけだが、大雨ともなれば道に豪快な滝が落ちるのだろうか。
路上には滝壺らしき陥没も見られる。
そして、路肩はそのまま200m下の本谷へと、2段目の滝になっている。

こんな場所に道を作るなよと言いたいところだ。




11:23 《現在地》

一本松沢を出発して30分が経過したとき、我々は過去を振り返るのに適した場所にいた。
本谷対岸や、源流方向をよく見晴らすことが出来る地点。
私称「本谷展望尾根」である。

ここまで、地図で測ると一本松沢から300mしか離れていない。
にもかかわらず、30分を要した。
急いでいるはずなのに、なぜか。

途中で10分間、食事休憩をとったからである。
こればかりは、省略というわけにはいかなかった。





振り返れば、本谷源頭と格闘した過去3時間の道のりを一望する事が出来る。

一本松尾根はその中でも一際突出した存在であり、玉座への一本道を守る屈強な兵士のようだ。

そこが清水峠新潟側における最大の難所だったことは、容易に想像できるところである。


このまま立ち去れるのならば、どんなに晴れやかな気持ちであったろう…。

数時間後には、またここを引き返さなければならないのだと思うと、本当に辛かった。




戦意に関わる事なので口には出さなかったが、私は後悔し始めていた。

峠に荷物を置かず、全ての荷物を背負って歩いた方が良かったのではないかと。
そうすれば、峠に戻る必要はなかった。

それは、1年間温めてきた計画の根幹を疑問視するものだったが、現実に今日これまでの行程を考えれば、去年と同じ装備でも辿れた可能性が高い。

もちろん、それは来てみなければ分からなかったことなのだが……。




そもそも、峠に荷物を置いて探索しようと考えたのは、去年の探索があまりに深い藪に苛まれ、背負う荷物の多さに苦しめられたからだった。
だが、現実にその状況で1日9kmという踏破を果たしている。

今回は往復で8〜9kmの行程だが、往復することの色々な意味での難しさ(主に意欲に関することだ)を軽視してしまった。
「この荷物さえなければ」という前回の悔しさが、盲目的に「峠に荷物を置く」事を信じさせ、それが何物にも勝るすばらしい計画のように思えてしまった。
そして、まる1年の時間があったのに、まったく再考することがなかった。




2年越しの踏破が目前となりつつあるのに、私の心は、進むほど不安な気持ちに落ち込んでいくのだった。

踏破自体の成功は、もう疑っていなかった。
このまま30分か、遅くとも1時間藪をこぎ続ければ、然るべき場所へたどり着くことが出来るだろう。
既に本谷を取り囲んでいた裸の岩場は形を潜め、昨年同様の猛烈なブッシュ帯に入り込んでいた。
ピンポイントで難しい場所が現れる可能性もあったが、おそらくは大丈夫。

それだけに、私の心には付け入る隙が大いにあったのだろう。

清水国道最後の1kmは、自ら背負った時間と距離の大きさに押しつぶされそうな、単調かつ困難な1kmだった。
そこには、清水峠の最も清水峠らしい難しさが、充ちていた。




11:50

そんな私の心を慰めたのが、鈴なりになった大量のヤマブドウであった。

まるで藤棚のように、熟れたヤマブドウが路上にぶら下がっている。
それは天然のぶどう園である。

喉がしぶくなるまで貪った。




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高烏帽子尾根


11:59

海抜1280m、高烏帽子尾根に到達した。
ここは本谷とナル水沢の分水嶺である。

谷を見下ろすと、彼方に去年も見た憶えのある舗装路が見えた。
それもそのはずで、このナル水沢の対岸は、去年の最後の行程だったところだ。



残りは、700メートル。


斜面に沿って緩やかに右へカーブする。
それに伴って、前方の景色が再び山腹を背景とするものに変わった。
そして、全体が日影に入った。

時刻は、ここで正午を迎えた。
当初の前進タイムリミットであるが、当然ここで引き返す選択肢はなかった。
残り700mである。

我々は、最終タイムリミットを午後1時まで、1時間遅らせる決定をした。




カーブ外側の路肩に、低い石垣を発見した。

これは、今のところ清水国道以外では見たことのない構造物である。
逆に清水国道では、これが3ヵ所目の発見。(群馬側1ヶ所、新潟側2ヶ所目だ)

単に路盤が流れてしまって路肩の石垣だけが残ったわけではないはずだ。もとより墜落防止のため、今日のガードレールのようにして設置されたものだと考える方が自然である。
しかし、他の同年代の馬車道では見たことがない。
当時の(他の道の)写真を見ると、路肩に木の杭を設置しているものがあるが、清水国道の多雪な条件では木の杭では不十分だと考えたのだろうか。

いずれにしても、希少な道路構造物である。




道は二度大きくカーブして、いよいよナル水沢と並行するようになる。
残りは550mほどである。

この区間は、全線中でも最も平行する等高線が密なエリアで、そこは言うまでもなく急斜面である。
したがって路上にも細かな蛇行は少なく、右山左谷がべったりと張り付いたような、変化の少ない道となっている。
常に右側には削り取られた岩盤の法面があり、路肩は切り立っている。
そして日影がちのため、藪はこれまでに比べれば幾分浅い。






この景色が、ナル水沢の険しさを如実に示している。

くじ氏は、敢えて藪の深いところにもぐり込んでも、この路肩には近づこうとしなかった。

私はもう勝利したような気持ちになっていたが、実際にはいつだって“死ねる”(=致死的崩壊)可能性があった。

それが現れなかったところに、清水峠120年の決着があった。


そう。

我々は、幸運な訪問者だった。




12:17

例えば、ここ。

ラスト400mほどの地点で遭遇した、路盤の大きな決壊の現場。

ここなども、一歩間違えれば踏破不可能となる場所だった。


滝が道を横切っていて、路盤は深さ2mほどの溝に分断されている。
ここを通過するには、削り出された岩の基層(岩盤)を横断しなければならなかったが、そこは朽ち葉が張り付いた、ツルツルの岩だった。




たった2歩だが、まるで“空中”の歩行だった。

行きは突発的に現れたため、深く考える前に足が出ていて横断してしまったが、帰りは足が固まり、四つ足にならなければ越えられなかった。

もう1m深く削れていたら、それだけで我々は打つ手を無くしていただろう。


ナル水沢左岸のファイナルアプローチは、常に綱渡りの危うさを秘めた道といえるだろう。
(ちなみに、昨年くじ氏が対岸を見て「通れるのか?」と訝しがった場所の一箇所が、ここだった)




同難所の写真。

(←)
このスラブの滝が、道を寸断していた。
何らかの手を打たなければ、遠くない将来には本当に通行不可能になるだろう。
どう見ても、上にも下にも迂回は出来ない。

(→)
そして、振り返る難所。
今後通る人のためにロープを提供する事も真剣に考えたが、下手に設置物を置くと逆に危険な気もしたので止めた。

とりあえず、現状であればギリギリ通行は可能だ。(相当に注意を要するが)




現役国道291号の、年季の入りまくった廃道が続く。

とにかく時間がおしているので、夢中になって歩いた。

ゴールさえ出来れば、気持ち的にはリラックスできるだろう。




100mにつき25m以上という猛烈な勢いで登ってくる谷に比例し、対岸山腹が急激に接近して来た。

その接近こそが、何よりも確かな「カウントダウン」だった。

確実にあるはずの道は見えないが、確かにあの辺りの藪は凄まじかった憶えがある。





最後の一歩


そして、前方に谷の終わりが見えてきた。

身憶えるのある岩肌だ。
厳密には、脳内に完成している地形の三次元的なイメージと符合する景色だ。
「あそこから見れば、ああいう風に見えるはず」
そう言う眺めが、見えてきた。

流石に盛り上がってきたが、足がもつれ思うように進めなかった。




焦る身体を受け止める、監獄のような激藪。

藪を越えた叢(くさむら)に、残る全ての力を打ち付ける。

もういつゴールが現れても不思議はないし、その場面は必ず唐突に現れるはずだった。





悔し涙を秋霖に溶かしたあの谷が、数メートルを隔てて眼下にある。

あの日どうしても辿り着けなかった、峠側からの見下ろした眺めである。


廃道の中の廃道。

清水国道攻略達成の瞬間が、迫る。





12時34分
ナル水沢 左谷 到達!
清水国道新潟側
踏破達成!





峠から実に6時間を要し、ようやく目的は達せられた。

僅かに水の流れる「ナル水沢左谷」の対岸、おおよそ10m離れた位置に、昨年の最終到達地点である路盤が見えた。
正確には足元の崖を登ろうとして断念しているので、最接近時には3mと離れていない場所まで来ていた事になる。
あのとき悔しく見上げた頭上の平場は、確かに路盤だった。

だが、結果から言えば、あの日ここを通れなかったのは、正解だったのかも知れない。

ここから峠までは、初めてなら6時間もかかる行程だったのだ。

疲労しきった我々が、雨の本谷に挑んだとき、どんな結末が待っていたか…。

保証はない。






脱力。


携帯の電波は無い。



清水国道で、最も辿り着きがたい場所の記憶。


何の変哲もないような谷の奥だが、特別だった。




寡黙な鉄人、 くじ。

1年前に登ることの出来なかった斜面を、足先で撫でるように確かめていた。

下れないことは無いだろうと言う。

でも、下れば登れなくなる。

ロープを設置すればその心配はないが、単にロープ一本を失うことが惜しかったので、やめた。
それに、そんなことをしている時間は無い。

下らないまでも、ロープだけでも設置しておけば、次以降の道が開かれたのに…。
べつに後悔と言うほど後悔はしていないが。
この時点では、もう二度と来るつもりはなかったしな。




ボロボロですよ。私は。

達成の余韻というより、疲れと足の痛みで放心していた。

何が辛いって、足がマジ痛い。

実はこの時すでに、両足の拇趾(親指)の爪はダメージが蓄積しすぎて死んでいた。
山小屋に戻った時点では、内出血のため真っ黒に変わっていた爪だが、数ヶ月後にポロリと剥がれ落ちた。
今もその爪は半分以上失われたままだ。

また、足裏の皮がふやけた上に揉まれすぎて、亀裂を生じていた。
こんな足で歩けば痛いに決まっていた。

こんなになった原因だが、この年の夏は「廃道本」や「廃道をゆく」の執筆のため例年以上に出歩かなかったので、体力も足自体の強度も衰えていたのだと思う。




攻略は、成功。

でも、生還から一番遠い場所にいる。