2008/10/12 10:51
大烏帽子山(1820m)の山頂付近から落ちたカール状の谷が一本松沢で、山頂から僅か750m離れただけの清水国道徒渉地点の海抜は1300mである。
この高低差は、山岳の如何ともし難い険しさを示す一方、道が未だこれほどの高所にある事への驚きも感じさせる。
海抜1448mの峠から3.4kmの地点で、まだ海抜1300mもあるのだ。
そこに計算される勾配は4.3%に過ぎず、これは今日一般的な山岳道路よりもなだらかで、高速道路上の最も急な勾配に等しい。
未だ全国の国道には10%の急勾配が無数にあり、現行の「道路構造令」で認められた勾配の上限も10%だ。
5%よりもなだらかな勾配は、長大トンネルで峠の下を抜くような現代的バイパス道路の勾配である。
そもそも、馬という生き物を動力源とした馬車交通が求める勾配は、清水峠の地形に全くそぐわなかった。
そこに無理矢理の道を付けた結果が、これである。
そもそもが無理な話、「不可能道路」だったのだと私は思う。
色づいた灌木に全体を彩られた、険しい一本松尾根を振り返る。
地形図に示された尾根の突端を廻るルートは通行することが出来ず、無理矢理に尾根上をショートカットしてここへ辿り着いた。
その試行錯誤が、50分という時間であった。
一本松沢対岸の進路。
はっきり言って、全く道は見えない。
もう少し上流まで回り込んで渡っていたようでもあるが、両岸ともアプローチや橋台の痕跡が無い。
本谷以上に旺盛な浸食力があるようだ。
仕方がないので…
L字型に折れ曲がった灌木を手掛かりにして、強引に数メートルの段差を上り詰め、路盤へと復帰した。
ここで、右足の太ももに電撃のような痛みが走った。
それ自体は大事に至らなかったが、どうにも今日の私の右足は調子が悪い。
本谷手前からずっと土踏まずがヒリヒリ痛いし、今はそれ以上に指先が痛い。
右足拇趾(親指)の爪が、第二趾の脇に当たっているみたいだ。
爪は左足も少し痛い。
去年は長靴だったが、今年は“履き慣れた”登山靴で来た。
しかし、暫く履いていなかった“履き慣れた靴”の正体は、履き古したボロ靴の間違いだった。
いまさら靴の選択を間違ったと思っても、まさに後の祭りであった。
正直、足の指が痛いから歩けませんなんて言うのは、この男同士のマジな戦いの場面では、情けないよな。
私はやせ我慢をする羽目になった。(間違っているのは分かっている)
清水国道が再開した。
当然のように、踏み跡一つ無い廃道である。
今までとの違いといえば、灌木の背丈が増し、森に近づいた感じを受けたと言うことか。
それと、紅葉の度合いが薄れてきたこと。
11:12
法面は荒々しく高いものが、ずっと途切れずに続いていた。
そして、その随所に小規模の崩壊があり、路盤を覆う藪と土砂が嫌らしく融合していた。
15分ほど黙々と歩いていると、その高い法面から滝が落ちている場面があった。
今は岩盤の表面に沿って僅かに流れているだけだが、大雨ともなれば道に豪快な滝が落ちるのだろうか。
路上には滝壺らしき陥没も見られる。
そして、路肩はそのまま200m下の本谷へと、2段目の滝になっている。
こんな場所に道を作るなよと言いたいところだ。
11:23 《現在地》
一本松沢を出発して30分が経過したとき、我々は過去を振り返るのに適した場所にいた。
本谷対岸や、源流方向をよく見晴らすことが出来る地点。
私称「本谷展望尾根」である。
ここまで、地図で測ると一本松沢から300mしか離れていない。
にもかかわらず、30分を要した。
急いでいるはずなのに、なぜか。
途中で10分間、食事休憩をとったからである。
こればかりは、省略というわけにはいかなかった。
振り返れば、本谷源頭と格闘した過去3時間の道のりを一望する事が出来る。
一本松尾根はその中でも一際突出した存在であり、玉座への一本道を守る屈強な兵士のようだ。
そこが清水峠新潟側における最大の難所だったことは、容易に想像できるところである。
このまま立ち去れるのならば、どんなに晴れやかな気持ちであったろう…。
数時間後には、またここを引き返さなければならないのだと思うと、本当に辛かった。
戦意に関わる事なので口には出さなかったが、私は後悔し始めていた。
峠に荷物を置かず、全ての荷物を背負って歩いた方が良かったのではないかと。
そうすれば、峠に戻る必要はなかった。
それは、1年間温めてきた計画の根幹を疑問視するものだったが、現実に今日これまでの行程を考えれば、去年と同じ装備でも辿れた可能性が高い。
もちろん、それは来てみなければ分からなかったことなのだが……。
そもそも、峠に荷物を置いて探索しようと考えたのは、去年の探索があまりに深い藪に苛まれ、背負う荷物の多さに苦しめられたからだった。
だが、現実にその状況で1日9kmという踏破を果たしている。
今回は往復で8〜9kmの行程だが、往復することの色々な意味での難しさ(主に意欲に関することだ)を軽視してしまった。
「この荷物さえなければ」という前回の悔しさが、盲目的に「峠に荷物を置く」事を信じさせ、それが何物にも勝るすばらしい計画のように思えてしまった。
そして、まる1年の時間があったのに、まったく再考することがなかった。
2年越しの踏破が目前となりつつあるのに、私の心は、進むほど不安な気持ちに落ち込んでいくのだった。
踏破自体の成功は、もう疑っていなかった。
このまま30分か、遅くとも1時間藪をこぎ続ければ、然るべき場所へたどり着くことが出来るだろう。
既に本谷を取り囲んでいた裸の岩場は形を潜め、昨年同様の猛烈なブッシュ帯に入り込んでいた。
ピンポイントで難しい場所が現れる可能性もあったが、おそらくは大丈夫。
それだけに、私の心には付け入る隙が大いにあったのだろう。
清水国道最後の1kmは、自ら背負った時間と距離の大きさに押しつぶされそうな、単調かつ困難な1kmだった。
そこには、清水峠の最も清水峠らしい難しさが、充ちていた。
11:50
そんな私の心を慰めたのが、鈴なりになった大量のヤマブドウであった。
まるで藤棚のように、熟れたヤマブドウが路上にぶら下がっている。
それは天然のぶどう園である。
喉がしぶくなるまで貪った。