探索二日目、
清水国道アタック当日。
現在地は清水峠にある白崩避難小屋。
これより清水国道を下り、おおよそ5km先にある昨年の断念地点「ナル水沢」へ向かう。
その第一行程は、1.2km先の「上の分岐」までだ。
探索二日目、
清水国道アタック当日。
現在地は清水峠にある白崩避難小屋。
これより清水国道を下り、おおよそ5km先にある昨年の断念地点「ナル水沢」へ向かう。
その第一行程は、1.2km先の「上の分岐」までだ。
2008/10/12 6:23
白崩避難小屋。
我々の戻るべき場所。
寝床、炊事道具、行動食以外の食料などが、一番奥の特等席で我々を待つ。
荷物の傍に紙皿を置き、そこに“おつまみ”の煎った豆をめいっぱい空けてきた。
ちゃんと帰ってこなければ、きっと誰かに食べられてしまう。
これは、無事の帰還を誓う我々流のおまじないだった。
意図したわけではないけれど…。
小屋の裏手は北側。
我々が登ってきた、そしてこれから向かう越後側だ。
小さな祠が祀られているが、金属製の作りからいって古いものではない。
そのすぐそばに、昭和14年と刻まれた国鉄送電線の竣工記念碑がある。
…以上。
戦国時代からの長い歴史を誇る峠であるが、野仏のひとつも見あたらない。
確かに武士たちが背負うべきは碑(いしぶみ)ではなく祖国の命運であり、また江戸時代には禁制の峠であったかもしれない。
しかし、ひとときとはいえ上越間交通の主役を射止めた明治において、何かしら建碑があって然るべきではないのだろうか。
曲がりなりにもこの場所は、明治18年に皇族を含む貴賓(三島通庸もいた)が一堂に会しての開通式典、さらに馬車による荘厳な開通パレードの行われた会場である。
清水国道には、記念すべきことなど何もないと言うことなのか…。
そして南側、
上州の山並み。
雲に隠れている稜線は谷川岳の主峰を含むもので、その先の明るい広がりは関東平野へ連なるものだ。
我々は越後側の踏破に固執しているが、この景色を見ていただければお分かりのように、麓の集落までの距離も高低差もこの上州側に軍配が上がる。
地形の険しさも、あの泣く子も黙る「一の倉沢」を仰ぎ見る道だと言えばお分かりいただけるだろう。
もし越後側同様の廃道になっていたなら、おそらく清水峠の踏破は初めから専門家の手に委ねなければならなかった。
幸い、登山道国道と呼ばれる通りの状況になっている。
「登山道」 だけどな。
三方向目の眺めは西。
昨日、真っ暗な中で風に打たれながら歩いた道のりを振り返っている。
こんな風になっていたのか…。
前に来たときはただの背景だと思ってよく見なかった。
峠のシンボル三角屋根の鉄塔監視所が、アスピーテを思わせる冬路ノ頭(七ッ小屋山の前衛峰)を背負うように建つ。
その近くに見えるのは清水峠のジャンクションで、木の標柱が立っていたところだ。
おそらく朝早く小屋を出ていった人たちは、七ッ小屋山から谷川岳方面への長い縦走コースへ向かったのだろう。
なお、ジャンクションを左(南)に下りると群馬側への下山コースである。
ではそれが「清水国道」なのかと言えば違う。
詳細は後述。
昨日あんなところを歩いて来たのか…。
もっと岩場みたいなところだと思っていたが、こうやってみると結構緩やかな斜面だ。
闇が如何に地形認知力を奪うか分かる。
明日はまたあの道を使って下山する予定であり、晴れていればすばらしい景観を楽しめそうだ。
北と南と西を見回した。
残るは東側。
我々の出発方向。
東には、
大きな凹みがある。
その正体は、もちろん道路。
清水国道こと、一般国道291号である。
120年以上前には、ここまで馬車が上がっていた。
明治の元勲と呼ばれる人々が、大勢通り抜けた。
これは、そんな伝説の “凹み” 。
全長180km(前橋〜長岡間)におよぶ清水国道の最高所。
国道291号(前橋市〜柏崎市)の最高所でもある。
海抜1448mに位置するこの清水峠の大掘り割りは、おそらく清水国道最大の遺構。
鞍部の最も低い部分を、深さ5m以上、長さ30m以上、幅6m以上の直線の掘り割りが貫く。
この場所に車道があった、その疑いなき証拠だ。
この掘り割りは、避難小屋の傍らに大きな口を開けている。
そして小屋の前の登山道は、この無能となった掘り割りを面倒くさそうに横断して、朝日岳(1850m)への縦走路へ続いている。
上州への清水国道。
現在自動車が入れるのは、ここから11km先の地点までである。
掘り割りのなかは、当然のように風が強い。
昨晩の大風はだいぶおさまっているのだが、ここには身体を押すほどの風が北から南へ抜けている。
それもそうだろう。
峠は周りの山より200m以上も低く、群馬と新潟の県境にある峠としては三国峠に次いで二番目に低いのである。
こんな有様でも、この辺りでは低い場所なのだ。
ちなみにこの「大掘り割り」だが、勿体ないことに“登山道国道”としては使われていない。
峠周辺の道路網の実踏に基づく拡大図は左の通りで、地形図とは少し異なる。
図中の青と赤のラインが清水国道(国道291号)であるが、赤い部分は登山道としては使われていない。
ちゃんと笹藪の中に道形は残っているのだが、現在の登山道は緑のラインとなっている。
先ほど「清水峠ジャンクション」の説明のところで、「左の道は国道ではない」というような説明をしたが、その種明かしは以上である。
まあ、今回の探索には関係のない話だが。
6:28
予定していた出発時刻は午前6時半。
そろそろ行こうか。くじさん。
明るくなってから既に1時間以上経過しており、もっと早く出れば良いと思う方もいらっしゃるかもしれないが、その点はあまり心配していなかった。
もし今回も「失敗」するとしたら、それは時間切れではなくて地形的な問題になると思う。
大掘り割りの新潟側の出口には、大きな案内板が設置されている。
麓にあるのと同じものだ。
「現在通行できません」って、
一体いつなら通行できたというのか。
チャリ馬鹿トリオの時代から、「通行できない」という言葉を何よりも挑発的なものと感じてしまう私にとって、この看板は挑戦状にも等しい存在である。
しかもこの看板は峠の周辺の所々に有るものだから、目にするたび悔しい思いを繰り返してきた。
…それも今日で終わりにする!
スポンサーリンク |
ちょっとだけ!ヨッキれんの宣伝。
|
大掘り割りを出ると、道はすぐ右カーブとなる。
早くも峠の広い道の面影はないが、実際には右の猛烈な灌木の中にも平坦な路盤が広がっている。
前回は、確かにこんな灌木の藪を延々と歩いたのだった。
そして、おそらく今日ももう少ししたら…。
それはそうと、これが前回たどり着けなかった新潟側“最後の景色”と言うことになる。
そう思うと、これは峠以上に印象的な景色に見えた。
あんなに苦労したのに……、ここまで来ればなんてことのない穏やかな道だった。
足元にざっくりと口を開けた谷は、峠の直下から本谷沢へ注ぐ冬路沢だ。
本谷対岸に壁する山々を一望することが出来るが、なんと言っても目を引くのは遙か眼下の巨大なゴーロ、檜倉沢だ。
これまで何度も横断している谷であるが、清水国道として越えたのは前回の一度だけ。
橋がなく、しかも両岸とも鋭くて、とても辛かったことが思い出される。
前回、このフレームの中を横断するだけで何時間かかっただろう。ほぼ半日かかったか。
本当になんで“ここ”へ登ってくる道が、あんなに対岸の山に長々と見えるのか(笑)。
おかしな道だ。
ところで、この景色もなんかおかしくないだろうか?
雲のラインが清水国道の勾配に合わせるようにして斜めになっている。
今までこんな景色を私は見たことがないと思う。
これ、冬に豪雪を降らせる雲の動きと同じものなんじゃないだろうか。
皆さんも聞いたことがあると思う。
新潟が豪雪地なのは、日本海側からの湿った雲が越後山脈に当たり、大量の“重たい雪”が降るからだと。
今日は冷たい北風が吹いており、条件としては冬に似ている。
峠は海抜1448m、そしてそこから1.2km下った「上の分岐」は1400mである。
清水国道らしくこの区間の勾配も緩やかで、そういえば最初に来たとき自転車に乗ったままで進めた数少ない場所だった。
この区間が廃道化を免れているのは、この先に居坪坂新道があるからで、それは清水峠への最も一般的なルートである。
我々も順調に距離を伸ばすことが出来た。
6;47 現在地
来た。
未踏区間の入口。
「上の分岐」だ。
遂に来た。
“去年の”5日前にここから出てきてバンザイをする予定は狂ったが、遅くとも12時間後までにはここでバンザイ出来るはず。
…頑張る!
あれ?
この案内板って倒れていたっけ?
普通、国道の標識が倒れていたら交通事故を疑うが、ここにその可能性は無い。誰かが踏破できなくて蹴ったのか? …もちろん我々じゃないぞ。
なお、この案内板の内容は去年のレポで紹介したので割愛する。
うーん…。
最初から“濃い”。
しかし、気力は最高に充実。
未踏の領域に進入する…そして1年ぶりに清水峠の残距離を減らせる。
その気持ちの高ぶりは、大変なものであった。
12時間後のバンザイ構想実現に向けて、
いざ 未踏区間へGO!
次回から、いよいよ未踏の廃道始まる。
お読みいただきありがとうございます。 | |
当サイトは、皆様からの情報提供、資料提供をお待ちしております。 →情報・資料提供窓口 | |
このレポートの最終回ないし最新回の 【トップページに戻る】 |
|