道路レポート 国道113号東港線バイパス 机上調査編(後)

所在地 新潟県新潟市
探索日 2020.08.20
公開日 2022.02.11

 続・机上調査編  〜東港線バイパスとみなと大橋〜


<4> 東港線バイパスの計画縮小にまつわる謎

前章にて、途切れたままの東港線バイパスが目指していた“完成形”を知りたいという机上調査当初の目的は、一応果たされた。
東港線バイパスは、昭和41(1966)年に新潟県が事業に着手し、昭和46年度の完成を目指して工事が行われた全長1.4kmの高架バイパスであったが、昭和43年発行の資料から、計画の全貌や、目指している完成形を、かなり具体的に知ることが出来た。

だが、この先には大きな謎が横たわっている。

【謎】 なぜ東港線バイパスの建設は途中で打ち切られ、現状の中途半端な形で供用されたのか?

この【謎】の答えについては、ここまで机上調査を進めるまで私は単純にこう考えていた。
東港線バイパスは、そもそも“みなと大橋”ありきの計画だったから、“みなと大橋”が頓挫したために、途中で打ち切られたのだろう――と。

しかし、東港線バイパスが計画されたのっぴきならない背景や、具体的な計画の内容を知るほどに、仮に“みなと大橋”との接続が果たせない状況になったとしても、万国橋で打ち切らず当初の計画通り水産物物揚場付近までの全線完成をどうして目指せなかったのか、疑問を感じるようになった。
いったいどういう経緯で東港線の計画変更が行われたのか、手掛かりを集めてみたい。





『市報にいがた』(昭和48年5月5日号)より

『市報』のバックナンバーを調べていくと、昭和48年5月5日号に東港線バイパスの完成間近を伝える記事が見つかった。(→)

建設中の東港線高架バイパスはことし十月に開通される予定ですが、延長は約1400m。市で整備中の山ノ下東港線と結ばれますと河渡・松浜方面への幹線となります。同バイパスは東新町から山ノ下橋の南側に橋をかけて竜が島地内を東港線沿いに県道港―沼垂停車場線をまたいで、すぐ東港線に合流します。同バイパスは、今のところ、東港線交通渋滞の解消に果たす役割は大きいものがありますが、将来は国道49号線につながる栗ノ木線及び海岸道路とつながるみなと大橋と接続して、両幹線から河渡・松浜方面への交通量を受けもつという大きな業績を控えているバイパスなのです。

『市報にいがた』(昭和48年5月5日号)より

記事によれば、昭和48年10月に東港線高架バイパスが開通する見込みであると書かれているが、市史は供用開始を昭和49年4月としているので、さらに半年ほど遅れたことになる。だがそもそも、当初は昭和46年度内の開通を予定していたはずなので、既にだいぶ遅れているのだ。しかも、現に我々が見て分かるとおり、建設されたのは当初計画された全線ではなく、万国橋交差点以東の区間だけだった。(記事は開通する高架バイパスの全長を1400mとしているが、これは当初計画の長さであり、実際に開通した区間は1100m程度だ)

この時点で既に、当初計画にあった万国橋以西、水産物物揚場付近までの高架建設を断念していたのだろうか。
しかし、計画が変更された事情は全く書かれていない。

そして記事の後半では、この東港線高架バイパスが将来的には栗ノ木バイパスやみなと大橋と結ばれることで「大きな業績を控えているバイパス」なのだと、“明日から本気出す”みたいなことを書いている。

左図に、この記事に登場している各種の道路の位置を示した。
東港線バイパスは、県の事業であり、このとき建設中。
栗ノ木バイパスは、国の事業であり、昭和46年に開通済。
都市計画道路山ノ下東港線は、市の事業であり、このとき建設中だった。(昭和53年開通)
そして、みなと大橋はまだ構想段階で事業は開始していなかったが、計画の主体は新潟市であった。

国、県、市、この3者が計画する新設道路が一点に集まらんとしていたのが、名は体を表わすとばかりの、万国橋であったのだ。

当初は昭和46年度完成予定として進められていた県の東港線バイパス事業計画に、変更が生じた理由はどこにあり、またそれはいつなのか。
このことを明言した資料は現時点で発見されていないが、推理のピースはいくつか見つけた。


昭和43(1968)年10月7日、この日行われていた新潟県議会定例会本会議一般質問にて、加賀田二四夫議員と土木部長による次のような質疑(抜粋)があった。

◆加賀田二四夫議員
都市計画街路栗ノ木線と交差する東港線の高架道路が、地震災害と交通対策のため、計画されてから三、四年になりますが、用地買収も遅々として進まず、計画の予定線内にある住民は移転することもできず、かといってとどまるにしても先の計画が立たず、にっちもさっちもいかず、この計画はさたやみになるのではないかと聞きにくる人があります――

◆県土木部長
それから東港線の高架事業の問題でございます。計画と実施が非常に大幅にずれておるわけでございます。これは計画課の都市計画街路事業としてやっておるわけでございまして、やはり全国的に見まして、計画課の街路事業というのは、国のほうでもワクが非常に小さいのでございます。そういう意味からして、計画は十数億というふうな計画をもっておりながら、金がついてまいりますのが何千万というふうな非常に単位が低いものでございまして、われわれもこの点非常に憂慮しているわけでございます。

新潟県議会会議録「昭和43年9月定例会本会議一般質問」より抜粋

要約。
国の補助金が足りないから工事が大幅に遅れている。

あまりにも普通すぎる理由で拍子抜けかもしれないが。
用地買収が遅々として進んでいないことも出ているが、答弁を見る限り、最大の原因は予算不足にある。
前回見たように、この事業は全体で15億円の総工費を見込んでおり、毎年度数億円規模の予算が投入されねばならなかった。
全額国庫補助で建設するわけではないから、もちろん県の予算も投入する。しかし国の補助は欠かせない。だが国は新潟県だけを相手にしているわけではないから、思うような配分はなかなか得られない。だから計画が遅れた。なるほどもっともらしい理由だ。

昭和45(1970)年2月定例会本会議においても、五十嵐真作議員(前回登場した『道路三倍増論』の著者である)が、再び工事の遅れを憂慮している。

◆五十嵐真作議員
東港線の高架バイパスももはや3年もたっておるわけであります。これも早く完成するように御配慮願わなければならぬのではないかと思うのであります。しかしこの問題は、1つは都市計画街路事業というのが非常に予算が少ない。したがって何年もかかる、なかなかできないということでございます。これはひとつ知事さんも、事業費の一部を立てかえるなり、あるいは特別の資金調達を考えるなりして、スピードアップを考えていただかなければならぬのではないか、こう思うわけであります。

新潟県議会会議録「昭和45年2月定例会本会議一般質問」より抜粋

計画の遅れの理由は、やはり予算不足であるとしている。
以上のような県議会の議事録から、昭和43年後半の時点で既に工事の遅れが起きていて、その原因が予算不足にあっただろうことが窺えた。
なお、全国的に見ても、昭和40年代後半は、46年のドル・ショック、48年と49年の2度のオイル・ショックなど大きな経済の混乱があり、それまでとは一転した開発抑制の政策態度が広く見られるようになった時期でもある。
こうした経済面の問題が、バイパス計画の遅延のみならず、計画全体を縮小する原因にもなったのだろうか。

東港線バイパスの打ち切りは、みなと大橋との関わりの中で起きたことである。
そう考えるのが立地的にも時期的にも自然な感じはあるものの、東港線バイパスが実際に建設されていた時期の会議録に計画変更や中断に関する質疑が見られず、ただ予算不足を原因とした計画の遅れについての言及のみがあったことは一つの事実だ。
みなと大橋が頓挫したから東港線バイパスも中断されたと即言できるような記録は、実はほとんど見つかっていない。(もしそういう資料があれば教えて欲しい)

ともあれ、やはり東港線バイパスとみなと大橋の関わりの深さは言をまたないところだ。これまで見てきた東港線に関する多くの言及に、みなと大橋との接続が出てきたのである。
また、数少ないこれらの頓挫の関係に言及した記録としては、新潟県議会昭和57年6月定例会本会議一般質問での関山信之議員の発言と、それに対する知事の答弁がある。
昭和57年なので、東港線が中途半端な形で供用開始してから8年後のやり取りとなる。

◆関山信之議員
さきのみなと大橋との関連で工事が中断をいたしております東港線バイパス高架道の栗の木バイパスとの交差地点におけるおり口の処置についてであります。現況はきわめて不自然なまま放置されておりまして、同地点の混雑はまことに昨今ひどいものがありますだけに、暫定的な対応も含めて、早急に処理の方針を出すべきと考えますが、いかがでありましょうか、お尋ねをいたしておきたいと存じます。

◆君健男知事
東港バイパスにつきましては、信濃川下流を横断する道路の位置、横断方式等と密接にかかわりを持つものでありますので、これらの整合性を図りながら、接続方式について検討してまいりたいと考えております。

新潟県議会会議録「昭和57年6月定例会本会議一般質問」より抜粋

関山議員、めっちゃ我々が知りたいところに切り込んでて草w。
というのは冗談として、今でこそ市民が皆見慣れすぎてしまって特に変とも議題に上がらなくなっている“ジャンプ台”状態の末端部が、当時はまだ気になる存在だったようである。
で、関山議員ははっきりと、東港線バイパス万国橋交差点は「みなと大橋との関連で工事が中断している」と述べている。
これに対する知事の返答は、「検討して参りたい」というだけで具体的ではないのだが、本稿の最後の章で、この時期の後に誕生してくる、現行の具体的計画を紹介するつもりだ。

また、さらに時代が進んで昭和62年6月定例会本会議一般質問でも、今度は県土木部長が、新潟空港へのアクセス改善を求める議員の質問に答える形で、東港線バイパスについて次のように触れている。

◆県土木部長
次に、新潟空港へのアクセス道路の1つであります国道345号の山ノ下橋の混雑解消についてでありますが、県といたしましては、昭和49年に東港線高架橋を架設いたしまして、一部供用を図ったところであります。まずこの高架橋が本来の機能を発揮するように、新潟市内の道路計画調査の中で検討してまいりたいと考えております。

新潟県議会会議録「昭和62年6月定例会本会議一般質問」より抜粋

東港線バイパスは、一部供用であったと述べている。
したがって、昭和62年の時点では、まだ残りの計画が生きていたと考えられる。
なぜ一部供用に終わったかの言及がないのが惜しいが、東港線バイパスの事業計画は、昭和49年の供用開始以降も長い間、万国橋交差点以西が残ったままになっていたようだ。決して計画から削除されたわけではなかったようなのである。


この章の冒頭に掲げた【謎】の答えについては、資料的な裏付けがあまりないので確言を与えにくいものの、予算不足で工事が遅れたことを背景にしつつ、やはりみなと大橋の頓挫も関係して建設の中断が行なわれたものと推理したい。




ところで少し話が変わるが、東港線バイパスが中途な形で供用を開始してから今日までの40数年が経過する中で、その利用方法には、どんな変化があったのだろう。
現在は、現地探索編で見た通り、中央分離帯を挟んだ両側の車線で、西行きの一方通行が行われるという、全国的にも稀な(唯一?)奇妙極まる利用法になっている。
このような利用は、供用開始当初からのものなのだろうか。私は大いに気になった。

しかしどうやら、そんなことはなかったらしい。
読者様のコメントに次のようなものがあった。


『デラックス全日本道路』(昭和57年版)より

第2上り線は、開通直後には現N-1側の交差点から進入一方通行でした。その後、4車線同一方向になり、ジャンプ台で車線が減るもんだから渋滞が酷く、バスレーンタイムが始まり、東港線が一般車走行禁止になると大変でした。あのバイパス抜けるのに1時間かかることもありました。

読者様コメントより

開通直後は、一般的な道路と同じように、上り線と下り線が別方向であったらしい。
普通に考えれば、それが自然な運用だろう。
だが、ある段階で、4車線同一方向になった。
それはいつのことで、なぜなのか。

右の画像は、昭文社が昭和57年に発行した『デラックス全国道路』という道路地図帳だが、当時国道345号であった東港線が○印の辺りに描かれている。
この地図もまた大きな誤りを犯している。
万国橋交差点の西側まで、実在しない高架橋を描いてしまっているのだ。
それはさておき、よく見ると右端のところに、一方通行を意味する矢印が描かれている。
昭和57年当時、既に高架橋全体が一方通行であったことが窺える。

道路法では、一方通行規制は道路管理者と公安委員会(警察)の両者に権限がある。
だが、道路構造に関係する一方通行規制は、道路管理者の側に決定の動機があるはずだ。
この場合、道路管理者は県(現在は市だが、県時代の決定だろう)だが、前例の少なかった決定は簡単に行われたのだろうか。

県議会や市議会の議事録を調べてみたが、それぞれの公開範囲内では、こうした協議に関するものは見つけられなかった。
この件に関して、皆様からの情報提供を強くお待ちしております。
昔の東港線の記憶であるとか、写真があるとか、なんでも構いません。




次の章では、みなと大橋の計画について、経過の概略を紹介したい。
そして最終的には、東港線バイパスのキョダイマックス進化形ともいえる究極のフォームをお目にかけたいと思う。





<5> みなと大橋の計画史

みなと大橋については、『新潟市史 通史編5現代』に、その経過が紹介されている。
次に挙げる文章は、みなと大橋の計画がもっとも実現に近づいた時期の記述であり、少し長いが、計画の概要や、計画が具体化に至る経緯など、みなと大橋を知る上での重要な情報がよくまとめられているので、まずはこれを紹介したい。
その後、時系列を追って改めて紹介しよう。

四期渡辺市政で具体化しようとした大型プロジェクトに、「みなと大橋」と呼ばれた万代橋下流橋の架設があった。万代橋下流橋は同地区の住民を中心に陳情が続けられていたが、(昭和)40年10月の市民大会での架橋建設促進の決議を経て、新潟商工会議所を中心とする市民運動へ盛り上がるようになっていた。これを受け、新潟市は新潟県と一体となって46年以降毎年国へ陳情し、ようやく事業化のめどがついた。49年10月、「みなと大橋」構想が、新潟市議会交通問題調査特別委員会で明らかにされた。しかし、この構想は、住民側が希望する無料の生活橋ではなく、主要幹線道路網を担うことを主眼とした有料橋であった。建設費は橋本体だけで300億円ともいわれ、外に接続道路で家屋移転補償費などを含む多額の費用が見込まれていた。移転対象世帯は約280世帯もあり、移転地の不足や生業不安を招いた。また有料橋への市民の不満は大きかった。こうした問題を抱えて、「みなと大橋」の架橋問題は、次の川上市政に引き継がれていった。

『新潟市史 通史編5現代』より

いかがだろうか。
昭和40年頃から市民運動的に架橋計画が持ち上がり、やがて市と県も事業化を目指し国への陳情を始める。
そして昭和49年には事業化のめどが立ち、正式に市民に向けて市の構想として公表されるようになった。
だが、公表された構想は、多くの市民が求めていた無料の生活橋ではなく、高規格な有料橋であったことや、環境問題、事業費の問題などから、反対する声も多くあった。
さてどうなっちゃうの? といわれれば、既に散々述べている通り、この計画は着工に至らず終わる。

東港線バイパスが、みなと大橋の右岸側取り付け道路の一つとして位置づけられていたことは、既に述べている。
したがって、東港線バイパスの完成形を探る上で、もしも“みなと大橋”も実現していたらどうなっていたかという想定は、無視できない。
みなと大橋についても、知る必要があった。




みなと大橋こと、万代橋下流橋の計画は、はじめは市民の声から広まっていったと市史は書いていた。
その本当の原点は、新潟特有の地形にあろう。

右図は、明治44(1911)年の新潟市を描いた地形図だ。
当時既に新潟は市政を敷いており、北陸有数の都市ではあったが、その市街の広がりを凌駕するほどの幅を持った巨大な河が存在している。
いうまでもなく日本一の大河である信濃川である。

その信濃川に「万代橋」と注記されたとても長い木橋が架かっている。
万代橋は明治19(1886)年に初めて架けられたが、長さが782mもあり北陸一の長大橋であった。当初は民営の有料橋だったが、明治30年に県営となり無料化すると、対岸の沼垂町に設置された沼垂駅(明治30年)や初代・新潟駅(明治39年)への往来はますます盛んになり、大正3年に新潟市は沼垂町を編入し、現在のように川の両岸に広がる新潟市となった。

万代橋が架けられる前はもちろん、架設後も、信濃川を渡る多くの渡し場が活躍していた。
そのうちの一つは、川の中州に浮かぶ本当の島であった万代島を経由して、新潟市の船場町と沼垂町の栗ノ木川を結んでいた。
後のみなと大橋は、この渡しの位置を概ね継承したものとなった。

チェンジ後の画像は、明治44年から100年あまりを経過した平成26(2014)年の地形図だ。
万代橋が同じ場所に存在しているが、川幅が半分くらいに減っているのが分かると思う。
現在の万代橋は昭和4年に竣工した連続アーチの秀麗なコンクリート橋だが、全長は307mへ半減した。
このような川幅の大きな縮小は、護岸だけではなく、上流での治水の成果であった。特に大正11(1922)年の大河津分水路の完成は流量を半減させ、両岸を埋立てて新たな市街地を造ることを許したし、昭和47年に完成した関屋分水路は、市街地を永劫に洪水の恐怖から遠ざけた。

現代では、万代橋の上流にも下流にも多くの橋が架かっている。
しかし、長い間市内の信濃川には、万代橋以外の橋は架からなかった。
ようやく2本目の橋が架かったのは、初代万代橋から45年後の昭和6(1931)年に誕生した昭和橋(現在の昭和大橋は2代目)である。
さらに、万代橋より下流に橋が架かったのは、なんと平成14(2002)年の柳都(りゅうと)大橋が最初である。
明治以前からある渡し場から、柳都大橋として“万代橋下流橋”の架橋が実現するまで、本当に長い時間を要している。


さてそれでは、一体いつ頃から万代橋下流橋の実現が語られるようになったのだろう。
『新潟市史 資料編8現代1』に、「万代橋下流に橋を架けることについては大正8年から陳情が始まっている。戦後も架橋運動は続き、昭和41年には大橋架設促進連盟が結成された」とあった。私が知る限り最古の記録はこの大正8年の陳情であるが、残念ながらその内容は分からない。


『新潟都市計画5ヶ年計画案』(昭和32年)より

そして、市民が連綿と続けてきた万代橋下流橋の陳情を、新潟市が構想や計画と名のついた文書に組み入れたことも、みなと大橋が最初ではなかったようだ。
私は今回、机上調査のために新潟市立図書館へ赴き、市が数年から十数年おきに作成してきたいわゆる長期計画を何冊か見た。

右図は、新潟市が昭和32年から37年を計画期間と想定し32年に作成した、新潟都市計画5ヶ年計画案の道路事業一般図の一部である。
この計画は、正式な長期計画を作成する準備として試作されたものだが、かなり具体的な内容である。
しかし、図を見る限り(実線は都市計画決定済、破線は予定線と凡例にある)、万代橋より下流には全く架橋の計画は見られない。(逆に上流側は盛りだくさんで、未だ実現していない橋も複数描かれている)
ちなみに東港線バイパスもまだ計画されていない。



『新潟基幹都市計画』(昭和36年)より


初めて万代橋下流橋に通じる計画線が現れたのは、昭和36(1961)年12月に県と市が合同で作成した新潟基幹都市計画だ。
この計画もまた予算措置を伴うような正式な長期計画ではなく、新潟都市圏(だから周辺市町村を含んでいる)の開発の基本方針をまとめたものであるが、左図のように、後の計画に通じる幹線道路網の方向性が明確に打ち出されている。

この図、街路網基本型図によれば、新潟市中心部に全円の中央環状線、その外側に半円の大環状線、さらに外側にまた半円の(外かく)環状線という三環状線と、これらを結ぶ数本の放射線が定義されている。中央環状線は万代橋と関屋橋(後の千歳大橋にあたるものか)を持っており、これより下流側に橋は描かれていない。
しかし、大環状線は後の新潟バイパスや、その延伸である新々バイパスの原形であり、もっとも外側の環状線は当時まだ基本計画すらなかった北陸自動車道や日本海東北自動車道、あるいは現在盛んに建設が進められている新潟中央環状線の魁といえよう。



『新潟基幹都市計画』(昭和36年)より

右に掲載したのは、同計画書に附属していた「中心都市の街路網予想図」だ。
あくまでも予想図ということであるが、ここに初めて万代橋より下流で渡河する計画線が、この図に描かれた全ての予定線の中で唯一の点線で描かれている。だが図に凡例がなく、この点線が何を意味しているのか最初は分からなかった。

それにしてもこの図はなかなか壮大で、新潟バイパスが既に描かれているのはもちろん、昭和38年に着工し44年に開港した新潟東港が「新工業港計画」の名で実際に実現したものの3倍以上の巨大さで描かれていたりする。(新潟東港の凄まじい計画縮小も面白いテーマなのだが、いずれの機会に)

だが、なんといっても万代橋下流に描かれた点線が気になるのである。
その位置は、後のみなと大橋よりもさらに下流で、現在ある新潟港みなとトンネル(平成14年開通)に近い。
ちなみに、東港線バイパスにあたる道は、またしても描かれていない。

図中唯一の点線で描かれたこの渡河ルートの正体は、同計画附属の街路計画一覧表によって、「うおーー!」という形で解決した。
その一覧表にはちょうど30本の街路計画が列挙されていたが、その30番目に、次の内容があった。

路線名称起点終点幅員(m)延長(m)事業費(千円)摘要
その他信濃川河底トンネル外空欄1853,256,000市街地


信濃川河底トンネル?!

ちなみに、我が国初の(天井川を除いた)河底トンネルは、昭和19(1944)年に開通した大阪市の安治川河底道路トンネル(全長80m)である。
しかし、この予定地は河口部の新潟港内なので、海底トンネルに近い立地とも思われる。
我が国および世界初の海底トンネルは昭和17年に開通した関門鉄道トンネルで、道路用の海底トンネルとしては昭和33(1958)年の関門国道トンネルが国内初とされる。

この信濃川河底トンネル計画だが、トンネル延長185mという規模を想定していたようで、川幅と比べて極端に狭い(新潟みなとトンネルは全長1423mある)。
これだと両岸に傾斜路を付けるのは無理だろうから、安治川河底トンネルと同じような道路用エレベータを用いた構造を想定していたのかも知れない。
総工費は32億円あまりを見込んでおり、年代が違うので単純な比較は出来ないものの、10年ほど後にみなと大橋が300億円で建設されようとしたのとはかなり差がある。

しかし、この意欲的な河底トンネルが、この後具体化した様子はない。
現在はほぼ同じ位置に新潟みなとトンネルが存在するが、その議論の中でも、かつて河底トンネルが計画されたことを下敷きにしたものを見たことがない。
そして昭和40年代の初め、存在感を示さなかった河底トンネルに代わって一気に盛り上がってくるのが、みなと大橋の巨大な構想であった。
40年10月、新潟市民大会で架橋建設促進の決議が行われたという(市史)。
だが、市の計画として具体化していく最大のきっかけは、新潟市民を恐怖のどん底に落した新潟地震、そしてその復興計画にあったと私は見る。





「新潟日報」(昭和39年6月17日号)より

昭和39年1月、新潟市は全国最初の新産業都市に指定された。また、同月から6月にかけて第19回国体“新潟国体”が新潟市を中心とする地域で開催され、北陸の雄都としての存在感を存分に示した。
だが、国体閉会のわずか1週間後、6月16日午後1時過ぎ、マグニチュード7.5の大地震が新潟市とその周辺を襲った。
液状化によって将棋倒しとなった団地の映像は、全国民を戦慄に震わせた。現代の都市における地震災害の恐怖を、まざまざと見せつける災害となった。左の写真は震災当日の市内の様子で、落橋しているのは昭和大橋だ。

復興へ向けた動きは早かった。新潟市は、県や有識者の助言を得て、昭和39年12月に「新潟地震災害復興計画」を発表する。計画期間は明示していないが、おおむね2年から3年での実現を目指すものとされており、非常な速成を狙ったものだった。
みなと大橋という名前が正式な計画に見えたのは、おそらくこれが最初である。
『新潟地震誌』により、復興計画の概要を知ることが出来た。
次に引用するのは、震災が与えた交通への影響をまとめた部分だ。

新潟地震により都市交通が全く麻痺し、信濃川に架かる3橋の被災により東西新潟の交通は途絶し、各種の救援復旧活動は大きな障害を受けた。この体験は交通網の整備が何にもまして、優先されねばならないことを示した。復興計画では、このことを十分取り入れ、被災した道路橋梁は早急に復旧すると共に、将来の都市発展の方向に合わせた積極的な道路造りを推し進めることとし――

『新潟地震誌』より

上記にある市内3橋とは、市の中心部で信濃川を横断する万代橋、八千代橋、昭和大橋の3橋のことで、同年5月に国体を記念して架け替えられたばかりの2代目・昭和大橋は落橋(後日川から引き上げられて復旧)したほか、他の2つの橋も橋脚などに被害を受け一時交通途絶となった。



『新潟地震誌』より

右図は、復興計画に付図として収められた復興計画図である。

ここには、「新潟バイパス」、「亀田バイパス」、「関屋大橋(仮称)」(←後の千歳大橋)、そして「みなと大橋(仮称)」。これらの道路が名前付きで描かれているほか、道路名こそ書かれていないが、栗ノ木バイパス(栗ノ木川埋立道路)と、我らが東港線バイパスなどが、一堂に会している。
この1枚の地図こそ、現代新潟の幹線道路網の原点といえる極めて重要な意義を持つものだった。

図の凡例に照らしてみると、いま太字で挙げた各道路は、東港線バイパスの外は全て「地域間高速自動車道」と表示されている。また東港線バイパスの線は「主要幹線街路」を示しているそうだ。
地域間高速自動車道というのは、いわゆる高速自動車国道と同じものではないだろうが、自動車による高速交通を実現する道路という意味であれば、いわゆる都市高速道路的なものをイメージしてよいと思う。
これは私が勝手に夢見たことで文中には出ているわけではないが、新潟環状高速道路とはまさに、新潟都市高速の幻ではないか。

当時の新潟市の人口は、現在の市域を含めて約60万人(現在は80万人)。
我が国で都市高速道路を持つ都市は、東京、名古屋、大阪、広島、北九州、福岡の5都市(およびその近隣)であり、このうちもっとも人口が少ない北九州市で90万人強である。
しかし、これより規模が大きい仙台市や札幌市にも都市高速道路はない。なぜなら、道路規格的に都市高速道路が除雪を必要とする都市にはそぐわないためといわれる。
したがって、新潟の場合も都市高速道路を持つことはなく、仙台市のように自動車専用の一般有料道路となったのではないだろうか。

失礼。本文にない内容(妄想)で文字数を稼いでしまった。『新潟地震誌』の本文の続きに戻る。次は復興道路計画の説明である。

――現在の市街地のバイパス的な役割を果たす新潟バイパス線の建設を急ぎ、あわせて、北陸経済圏と結ぶ北陸自動車道の建設、関東経済圏とを結ぶ関越高速自動車道の建設を図るものとした。(中略)

また東西両新潟を結ぶ橋梁も、万代橋下手河口付近に港大橋(仮称)を、又昭和大橋の上流に関屋大橋(仮称)を建設し、国道新潟バイパスにより7・8号線、49号線より本市の中心部に進入する車をこのバイパスを通して行うことにする。なおこれらの道路橋梁を結ぶため、西野から五十嵐浜を経て競馬町に至る2級国道バイパスとそれにつながる海岸通にも路線を設け、本市の道路を環状的に構成し、立体交差を取り入れ、交通に支障のないようにする。また東新潟については、河川総合対策と相まって栗ノ木川の埋め立てを行い、亀田バイパスに結び新津市に直結する。

その外、都市計画街路の建設については、将来の都市発展の方向や、防災上の街路の役割を考え、能率的な都市交通ができるよう、街路網の再編成を行うが、これら主要街路の建設は、沿道建築物件の移転を伴うことや、都市改造事業と並行して行う必要があるなどにより、経費も厖(ぼう)大なものになるため、完成にはまだ相当の時間を要する見込みである。以下その路線について記述する。(中略)
A現在の東港線は、現況では、拡幅が困難なので、高架道の建設を行い、臨港鉄道との交差点、1級国道7号線との交差等は立体交差にするとともに、栗ノ木川埋立後の道路との関係も良くする。(中略)

このようにして道路幅員を広げ、立体交差を設け、国道バイパスと路線を結ぶことが出来れば、現在の2倍以上の車を市内に乗り入れても交通渋滞を来たすことがなく、県内外から大量の自動車乗り入れがあってもさばくことができ、本市の発展が無限に広がることが約束される。

『新潟地震誌』より

一級国道の道路事業として国が行う新潟バイパスや亀田バイパスの整備(昭和43年着工、48年完成)、街路事業として県が行うことになる東港線バイパス(41年着工、49年部分供用)、そして市が欲する“みなと大橋”。
これらが揃い踏みした復興計画から、万代橋下流橋の実現へと向けた動きは加速していくのだった。



『新潟都市計画街路の変更追加及び廃止一般図』(昭和39年12月)より

新潟市はこの復興計画に基づき、すぐに都市計画の大規模な変更を行っている。
右図は、昭和39年12月に行われた都市計画の変更をまとめた『新潟都市計画街路の変更追加及び廃止一般図』の一部である。
(チェンジ後の画像は比較用に現在の道路地図を表示)

図には、図中唯一の点線が、ちょうど現代の栗ノ木バイパスから、みなと大橋の計画地を渡って、西新潟へ延びている。
この線が、栗ノ木バイパスやみなと大橋の計画を示唆していることは想像できるが、凡例にはこの点線の説明がなく、どういう計画状態を示しているものなのかが謎だった。

この謎は、昭和45(1970)年3月に新潟市が策定した初の長期総合計画である「(第一次)新潟市総合計画」の基本計画書の解説によって判明した。
同書によると、この昭和39年12月の都市計画街路改定では、「環状線の一部である港大橋、旧栗ノ木川区間の決定は現在調査中のため、その調査結果を待って決定することとした」とあって、点線の意味は、都市計画決定前の調査段階だった。

それはそうと、先ほどの復興計画図やこの都市計画街路変更図は、これまで話題にしなかった1つの新たな情報をもたらしている。
みなと大橋の西新潟側の取り付け道路が、どこに造られるのかという情報だ。
東新潟側は、栗ノ木バイパスと東港線が取り付け道路になることが分かっていたが、より都市化が進んでいる西新潟側の取り付け道路の問題が初めて見えてきた。

だが、比較のために表示した現在の道路地図と見較べてみると、西新潟側の取り付け道路が大々的に整備された様子は見当らない。
ここにも、みなと大橋が蹉跌にハマった大きな原因がありそうに思える。


ここで一旦、いま登場したばかりの昭和45年3月の第一次新潟市総合計画についても紹介しよう。
同計画は、昭和43年を基準におおむね10年以内に実現すべき計画をまとめたものとされ、前文において新潟市を、「当然に首都圏の一部であり、日本海側における対岸貿易の拠点であり、さらに日本海側における雄都である」と位置づけている。
肝心の道路に関する中味だが、当時既に着工していた新潟バイパスや栗ノ木バイパス、さらには東港線バイパス1520mを15億円で整備することなどが盛られているものの、意外にも、みなと大橋については全く記載がない。接続するはずの栗ノ木バイパスや東港線バイパスはすんなりと都市計画決定が行われ事業着手となったが、みなと大橋はそうならなかったようなのだ。


『新潟市の総合計画パンフレット』(昭和45年12月)より

総合計画を市民に分かり易く伝えるべく、同年12月に公表された『新潟市の総合計画』のパンフレットがある。
左はその表紙画像で、信濃川の両岸に広がる明るい街並みが印象的な絵だ。


『新潟市の総合計画パンフレット』(昭和45年12月)より

同冊子に収められた「西港再開発計画図」(右図)に、辛うじて、みなと大橋らしき点線が描かれているのを見つけた。

ちょうど万国橋から万代島に渡り、さらに左岸の早川堀、税関支所付近にタッチする点線が、信濃川河口の新潟西港を横断している。
(市立図書館で複写した原図は、誰かがこの点線を、フリーハンドの赤線でなぞった後だった。みなと大橋が忘れられない推進者の仕業だろうか……)

この図により、計画されていた左岸側の橋頭位置がさらに絞り込めた。税関支所、そして早川堀の近くであると。



開港地新潟を象徴する施設である旧税関支所(右奥)。

信濃川に面する市民憩いの歴史と親水の空間、この一帯が

みなと大橋の建設予定地だった。

これまで私が目を向けなかった、信濃川左岸の道路問題にも波及しつつ、
みなと大橋は、悲しき行き止りへの前進を続ける……。




昭和39年12月に新潟市が発表した新潟地震災害復興計画に実現が盛り込まれていたみなと大橋だが、具体的な建設へ向けた大きな動きがないまま時間は経過し、昭和47年頃になると同じ復興計画に盛られていた新潟バイパスや栗ノ木バイパス、東港線バイパスなどが出来上がりつつあるのに、まだ都市計画決定にも至っていなかった。
とはいえ、全く動きがなかったわけではなく、市史によれば、昭和46年度からは毎年国に対して建設の陳情を行っていたらしい。

しかしともかく、“陳情”というところに、この事業の根本的な難しさが見えるのである。
国の事業である新潟バイパスや栗ノ木バイパスは、予算確保の面ではもっとも優遇がある。
県の事業である東港線バイパスは、既に述べたとおり、国からの補助金が足りないことに苦労して工期を延長したきらいがある。
最後にもっとも弱いのが市町村の事業である。そんな立場で、東港線バイパス(15億円)とは比べものにならない300億円規模の工費を必要としたみなと大橋を、新潟市の単独事業で整備することは、現実的ではなかった。

次に紹介するのは、新潟県議会昭和47年2月定例会本会議一般質問での吉川芳男議員と亘四郎県知事のやり取りの抜粋だ。

◆吉川芳男議員
みなと大橋と道路公社計画であります。早くから万代橋下流に橋をと願う市民の願望は、計画のないうちからみなと大橋と名づけて、東西相呼応して期成同盟会を結成し、その実現に努力していることは、知事もよく承知のことと存じます。しかし、これまた巨額な金がかかるがゆえに、適当な取りつけ道路がないがゆえに、そして港の機能を傷つけないようにとむずかしい条件があって、なかなか実現の運びに至りませんでした。しかし、ようやく隘路も少しずつあいてきたようであります。技術的には沈埋函方式で、取りつけ道路は栗ノ木川埋め立て地――早川堀間、事業主体は民間資金も導入できる地方道路公社と、おおよその輪郭が描かれたようであります。そして本年度予算の500万円の調査費の計上は、新潟市民に大きな希望を与えてくれました。しかし、この計画と表裏一体、並行して本年度設立が期待されていた道路公社は、大石環境庁長官の妙高有料道路に対しての待ったから、遠のいたのではないかとの印象を与えられ、いささか心配しているのであります。これまた知事さんの勇断が期待されるところであり、所見をお聞かせいただきたいのでございます。

◆亘四郎知事
これはもう道路公社をつくるとかということとは全然別個な関係で、ただ将来どういう形になるかしらぬ、地下になるか、あるいはまたサスペンションブリッジになるか、いろいろ工法はあるでございましょう。いずれにいたしましても、それのもとになる調査というものが必要だ。そこで調査の一歩をやはり踏み出していかなければいかぬ。そうでないと、なかなか話を具体的に持って進めていけないということから、調査費を今回つけて、進める姿にしたわけであります。(中略)現在道路公社設立というものは直ちに考えてはおりません。(中略)私自身ももう二、三回建設省に行きまして、話はずっと申し上げてきておるわけです。ですけれども、みなその必要性は認めておるわけでありまするけれども、まだよしという立場までいっておらない。その一つとしては、やはり調査ができておらない。でありまするから、ある程度の調査をまとめまして、正式に要望していくという形に持ってまいりたい。

新潟県議会会議録「昭和47年2月定例会本会議一般質問」より抜粋

『市報にいがた』(昭和48年2月25日号)より

以上の内容から、新潟市だけでなく新潟県も、みなと大橋には前向きであったことがまず分かる。
そして、事業費確保の為のテクニックがいろいろと議論されている。国への陳情はその一つ。また県として出来る手段の一つが、道路公社を作って民間の投資を呼び込む方法であり、これも検討されていた。
道路公社といってもピンとこないかも知れないが、昭和40年代には、モータリゼーションの急激な進展に全く追いつかない道路整備費を補うべく、各都道府県が道路公社を設置して一般有料道路の整備を行うことは珍しくなかった(道路公社が管理する道路は建設費償還のため有料道路となる)。
この議論は、早急な予算確保の為にみなと大橋を有料橋とするかどうかという大事な選択に触れているのだ。

しかし、この時点でもまだ道路構造について決定せず、沈埋トンネル案も研究されていたようだ。(国内では昭和48(1973)年に完成した衣浦海底トンネル(愛知県)が最古の沈埋型式による海底トンネルである)
もうこの時期は取り付け道路とされる東港線高架バイパスの設計はとうに完成し、接続準備用の“イカの耳”を含んだ形で工事が進められていたのである。接続する相手が橋でもトンネルでも対応可能な準備施設ではあったろうが…。

右は、『市報にいがた』(昭和48年2月25日号)に掲載された、「みなと大橋建設へ基本計画の調査を開始」という記事だ。
曰く、建設省、運輸省、県、市の四者で構成される「みなと大橋(仮称)建設準備委員」での議論の結果、本年から県と市が共同で調査を行うこととなり、県と市がそれぞれ500万円の調査費を予算計上している。この調査結果を待って、来年度はルートや工法の検討や設計などを行う予定としている。
ちなみに運輸省が関わっているのは、特定重要港湾である新潟港の指定管理者であるからだ。架橋計画地にかかっている万代島などが港湾区域内だった。
関係者が多すぎてほんと大変そう…都市の道路って。


こうやって時間がかかりはしたのだが、重ね重ねた議論や陳情が実を結び、国が重い腰を上げたらしい。
昭和49(1974)年――東港線バイパスが部分供用された年――の10月に、新潟市は「みなと大橋構想」を発表する。(市史)

構想が「発表された」といっても、具体的にどんな形で発表がされたのか。新聞だろうか。もし、市が作った具体的な発表物が残っていれば、それを見るのが一番原点に近いはずだ。
そう思い市立図書館へ行ったが空振りで、「ないのかなー」ともの欲しい気持ちでいたところ、なんとこの発表物と見られるものの複写データをお持ちだという方とコンタクトを取ることが出来た。その人物は、私が知る限りは最もみなと大橋の研究に精通しておられる新潟都市再生 氏Twitter:@ryuto_niigataである。

さっそくだが、同氏よりお借りした資料、その名も「みなと大橋建設計画概要」(昭和49年11月)をご覧いただこう。
原版は二つ折りの表裏印刷カラーパンフレットであり、右画像はその表面だ。



『みなと大橋建設計画概要』(昭和49年11月)より

Hot!あつい!

まず目に飛び込んでくるのが、鮮やかな完成予想図だ!

完成予想図を見ると、なんとも見事なループ部を有する斜張橋じゃないか!
大都会のループ海上橋といえば、東京港を跨ぐレインボーブリッジ(平成5(1993)年開通)を連想する。だがそれよりだいぶ早く、本橋は誕生を夢見ていた。

ループがあるのは西新潟側で、回転回数は2回強(完成予想図を見る限り750°くらいありそう)である。
先ほど紹介した県議会のやり取りでも、「港の機能を傷つけないようにとむずかしい条件」があると出ていたが、本橋は単に信濃川を渡れば良いというのではなく、新潟の海の玄関、重要な対岸貿易拠点でもある新潟西港に架かる橋として、利用する可能性がある全ての船舶の通行を妨げない海面高を確保する必要があった。
その答えがループ橋ということに決着したのが、「みなと大橋」だったのだ。
しかしこれではますます高額な事業となったワケである。

なお、忘れないうちに付記しておくと、この建設計画概要の発行者は、みなと大橋建設促進連絡協議会となっていて、発行時期は昭和49(1974)年11月である。
新潟市が直接発表したものではないのだが、後に紹介する新聞記事と照らしても、この先月に市が発表した「みなと大橋構想」をまとめたものと考えて良いと思っている。



『みなと大橋建設計画概要』(昭和49年11月)より

パンフレットにある完成予想図の信憑性について、根本的に疑いを持っておられる向きもあろうが、構想をできる限り正確に表現したものとの前提に立って、深掘りをしてみたい。

右図は完成予想図の東新潟側を拡大したものだ。
みなと大橋は、そのまま栗ノ木バイパス上に設置された高架橋へ直接繋がっている。
そしてその下を潜る形で、我らが東港線高架バイパスの姿が見える!図中に赤くハイライトした部分がそれだ。

東港線高架バイパスは図右端の水産物物揚場付近まで伸びており、その辺りから半円形のランプ(図中のBランプ)が、みなと大橋へ向けて伸びている。
前の章で私が書いた完成予想図には、このようなランプウェイを想定していない。(準備施設等がないので、想像の根拠がなかった)
一方、みなと大橋の影になっている辺りは、図の解像度の問題もあって、よく分からない。
よく分からないが、実際に建設されていた東港線高架バイパス上の接続準備施設の存在と照らせば、図中の「Aランプ」がありそうだ。

図から分かる、みなと大橋、栗ノ木バイパス、東港線高架バイパスの接続は、立体交差のみで構成されたいわゆるジャンクションだということだ。
しかし、全ての方向に行き来できるフル・ジャンクションではなかったかも知れない。完成予想図でもそのようには描かれていないと思う。



『みなと大橋建設計画概要』(昭和49年11月)より

表面の左半分は、この大きな「主要幹線道路図」で占められている。
主要幹線道路として、「みなと大橋ルート」と「主要関連道路」の2種類を描いた地図だ。
チェンジ後の画像は、比較用に現在の道路地図を表示。

図の主役は赤線で描かれた「みなと大橋ルート」だが、約10年前の復興計画に最も太い「地域間高速自動車道」として描かれていたみなと大橋と千歳大橋を含む都心環状道路からはルートの西側が変化し、関屋海岸から青山海岸を経て五十嵐(現在の新潟大学前駅付近)に至る、いわゆる海岸道路(現在の国道402号に近いルート)を含むものになっている。
ただし、関屋海岸以西は(凡例にない)破線表現になっていて、構想段階ということだろうか。
いずれにしても、みなと大橋の位置付けが、西海岸方面と都心および東新潟を連絡する、より広域交通的なものへ変化したことを感じる。

(←これは現在の寄居浜付近の海岸道路(市道)の風景だ。西を向いて撮影している。
市役所から1kmの位置とは思えないほど緑豊かな砂丘海岸だが、かつて、みなと大橋ルートへの組み込みが考えられていた。現在は、新潟みなとトンネルへ通じている。



『みなと大橋建設計画概要』(昭和49年11月)より

つづいて、裏面。

こちらには、平面図、側面図、横断面図、計画概要などがまとめられている。
個別紹介の前に、誌面上部のオレンジ色の部分に書かれている「まえがき」の全文を転載しよう。

まえがき
わが郷土新潟市は、東西が橋をもって結ばれている地理的条件から、本市の交通は橋がネックとなっており、橋の新設が叫ばれてきた。
「みなと大橋」の架橋構想は永年に及ぶ歴史があり、その実現は、正に新潟市民の悲願である。この「みなと大橋」の重要性は、交通問題、地域開発、生命財産の保全等幾多に及んでいる。去る7月5日、市と関係地元団体とが一体となった「みなと大橋建設促進連絡協議会」を結成し各関係機関に対し、早期実現方要望陳情を進めてきた。昨今、諸般の情勢は、関係諸方面においても、この橋の意義について、理解を深めつつある。この機をとらえわれわれの永年の宿願である「みなと大橋」の早期実現のため総力を結集しよう。

『みなと大橋建設計画概要』(昭和49年11月)より

『みなと大橋建設計画概要』(昭和49年11月)より

(←)個別紹介その@、平面図。

みなと大橋ルートがみかん色の線で太く描かれている。
西新潟の市街地を横断して海岸道路へ延びているが、具体的にどこを通る予定だったかの詳細は、後述の新聞記事でもう少しはっきりするので、今はおく。
また、みなと大橋は単純な直線橋ではなく、万代島の辺りでS字にカーブした複雑な平面形を持つものだったようだ。

残念ながら、東港線バイパス(図中赤くハイライト、「東港線高架道路」の注記あり)との接続の様子は詳しく描かれていないので、ジャンクションの形状は全く分からない。
この図だと、あくまでも栗ノ木バイパスに直接乗り入れることしか分からない。

それはそれとして、この図だと太い黒線で描かれている国道7号と、みなと大橋ルートの対比が強調されて見える。
まるで国道7号の市街地バイパスのような印象を受ける。


『みなと大橋建設計画概要』(昭和49年11月)より


個別紹介そのA、横断面図と、計画概要。

横断面図により、みなと大橋は全幅21.5mで、片側2車線かつ両側に歩道を設ける幅員構成であったことが分かる。
構造を見る限り、東港線バイパスのような自動車専用道路ではないようだが、生活道路として万代橋下流橋を求めてきた市民が多かったのであるから、これも自然なことだろう。

さらに計画概要によって、みなと大橋の(1)規模や(2)構造が分かるが、注目は(3)取付道路の内容だ。
右岸は、「栗の木線及び東港線高架道路に接続する」とあり、ジャンクションの具体的な内容には触れていないが、やはり両者との接続が明記されている。
左岸については、「川端町入舟線にループ形式で接続する。ループの半径65m」とあり、左岸側の接続路線名が初めて明記された。
加えて、関連道路計画概要もまとめられており、西新潟の市街地に全長1580m、幅員40mの整備をするとしている。この延長は、先ほどの「主要幹線道路図」に赤線で描かれていたみなと大橋から寄居浜までの区間だろう。



『みなと大橋建設計画概要』(昭和49年11月)より

最後は側面図。(→)

橋は全長2119mで、高架の立ち上がりにある擁壁区間を入れて、みなと大橋としては全長2339mの巨大構造物となる。
メインブリッジは信濃川本流部を渡る全長525mの斜張橋で、万代島と万代橋の間の港内海面にも全長290mの長い桁が架けられることになっていた。これらはいずれも海面からの高さ33mを確保する。
これらの橋に連なる右岸は全長600mの連続高架で地上の栗ノ木道路にタッチし、左岸は全長704mのループ橋を介して地上にタッチする。このループの半径は65mである。(橋と擁壁を合わせたループの全長が814mで、計算から直径130mの2周ループと算出できる)

残念ながらこの図にも東港線バイパスとの交差は表現されていないが、図に書き加えた辺りで高架同士が立体交差したはずで、東港線バイパスがそもそも地上道路との2階建てだから、この部分(=万国橋交差点)は3階層の道路が交差する風景になっただろう。



音戸大橋(広島県)
・昭和36年完成
・ループ半径24m×2.5回転

河津七滝ループ橋(静岡県)
・昭和56年完成
・ループ半径40m×2回転

レインボーブリッジ(東京都)
・平成5年完成
・ループ半径120m×約3/4回転

ここに挙げた今まで私が旅先で出会った3つのループ橋と比較することで、半径65m2回転ループだったみなと大橋のイメージが掴めるかと思う。
都市的な立地環境は、レインボーブリッジが近い。
サイズや回転数は河津ループ橋に最も近い。
音戸大橋は海面からの高さ23.5mあるが、みなと大橋は33mであった。
なお、私は行ったことがないが、愛媛県に平成22年に誕生した青龍橋というループ橋が半径65m×1回転ということで、半径はみなと大橋と全く同じだ。リンク先で画像が見られるが、こんなサイズ感である。


新潟都市再生氏のおかげで、初めてみなと大橋の完成予想図をフルカラーで見ることが出来たのは、感無量だった。ありがとうございました。(だが彼はまた登場する)

さて、市がみなと大橋の構想を発表したというニュースは、地元紙「新潟日報」昭和49年10月13日朝刊にも載っていたので、こちらも紹介したい。
こっちには良いことばかりは書いてはいないぞ。


『みなと大橋建設計画概要』(昭和49年11月)より

“「みなと大橋」構想まとまる/四車線で900m/歩道、中央分離帯も/280世帯を移転” ……以上の見出しが躍る記事の本文を、先ほどのパンフレットと重複しない内容を中心にいくつか拾っていこう。

12日開かれた新潟市議会交通問題調査特別委員会で、「みなと大橋」の完成予想図と取り付け道路のルートが、市の構想として初めて明らかにされた。それによると、橋は車道4車線に歩道が付いた有料道路橋で、旧栗ノ木川―万代島―東入船町にかかり、西新潟側の取り付け道路は住宅密集地を通る。このため、約280世帯が移転を迫られることになり、市は周辺地域の都市開発計画を具体化するとともに、来月地元説明会を開き、住民の意見を聞く。

「みなと大橋」は、国の事業とし54年度開通を目標に来年度から着工される見通しで、市の構想には建設省も基本的に同意している。

橋とループ線建設には概算260億円(47年度基準)が必要で、県に道路公社を設け工事を進める予定という。

取り付け道路は市の事業で、西新潟側のル〜トは東入船町〜赤坂町三〜西湊町通一〜上大川前十二〜東堀通十一〜古町十一〜西堀通十一〜往生院付近を通り日和山公園南側の海岸線に出る。各既設道路とは平面交差し、海岸道路が出来るまで東堀通、西堀通の幹線を利用する。

一方、東新潟側は旧栗ノ木川を埋め立てた道路から東港線バイパスの高架道と交差させるが、まだ具体化していない。また、万代島の石油タンク移転については、さらに県に強く働きかける。

東入船町〜海岸線間の1600mは住宅密集地で、約280世帯、約38000平方mがルートに引っかかる。市は刑務所跡地、専売公社塩倉庫跡地、三井近海商船倉庫跡地など25000平方mの代替地を用意しているが、全世帯は収容しきれない。

市は今月中に「みなと大橋建設促進対策室」を新設して説明会や住民の意向調査を来月実施していく予定。12〜1月には橋と取り付け道路を決定、3月までには周辺の都市計画を決定する段取りでいる。

「新潟日報」(昭和49年10月13日朝刊号)より

有料道路じゃないですかやだー。

パンフレットには有料道路なんて書いてなかったんだけど…。
この記事から窺える市の考えとしては、みなと大橋本体は国の事業として(おそらく国道7号バイパスなどの事業に組み込んで、国と県の負担のみの地元負担なしで)作ってもらい、完成後は県道路公社の一般有料道路として管理してもらい、取り付け道路は市の事業としてやる(もちろん無料の道路である)というところだろう。
そしてこの考えを、既に国も県も基本的に了承したから、構想を発表したのだ。

でも有料橋じゃないですか…、やだ……。

少なくない市民がそう思ったと思われるが、それ以上に驚いて青天の霹靂を食らった下町市民が、280世帯もいたはずなのだ。(一世を騒がした八ッ場ダムの水没補償対象世帯数が290であり、それに匹敵する)
記事もそのことには紙幅を多く割いている(上記転載では少し省略している)。

右図は、記事掲載の略地図や、先ほどのパンフレットの完成予想図から、現在の道路地図上に再現したみなと大橋(緑)と東港線バイパス(赤)である。
記事によれば、東港線バイパスとの接続方法は、「まだ具体化していない」とのことであるが。

記事の略図にある西新潟の各地名に照らしながら、現在の道路地図上にルートを再現してみたところ、概ね、当時既にあった市道の拡幅で進める予定だったことが分かった。
しかし部分的には、赤坂町から本町通までの一部など、令和現在も道路自体ない部分もあるので、西新潟の市街地に全幅40mの大街路を造成するのは途方もない事業であると感じた。何度も言うが、この辺りは新潟の古くからの中心市街地であって、自然豊かな郊外地では全くない。

西新潟における「みなと大橋」取り付け道路予定地の風景を3箇所ご覧いただこう。

(←)@番目は、赤坂町付近の早川堀通だ。
東の信濃川方向を撮影している。

名の通り、ここにはかつて早川堀があったが、昭和37年に埋め立てられて街路となった。
埋め立て自体はみなと大橋と関係して行われたわけではないので、たまたま“いい”位置にあたったのだろう。
もし、みなと大橋が実現していたら、この写真の空には高い斜張橋の尖塔が聳え立っていたはずだ。
もちろん、この早川堀通自体の風景も、全く変わっていただろう。(現在の柳都大橋に通じる広小路のような風景になったかと)




写真Aは、東堀通12付近の交差点風景。
手前(東)から奥(西)へ向けて、みなと大橋の道路が通るはずだった。
周辺にあまり高いビルはなく、いかにも下町の住宅地である。
この道路自体は五菜堀といい、前方の交差点を横切っているのは東堀通である。

西新潟には堀の名を持つ道路が非常に多いが、かつて水都と呼ばれるほど堀の張りめぐらされていた名残である。
明治大正頃までは碁盤の目状に堀が通じ、無数の橋で区々が結ばれていたが、昭和30年の新潟大火、そしてその後の地盤沈下対策などで全ての堀が撤去されて道路となった。
みなと大橋の計画が囁かれ始めた当時は、まだそうした老い先短い堀もいくらかは残っていたが、昭和49年に構想が発表された頃になると、もう余っている土地はなかった。




最後の写真Bは、田中町から西船見町を望む。
この足元の1.5車線程度の道路が幅40mに拡幅されて、奥のこんもりとした砂丘の山を越えて海岸へ抜ける計画だった。

しかし、みなと大橋は着工しなかったので、取り付け道路についてもおそらく同様であり、現地にこの計画の直接の名残と思えるような遺構は見られない。
まさに、知る人ぞ知る夢の跡と化している。




記事にあったように、みなと大橋は、昭和50年3月に都市計画決定をする段取りであり、昭和50年度内に着工、昭和54年度の開通を目標にすることになった。
そしてこの時期が、みなと大橋が最も実現に近づいた“数ヶ月間”であった。

一年を保たず、計画は分解する。

次は――、みなと大橋の終わりと、“正体不明”の万国橋ジャンクションプラン?!




昭和45(1970)年に策定された第一次新潟市総合計画は、昭和52年を目標年度にしたものだったが、49年に早くも第二次総合計画への改訂作業が進められ、みなと大橋構想発表に続いて同年の12月に公表となった。目標年度を昭和60年に据えた新たな総合開発計画だった。もちろんこの中味には、みなと大橋も満を持して加えられていた。
計画の内容を分かり易く紹介した「市報にいがた(昭和50年1月12日号)」には、次のようにまとめられていた。


『市報にいがた(昭和50年1月12日号)』より

本市は海岸に沿って細長く延びているため、道路整備は、海岸沿いと内陸部に、市域をつらぬく形で並行した2本の幹線をつくり、これを「みなと大橋」で結び合わせた内環状線、これと中心部を結ぶ十字型道路、さらに内環状線の外側の外環状線、この三つの道路を基本パターンとして整備をすすめます。

『市報にいがた(昭和50年1月12日号)』より

内環状線と外環状線の整備は従来通りの方向性だが、ここにきて海岸沿いと内陸側に市域を貫く2本の幹線道路を整備するということが、大きなテーマに現れている。
海岸沿いの幹線は、みなと大橋建設計画概要でも「みなと大橋ルート」の一部に組み込まれていたいわゆる“海岸道路”のことであり、内陸側の幹線は開通したばかりの新潟バイパスを指している。また、文中で触れられてはいないが、東港線高架バイパスもまた、この海岸沿い幹線道路の一部に組み込まれるものだろう。
みなと大橋は、海岸沿い幹線道路と内環状線を兼ねた存在であり、新たな市内交通網における最重要整備課題に掲げられたと言って良いだろう。

みなと大橋を、市総合開発計画にも乗せた。
昭和50年こそは、いよいよ着工の年となる。
そのように考えた関係者は少なくなかった。

だが、ここに市政というものが当然に抱えている出来事が、実現寸前と思われていたみなと大橋を一挙にスタートラインから脱落させるのだった……!
市長選挙である。

昭和50年4月27日、新潟市長選挙が行われた。
自由民主党公認で現職を4期務めた渡辺浩太郎氏は、福祉政策を基本課題にしつつも、みなと大橋の架橋、流通センターの建設、新潟駅南口の開発、西海岸の埋め立てなどの大型プロジェクトの推進を訴えた。一方、社会・共産・公明三党の共同推薦候補であった川上喜八郎氏は、4期16年を無策に過ごして新潟市を荒廃させたと渡辺氏を批判し、開発主導型の市政のムダや郊外など市民生活への悪影響を訴えた。結果は4000票あまりの差を付けて川上氏が当選した。

昭和48年のオイルショックなどの混乱もあり、経済成長が鈍化したこの時期、渡辺氏が新産業都市新潟の代表的開発事業として強力に推し進めていた東港(ひがしこう)開発が目論見を外れ、大幅に計画を縮小せざるを得ない状況となったことや、相次ぐ公害問題などもあり、従来の建設・開発を中心とした市政運営へ市民のノーが突きつけられた形となった。



「新潟日報」(昭和50年12月11日朝刊号)より

“「みなと大橋」有料方式は断念 新潟市長が表明”

本当にみなと大橋を欲した市民であれば、今でもこの日のことを恨めしく思っている人が、少しがいるかも知れない。
昭和50年12月11日の新潟日報朝刊の記事である。

新潟市の川上喜八郎市長は、10日開かれた市議会交通問題調査特別委員会で、新潟市の万代橋下流地点に建設の計画が出ていた「みなと大橋」について「無料が建前である生活橋は必要だが、有料高架橋という現計画は、私の基本姿勢から見ても断念せざるを得ない」と述べた。これは、従来の“見直し”の段階から明確に「ノー」の意思表示をしたものとして注目される。

川上市長は「信濃川をはさんだ東西交通の緩和、新潟市北部開発から橋は必要である」と前置きしながら「市民の生活のための橋が有料であることには賛成できない。しかも、取り付け道路の沿線住民の犠牲は大きい。したがって現在計画されている有料高架橋構想は断念したい。いま進められている県の西港再開発計画とも関連させ、どのような方法が最も住民のコンセンサスを得られるかという方向で、いくつかの計画ルートを検討、構想を進めている」と述べた。

「新潟日報」(昭和50年12月11日朝刊号)より

こうして、有料道路としての“みなと大橋”は、国や県の了承を得る段階まで進んでいながら、敢えなく 中止された。


当時の「みなと大橋建設決定→中止」を巡る政治的な裏話が、平成14(2002)年の新潟日報の連載で明かされたことがある。
「改革への指針 揺らぐ公共王国」という長期連載記事の第5部第2回にて、新潟市がかつて抱えていた未成の巨大開発プロジェクトとして、みなと大橋を取り上げている。

「川上市長が当選してすぐ、計画を白紙に戻すことが決まった。」「夏前に、県と市の間でやり取りされた文書を見た記憶がある。」 県や旧建設省OBは語る。川上市長が正式断念を表明するのは同年12月市議会。「有料橋には強い疑問を持たざるを得ず、従来案による有料のみなと大橋建設は断念したい」と説明した。
新潟市のベテラン市議によると、川上市長の当選後、みなと大橋構想断念について議会側から目立った抵抗はなかったという。「保守系市議の中には渡辺さんへの反発があり、それも落選の理由だった。みなと大橋にもこうした問題の影響はあっただろうね」と説明する。

みなと大橋は有料橋として計画された。だが、県関係者の1人は「あのころは表に出せなかった」と断りながら「構想が出たときはまだ、橋の部分が国道になるか県道になるか読めなかった。有料橋として準備を始めて、用地買収に入ってから国道にしてもらえば無料にできるだろうと考えていた」と明かす。

「国道昇格を決めるのは角さん」―田中角栄元首相という実力者が本県公共事業のバックにいたことが、作戦遂行の自信になっていた。
試算では、みなと大橋の事業費は約300億円。「今の時代を考えると、それだけの費用で下流橋ができたことは大きかったと思いますよ」

「新潟日報」連載「揺らぐ公共王国 第5部第2回」より抜粋。

政治と無関係の公共事業は存在しない。
ここで初めて、新潟の公共事業といえばこの人というレベルで誰もが知っていた元首相の名前が出た。
何でもかんでもそこに結びつけるのは嫌だし、私などが検証することも不可能だから、この記事については深入りしないが、従来計画の「みなと大橋」のネックであった有料橋という部分への対策として、国道7号への昇格という手法ではねのけようと、腹の中でそう考えている人が当時いた。そのところを田中角栄氏の政治力に期待していた……。そんなところが読み取れる。




鮮やかな完成予想図を1枚残しただけで、みなと大橋は、消えた。
本稿の主役である東港線高架バイパスは、このみなと大橋に関わる電撃的な出来事(構想発表→中止がちょうど1年間)を、現在と同じ未完成の姿で見つめていたことになる。

したがって時系列的に、東港線バイパスの部分供用が昭和49年4月でみなと大橋の中止の発表が50年12月だから、建設中の東港線高架バイパスがみなと大橋の中止を受けて急に建設を中止されたというようなことではなく、みなと大橋がどうなるのかの推移を見守り、接続方法が決まってから残りを作ろうと考えていたら、そもそも作られないことになったので困ったぞ。……という話の流れで、部分供用状態のままに推移したのだと判断する。
なぜ東港線バイパスが完成しなかったかを一言で明確に述べた資料はないが、私は上記のように解釈した。


多くの読者さまは、もういい加減お腹いっぱい。そんなに長かった歴史解説の旅も、みなと大橋という山場を超えて、あとは緩やかに、“現状と未来”という最後のテーマへ向けて滑り出すところである。
が、最後の章へ行く前に、道路の「 If 」を愛して止まない私がどうしても皆様に紹介したい、でも現時点では正体不明で困っている一つの地図があるのだが、後日に正体が分かったらその部分を追記することにして、とても見切り発車的ではあるが、こいつを紹介して一発花火をぶち上げたい。未成道のどでかいスターマインをな!  打ち上げだ、ヨッキちゃん!


では、謎の画像を見てください↓。 説明はあと。




資料名不詳

画像提供者はこれまた、値千金の『みなと大橋建設計画概要』をご提供くださった新潟都市再生氏である。

ご本人曰く、「出典が全く思い出せず、興奮してとりあえず撮ったブレブレの写真しかない状況でして……。」と恐縮されておられるのだが、確かにこの図面のようなものを突然見せられたら、興奮して手も震えますわな。私も同じ手ぶれ写真を撮ったに違いない。むしろほとんどの文字が読めるだけ上等である。

ともかく、東港線バイパスの完成形を求める心から、さまざまな資料に手当たり次第あたっていた中で出会ったのが、この1枚の画像だったらしく、出会いの場所ははっきりしていて、新潟県立図書館の公開書庫というところらしい(普段は閉架にある資料が公開されている。4〜10月の期間限定だそうだ)

で、重要なのは何が描かれているのかというところだが、東港線やみなと大橋のことですっかり頭が出来上がっている状態で画像を見ると、ぱっと見た瞬間に分かる。
なるほどこれは、万国橋交差点上に作られた可能性があった、東港線バイパス―みなと大橋―栗ノ木バイパスの三つの高架道路が会合するジャンクションを描いたものなのだなと。
つまり、東港線バイパスの“ジャンプ台”と化している末端の先の「 If 」の一つである。

手ぶれで読み取りづらい文字があったが、ほとんどの文字は読めたので、赤文字で補記してみた。これは、不明文献の224pに収録された「図5-52 万国橋交差点 改良案」である。
そして描かれているジャンクション(仮に「万国橋JCT」と呼ぼう)は、本稿第3章の最後に清書してご覧いただいた、とても現実的な「東港線バイパスの計画図」と比べても圧倒的に壮大で進歩的なものである!

これをベースとした清書は間もなくご覧いただくが、この図の出所を少し考察したい。
新潟都市再生氏によれば、典拠として可能性が高いのは、昭和41(1966)年の『新潟バイパス計画概要』という資料か、昭和57(1982)年の『新潟都市圏パーソントリップ調査報告書』だという。

もしこの2つだとすると、おそらく前者が正解である。なぜなら、問題のこの図には、都市計画道路の路線番号(「1.3.13」とか「1.2.3」のこと)が書かれているが、これらの番号の採番ルールは昭和43年の都市計画法の全面改定で一新されており、東港線が「1.3.13」の番号であったのは旧法時代である。特に最初の数字の「1」は、現行法だと自動車専用道路を意味するものであり実態と合っていない。
したがって、この図は昭和43年以前に描かれたものである可能性が極めて高い。



それでは清書をどうぞ↓↓




話の時系列とは外れてしまったが、この2パターン目の「 完成形 」は、比較として表示した図よりも、おそらく作成時期が古いものだ。
しかも、正式に都市計画決定された内容ではなく、あくまでも「案」として文献に残されたに過ぎないものだろう。
このような案をいろいろと比較検討したうえで、最終的には、比較した図のような東港線高架バイパスが都市計画決定され(しかしその通りには完成しなかっ)たのである。

しかしこの案も全く荒唐無稽というものではなく、相当の部分は実際に作られた現在ある東港線バイパスと共存できる。
特に、東港線バイパスの本線高架の形状については、この案も、実際に作られた構造物と全く同じに見える。
異なっているのは、主にランプウェイに関する部分だ。

例えば、現実では万国橋交差点からの上りランプになった部分に、みなと大橋から下りてくるランプが接続していたり、現実では市道への下りランプになった部分が、高架のまま市道を跨ぎ、さらに分岐してみなと大橋や栗ノ木バイパスへアクセス出来るように描かれてたりする。
これらのランプに関する部分は、この案の通には作られていないのである。

それにしても、壮大である。
この通りに実現していたら、壮観であったろう。
完成予想図作画のプロに一度描いて欲しいくらいだ……。


というわけで、正式な計画図というわけではないけれど、私がこれまで見た限りでは最もリアリティのある形で盛大かつ詳細に描いた万国橋交差点=万国橋ジャンクション=の“If”の完成図を、ご覧いただいた。、






次は最後の章、 みなと大橋“後”の現行プランと、未来について。


<6> 柳都大橋 と 新潟みなとトンネル

川上市長の決断によって、実現寸前と考えられていた“みなと大橋”の計画は、昭和50年11月に突如中止となった。
市長は中止を表明する際、橋の必要性は十分に認識しているが無料の橋でなければならない、有料橋はやらないということを述べており、万代島下流橋の必要性そのものを否定したのではなかった。
だが、ほぼ同一の地点に無料橋としての万代橋下流橋を進めようという話には、まったくならかったようだ。
なぜか、そのような議論が行われた形跡は、県議会の議事録などを見てもまったくない。
概算で300億円と見積もられた建設費を市が単独で負担して無料の橋を建設することは、財政的に現実的ではなかったからかもしれない。
それに、国や県が同意していた事業を市が一方的に中止したことで、国や県がより慎重な態度を示すようになったのかもしれない。

結局、昭和50年の中止決定以降、二度と万国橋を起点とした万代橋下流橋が復活することはなく、これによって万国橋が暫定的な終点となっていた東港線バイパスの活躍する未来は、ますます遠のいてしまったのである。
やはりみなと大橋を失ったことは、東港線バイパスにとって決定的に痛かったと思う。

この東港線高架バイパスにとってはいつ終わるとも知れない、長い雌伏の時期を象徴するような印象的な発言が、県議会の会議録に眠っていた。
昭和60年12月定例会本会議の一般質問での、“とある議員”の発言である。

◆吉田六左エ門議員
次は、港大橋構想に絡まる幾本かの道路の問題であります。東港線高架橋の中央車線は、20年間近く取りつけ道路に縁がなく、空中に切断されたままさびを増しています。このバイパスは、私の父が格別にかかわった事情から、私は山ノ下に行くたびに悲哀を感じるとともに、地元の皆さんに申しわけなく思っています。港大橋につながるのが夢で、それがかなわないとしても、この中央車線の痛々しい傷口を何とか道路につなげて、手術していただく計画はないのでしょうか。あわせて、この地点で終点となっている栗ノ木バイパスと万代橋下流連絡路とのアクセス構想は、実現の可能性はどうなのか。現時点での方針をお聞かせください。

◆県土木部長
東港線高架橋の活用及び栗ノ木バイパスと万代橋下流連絡路の接続についてでありますが、これらは万代橋下流連絡橋の信濃川右岸側取りつけ道路網計画の中で、現在建設省、日本道路公団、新潟県、新潟市の4者で構成しております新潟県道路協議会で検討されております。県といたしましても、御提言の趣旨に沿って意見を述べてまいる所存でございます。

新潟県議会会議録「昭和47年2月定例会本会議一般質問」より抜粋

空中でぶった切られたまま20年近く経過してしまった東港線高架橋の中央車線。
これに悲哀と申し訳なさを感じているというこの吉田六左エ門氏は、 …吉田…吉田……昭和39年にこの同じ場所で、この高架橋の整備を強く訴えておられた吉田吉平議員のご子息である。
完成の日を見ぬまま、それほどの時間が経過してしまった。
これが、昭和60年当時のやり取りである。
だがまたここにも、新たな道の火種のようなもののくすぶりを読み取ることができるだろう。
「万代橋下流連絡路」という名前が、まだくすぶっているのである。


この最後の章では、みなと大橋の後に実現した(今度は信じて欲しい、本当に実現したのだ)2本の万代橋下流橋……一方は橋ではなくトンネルだが……柳都大橋と新潟みなとトンネルに焦点を当てたい。
もっとも、前章でみなと大橋を深く取り上げたのは、東港線バイパスとの繋がりが明確にあると思ったからで、計画時点での繋がりが薄れているこれらについては、深く追求するつもりはない。

しかし調べてみて分かったことだが、これら2本の万代橋下流橋の一方は、今もまだ完成しておらず、現在生きているその将来計画と東港線バイパスが無関係ではない。そこにも今と異なる東港線バイパスの“完成形”が存在する。そしてこれこそが、現在唯一実現の可能性がある“完成形”だと思う。
このことはぜひ伝えたいので、やはりこれら2本の“実現した万代橋下流橋”を無視できない。

柳都大橋と新潟みなとトンネルには、非常に特異な共通点がある。
同じ新潟市内で同じ川を渡る、約2.3km離れて隣り合っているこの2つの巨大な信濃川横断道路は、平成14(2002)年5月19日という日に、同日開通しているのだ。
このようなことは、非常に珍しいことだと思う。
しかも、どちらも事業主体は国土交通省であり、通行料金は共に無料。すなわち、昭和50(1975)年に川上市長が願った形が、それから27年の月日を経て、2倍になって実現したといえる。
ちなみに、みなとトンネルは1200億円、柳都大橋には300億円の事業費を要しており、合計すれば「みなと大橋」の5倍である。

また地図(→)を見ると、この2本の橋とトンネルは、かつての「みなと大橋」を南北に2つに分けて実現したような不思議な配置になっている。
そもそも名前だって、「みなと大橋」が、柳都「大橋」と、新潟「みなと」トンネルに分かれているじゃないか。偶然なのかこれは?

同時開通という特異な出来事の背景には何があったのか。私でなくても興味を抱くはずだ。特に陰謀好きな社会派新聞記者であればなおさらのこと…。というのは穿った見方かも知れないが、前回も少し触れた平成14年の新潟日報の連載「揺らぐ公共王国」では、この疑問の答えを、市や県の関係者の証言を元に面白くルポしている。
曰くである、この2つの大事業が同時に実現したのは、「建設省が橋を作り、運輸省がトンネルを作る構想は、両方のバランスを取った妥協の産物」「両省の顔を立てた結果」だそうである。

なるほど、確かに国土交通省とは建設省と運輸省が合わさったもので、柳都大橋は国道7号だから旧建設省、みなとトンネルは臨港道路だから旧運輸省の所管であった。
両方が新潟の地で仲良く大事業を獲得したので、政治家が万々歳というのか。
正直、こういうことが理由の中心だったのなら残念だと思う。地域を良くするために道路を欲し、それを実現するために政治をするという熱がぼやけている。
記事には、国や県のOBが上記のことを「口を揃える」と書いているから、私がそんなことはなかったと否定するのは無理なことだが、しかしこの裏事情?をベースにこれらの道路の来歴を語ってみるのは、モチベーションが耐えられそうにない。

早くも話が脱線したが、まずは『市史』の記述を頼りにするなら、これら2つの万代橋下流橋が新潟市の計画として再び現れるのは、昭和60(1985)年3月であったという。
みなと大橋の中止から、実に10年もの月日が流れていた。

60年3月、運輸省・建設省・新潟県・新潟市・学識関係者からなる調査委員会は「新潟港周辺地域整備計画調査報告書」を発表した。これには、新潟西港を中心とした臨海部の整備と、これに整合した周辺市街地の整備計画、万代橋下流に設ける新たな二本の連絡路(万代島ルートと港口部ルート)などが提言されていた。新潟市は、事業着手に不可欠な市民の同意を得るために力を注ぐことになった。4月以降翌61年2月までの間に延べ18回の地元説明会が開催され、「港口部ルート」については62年度から事業が着手されることになった。

『新潟市史 通史編5現代』より

同じ日に開通した2つの道路は、実は同じ日に提言されたものであり、その提言を取りまとめたグループに建設省と運輸省が入っていた。これでは記者でなくても両省が顔を立て合ったと考えるだろう。
そしてそれが現実だとしても、新潟市がそこに乗らない理由はもうなかっただろう。
市長は既に交代していた。川上市長は2期目に病で倒れ、その施策の後継を謳った若杉市長が当選して、その2期目に入っていた。
「揺らぐ公共王国」は、こういうことも書いている。

新潟市が革新派を支持母体にもつ川上市長となった当時、新潟県の君健男知事は大の革新嫌いで、さらに「みなと大橋」の断念を伝えられた後は、県では下流橋建設はしないというのが暗黙の了解のようになったそう。しかし知事が平成元(1989)年に金子清氏に代わったことで、ようやく下流橋の本格的議論が再開したというのである。

こういう政治の裏話的なものも面白いとは思うが、万代橋の交通量は昭和60年代に入る頃には、本当に限界に達していたはず。
なぜなら、市が主要道路の交通量調査を始めてから、この橋の交通量が前年を初めて下回ったのは、柳都大橋が開通した平成14年だという。
昭和30年代、40年代から、常に市内交通量のトップにあり、もうパンク状態だと言われ続けていた昭和4年生まれの老橋が、耐えに耐えに耐えていたわけである。
市としてもいい加減、下流橋は即刻実現しなければならない苦境に差し掛かっていたはずなのだ。


ともかくこうして、同じ日に2つの万代橋下流連絡路のプランがスタートしたが、先行したのは港湾計画と一体化した「港口部ルート」(みなとトンネル)の方だった。
昭和62年度に、全長3.2km、うち沈埋式海底トンネル部分2.2km、全線片側2車線歩道付きの港口部横断道路、臨港道路入舟臨港線の整備事業がスタートした。日本海側で初めての沈埋式海底トンネルであった。
だが、すんなりと開通までは行かなかった。当初は平成8(1996)年度の開通を目指していたが、景気の悪化や需要予測の後退などから工事が遅れ、6年遅れの平成14年5月19日に開通した。


『市報にいがた』(平成4年9月20日号)より

一方、もう一つの連絡路である「万代島ルート」は、港湾計画よりもさらに利害関係者が多い都市計画を手懐けねばならぬのであって、さらに難産となった。
万代島ルートの都市計画決定は、バブル絶頂期の平成4(1992)年に行われた。

万代島ルート関連道路(秣川通線ほか7路線)の都市計画決定告示がこのほど行われました。同ルートは延長約5.6km、工期約20年にも及ぶ大事業で、建設省・県・市が一体となって検討してきたものです、7月に市都市計画審議会・県都市計画地方審議会の議決を経、建設大臣の認可を得て9月11日に今回の都市計画決定告示が成されたものです。
今後、市としては事業の早期着工に向け関係機関への働きかけを行うこととしています。


『平成8年度北陸地方建設局技術研究会論文集』より

万代島ルートは新潟バイパス紫竹インターから栗の木線、東港線を経て万代島下流(ママ)を橋で渡り、広小路通線から寄居町日銀前交差点までの延長5.6kmの路線です。市の中心市街地である沼垂地区や西新潟地区などの西港周辺地域と高速道路等を効率的に結び、市街地の慢性的な交通交雑の緩和を図り、同地域の街づくりを積極的に支援する根幹的な道路として計画したものです。

『市報にいがた』(平成4年9月20日号)

都市計画決定がなされた「万代島ルート」の解説は上記にもあるが、地図上に示せば左図のような道である。
左図は平成8(1996)年に建設省北陸地方建設局がまとめた『技術研究会論文集』にあったもので、青線で囲ったのが万代島ルート(全長5.6km)の範囲で、うちピンク色の線で囲った1.3kmが、当時既に事業化(平たく言えば建設中)していた部分となる。
この路線の中心的な構造物である万代橋下流橋、開通時に柳都大橋と名付けられた橋を含む全体から見ればかなり短い区間だけが、当時着工していたことが分かる。

で、ここで久々に我らが東港線の名前が登場している。
もっとも、東港線とは未成の東港線高架バイパスだけではなく現道を含んだ路線名である。そして図を見れば明らかな通り、この「万代島ルート」の万国橋から柳都大橋までの約400mほど区間は、東港線と並走するように整備される都市計画になっているのだ。

では、我らが東港線高架バイパスはどうなるのかというのが、重要な注目ポイントだが、『市報』にも、『論文集』にも明言はない。
しかし、左図が黒い線で描いているのは高架道路で、白い線は地べたの道路であるが、東港線バイパスの高架道路が図の右端にちょっとだけ見切れているだろう。
その線はちょうど万国橋交差点の中で途絶えていて、ギリギリの所で、新しく整備される万代橋ルートの高架橋とは繋がれないように表現されている。
これが、決定された都市計画をなぞった正確な記述であるかどうかは、断定できないが。


万代橋ルートは、みなと大橋がギリギリの所で辿り着けなかった都市計画決定の境地に達した。
『市報』にあったとおり、この計画の完成には長い期間がかかることが当初から予想されていて、「工期約20年にも及ぶ」とあることから、当初は平成24年頃の全線開通を考えていたのだろう。
それが、平成14年5月19日に先行していた「みなとトンネル」と同日開通を果たしたのだから頑張ったとは言うなかれ。
あくまでもこの日に開通したのは、柳都大橋を含む0.8kmの区間だけである。
つまり、都市計画決定から10年経ってやっと0.8kmが開通したわけで、残り4.8kmは未開通のままだった。

そしてこの平成14年の時点で未開通だった4.8kmは、ほとんどが信濃川右岸の区間(紫竹山IC〜柳都大橋)であり、東港線と並走する部分も含めて右岸側の整備は遅々としていた。
この辺りの事情について、平成14年の連載「揺らぐ公共王国」には、事業主体である新潟国道工事事務所の言葉を借りた次のような解説がある。

右岸計画のメーンは幹線道路・栗ノ木バイパスの拡幅工事。中央に高架道路を作り、高架部分で新潟バイパス紫竹山インターチェンジから柳都大橋までをノンストップで繋ごうというもの。同事務所は栗の木バイパス着工に関して、「財政的制約も大きい。今後の交通需要予測を見ながら、時期や高架道路の形状を含めてチェックする必要がある」と説明する。

「新潟日報」連載「揺らぐ公共王国 第5部第6回」より

先ほど掲載した『論文集』の地図を見ても分かるが、「万代島ルート」の右岸側は、既存の栗ノ木バイパスと東港線に高架橋を併設することで、新潟バイパスの紫竹山インターと西新潟地区をノンストップで結ぼうとする計画である。
橋の位置こそ変わったが、計画の性格自体は、みなと大橋と変わっていないといえる。
橋の位置が変わったせいで、左岸の取り付け道路は全く別の位置になって、みなと大橋では盛んに言われていた海岸道路との接続は重視されなくなったが、海岸道路については「みなとトンネル」が受け持つことになったのだろう。



『橋梁&都市PROJECT』(平成12年11月号)より

右図は、『橋梁&都市PROJECT』(平成12年11月号)に掲載されていた、柳都大橋の平面図と側面図だ。

平成14(2002)年開通の柳都大橋は、全長200mの3径間連続PC箱桁橋で、上流450mの位置にある従来の万代橋(昭和4年架設)より100mほど短くなった。
しかし全幅は万代橋の22mから40mにほぼ倍加し、車線数も4から6に増大した。
右の平面図を見ていただければ、本線と側道を合わせて片側3車線の路面構成であることが分かると思う。

市街中心部の渋滞緩和の重大使命を胸に、満を持してやっと登場した新橋(歴史上初めて実現した万代橋下流橋)だけあって、十分な規模と先進性を持って登場した橋である。

が!




←これが2020年8月に撮影した柳都大橋の“橋の上”である。

これは、くさむら?

都市空間に潤いを与えるべく敢えて緑化しているのだとしたら良いセンスだと思う。見た感じ適当な雑草ではない。
ただ、この草むらの部分は、本来なら片側2車線の本線部分なのだ。

アスファルトのまま放置されている東港線高架バイパスの本線高架末端部よりは美観に優れるが、こちらも平成14年から現在までというさほど短くない時間を、この姿で過ごしている。




いうまでもなく、柳都大橋の未供用である本線部分は、将来に前後の高架橋が完成したときに、初めて路面として活躍することを想定されている。

この写真は、同橋の右岸側橋端から眺めた東新潟の街並みだ。
本線は足元で切れていて、2本の側道だけが奥を横切っている東港線と平面接続している。
将来完成形は、ここから片側2車線の高架橋が延びて東港線と立体交差し、さらに栗ノ木バイパスへと走るのである。


現代の風景がレポートに出始めたところで、いよいよ歴史を辿ってきた話が現代へ追いついた。
柳都大橋を含む「万代島ルート」は現在も完成しておらず、事業が続いている。
そして未成の領域内に、東港線バイパスとの接続の可能性が、残されている。



新潟みちナビ「万代島ルートとは」より

右図は、新潟国道事務所のサイト「新潟みちナビ」に掲載されていた、万代島ルートの位置と経緯をまとめたものだ。

これを見ると、平成14年以降も、平成20年と26年に0.5kmと0.2kmずつ開通し、現在は合計1.5kmが開通済である。しかし全体計画5.6kmと比較すると、都市計画決定から30年経ってまだこれだけしか開通していないことに、途方の無さを感じてしまう。

とはいえ、平成19(2007)年には初めて右岸側区間の一部である「栗ノ木道路」が事業化し、23年にはそれに連なる「紫竹山道路」も事業化するなど、進んではいる。
未だに事業化していないのは、栗ノ木橋から万国橋を経て柳都大橋までの区間と、終点側の西堀広小路から寄屋町までの2区間となった。
この未だ事業化していない区間が、東港線バイパスと接続する可能性を残している。

……と期待したのだが、どうも私が調べた限り、現在の都市計画だと、東港線バイパスの“ジャンプ台”と、これから作られる可能性がある万代島ルートの高架橋は、直接の接続はしないようである。



新潟国道事務所作成「万代島ルートパンフレット」より

右図も新潟国道事務所が発行した万代島ルートのパンフレットからの抜粋だが、この図で緑の網掛けがされている部分が、平成4年に万代島ルートとしての都市計画決定が行われた範囲だそうだ。
これをみると、我らが東港線支線(高架バイパスのこと)の末端部分も、このときの都市計画決定に含まれていることが分かる。

ただ、この図はあくまでも都市計画決定の範囲を示しているだけで、その範囲内にどのような立体的な道路構造が作られるかまでは、描いていない。
それを想像しないで都市計画決定をしたわけはないので、計画者の脳裏にはかなり具体的な道路構造のイメージがあったはずだが、この図から完全に読み取ることはできない。

で、チェンジ後の画像に青く描き足した部分は、後述する資料などから推測される、万代島ルートの最終的な高架道路の位置を描いたものだ。
高架道路は、現在の万国橋交差点をショートカットするようである。
となると、東港線支線との接続は、難しいだろう。 少なくとも、高架道路同士の複雑なジャンクションを設けるような都市計画区域決定が行われていないことは間違いない。



新潟国道事務所作成「万代島ルートパンフレット」より

これも同じパンフレットにあった図で、青線の部分に都市計画決定済の高架が描かれている。
図左側の柳都大橋を渡ったところから高架が始まり、万国橋交差点付近では東港線や東港線支線を立体交差で跨ぎつつ、現在事業化している栗ノ木道路の高架橋に繋げる計画のようだ。
この図にはランプの位置も描かれているが、東港線やその支線と接続するランプは、計画が無いように見える。

最近の県議会や市議会の会議録も検索してみたが、東港線高架バイパスと万代島ルートの高架バイパスの接続について言及しているものはほとんどなかった。
唯一、これはと思ったやり取りは……(以下)。

◆大橋醇吉委員
万国橋交差点はおかしな交差点で、都市計画道路の東港線、いわゆる松島バイパスは2階建て道路にひっついたり張りついて切られたりしている。この図面を見ると非常に実線で結ばれているんですが、これは今のままだと思うんだ。要するにちょっと切れて、飛び込み場所みたいにできているところはもうこのままで直さない気なんだけども、三差路みたいでもない、おかしなこの部分の計画は去年示した図面と全く同じですか。

◆街づくり推進課長
全く同じでございます。

新潟市議会会議録「平成13年9月26日新潟港周辺地域整備計画等調査特別委員会」より抜粋

ここで議論されている“図面”というのは、話の内容からして、いま見てもらったような都市計画図を言っている。
そして、東港線バイパスの末端は、図面だと実線が伸びているように描いているけど、もうこのまま直す気がないんじゃないの? 図面に間違いはないの? という問いかけに対し、図面は間違っていないという趣旨の回答である。
こうした図面から分かる以上のことは、まだ事業化していないから分からないというのが、本当のところだろうと思う。





ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

東港線バイパスの過去、現在、そして将来について、調べて分かったことを、かなりとりとめなく書き綴った。

最後に用意したのは、東港線高架バイパスの3回目の“清書”だ。

これは、現在計画が生きている国の「万代島ルート」が、現在ある都市計画の通りに完成した場合に想定される、東港線バイパスの形態だ。
参考にしたのは、この章で紹介した万代島ルート関係の資料と、新潟市のサイトで見られる「にいがたeマップ」の都市計画図である。
できるだけ資料に忠実に表現したつもりである。

それでは最後の清書をどうぞ↓↓



これが、最新の都市計画図などから想像して描いた未来の図だ。

都市計画図を見ると、万国橋交差点は現在から大きく姿と位置を変えることになっている。
現在は丁字路に対して東港線バイパスの一方通行路が変則的に接続しているが、やがてはこの図のような十字路へ改良される予定があるようだ。

このとき、東港線バイパスの“ジャンプ台”から、遂に本線が延伸する!
しかも、かつてみなと大橋との接続用に用意された“イカの耳”も、甦る!
3車線の本線高架を4車線へ増幅する工事は、複雑なものになりそうだ。
都市計画図には、この本線延伸部分に幅16.5mの表示があり、この数字は昭和43年の東港線高架バイパス設計概要に記載されていた、この高架の4車線部分の幅員と一致する。だから4車線なのだろう。
4車線を確保するために、現在の万国橋交差点と接続しているランプウェイは撤去されるようだ。これも大変な工事となろう。(図の黒い部分は廃止が予想される部分)

そして最終的には、まるで最初からそういう計画だったかのような平凡な4車線高架道路の末端が、新たな万国橋交差点に接続するであろう。
そこが東港線高架バイパスの永遠の終点となり、同交差点を掠める万代島ルートの高架橋とは繋がらないようだ。
これまでのことに免じて、繋げてあげて欲しいんですけど……ッ!


新潟の街に咲き続ける、彩りを失った巨大な徒花。
信濃川の向こうを目指した“ジャンプ台”を巡るお話しは、これにて終焉。