隧道レポート 長野県道142号八幡小諸線旧道 宮沢3号隧道 机上調査編

所在地 長野県小諸市
探索日 2015.10.15
公開日 2016.02.15

謎多き隧道に推定されるプロフィール


今回紹介した廃隧道…

  • 「道路トンネル大鑑(昭和43(1968)年)」によれば「宮沢3号隧道
  • 現地の銘板によれば「宮澤隧道

…であるが、果たしてどのような歴史を持っているのだろうか。
これについて、探索前に把握していた情報は非常に少なかった。
本編前説の復習になるが、この隧道の竣工年に関する唯一の情報は、大正4(1915)年版の地形図に既に描かれているという事実であり、「大鑑」では宮沢1〜3号隧道共に竣工年の欄が空欄であり、平成16(2004)年の「道路施設現況調査」についても、当時既に旧道化していた本隧道は記載自体なかった。

そして現地探索でも、銘板や完成記念碑のような竣工年の情報を探し求めたが、結局、そのような記録物は見あたらなかったのである。

従って2度の現地探索が終了した時点でも、これら「宮沢隧道群」の竣工年については、大正4年以前であろうというくらいしか分かっていなかった。

そこで次に進めたのは、いつものパターン通り、現地市町村史へのアプローチであった。
小諸市史誌 近・現代篇」(平成15(2003)年)に白羽の矢が立てられる。
最寄りの図書館で相互貸借の手続きをして数週間後、無事に到着したそれを読んでみると…、以下の記述を発見することに成功した!

昭和八年(一九三三)五月には県道小諸―芦田線の千曲川にかかる大久保橋が開通し、十一月には宮沢トンネルが県の災害復旧工事として、二〇〇bの内壁が二重鉄筋アーチ式巻き立てによる改修がおこなわれた。  (p.558)


これは、昭和8(1933)年11月に、県の災害復旧工事として、宮沢トンネルの内壁200mに二重鉄筋アーチの巻き立てが施されたという内容である。
短い記述ではあるが、かなり重要そうだ。

まず、 「道路トンネル大鑑」に全長186mとある本隧道であるから、200mの内壁に巻き立てが行われたというのは、要は全体に行われたということだろう。
逆に考えると、この時よりも前は一切巻き立てが行われていなかった、つまり素掘であったということを示唆している。
現在ある立派な坑門が施工されたのも、おそらくはこの大規模改修時であろう。昭和初期というのは、印象とも一致している。

さらに、「県の災害復旧工事」というのも大変気になる部分だ。
本隧道の最大の特徴は、全長の中間部に極めて短い明かり区間が存在し、かつその明かり区間が“窪地”のような所にあるという状況にこそあるが、そこから自然に想像されるのは、最初に隧道が建造された当時は明かり区間は存在せず、1本だったのではないかということだ。

そして、その土被りが浅かった部分に亀裂が生じるとか、落盤が起きるなどといった、いわゆる災害が発生したことで、復旧のために、その部分が開削された結果、2本の隧道になったのではないかというのが、私の想像するこの隧道の経歴である。
右図は上記の変化を模式化したものだ。

左図は、冒頭でも紹介した大正4(1915)年の地形図と、隧道が大規模な改修を受けた後である昭和26(1951)年の地形図の比較である。

残念ながら、この2枚の地形図における隧道の描かれ方には有意な変化が見られず、おそらくは1本の隧道が2本に別れるという劇的な変化があったにも関わらず、それが地形図に反映される事は無かったのである。故に私は、モル氏を頼らねば解決出来ない事になったワケで…。
また、後述するとおり昭和26年当時には、既にこの道は県道に認定されていたはずだが、図には反映されず、里道のままになっている。
全体的に地形図の改描が追いついていないようだ。

ここで、もう一度市史から引用した先ほどの文章に戻るが、「県道小諸―芦田線の千曲川にかかる大久保橋が開通し」という文に続いて、宮沢隧道の話題が出ていた。
だが、宮沢隧道があったのは、「県道小牧芦田線」ではなかったようである。
このことは、同書の附録として収録されている、昭和27(1952)年版「小諸町全図」を見ても明らかである。
図の一部を右に転載した。

この図が描かれた昭和27年時点では、宮沢隧道がある一帯は北佐久郡川辺村に属していた(川辺村は昭和29年に小諸町と合併して小諸市の一部となった)ため、ほとんど空白で、隧道がある辺り(矢印の先端付近)にも、何も描かれていない。その意味では役に立たない地図なのだが、良く見ると、隧道へと通じる道に「府県道小諸南御牧線」という注記がなされている。
これこそが、旧道路法時代に宮沢隧道の所属していた県道の路線名である。この地図で初めて知る事が出来た。(ただし認定時期は不明)
路線名に出ている南御牧というのも現在では馴染みが薄い地名だが、今の佐久市八幡の一帯を昭和30(1955)年まで北佐久郡南御牧村といっていた。

そして、この図が描かれた同じ年に今の道路法が公布され、その後に県道も「八幡小諸停車場線」として再度認定されたようだ(「大鑑」にはこの路線名で収録されている)。
現在の路線名はさらに変わって「八幡小諸線」になっているが、八幡と小諸を結ぶルートは旧道路時代からほぼ一貫している。
隧道が大層立派にしつらえられていたのも納得出来る、かなり歴史の深い県道だったということが分かってきたのである。


…といった所まで、「小諸市誌」は私を連れて来てくれた。
だが、ここまでだった。
「かなり歴史の深い県道だった」のは分かったが、いつ、誰が、どういう目的で、最初の宮沢隧道(或いは隧道群を)を建設したのかという大切な部分については、何一つ情報を与えてくれなかった。
その他の資料もいくつかあたってみたが、残念ながら、この方面の答えはここで止まってしまっているのが現状で、とりあえず今は古い「川辺村誌」を入手すべく手を進めているところである。







美しいだけでなく個性もある、宮沢隧道の坑門。
だが、これとよく似た坑門が近隣で発見されたのである。

手が止まったので、これまでの正攻法だけでなく別の方面からも調べを進めてみたところ、収穫があった。

私自身はまだ訪れることが出来ていないのは遺憾であるが、
なんと !!
今回の宮沢隧道と極めてよく似た坑門を持った別の隧道が、近くに存在している事が判明した!


しかも、現役…!


その隧道とは、小諸市大久保の千曲川河畔にある、布引トンネル。

肝心の坑門画像は、『ノスタルジックなモダン建造物を訪ねてみよう!』さんのこちらのページの上から2枚目以降に掲載されているから、是非ご覧頂きたい。


どうだろう?似ていないだろうか?

凄まじく似てるのである!

これが偶然の一致であり得ないのは、扁額と要石の間に納められた日輪のような模様や、スパンドレルを象った三角形の浮き彫りなどという、最も個性的な部分の符合からして断言出来る。


布引トンネル(布引隧道)の在処を右の地図に示した。

宮沢隧道とは道沿いに約6km離れているが、どちらも現在の小諸市内であり、かつ旧川辺村の土地である。
また、千曲川左岸の崖地という立地条件も似ている。

そして、ここで「小諸市誌」の記述に再び思い至ることになる。
昭和八年(一九三三)五月には県道小諸―芦田線の千曲川にかかる大久保橋が開通し、十一月には宮沢トンネルが県の災害復旧工事として…
この文章に出ている「県道小諸芦田線」に、布引隧道は所属していたのだ。(旧大久保橋の画像も前掲リンク先で見る事が出来る)
ちなみに、芦田という地名は、現在の北佐久郡立科町の中心部である。
そして、今日でも小諸と芦田を結ぶルートは県道に認定されており、「諏訪白樺湖小諸線」という路線名が与えられている。
これが「小諸芦田線」の後継なのである。

坑門の極端な類似性から、宮沢隧道と布引隧道の坑門が施工時期は極めて近く、一連の施工であった可能性が高いと思われる。

ここからヒントを得て、布引隧道の歴史を少し調べてみたところ、こちらは大正元(1912)年に竣工し参考サイト、「道路施設現況調査」でも同様の記載)、昭和11(1936)年に改築されていることが分かった。
注目しているのは、竣工年だ。
宮沢隧道群の竣工年は分からないが、その兄弟分のように生きてきた布引隧道の竣工年が判明した。
宮沢隧道もまた、大正元年前後の竣工であるという可能性が、だいぶ高まったと思うのだが、いかがだろう。

…それはともかく、
あんな魔窟の瓜二つが、今も現役で頑張っているというのは文句なく衝撃だ。
酷い目には遭いたくないけど、美しい日輪オブジェのある坑門は見たいという方は、ぜひ布引隧道へ行ってみて欲しい。私も遠からず訪問するつもりだ。




ありがとう!ありがとう! ご近所読者さまタレコミ情報コ〜ナ〜!

タレコミ情報@
宮沢地区に親戚の家がある地元のものです。
宮沢のトンネルは聞いた話では、祖父が小さい頃、馬が往来していた頃からあるそうなので、もう80〜90年以上存在しているのでしょう。
かつて千曲川は水量が多くかつ流れが速く、橋を架けるよりも隧道を開けたほうが安かったという話があるそうです。
タレコミ情報A
手元にある’91年度小諸市住宅地図(←反則です)では、宮沢側に2号トンネル、大杭側に3号トンネルとなっています。1号トンネルは小諸・旧浅科村境のトンネル(完全に浅科村内)です。
タレコミ情報B
宮沢側の二号トンネルは数年前までホワイトアスパラの栽培に使われてましたよ〜 と、地元的情報を。


さすが地元の皆さまだと思わされる、マニアックな情報達に、ワクワク!

情報@は、初めて隧道建設当初の事情に踏み込んだと思える内容で、千曲川を渡る橋を架けることが困難であるため、隧道を掘ったのだという話。とても興味深い。

情報Aは、住宅地図情報キタコレ!
2つに分かれていた宮沢隧道だが、住宅地図ではちゃんと南北それぞれに名前が付けられていたとのこと。曰く、南側が宮沢2号トンネル、北側が宮沢3号トンネルというらしい。(右図参照)
しかし、どうあっても宮沢シリーズは3号までしか名付けたくないらしいな(笑)。実際は4本あるのに、強情な…。

情報B(@やAとは違う方の情報)も、宮沢側の隧道を「二号トンネル」と表現している。住宅地図にあった命名は、地元に定着していたっぽい?
そして、あの憐れな白骨死骸の現場にて、白いアスパラが生産されていたという過去話、ありがとうございます。
多分そうなんだろうと思っていたが、あの妙に厳重な隧道の封鎖は、やっぱり内部を施設に転用した為だったようだ。





以上、なかなか手強い宮沢隧道の歴史探索の旅も、ひとまず終了としたい。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました!





  …………え?


  あの愚か者の探索の決着は、どうなったのかって?



  あ、あの人はいま…。


実はあの人は、今もあの場所にいて、ずっとそこにいて、レポートも更新していますよ。









ウソですけど…。



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愚者の末路


16:05

5分ほどロープと奮闘したが、1m以上、地上を離れることは出来なかった。
乗り越えなければならない落差は約5m。

時間と体力には限りがあるので、打開の目処が無い状況で闇雲にロープに縋るのは、早々にやめた。そしてロープはきっぱり諦めた。

もう、考え方や行動で恰好をつける時間は終わっている。ここからは人に見せる前提ではない。オフレコのつもりで行動を開始する。目標は自力生還のみ。敗者復活の戦。

まずは勉めて冷静に、現場を観察する。

上からロープを垂らす段階ではあまり重視しなかったが、左右の擁壁の角度は結構違っていた。
ロープを垂らした川側の擁壁(向かって右)は古い間知石垣で、非常に急。
対して山側の擁壁(左)は、後年の建造らしいコンクリートブロック積みで、やや緩い。

「やや緩い」とは言っても、そのまま徒手空拳で登れるものではない。せめて手がかりが無ければ無理だ。
そこで私が目を付けたのは、この擁壁が接する、隧道の坑門工に刻まれた凹凸だ。
これが手掛かり足掛かりになるのではないかという、確信的期待。

アタックの前に、身軽になることを選んだ。
首から提げた大きな一眼レフカメラ、腰の重いウエストバッグ、そして登攀には邪魔者でしかない厚底の登山靴を全て取り外して、件のロープの下に全て結わいた。
上に登る事が出来たら、ロープごと引き上げるアイデアだ。
ここにミリンダ細田がいたら、私ごと引き上げて貰うのだが…。

で、アタックポイントを変更しての、第2回目の擁壁チャレンジ。

5分掛ける。

結果は、失敗。

この過程で右手小指に無理な力を掛けてしまい、感覚が一時麻痺する(1週間後に治癒)。

地上から2m弱は上れたが、上半分、どうしても柱壁の先には行けない。
手掛かり、足掛かりの数が絶対的に足りなすぎる。足場がもっと必要だ。
高さ1.5mの足場さえあれば、柱壁の上に行ける。そうすれば多分、柱壁の側面(幅5cmほど)を足裏でキックして、脱出出来そう。



←これだ!

何者かが何らかの理由で置き去りにしていた朽ち木の山。
ここから少しでも頑丈なものを選び出し、足場に使うことにした。
どれも腐っていて不安定だったが、高さ1.5m程度までのサポートだから、万が一折れても大怪我はするまい。




アタックポイントも再度変更。

今度は南側坑門の縁を使う。
北側と環境の違いはほとんど無いが、単純に私の利き腕の問題なのか、この向きの方が力を、有効に使いやすい気がした。

もし、このアタックにも失敗したら、どうしようか。
いよいよ、打つ手がない気もする。
だが、過去にはもっと直接的に生命が危険な場面はいくらでもあったはず。
ここで閉じ込められても、命を失うことはないだろう(ケータイの電波があるうちは)。ただ致命的な“傷”を負うだけ。

……やるしかない。 全身全霊で、やる。




16:29

裸足に靴下を履いただけの足で、汗だくになった私が、ロープを結わいてある木の根元へ戻ったのは、

最初にこのロープを上ろうとし始めたときから、28分後のことだった。

朽ち木を足場に地上から1mほどの高さに上り、そこから坑門の柱壁と擁壁の間のVスポットに片足を差し込んだ。フリーの右足で擁壁にあったヒューム管の水抜き穴を手掛かりにし、さらに1m上る。左足は柱壁の側面を支えにしている状況。不安定な姿勢に手足末端の疲れが溜まっていくが、この状況で3分くらい試行錯誤。どうにかこうにか少し上って、擁壁の上に指先が届くようになったので、その手を使って擁壁上の土砂を退かして足場を作った。そしていよいよ最後のステップ!ここで落ちると後ろ向きに4m墜落する場面であり、最も慎重かつ大胆な動きを要求された。


こうして私は脱出した。



16:29

カメラはロープに預けての行動だったので、坑門脇の擁壁をよじ登った正味10分の死闘は記録されなかった。

ただひとつ現場に残されたミミズの如し朽ち木が、此度の痛恨の失策を象徴するように情けなかった。

自慢撮りに他ならない自分撮りなど、する気にもならない。生還すれば勝ちと嘯くことさえ薄ら寒い、情けなさよ。

とぼりとぼりと車へ戻った。意気揚々と乗り込んだ男の変わりようである。




探索終了。



教訓。

私はガキの頃から脚ばかり動かしていて、腕はてんで鍛えていないので、ロープを使った登攀は大の苦手である。
そこで、弱点を少しでも克服すべく、装備品を増強することにした。
amazonで「縄ばしご(商品名:YATSUYAフィールドはしご4m)」を購入する。

購入後、実際に何度か現場で使用してみたが、使用感は安定して良好である。ただし、荷が重い。
2016年より、必要に応じたオプション装備として、ロープの代わりに正式に実戦投入を開始した。
が、正直、荷の重さのために道程で殺されかねないので、ピンポイント投入用っぽい。

以上、恥を忍んで失敗談をご報告いたします!
みんなも、ロープには気をつけてよね!!




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