9:18 《現在地》
化け物じみた巨大な鉄管が、さながら地獄の釜のような様相を呈する楠木沢を高らかに跨いでいた。
この壮大な土木構造物の正体は、昭和36年に増設された早川第三発電所2号機に水を送る、楠木沢2号水路橋。
地形図にも一応は描かれているが、これほど巨大なものだということは、現地を見なければ分からないことだ。ましてや県道を走っているだけでは存在すら知る事が出来ない、隠れた早川の土木遺産といえる。
刮目に値する発見であると自負したい。
改めて、いまだかつてこの橋にこれほど近付いた関係者以外の人物が、どれほどいただろうか。
少なくともここは、登山や釣り、或いは沢登りなど、アウトドアスポーツの対象となるような場所ではないし、私がここまで歩いてきた唯一の道も、巡視路として現役であることが信じられないほど荒れていて、地形図からは完全に抹消されているのである。
もはやこの場所に辿りつく道理といえば、古い地形図に存在した道をなぞろうという奇特な動機のほかには思い当たらない。関係者のほかは、オブローダーだけが近付きそうな橋!
巡視路は廃道同然でも、ここは間違いなく現役の施設であることが感じられる、見慣れた東電の案内板。しかも結構新しいデザインだった。
いま私は、巡視路として活用されている“左岸道路”(工事用道路)を辿りつつ、水路アーチ橋の左岸側袂の上方を横切ろうとしている。
上の写真からも分かるとおり、アーチ橋の両端部は巡視路より10m以上も低い位置に接地しており、これまで地中の水路トンネルが道と同じくらいの高さに有った事とは著しく変化している。
水路橋とその前後の水路の横断面の想像図は右の通りだ。
水路はアーチ橋の前後で、サイホンの原理を利用したアップダウンを通過しているものと考えられる。
地上に水流が露出している部分は一切無く、地下水路の坑道が谷の両側の地表に口を開けているが、真空に近い気圧調整がされている水路とは隔離されている。
これらの坑口は、かつて地下水路を建設する際の出入口であったと考えられるが、完成後は特に役割は持っていないと思われる。
そんな名残の坑口が、上の写真に見えるコンクリートの構造物である。
2号水路の坑門を発見。
昨日と今日、左岸道路上で地下水路の“横坑”には何度も遭遇しているが、これははじめて横坑ではない“本坑”であった。
入口は有刺鉄線付きの高いフェンスで封鎖されており、立ち入れない。
錆びた立入禁止の警告板の「ぜったい」という表現が、今までの警告以上に重かった。
まるで、ここから先は発電所の核心部に属する施設であると言わんばかりだった。
だが、先ほど図で示したとおり、この内部は行き止まりである。
入口から15mほどの所に天井に届くコンクリートの閉塞壁が鎮座していた。
閉塞壁の向こうには、天井まで満たされた膨大な水流が渦を巻く暇もなく奔っていると思われるが、音も震動も何も感じられないのが、逆に不気味だった。
(実際にこの時水が流れていたかどうかは、分からない)
役目を終えた坑口前の狭い通路から下を覗けば、音もなく鎮座する巨大な白い虹。
…いや、
つい虹の形に準(なぞら)えてはみたが、こいつはそんなメルヘンチックなもんじゃないな。
景観との調和?
なにそれ。
人に見られる事なんて、これっぽっちも考えていなさそうで、ましてや部外者に渡られることなど間違いなく御法度な、ガッチガチの工業施設の表情である。
そして、あらゆる人工物が壊されて行くこの谷間にあって、これだけは人類の譲れない一線、本気で守るべきものと見え、少しも壊されたところがない!
見事に、この地形を征している。
嗚呼、それに較べて私の通いたい道は! 早川住民たちの通った道は!!
こいつを渡れば、楠木沢の対岸まで楽に行けるのに、 指を咥えて身悶えるしかない!!
負けたくない! この橋に頼らず対岸に立ちたい!! 俺もこの谷を征したい!!!
対岸の坑口附近をズームアップ!→
こちら側と同じく、対岸の坑口も左岸道路沿いに口を開けているのである。
坑口の両側に、うっすらと道のラインが見えているだろう。
だが、その道の状況は明らかに、こっちより悪い。
荒れてはいても現役の巡視路と感じられるこっちに較べ、向こうは見るからに廃道で…
昨日の死闘の場と同じ匂いがする。
しかし、今の私はあそこまで行けるかさえ、分からない状況なのだ。
これは相当に気を揉む展開だった。(いざとなったら、水路橋を●●ちゃう?)
楠木沢の対岸に視線を滑らせていく。
そこには、あまりにも挑発的な左岸道路の姿が。
“オブローダーの正規ルート的”には、あれを辿りきらねば橋の向こうに辿り着けないのか。
正直、キツくねっすか?
……キツイだろ……、どう見ても…。
途中、切れてるじゃねーか!
切れてないところも、絶壁地獄じゃねーか!!
まだ谷が浅ければ、一旦谷底まで降りて、そこから対岸によじ登る目もあるだろうが、ここではそれも難しい…。
そのまま視線を上流に流していくと、この左岸道路が楠木沢を渡る部分に近付いていくが、地形と樹木が遮って、見通す事は出来ない。
だが、その樹木の中途半端なブラインドの向こうに、見えやがった。
古地形図にも描かれていなかった、ここでの完全な新発見となる隧道。
ぬおおおお!!!
あそこまでは、絶対に行きたいゾ!!!
2号水路橋を過ぎて100mほど進むと、再び橋が見えてきた。
そして幸いなことに、この橋については私が渡ることが制限されていない。
鉄の箱のような、いかにもごつい橋だ。中には巨大な水路管が収められている。
すなわちこの橋の正体は、楠木沢1号水路橋である。
この左岸道路によって建造された初代の導水路が楠木沢を渡るための構造物だ。
もっとも、この現在架かっている橋が当初のものであるかは分からない。
もしそうであれば、なんと早川第三発電所が稼動開始した大正15年以前の架設という、第一級の土木遺産だが…。
そして、少し前から渓声が騒がしいと思っていたら、
橋のすぐ上流に、天突く巨瀑が落ちていた!
楠木沢の滝だと言いたいところだが、先ほどの1号水路橋の真下で楠木沢は本流と枝沢に分岐していて、滝や2号水路橋があるのは枝沢の側である。
でも、他に適当な呼称が思い付かないので、やはり楠木沢の滝と呼びたいと思う。
この滝、早川町誌にも全く書かれていないし、ネット上にも訪問記が見あたらないが、全体として優に50mを越える落差を持つ壮大な多段滝である。
県道から直線で1km以内にありながら観光名所として公開されていないのが不思議な規模だ。
おそらく、左岸道路が生きていた時代までは、そこを往来した早川沿い住民や西川温泉の浴客らが、その威容を愛でたに違いない。
だが、戦後に左岸道路が一般人の通うところで無くなってから、発電所の用地の向こう側にあるという心理的隔絶も手伝って、すっかり忘れ去られた存在になっていたものと推測する。
これから橋を渡り、出来るところまで滝壷へ近付いてみようと思う。
これは、ここまで辿りついた私への、自然からの贈り物と考えたい。
9:25 《現在地》
さて、渡る前に橋のチェックだ。
遠目には単なる箱桁の橋だと思ったが、近付いてみるとアーチ型の補剛材が添架されていて、アーチ橋の一種であるランガー橋に近いような構造か。
なお、塗装銘板には「楠木沢水路橋」という名前とともに、昭和46年に塗装された旨が記録されていたが、これが竣工年であるかは分からない。
楠木沢(枝沢)の河川勾配は本当に凄まじいもので、わずか100m下流では巨大な虹のような水路橋で跨いでいた谷が、ここではこの程度の大きさの橋で一跨ぎである。そしてさらに100mも行かない上流では、滝となって路盤よりも遙か上を落ちているのである。
そして私はこの水路橋の袂で、2日間を通じはじめて、この導水路を流れる水を目にすることになった。
鉄格子の扉が厳重に施錠された坑口の隙間から、内部を覗き込んでみると…。
怖 い。
水は、やはり音もなく流れていた。
せせらぎ、波打つ、そんな余裕さえも与えられない、整流する水。
天然の造物であるはずの水が、あたかも人工のタービンに通されるために生まれた工業製品のように整然と、音も灯りも無い地下水路を満たしていたのである。眺めていると、スッと奥へ引きずり込まれるような怖さを感じた。
整流された怖ろしい水の上に架かる橋を信じて渡る。
橋の上には僅かな雪が解け残っていた。深谷に架かる年中暗い橋である。
瀑音が四方の谷に谺し続けている。
橋は一般向けのものではないので、欄干が低い。しかも華奢。
その欄干から下を覗き込めば、そこにも結構な落差の滝が落ちていてビックリ。
もう、何が上で下かも分からぬような、地形的狂奔の世界だった。
部分的とはいえこれを征して、自分たちの生活に活用している人類は、やっぱり凄かった。
現地の私は、この地の眺めを、「複雑すぎる」という、少し奇妙な言葉で表現していた。
この言葉が、実感だった。
ちなみに、探索当時はまだ決まっていなかったが、これを書いている現在は、
近い将来に中央リニア新幹線が、この辺りを通過することが明らかとなった。
一帯の景観に、大きな変化が生じることになるかもしれない。
愕然とする。
これ、青崖方面は行けないだろ……。
正直、これは勝てる気がしない。
さっき見えていた隧道が、このどこかにあるのだろうが…。
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ここは先に滝へ行って、ここまで来たご褒美を確実に頂戴することにしよう。
右折する。
見えてきた。
先程来の瀑音の主たる原因。
ちなみにこれは、先ほど遠望した滝の下段である。
下段だけでも、この規模である。
もちろん、もっと近付いて滝壷まで行った。
そこには、うたかたの夢の世界があった。
滝壷には、変幻する氷の彫刻たちが、
訪れる人の極めて稀な美術館を創り出していた。
【重要追記】
左岸道路によってのみ接近することが出来る、楠木沢の滝。
これはかなり壮大な直瀑で、本編でも述べたように、観光の対象として十分に通用するレベルのものである。
だが、現実には観光ガイドなどに掲載されていないのは無論、地形図にも記載が無く、正式な名称が不明であった。
しかし今回、「早川町誌」を改めて確認したところ、滝の名前が「時雨の滝」であったことが判明した。
さらに、滝は山梨県の仮指定記念物であったことなど、左岸道路との関係を示す貴重な情報を得ることが出来た。以下、「早川町誌」を転載する。
時雨の滝 早川左岸、早川町湯島の海抜六一〇メートル、楠沢地内にあり、高さ二五メートルである。
昭和二年二月、旧法による山梨県仮指定記念物であって、早川左岸唯一の名瀑である。旧法とは、大正8年制定の史蹟名勝天然紀念物保存法のことで、昭和24年に制定された現行の文化財保護法の前身。史蹟名勝天然紀念物保存法において、天然記念物は内務大臣が指定することになっていたが、その前段階として都道府県が仮指定をすることが可能であった(その一部が本指定を受けた)。また、指定物件には指定理由などを示す標識を設置することが定められていた。
時雨の滝の名は、大正十一年七月二十日、朝香宮殿下(wiki)が南アルプス登山のため鰍沢から西山温泉にご一泊された途路、ここをお通りになり、当時の太田郡長の請いのままに、この滝を「時雨の滝」と命名されたことによる。なお標識文には次のように書かれている。
最近電力工事運搬道路開鑿ノタメ、世ニ現ツ。細雨潤々トシテ岩壁ニ注グガ如ク、楓樹ノ美観ト相俟ッテ雅趣優秀名ツケテ時雨の滝ト称ス。
この内容は、かなり重要である。というのも、ここに挙げられている標識文の記述は、現在までに確認出来ている唯一の左岸道路が現役であった当時の文書であるからだ。
これにより、左岸道路が確かに「電力工事運搬道路」であった事が確認出来るし、大正11年7月20日時点で、既に皇族の交通が許されるほどまで整備されていたことが分かるのである。
なお、この滝は結局国の天然記念物指定は受けなかったようだが、その理由は不明である。また当時設置されていたとみられる「標識」も、現在は確認が出来ないようだ。
以上、重要な追記である。
次回、
昨日の断念地点、青崖への決死行。
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