2013/5/2 10:48 《現在地》
上の「前説」に書いたとおり、上部軌道起点「岳見台停車場」から1.5kmの軌道跡を黙々と復路し、ちょうど2時間ほど前に人目も憚らずガッツポーズをした現場へ戻ってきた。
既にこの時点までで軌道跡を合計3km歩いたので、正直なところ、軽い疲労感を感じ始めている。
このうえ今日は更に8kmも歩いて、さらに自転車を20km以上漕がないと終われない(=クルマに戻れない)とか、足元のレールが励ましてくれなければ、もっともっと気の重い探索になっていただろう。
しかし、今の私には何といっても、レールが居てくれる。
このレールを放って立ち去るなんて事、考えられないのである。
とことん、付き合うぜ!!
根尾滝遊歩道からこの上部軌道へ登ってきたときのことを思い出してもらいたいが、私はひたすら無名の谷筋をよじ登ってきたのであった。
最後の最後で谷底を登る事に不安を感じ、僅かにそこを逸れて登ったところで路盤跡に辿りついたのであったが、もしもう少し辛抱強く谷筋を上り続けていたとしても、何の問題もなく路盤跡に出会っていたという事が判明した。
件の無名の谷と軌道跡が交叉する地点には、軌道に沿ってカーブする小規模な石垣が残っており、旁らには集材機でも納めていたような小さな掘っ立て小屋の崩れた物があった。
もし今後私と同じルートで上部軌道を目指す人がいたら、この石垣や小屋の跡を目印にすれば良いわけである。
明るい時間ならば見落として先に進むということは、まず無いと思われる。
無名の谷を越えても、石垣に画された路盤跡が坦々と続いていた。
相変わらずレールもちゃんと残っていて、私を幸せの世界に留め続ける。
ここからまた少し行くと、小さな尾根を越える浅い土の掘り割りがあり、そこを境にして再び濁河川沿いの山腹に入った。
また途中には、現在も管理されていると思しき、下枝払いのナタ目が新しいヒノキの小規模な植林帯があり、私が来たルートの他にも、山仕事用の道があることを想像させた。
大きな崩れや遺構もなく、しばらくは時速2kmを下らない歩行速度で、順調に進行した。
「嵐の前の…」 という安い定型句が脳裏に浮かんだが、まだ先は長いので、意図的に意識の外へ追いやった。
「嵐の前」
不安を感じる要素が現実にあるからこそ、無視ができなかった。
すなわち、この界隈では最大の浸食谷を刻んでいる濁河川本流に沿うことへの不安である。
それも、今後は徐々に山腹から谷底に近い“峡谷”へと路盤が進むであろう事への、具体的不安。
今はまだ、だいぶ先の事だろうと思える安心の高度があるけれど…。
11:03 《現在地》
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<<絶叫省略>>
ヤバイだろコレ。 廃車体が置いてあるじゃねーか。
ここは天然の“森林博物館”かよぉぉぉ!!!
展示品「索道施設」に続いて、展示品「トロッコ」の登場だぜ…。
まったく、たまげたな。
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予めお断りしたいが、私が林鉄の廃線跡でこれほど完全な形を保ったトロッコ…正確には運材貨車を目にするのは、初めてである。
だから、これからこの車両について私が試みる解説は、かなりの部分が、当時の資料などと見較べたうえでの勝手な推測である。
それも、私の持つ林鉄の車両に関する資料は、中部地方のものがほとんど無く、秋田県関係資料の受け売りであることを述べておく。
まず、この貨車は見ての通り、鉄製貨車である。
貨車は大きく分けると、木造貨車と鉄製貨車があったが、後者である。
そしてさらに鉄製貨車の中でも、これはモノコックトロと呼ばれるタイプだ。
林鉄で用いられた貨車の中で最も進化したタイプであり、その名の通り、張殻構造(モノコック構造)を特徴としている。
軽量さと強度が高度な次元で両立していたとされる。

梅林園(山形県真室川町)の保存運転車両より。
発見された廃車体は1台だけだが、「鉄製ボギー貨車」とも呼ばれた通り、右写真のように、2両セットで1両の運材貨車のように利用された。
廃車体からはすっかり失われていたが、実際は荷台上に「コ」の字形の枠が置かれていた。(枠は中央の軸受けを起点に回転するようになっていて、カーブを走行する事が出来た)
また、貨車同士や機関車と連結するための連結器にもいくつかの種類があったが、本機のものは「あさがお式連結器」と呼ばれ、連結器上面の穴にピンを射し込み、そのピンにリンクと呼ばれる鉄環を通す事で、連結器同士を固定していた(ピンリンク方式という)。

仁別森林博物館の保存車輌(秋田県秋田市)より。

森吉林鉄廃線跡(秋田県北秋田市)にて。
連結の方法について、他の種類としてフックリンク方式というのがあり、これは左写真(カーソルオン)の赤円内のように、文字通りフック型の連結器にリンクを通していた。
同じ写真の青円内にあるのはピンリンク方式で、異なる連結器同士でもリンクで問題無く連結することが出来たのである。
なお、このリンクは、稀に廃線跡で見つかることがある。(右写真)
この廃車体が、林鉄ファンにとって特異な価値を有しているのは、単に「往時の廃線跡に現存している」という点だけではない。
日本各地に数十以上はある保存車輌のいずれもが、レールに置かれて保存されているので、このように車体の下側を目にするということは、非常に貴重である。
特に鉄製貨車は一人二人の力ではひっくり返せないので、私も初めて背面を面を目にした。
この背面からは、ブレーキ機構の存在を見る事が出来る。
画像にカーソルオンで赤く表示した部分が、ブレーキ機構である。
H形の部分全体が右に動くことで、ブレーキシューが車輪に接触し4輪をすべて制動する仕組みになっていることが分かる。
そして、このブレーキ方式が稼動する仕組みにも、いくつかの種類があった。
本機のブレーキ方式は「自動ブレーキ方式」と呼ばれるもので、これもまた林鉄の歴史の中では、最も進歩したブレーキ機構であったとされる。
これは一般の鉄道では採用例のない特殊なブレーキ方式とされるもので、その心臓部は、前側連結器と一体になった、この写真の機構である。
自動ブレーキ方式は、連結器が隣の車両の連結器と接触した際に生じる衝撃(圧力)を感知し、それにより自動的にブレーキが掛かる仕組みであった。
つまり、先頭の機関車がブレーキを掛けて減速すると、連結された貨車は慣性のままに玉突き状態となる。この際の衝撃を感知して貨車のブレーキが掛かる。すると、さらに後の貨車が玉突きになり、同じようにブレーキが掛かる。この繰り返して、編成全体にブレーキが掛かるのである。
そして機関車がブレーキを緩めると、連結器同士の接触も無くなるので、貨車のブレーキも自動的に緩解された。

千頭森林鉄道の保存車輌(静岡県本川根町)より。
余談だが、このほかに編成全体にブレーキを掛ける方式としては、左写真の千頭森林鉄道保存車両に痕跡を見る事が出来る、空気チューブを利用したものがあった。
これは機関車のブレーキ操作を、編成全体に取り回された空気チューブにより伝達し、各貨車のブレーキが掛かる仕組みで、貫通ブレーキ方式と呼ばれた。
もちろん、自動ブレーキにしても、貫通ブレーキにしても、これらの方法に拠らず手動で貨車単体を制動するブレーキハンドルも取り付けられていた。
今回発見された廃車体にもそれらしいバーは見えるが、土砂に埋没しており、詳しい形態は確認出来なかった。
…といった具合に、
従来自分はあまり興味がないと思っていた、そう思い込んでいた“車両”に関して、随分と細々と拙い説明をしてしまった。
車両にも自分は大いに興味があることも理解した。
やはり、レールを発見して喜ぶのと同じで、廃車体には当時の林鉄の痕跡として、絶対的な説得力があり、賞揚しないわけにはいかない。
特に、この廃車体の隣には、敷かれたままのレールがある!
残念ながらかなりの量の瓦礫に埋もれてはいるが、発掘すれば必ずレールはあるだろう。
そして、それをすべきかどうかは別問題だが、レールを発掘した後で廃車体をレール上に乗せることは可能だと考えられる。
その時、もしかしたらこの車両はまだ、“走る”かもしれない。
林鉄跡で貨車を走らせるなどという、夢のようなことが、実現しうる場所なのだ…。
私と細田の永遠の夢が…。
11:06 廃車体を後にする。
なぜこの場所に1台だけ置かれていたのか、その理由は結局分からず仕舞いだった。
ただ、この場所を境にして、路盤の状況は悪くなった。
それも著しく。
線路は、どこへ行ってしまったの!
もう私の天国は、終わりなの?!
殺しに来た。