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廃線レポート 中津川発電所工事用電気軌道 反里口〜穴藤 机上調査編

公開日 2024.08.07
探索日 2020.05.09
所在地 新潟県津南町


今回の探索の成果をまとめると、全長47kmの工事用軌道のうち、反里口〜穴藤間約4.5kmの大部分を踏破、もしくは隣接道路上から状況を目視確認した。

軌道跡の正確な位置が分からない状況からスタートしたが、情報提供者pop氏が発見して教えて下さった第一隧道(仮称)の位置や、『新潟県の廃線鉄道』に遺構の存在が言及されていた中津川橋梁(仮称)の位置を手掛かりに、これらを結ぶ一連の軌道ルートの推定を行い、そこを辿った結果、新発見となる第二隧道(仮称)との遭遇を果たした。今回は水量が多く川を渡れなかったため、中間部の約600mが未踏となったが、それ以外のルートはほぼ特定することが出来た。

今回探索した区間は、距離のうえでは全長の10分の1に満たない小部分だが、私の見立てでは軌道跡の8割程度が最終的に道路転用されたようであるから(この中には転用後に再度廃止された区間もある)、今回の区間は謎に満ちた工事軌道の往時を想像するうえで、なかなか貴重な示唆に富んだ廃線跡であったと思う。

探索中、特に印象に残ったこととしては、第一隧道や第二隧道が洞床に水路を埋設した珍しい構造を持っていたことが挙げられる。これは今までに経験したことがない構造であった。また、隧道外の地上区間にも、軌道跡と水路跡が隣接する区間があった。
水路跡については、途中で立ち寄った牛首頭首工で見た碑文により、大正8年から昭和24〜25年まで使われた旧正面ヶ原用水だったことが判明したが、信越電力という電力企業が整備した工事用軌道に、畑違いと思える灌漑用水路がなぜ附属しているのか、その背景が気になった。

いくつかの謎を持って探索から生還した私は、いつものように帰宅後の机上調査を行った。その成果を以下の3つの章に分けて紹介したい。





 第1章 〜工事用軌道の全貌と残された史料について(今回探索区間を中心に)〜 


本章では、信頼できる文献を手掛かりに、工事用軌道の建設から廃止までの経過についてまとめたい。

本軌道に関する情報源として、昭和60(1985)年に津南町が発行した『津南町史 通史編 下巻』があり、そのアクセスのしやすさや内容のまとまりの良さから第一に着目すべきものではあるが、信越電力という関東に地盤を持った巨大資本が大正時代の津南地域に前例のない巨大な開発をもたらした一連の中津川発電所計画の経過と、それによる地域への影響についての記述に主力が置かれており、工事の過程で利用された工事用軌道についてはサブ的に取り扱われているに過ぎない。これはその前年に刊行された『津南町史 資料編 下巻』についても同様である。

だが、この町史に関連して、軌道に関する内容を中心的に取り扱った文献が見つかった。
それは、昭和55年から60年にかけ町史編纂の基礎資料として出版された『津南町史編集資料』(全20巻)第10集「津南郷土史研究」(昭和57年発行)の章題「信越電力中津川発電所工事における資材輸送手段としての軌道その他について及び関連史料紹介“雑件”綴」(以下『関連史料紹介』)である。

まえがきに拠ると、著者の瀬古龍雄氏は、3年間の津南在住中に、当時世にほとんど知られていなかった工事用軌道に興味を持ち、文献調査、現地踏査、聞き込みなどを行って全容の解明に努めた。その成果をまとめたのが本章であるという。内容は全部で50ページ以上あり、本軌道を知る上で最も充実した文献といえる。私のレポートの冒頭に掲げている路線全体図についても、彼の調査の集大成として編まれた手書きの地図(が清書されて町史に収録されたもの)を元にしている。瀬古氏こそは、本軌道研究の第一人者であろう。

『関連史料紹介』は、その章題通り、史料の紹介が主たるテーマになっており、いわゆる廃線歩き系の内容ではないので、これを読んでも詳細なルートだとか、どこに何があったかといったことは分からないが、そういう内容が全くないわけではなく、1ページ分ほどは瀬古氏が現地を歩いて見つけた遺構への言及があるので、最初にそれを紹介したい。


『津南町史編集資料第10集』より

現在でもかなり遺跡のはっきり残っている所があるが、二三紹介しておこう。

反里口の集落から、中津川沿いに右に折れて、軌道あとはかなり明確に残っている。旧正面ヶ原への水路と並行しているところが多いが、くずれかけたトンネルは片側(反里口側)の入口が辛うじて認められる。春先の樹木のまだ繁らない頃に河原に立てば、軌道あとの切通しと築堤が明確に認められる。

軌道は穴藤の手前で中津川を橋梁で渡っており、昭和25(1950)年の台風で、右岸取付護岸は流失したが、左岸は現存し、中間ピアも現在残っている。

『津南町史編集資料第10集』より

今回探索した区間関係は以上である。

まず、今回“発見”した第一隧道(仮称)は、既に確認がされていた。
その反里口側坑口だという写真を見ても、【同一地点】と断定できるほどの情報量はないが、随分と埋没が進んでいたことが分かる。また(私の現地での予想に反して)穴藤側の坑口は当時から埋没していたようである。
加えて、旧正面ヶ原用水と軌道跡が並行していることへの言及もあった。
さらに、中津川橋梁(仮称)の遺構についても触れており、新情報として、右岸の橋台を含む護岸が流失したのは昭和25(1950)年の台風が原因だという内容がある。

あとから気付いたが、瀬古龍雄氏は、私が中津川の橋脚跡を知るきっかけとなった『新潟県の廃線鉄道』の解説・監修者でもあった。
ということで、今回の探索は瀬古氏が随分昔に歩いた道を、pop氏と一緒になぞる旅だったようだ。偉大な先達に敬礼!


ここからは、『関連史料紹介』が紹介している文献の記述を見ていこう。

まずは、工業調査協会が昭和12(1937)年に発行した『日本の発電所 東部日本篇』である。
同書の「中津川第一及第二発電所」の章には、同発電所の沿革や設備について10ページにもわたるかなり詳細な解説があるが、「工事施工に就ての特別事情」として工事用軌道について説明している。(なお、瀬古氏が軌道の調査を始めたきっかけもこの文献とのこと)


『日本の発電所 東部日本篇』より

工事施工に就ての特別事情
大正10年及大正11年に東京電燈株式会社で電力需要増加著しいのに発電能力之に伴わず、大正11年5月には大正12年末迄に本発電所33950KWを完成することに決定した。本地点には馬を通ずる道路もなく、毎年11月下旬から翌年5月下旬迄は一面の積雪で、深い時は8尺〜12尺の積雪のある所である。地形は急峻な山ばかりで、水路はこの山腹を通る筈だったのである。其時丁度水路の設計がやっと出来たばかりで、準備工事の設計は出来ていなかった。それで此工事を僅か1年3〜4月で完成するという事は極めて困難なことであったから、機械力によって之を完成する外に望みはなかったので、本工事には極めて大規模な設備をなされたのである。

『日本の発電所 東部日本篇』より

なぜ、信越電力(東京電燈の前身)が全長50km近い前例がない規模の工事用電気軌道を開設してまで工事を急いだのかは、しばしば問題とされる点である。これに要した費用については後述するが、会社を傾けかねないほどの莫大な工事費を投入しているのである。

この疑問の答えは、会社にとって短期日での発電所の完成が何より重要だったということに尽きるだろう。
同社はもとより東京の資本であり、首都圏への売電を収益の根幹とするビジネスモデルを持っていた。だがこの分野のライバルは多数いて、需要にタイムリーに応えられなければ敗北が決定するようなシビアな状況で戦っていた。逆に言えば、首都圏への売電が約束通りに出来るならば確実に投資を回収できる見込みがあった。だからこそ、莫大な初期投資を恐れずに、前例のない規模の工事用軌道を整備して工事に臨んだのである。

もちろん背景として、他に用いることが出来る便利な輸送手段がなかったことや、材料費や人件費を短期集中で投入した方が良いという考えもあっただろう。特に当地は豪雪地であるため、積雪による工事の遅延や雪害による工作物全般の損耗も大きかった。何よりも工期の短縮が求められたのである。

右の表は同書に掲載された運搬設備一覧表で、主に工事用軌道を指している。
一番上の「軌条」というのは使用したレールのことで、軌間30インチ(762mm)の25ポンド(11.35kg)〜30ポンド(13.62kg)レールを20マイル(32.18km)、12ポンド(5.45kg)レールを9マイル(14.48km)敷設したことが示されている。合計29マイル=46.66kmである。
軌間762mmは林鉄などでもお馴染みのナローゲージだが、使用されたレールは一般的な林鉄よりも頑丈な12kgレール程度のものが多かったことが分かる。これは重量物を多く運搬する工事用軌道としての特性があったのだろう。


『津南百年史』より

「機関車」の欄にも興味を感じる人は多いだろう。実に様々な種類の機関車と、多数の貨車を動員していたことが分かる。
主力であったジェフェリー社製10t電気機関車だけでも22台、8トン車4台、ほかに各社の蓄電池機関車や内燃機関車、さらに蒸気機関車まで動員している。そして運搬用の鍋トロ車は800台もの多数に及ぶ。客車に当る車輌がないが、これは人員輸送を主力としなかったためである。

左写真は、『津南百年史』より、10t機関車が牽くトロ列車だ。(撮影地点は今回の探索区間外)
なお、この“超短期決戦的”発電工事に用いられた膨大な車輌の行方であるが、10t電気機関車の数台が草軽電鉄などへ移転したことが知られているほかは、不明である。

また、「工事用緒機械」の欄の一番下に「工事用軌条」があり、合計30哩(48.27km)も用いている。工事用電気軌道の外にも様々な現場に軌道を布設して工事が行われたのである。そこで用いた車輌もあっただろう。

 

以上のように工事用軌道の全容を報せる文献はあるものの、敷設の経過や利用の実態に関しては、年代の古さもあって史料がたいへん乏しい。『関連史料紹介』も次のように書いている。

信越電力は県庁文書にもなく、生の文書としては旧信越電力の工事記録“雑件”なる黒表紙の綴が、わずか1冊利用できるのみである。
今回東京電力信濃川電力所の御好意で閲覧することが出来た“雑件”なる綴は、この稿を書く上に大きな柱となっている。以下“雑件”に記載されている重要事項を原文のまま紹介しておこう。

『津南町史編集資料第10集』より

……として、信越電力の内部文書である工事記録として閲覧が出来た1冊のファイル“雑件”の内容から合計24の史料を抜き出し、その原文を掲載し、それぞれに解説を加えている。この“雑件”の引用と解説が『関連史料紹介』の主要な内容である。

24の史料の内容は多岐に亘るが、部署間でやり取りした内部文書なので俯瞰的な内容のものはなく断片的だ。飯場内で起きた殺人事件の報告など、(当時を知る史料としては貴重でも)軌道とは関係のないものも多い。
以下、今回探索区間と密接に関わる内容をいくつか抜粋して紹介したい。

【史料1】 (大正11年11月26日の文書)

……本工事施行区域ハ大部分海抜三千尺余ノ山地ニシテ人家稀薄加フルニ冬期積雪多ク僅ニ人肩ニヨリテ物資ヲ輸送セルガ如キ状態ニシテ交通ノ至難言語ニ絶ス故ニ付帯工事トシテ先ズ第一ニ軌道工事用動力線路、電話線路等ノ交通設備ニ力ヲ尽シ既ニ其一部ニ着手セリ又一方事務所合宿舎及倉庫等ノ建築ヲモ進捗セシメツツアリ……

『津南町史編集資料第10集』より

解説によれば、これは現場での工事監督を担う前倉出張所の技師宛てに、大割野に置かれた支部土木課よりら送られた工事の進捗具合を報告する文書で、発電所の本工事に先駆けて進められた「軌道工事用動力線路」こと、工事用軌道のことが言及されている。大正11年11月に至っても工事用軌道が未だ全線完了にはなっていなかったのだ。

なおこの史料からは分からないが(後述)、工事用軌道の穴藤以北の落成届が出されたのは翌年大正12年3月23日のことで(以南の完成時期は記録がない)、そこから約1年半という驚異的な速度でこれを利用した本工事まで竣工し、二つの発電所がフル稼働を開始する。この速さには本当に驚くよりない。


【史料4】 (大正12年3月10日の文書)

……反里口穴藤間軌道中中津川横断索道塔図送付ノ件……

『津南町史編集資料第10集』より

「恐らく」の但し書きで始まる解説文によると、工事用軌道の中津川橋梁(仮称)の地点では、この橋梁が架設される以前、臨時的に索道を利用して連絡をしていたらしく、橋梁の完成によって索道塔の図面が不要になったことを前倉出張所から前記土木課へ発信したものであるという。
残念ながら、完成した中津川橋梁(仮称)がどのような構造のものであったかについては、公開されている文書からは明らかでない。

が、この史料の解説文に次の一文があり、今回私が辿り着けなかった約600mの中間部分(第二隧道〜中津川橋梁)に“あったもの”に言及した現状唯一の情報になっている。

【史料4】の【解説文】の抜粋

反里口―穴藤間の中津川右岸(見玉字細越)に鉄管置場があったと高橋編集委員から承っている。このことは軌道全通前に一旦物資を集積したものと思われる。

『津南町史編集資料第10集』より

鉄管というのは、穴藤の第一発電所に附属する鉄管水路(発電用落水路)の【部材】のことだろう。非常な重量物である。中津川を渡る橋が完成するまでは、橋の手前の広い場所に一旦集積していたということらしい。現地に変わった遺構が残っているとも思えないが、いずれ到達出来たらぜひ確認したい。


【史料5】 (大正12年4月15日の文書)

一、宮ノ原亀岡間索道 宮ノ原結東原間軌道
 建設費は当方ニ於テハ不明ニ有之候
 保線及諸経費 一ヶ月約壱千円也 
 降雪期間中除雪セズ

二、反里口穴藤間軌道
 建設費 貳拾壱万九千壱百五拾六円貳拾銭也 但シ用地費ヲ含ズ
 保線及諸経費 一ヶ月約五百円也 
 除雪費(降雪期間中) 約六万円也
 但シ運転費電気設備費ヲ含ズ

『津南町史編集資料第10集』より

この文書は非常に興味深い。
前倉出張所経理課の問い合わせに、支部土木課が回答した返信文書であるが、宮野原〜亀岡間の索道と亀岡〜結東原の軌道(これらをまとめて右図では支線と表現)及び、(今回探索した)反里口〜穴藤間の軌道それぞれの建設費、保線費、除雪費などの諸経費が判明するものとなっている。
(これらの区間だけなのは、この段階では結東原以南は未開通だったのかもしれない)

都合良く丁度今回取り上げた区間単体のデータになっているが、反里口穴藤間の建設費は21万9156円20銭とのことで、当時の貨幣価値からすると大変な高額だ。大まかに現在の金額に換算(ここを参考に1円を4000円として換算)すると約8億8000万円である。わずか5km弱の区間にこれだけ費やしている。しかも用地費は含んでいないという。

開通後の保線及び諸経費に月500円(同換算200万円)というのはともかくとして、降雪期間中の除雪費(1シーズン分)を約6万円(同換算2億4000万円?!)と解答している。
これ、普通に誤植だと最初は思った。高すぎるから。だって、令和3年度の秋田市の排除雪予算は11億円程度で、これで1900kmを1シーズンにわたって除雪しているのだ。
対して、この軌道は5km(仮にこれが釜落し〜穴藤だとしても10km弱)に2億4000万円相当だと?! さすがにそれはないと思ったのだが、

【史料5】の解説

反里口―穴藤ルートは6万円という、当時としては破天荒な経費で除雪を敢行したことが分かる。樋口編集委員のお話でも、除雪人夫賃は土工と同じうけとり制だった由で、立坪あたり土も雪も同じ金額で極めて割がよかったとのことである。

『津南町史編集資料第10集』より

……とあって、どうやら東京資本である信越電力は雪をよく知らなかったようで(マジでか?!)、雪と土を同じ体積あたりの額で支払ったらしい(この話は町史など他の文献にも見える)。冬期は2mも3mも積もるわけだから、こういう金額になったのかもしれないが、さすがにこれは冗費が過ぎる…。除雪人夫はウハウハだったろうなぁ。

なお、今回探索はしていないが、宮野原ルートについては冬期の除雪を行わなかったとのことで、そのため実際に利用できた期間は穴藤ルート以上に短かったようだ。途中に索道やインクラインがあり不便であったのだろうとは瀬古氏の見立てである。


これ以降の史料は軌道工事が終わった本工事中のものとなり、軌道関連の内容は陰を潜めるが、大正12年末頃からは工事が完了した工区事務所の閉鎖など、現場の機構縮小が始まり、その過程で色々な引き継ぎ文書がやり取りされたらしく、その中には大変気になるタイトルのものが散見される。例えば……

【史料20】 (大正12年11月27日の文書)

引 継 書 

信濃川本線関係図書
 (略)
中津川第二線関係図書
番号件名数量
一〜四(略)
沖ノ原捲揚線路関係書類一綴
芦ヶ崎・反里口間軌道関係書類
  芦ヶ崎運搬軌道・釜落反里口間軌道 一綴
  芦ヶ崎釜落間軌道 一綴
二綴
反里口・穴藤間軌道関係書類一綴
反里口・穴藤、芦ヶ崎・釜落、砕石場・水槽架空索道関係書類一綴
藤澤・芦ヶ崎間国道橋梁補強工事一綴
十〇新光寺・大割野間国道橋梁補強工事出願図書控一綴
十一軌道及橋梁関係書類一袋
十二軌道建築及索道書類一綴
十三建築工事関係書類一綴
十四〜二一(略)
中津川第一線雑書類
 (以下略)


【史料24】 (大正13年11月22日の文書)

事 務 引 継 報 告

引継図書目録
図書名数量適用
前倉捲揚線竣工平面図一葉原図(オイルペーパー)
登り途 索道停車場入口掘鑿箇所実測図
亀岡・百ノ木間軌道縦断面図一巻原図(セクションペーパー)
百ノ木・結東原間軌道縦断面図
中津川第一線工事関係附帯工事(軌道)概況一冊
第一線電車軌道橋梁溝橋表(六葉)
    〃    勾配表(六葉)
    〃    曲線表(十二葉)
    〃    隧道表(二葉)
切明線連絡軌道雑魚川橋梁設計計算書(附 外川谷「サイフォン」部橋梁)
切明線外川谷取水工事設計数量計算書一冊(控)
穴藤・切明間電車軌道工事竣工届出書類入一袋(原稿)
 (以下略)


【解説】……これらの書類が保存されているとすれば、発電所工事の全貌が明らかになるわけだが、この“雑件”ではもちろん目録のみである。

『津南町史編集資料第10集』より

ふぉおおお!!

読みたさに思わず吐息が漏れてしまったが、【解説】にもあるとおり、ここにある文書の中身を確認できれば、軌道に関するあらゆる事柄が明らかになるだろう。
中身を読めないことが極めて遺憾だが、この目録の文書名だけでも、いろいろと読み取れそうなことがある。どんな工事が行われたかとか、どんな風に呼ばれていたかとか…。

例えば【史料24】にある、「中津川第一線工事関係附帯工事(軌道)」は、社内的な表現による工事用軌道のことなのであろうし、その次の「第一線電車軌道」というのもそれを指している。
第一線とは、中津川第一発電所の導水路を指しており、第二線が同第二発電所の導水路である。この表現は内部文書だけでなく一部の新聞記事などにも出ている。

本稿の表題とした「中津川発電所工事用電気軌道」も当時の文献に見られるものではなく、もっと正式名称らしいものがあるとしたらそれは、「(中津川)第一線電車軌道及び第二線電車軌道」であろうかと思う。

「第一線電車軌道」は切明〜穴藤で、「第二線電車軌道」が穴藤〜芦ヶ崎である。
【史料20】に「第二線関係図書」として『沖ノ原捲揚線路関係書類』が見られるが、沖ノ原という地名から考えて、沖ノ原捲揚線は釜落しと第二発電所の間にあったものだろう。また【史料24】に『前倉捲揚線竣工平面図』があるが、前倉捲揚線は第一線電車軌道の途中に存在した。穴藤〜結東原間にも捲揚線があったが、これは後に穴藤捲揚線という正式名が明らかになる。

なお、これら目録だけが知られている史料たちだが、今もあるところにはあるのかもしれない。
というのも……

穴藤の第一発電所倉庫にはなお未発掘の工事関係の資料が眠っているとの話であり、これを閲読する機会が得られれば、本稿を付加、訂正せざるを得ないことにもなろう。“編集者の要望された原稿〆切”と、“資料存在の聞きこみ”とが重複してこのようなことになった次第、読者諸賢の了解をこいたい。

『津南町史編集資料第10集』より

この建物の倉庫に今もお宝が眠っている……?!

……って、瀬古氏が「まえがき」で告白しているんだよな。
〆切は大切だけど、もう少しだけ待ってあげて欲しかったぜ津南町史編さん委員会さん…!

ああ!
私がいま中津川第一発電所(現在は無人)の門を叩いても絶対にスルーだろうし、そもそも令和6年現在も倉庫に資料が眠っているのか、そもそも眠っている資料に上記のようなお宝が含まれているのか、全ては不明のままであるが……、気になるぜぇ。



 「土木建築工事画報」に識る
2024/8/3追記

信越電力による中津川発電所の建設工事は、土木業界でも非常に注目された出来事だったようで、工事画報社が建築・土木の総合的な月刊誌として大正14(1925)年から昭和15(1940)年まで発行した『土木建築工事画報』にも、数回に亘って工事の内容が写真付きの記事として掲載されている。
同誌は土木学会附属土木図書館のデジタルアーカイブスで全号公開されているため読むことが出来る。



『土木建築工事画報 第1巻第2号』より

これは、創刊第2号にあたる大正14年3月発行号に掲載された写真である。
「運搬軌道一部」のキャプションがあるほか、次の本文が附属する。

図は信越電力株式会社の材料運搬設備の一部たる電車軌道の遠景である。
期間2フィート6インチ、総延長20マイルに達し、8tから10tの電気機関車26台、3tから1t半の台車374台を備え、一日の輸送力400tの予定なりしと云う。
この外に2フィート6インチ期間の軽便軌道約9マイルに及び4tから6tの機関車4台、トロリ台車180台を備え、一日21tの輸送能力を発揮したとの事である。
最大勾配は何れも25分の1である。

『土木建築工事画報 第1巻第2号』より

記事が掲載された時点では既に発電所の工事は竣工し、軌道も役目を終えていたはずだが、記事の中では現在進行形の工事として取り扱われている。
最大勾配25分の1(すなわち4%、40‰である)という数字など、新情報がいくつかあるが、特に興味深いのは、20マイル(32.18km)の部分と9マイル(14.48km)の部分という、輸送能力が大きく異なる二つの路線があったように読み取れることだ。

前出の『日本の発電所』の「運搬設備」欄でも、20マイルと9マイルに分けてレールが計上されており、それぞれ25〜30ポンドレールと12ポンドレールを使用していたことが分かっている。
これを現地の距離に当てはめて考えると、20マイルは芦ヶ崎〜穴藤〜結東原〜切明に当る部分で、9マイルは宮野原〜結東原(いわゆる支線)に当る部分と推測でき、両者の輸送力には400t/日と21t/日という大変に大きな隔たりがあったようなのである。

なお、この写真を撮影した場所ははっきりしない。
背後の山の形が特徴的で、左下の山腹に小さな建物らしきものが見えるが、そこは恐らく谷底ではないようだから、結東原以南の中津川との高度が大きくなった区間だと思う。今回探索区間外の可能性は高そうだ。

『工事画報』に掲載された今回探索区間内の写真は、次の1枚だけである。



『土木建築工事画報 第1巻第3号』より

これは第3号にあたる、大正14年4月発行号の記事「中津川発電所工事設備の一部状況」に掲載された、「穴藤停車場」の写真である。

既に本編最終回中で『津南百年史』からの引用として紹介した「穴藤“停留場”」の写真とは、人物のポーズを含めて同一の景色だが、左右の画角が多少広く、反対に上下は切り詰められたフレームになっている。一つの元写真を加工したのだろう。
停車場か停留場、この場合はどちらが正しいのだろう。より古い文献である前者の方が信頼できる気はするが…。

この写真には次の本文が附属する。

図は信越電力穴藤停車場の景である。砂利、砂運搬用のダンプカーを電気機関車で牽引している景である。ダンプカーは2号積のものである。中央の建物は社員の合宿所である。

『土木建築工事画報 第1巻第3号』より

追記、終わり。


 工事用軌道の貴重な乗車体験記を発見 
2024/8/4追記

読者提供情報により、また一つ貴重な文献の存在が明らかになった。

技能図書出版社が大正元年から昭和18年にかけて刊行を続けた月刊誌『電気工学』大正15年6月号(通巻160号)に掲載された「水力発電所めぐり」という記事に、工事用軌道の一部区間の(芦ヶ崎〜結東原)乗車記があるという。
いままでこの軌道に外部の人間が乗車した体験談のようなものは未発見だったので、事実ならば間違いなく初見の内容。
さっそく確認してみたところ…… 

事実でした!


しばらく発電所めぐりに出かける。(中略)夏のことだから発電所めぐりも水力にかぎるは勿論。信州の水、飛騨の山あい涼しいところもあろうがとの思惑。但、水力発電所は多くは交通不便、車馬も通ぜぬ個所がある。ところで水力発電所であるがこれまたわが国は世界においても有名なる水力国、水力発電所のみでも幾百幾千であろう。まづ東京方面に送電する緒会社の、それも主なる水力発電所を観ることとする。

『電気工学大正15年6月号(通巻160号)』掲載「水力発電所めぐり」より

このような書き出しで始まるレポートで、報告者は「j. N. 生」のペンネームを名乗る新聞記者のようだが、素性は不明だ。
また、旅の正確な期日も明言がされていないが、内容からみて、大正13(1924)年の夏(7月)であると見ている。
行程は長大で、東京→福島県/猪苗代発電所(東京電燈)→新潟県/中津川第一・第二発電所(信越電力)→長野県/龍島発電所(京濱電力)→同/読書発電所(大同電力)といった順序で、可能な限り鉄道を利用して巡っている。

それではさっそく、中津川と信濃川の合流地点に面した現在の津南町の中心市街地で、中津川第二発電所や信越電力の出張所が置かれた大割野に到着した場面から見てみよう。
記者は長野県の豊野駅から当地を目指したが、飯山線の前身である飯山鉄道はまだ途中の西大滝駅までしか開業しておらず、そこからは悪路を行く自動車に便乗して(途中2度もパンクしたという)辿り着いている。

やがて目的地の大割野に到着。信越電力の出張所をたづねる。信越電力では恰も中津川第一発電所の工事が完成し、記者がいった日の両三日後に新潟及び長野両県の土木検査があり、つづいて逓信省の電気検査があり、それが済めば8月1日から東京送電を開始すると会社の人々は何かとざわついていた。
(中略)
第二発電所は中津川をへだてて会社出張所の対岸にある。会社専用の電車軌道の敷設してある木橋を渡って行く。

『電気工学大正15年6月号(通巻160号)』掲載「水力発電所めぐり」より

早速、「会社専用の電気軌道」が登場しているが、この辺りは今回探索区間ではないので、いずれ探索を行ったら精査したい。
なお、信越電力関連の視察の全行程を案内したのは、会社の八巻支配人という人物である。
市街地近くの第二発電所の視察後は、穴藤にある第一発電所を目指している。ここからが私にとっての“肝”である。

転じて中津川第一発電所参観。同発電所は前にも述べた通り、出来たてのホヤホヤ、しかして信越電力の自慢の発電所とある。第二発電所のあるところから、更に約2里の上流地点。会社専用の電車に乗って行く。電車の中には八巻支配人、大島、加藤の両技師、その他会社の人々があまた乗っていた。大島技師は頗る懇切丁寧にいろいろと説明をされる。電車は中津川の右岸にそうて上るのであるが、対岸の丘陵は屏風の如く、大した高低もなく走っている。
前日見た第二発電所の水路は、この丘陵の中をトンネルとして導いているのであるが、所々に崖のくづれたようなところのあるのは、トンネル掘削にあって途中から作業を進めた形跡があり、従ってトンネルの走っている部分も大体見当がつく次第。その部分が漸次丘陵の下方になっているのは、つまり土地全体が漸次高くなっているのを示すものである。しばらくの間は田や畑もあるが、やがてますます山せまり水急となり、それと共に対岸丘陵の光景も次第に面白くなる。

『電気工学大正15年6月号(通巻160号)』掲載「水力発電所めぐり」より

上記は大割野〜反里口あたりの平坦地をゆく描写であり、最後の行で反里口を過ぎ、今回探索区間に入ったあたりだろう。

掲載した写真は今回の探索中に撮影したもので、反里口少し手前の国道上(概ね軌道跡と重なっている)から対岸の丘陵地を見た。記者はこの景色に、段丘崖に埋設された地下導水路の工事跡を見つけている。またチェンジ後の画像は、反里口から軌道が延びる進行方向を撮影したもので、対岸の丘陵は次第に「石落し」の絶壁となってそそり立つようになってくる。
いよいよ、100年の時を隔てて、今回探索区間の乗車レポートが開始される……!!

八巻支配人、今までは素人の新聞記者に何を語ってもという気配でいたが、「秋になるとこの辺の景色はいいです」と。電車はなほも走って二つばかりのトンネルを過ぎる。みじかいトンネルであるが、中に電燈が点けてあるのも、水力電気会社の仕事らしい。
相変わらず前後左右の山熔水食を眺めていると、前方に当って長い長い鉄管が見えだした。(中略)殊に同発電所は使用水量430個。しかし大きなものではないが有効落差は1392尺、従って鉄管の長さも2837フィート。随分と物々しい光景。(中略)とにかく、落差が高いのがこの第一発電所の自慢。(中略)さし当り信越電力の中津川第一発電所はわが国第一の高落差ということになる。

『電気工学大正15年6月号(通巻160号)』掲載「水力発電所めぐり」より

発電所めぐりをする記者だけに、鉄管水路が見えだしてからはそちらの描写ばかりが幅を利かせる(これでもだいぶ「中略」している)が、トンネルが2本あったことがしっかり出ていて、その内部には電灯が点いていたという。これ新情報!

そして、軌道の進路上に第一発電所の鉄管路が見え始めるのは、今回の探索で撤退した場所(チェンジ後の画像)辺りからである。
私が進めなかった領域(約600m)へ、彼らを乗せた電車は進入し、そのまま労せず通り過ぎて……

電車があやうげな木橋を渡ったかと思ったら、しばらく絶えていた人家が二つ三つ、ここは即ち第一発電所の所在地、穴藤というところ。(中略)今ではここで起した電気、転瞬百何十哩を走り、都に入りて扇風機の風となり、軽便なる電熱器となり、工場の機械を動かし、燦爛たる不夜城を現出せしめる。

『電気工学大正15年6月号(通巻160号)』掲載「水力発電所めぐり」より

ふぉおおお!!

中津川橋梁(仮称)が、「木橋」であったことが確定した。

現地の遺構から、おそらく上路トラス橋だろうとは思っていたが、素材が鉄なのか木材なのかは全く謎だった。木橋だとすると、私が【推測】したような上路木造ハウトラスの可能性は極めて高い。
この短い記述、値千金だ!! 助かる!

穴藤で一同は電車を降りた。発電所は帰りがけにみることとし、まず水槽の方に行く。水槽上りも、猪苗代発電所などと違い、細道やら石階で汗がポタリポタリ足フラフラというようなことはなく、一種のインクライン――捲上線による車台に乗って上るのであるが、何しろ直高1377尺、丸ビルの高さ100尺の約14倍。捲上線は迂回しているから、延長3300尺、30度ばかりの勾配をぎりぎり捲き揚げられていく。頗る壮快である。

『電気工学大正15年6月号(通巻160号)』掲載「水力発電所めぐり」より

おっとっと、次の区間(穴藤捲揚線)の内容にはみ出してしまった。丸ビルの14倍の高さを私も上るが、残念ながら、「汗がポタリポタリ足フラフラ」を余儀なくされる。下手したら、流血ブッシャーの畏れも……。
記者のレポートはこのあと捲揚線の上にある水槽へ移るが、その紹介はまた今度のレポートで。今回はここまでとする。
大変貴重な記録をありがとう、記者!!

追記、終わり。



『津南町史編集資料』の第19集は、「津南郷と電源開発」をテーマにしており、そこに収録されている伊藤武夫氏の「津南郷の電源開発と信越電力株式会社」の章にも工事用軌道に関する重要な記述が散見されるので、あわせて紹介したい。

ここで今さらだが、工事用軌道の着工はいつなのかという未解決の問題がある。
竣工については、いくつかの区間については明瞭に判明しているのだが(後述)、着工時期を明言した文献は、おそらく未発見なのである。
そのため、関連が深いとみられる出来事から時系列的に推測する手段で検討を試みたい。

大正8年、つまり信越電力(株)の発起人に対する信濃川水利使用許可という結末をみた翌年のことであるが、中津川水系の水利権のみを持つ中津川水電(株)が、やおら発電工事の実施に踏み切る。大正8年6月18日、中津川水電(株)は、中津川第二・第一(上流側が第一)工事のための電動力供給を主眼とした補助発電所の工事着手届を提出した。この発電所はのちに中津川第三発電所と呼称されたが、この発電所の水利使用権ならびに電気供給区域などの認可は、魚沼水力電気(株)から買収した権利にもとづくものである。

『津南町史編集資料第19集』所収「津南郷の電源開発と信越電力株式会社」より

中津川水系での発電事業は、明治末に設立された地元資本による魚沼水電が最も古かったが、同社が大正2年に獲得した中津川の水利権は、神戸の資本を中心に設立された中津川水電によって大正5年に買収され、この会社が中津川水系での発電計画を大幅に拡大し、第一・第二発電所からなる後の計画の骨子を作った。だがそれから間もない大正8年7月28日に、東京電燈の子会社である信越電力が、中津川水電を吸収合併するのである。

このように大小様々な電力企業が勃興、割拠する複雑な状況の中で、前例のない巨大な発電工事は実行に移されるのであるが、吸収合併直前の大正8年6月に中津川水電が第一・第二発電所の工事に使用する電動力供給を目的とした補助発電所(第三発電所)の建設に着手したことは、同社が工事用電気軌道の開設も計画していたことを想像させる。が、実際に工事用軌道に着手した、あるいはその計画を持っていたという証拠は得られていない。

工事用軌道工事の実施者として明確なのは、やはり信越電力である。
同社は、中津川水電が途中まで進めていた補助発電所工事を引き継いで大正10年5月18日にこれを完成させ、同社としては最初の電力供給事業を地元に対して小規模に開始している。
だが同発電所の目的は第一・第二発電所の工事用電力の獲得にあったから、次にこれらの工事が行われるのは必然だった。

(中津川水電を買収した信越電力によって)補助発電所工事と併行して進められた今一つの注目すべき工事は、中津川第二・第一発電所工事の為の資材運搬用電気軌道敷設工事である。この工事は大正11年1月30日にまず釜落し〜反里口間の落成届が、また同年3月30日には芦ヶ崎荷揚場〜第二発電所間の落成届が提出され、それぞれ許可を受けた。その後、反里口〜穴藤間、結東原〜前倉間、さらに前倉以南の切明方面へと延長され、延べ29マイルに及んだ。また大正11年には、工事現場の間を結ぶ私設電話線の敷設も進められた。

『津南町史編集資料第19集』所収「津南郷の電源開発と信越電力株式会社」より

工事用軌道の着工時期は明確にされていないが、補助発電所工事と併行して進められたとあるから、大正10年5月以前なのかもしれない。
恐らく着工の順序もそうであったのだろうが、竣工は概ね下流側から行われ、大正11年1月に最初の区間(釜落し〜反里口)が出来た。それに続くのが、今回探索区間である反里口〜穴藤間であるが、この区間の竣工年は、次に紹介する資料で始めて竣工年が判明した。

反里口〜穴藤間の電車工事落成届は、大正12年3月23日に逓信大臣へ提出し、同年同月28日に許可された(「第9回報告書」2ページ)

『津南町史編集資料第19集』所収「津南郷の電源開発と信越電力株式会社」より

「第9回報告書」というのは信越電力が株主に対して公表した定例報告書で、私はこの文献を確認できていないが、この引用により従来不明であった今回探索区間の落成日が大正12年3月23日と判明した。

なお、この軌道の落成届が逓信大臣に提出・許可された事情はよく分からない。一般交通の用に供する軌道は軌道法(大正10年制定)に規定されて大臣が特許者であったが、それ以外の専用軌道は専用軌道規則(大正12年制定)に規定され、都道府県知事が特許者であったはず。したがって、逓信大臣に落成届を提出するのは軌道法による軌道の手続きのように思われるが謎だ。実は軌道法の特許を得ていたとかなら面白いんだが…。

(追記)読者さま指摘により、軌道法と専用軌道規則はともに大正13年の施行であるから本軌道の申請時点では旧法に当る軌道条例が適用されるとのこと。軌道条例の条文を確認したが、適用の対象はやはり「一般運輸交通の便に供する馬車鉄道及其他之に準ずべき軌道」とのことで、純然たる専用軌道は対象外の模様。謎は残ったままだ。

(さらに追記)これは軌道の検査というよりは、逓信省がかつて行っていた電気検査を意味するものと判断を改めた。



『津南町史編集資料第19集』より

最後に、信越電力が一連の事業に投下した建設費と、工事が地域にもたらした影響についても触れておこう。

中津川水系の発電工事に一応のピリオドが打たれた大正13年11月末現在における信越電力(株)の建設費は4511万6618円であり、その内訳は表7に示すごとくである。当時の同社の資本金と法定準備金は合計3203万5000円であるから、この自己資金を上回る建設費は1000万円の社債と980万円に及ぶ借入金によって調達された。
同社は東京電燈(株)への電気の卸し売りを最大の収入源とし、他方、発電施設に関係する地元周辺地域への電気の小売も併せおこなう形で営業を続けた。(中略)なお、発電工事が完了したあとは、地元への配電はもっぱら中津川第三発電所が分担し、中津川第一、第二発電所は東京送電用に操業している。

『津南町史編集資料第19集』所収「津南郷の電源開発と信越電力株式会社」より

右の建設費内訳を見ると、最大の項目は「中津川第一水路費」で1326万円余りとなっている。これは険しい山間に延べ数十kmにも及ぶ水圧隧道と鉄管水路を建設するものであり、名実ともに最大規模の工事となったが、2番目に高額であるのが、1194万円余りを費やした「仮設備費」となっているのは注目に値する。工事用軌道を含む工事用施設全般の工費である。

既に見た通り、反里口〜穴藤間(約5km)の建設費だけでも22万円を費やした記録があり、さらにこの区間の除雪に1シーズンで6万円を費やしたともあった。こんな感じで各区間を積算していった合計が、実に総工費の4分の1を占めるほどの「仮設備費」となったのであろう。
ちなみに1194万円を現在の貨幣価値に換算すると……477億6千万円!!! 

富が集積した首都圏の資本力があればこそだろうが、なんとも剛毅な工事であった。
そして、そんな札束の舞い散る工事に翻弄されたのが、地域の人々だ。本編中でも工事によって穴藤集落が受けた影響を紹介したが、昭和48(1973)年に刊行された『平家の谷 秘境秋山郷』は、秋山郷全体への影響を次のように書いている。


信州秋山には大正11年から13年まで工事が行われ、この間異常な好景気に見舞われた。生産力の低い農業を捨てて、工事の労働に参加する者が多く、焼畑は半分以下に減少し、養蚕は全くなくなってしまった。大割野銀行に2万円にのぼる預金を持つ成金があらわれた。
この工事により、資本主義経済の波が完全に秋山郷をおし包み、また社会的意識にも大きな変化を与えた。現金収入が豊かになったので、自給自足を建前とした経済が崩れ、米食が普及した。工事後も一度経験した米の味が忘れられず、蓄積した資金で、盛んに開田を行う者がでてきた。

『平家の谷 秘境秋山郷』より

工事期間中に吹き荒れた現金の嵐は、素朴で伝統的だった秋山郷の暮らしを徹底的に変化させたが、引き換えに電灯と現代的な価値観を与え、近代化を牽引するような貢献はした。

ただ、惜しむらくは――

工事終了後、軽便鉄道が撤去されたので、折角この谷に入った経済の動脈は断ち切られ、ここに入る物資は再び駄馬にたよるほか仕方がなくなった。また、切明で水が導水管内にとられるために、中津川の流水量は減り、素流しや筏流しは難しくなったので、勢い森林資源の開発は大きく制約を受けることになった。
秋山郷が発電所工事によって変革の洗礼をうけながら、最近に至るまで古い遺制を保っているのは、このような交通事情にもとづいている。

『平家の谷 秘境秋山郷』より

――工事用軌道は工事完了と同時に撤去され(←これについても会社側の資料は未発見であるが)、秋山郷の交通事情は、再び大正以前のものへと逆戻りしてしまった。

地元資本でもない電力会社に交通面のアフターフォローを求めるのは難しかったのだろうが、もし上手い具合に仲介する鉄道事業者が現れて、例えば大井川鐵道であるとか黒部峡谷鉄道のように存続し得たのであればどうなっていただろうか。中津川峡谷鉄道、いかがでしょうね? 途中にケーブルカー区間が何度もある奇抜な鉄道! 地方ローカル線の例に漏れず、敢えなく……となったかも知れないが…、こういう if を考えるのはとても楽しい。


以上で、長かった第1章を終える。
次の章では、現地で特に印象に残った、正面ヶ原用水と工事用軌道のコラボレーションについての文献的な調査を行う。
巨大な電力資本と、地元農民の集合体である水利組合は、どんな関係を模索したのか。





 第2章 〜用水と発電計画のアンハッピーな関係〜 


この章の主役は正面ヶ原用水だ。

探索中、本編第4回後半のシーンで、この用水路の取水口である牛首頭首工(正面ヶ原頭首工)と遭遇し、そこに設置されていた「事業の沿革」碑(【再掲碑文】本水路は、大正8年 正面ヶ原開田事業の水源として穴藤地内より中津川に幹線水路を開鑿し(中略)取水してきたが、昭和24年、25年のアイオン・キテイと相次ぐ台風と豪雨の災禍により、細越、宮の前地点に於いて水路が地山もろとも大崩壊を起こし通水不能となった時、たまたま出穂期のため関係農家は、ただ茫然とし、一日も早き復旧を渇望し数度の協議を重ねたるも(中略)国・県をはじめ関係機関に切々たる陳情を続けるに及び、特例として緊急災害復旧事業として採択され、綿密周到なる設計と技術に加えて日本発送電株式会社及び東京電力株式会社の絶大なる援助を得て、ようやくにして揚水施設が完工し、下流石坂地点より取水し今日に至った。しかしながら(以下略))によって、その名前や経歴に始めて触れた。

内容が本編と重複するが、碑文によると、正面ヶ原用水は大正8年の開鑿当初は右図の@の位置に取水口があったが、その位置は後に→A→Bと変遷した。昭和24〜25年に@〜Aの区間が災害で利用できなくなったため、取水口をAに移し揚水によって取水を継続したが、昭和43年に至って取水口をBへ移す工事を起し、同時に水色の破線で描いた水路トンネルを開鑿して、現在に至るという。

で、これも散々くり返しに述べていることだが、@〜Aの区間に存在した水路隧道のうちの2本については、工事用軌道トンネルの洞床に埋設される形で敷設されていた【模式図】

このような特殊な構造はなぜ生じたのか。灌漑用水路と発電所工事用軌道の間に、どのような関係があったのか。
その解明が、本章のテーマである。



正面ヶ原用水と中津川電源開発の関係。ずばりこれをテーマにした文献が存在する。
第1章でも取り上げた『津南町誌編纂資料第19集』に収録されている今井健氏の論考『中津川の水力発電と正面ヶ原開田事業』がそれだ。

中津川発電所建設が大正期における日本経済の発展にとって時代を画する一大事業であったとすれば、正面ヶ原開田事業は対象面積200町歩(約200ha)というその規模と、河岸段丘を大河川灌漑によって開発したという点において、津南郷農業の新時代を画するものであった。正面ヶ原開田事業の歴史的な意義は、第一に明治期に発展してきた稲作技術と、稲作を主体とした農民経営の展開過程においてとらえられねばならないだろう。稗・粟・大豆の畑作地帯を水田に変え稲作主体の安定した農業の実現は、明治期以降、中山間零細農民の悲願であった。
(中略)
本稿では、中津川水利権と用水路建設及びその維持管理をめぐる正面ヶ原耕地整理組合と発電会社との関係を中心に、今日残された限られた資料をもとに分析をするものである。

『津南町史編集資料第19集』所収「中津川の水力発電と正面ヶ原開田事業」より

論考はこのような書き出しで、日本経済の発展と、津南郷農業経営の近代化という、規模もベクトルも異なる中津川発電所建設と正面ヶ原開田事業それぞれの意義を述べている。

正面ヶ原開田事業は、計画されて終了するまで実に四半世紀に及び、前後に例をみない異例の事業であった。大正2年に新潟県の事前調査、同3年に県の公式測量調査がなされて以来、正面ヶ原耕地整理組合として認可設立された同8年まですでに5年余を費やしている。さらに用水路工事が完了するのが同13年、それからやっと開田事業が始まり、途中様々な社会経済変化の影響をうけ、その終了が昭和13年である、基幹用水路完成まで10年余も費やした主たる原因は、中津川河川水利用をめぐる発電資本との水利権調整問題及び、発電所建設の数次にわたる一方的な計画変更によるものである。

『津南町史編集資料第19集』所収「中津川の水力発電と正面ヶ原開田事業」より

正面ヶ原開田事業は、中津川の河川水を利用する事業であるために、同じく河川水を利用する発電事業とは、水利権という限られたパイを奪い合うことになったのである。そのために開田事業の完成に想定よりも遙かに長い時間を費やした。

私が現地で目にしたのは、水路跡と工事用軌道跡が仲良さげに並んでいたり、同じトンネルを併用していたりする光景であったが、どうやらその背後にあったものは、幸せな協調関係ではなかったらしい。

中津川での水力発電所建設計画は、正面ヶ原開田と時を同じく大正2年の魚沼水力電気株式会社の水利使用出願から始まる。そして発電所が竣工する大正13年までの間に、簇生せる発電資本間の権利の譲渡・競願・合併を数度も繰り返している。このような発電資本間の争いはともかくとして、問題はそのたびごとに河川水使用の増加と発電所規模の拡大が意図され、正面ヶ原の新規開田分の灌漑計画用水、さらに旧来からの周辺地区の農業水利権との競合を生じてきたことである。

『津南町史編集資料第19集』所収「中津川の水力発電と正面ヶ原開田事業」より

続く文章によると、魚沼水力電気は大正5年に県の水利利用許可を受けたが、その時の許可水量は100個(「個」は流水量の単位で、毎秒1立方尺(=0.278立方メートル毎秒=278L毎秒)、発電出力2090KWであった。が、その権利を大正6年に引き継いだ中津川水電は、第一・第二の2大発電所で合計650個を使用して13000KWを発電するものと計画を大幅に増強し、これを引き継いで最終的に建設を完成させた信越電力においては、河川からの取水量は650個と変わらないが、2個の調整池を増設して水を補う計画となり、合計31000KWに増大している。しかも、上流の第一発電所のタービンを回した水を川へ戻さず、そのまま下流の第二発電所へ送るため、源流から河口まで中津川の水量の大半を一手に利用しようとする計画であった。

このような計画のもとでは、農業用水側の取水は発電資本に完全にコントロールされ、水利権を持っていてもその取水形態からして発電所の堰堤から発電の残水をわけてもらうという形態にならざるを得ない。

正面ヶ原耕地整理組合の開田に対する新規水利50個は、大正5年の魚沼水電への利水許可の際県知事から発電事業認可の条件として確保された。この水利権がその後今日に至るまで確たるベースになっているが、問題はその取水方法と取り入れ期間であった。前述のような発電利水の増大に伴い、農業用水確保は発電資本との「たたかいと妥協」の歴史となっている。

『津南町史編集資料第19集』所収「中津川の水力発電と正面ヶ原開田事業」より

私にとって勝手の分からぬ世界であるから余計なコメントは差し控えるが、難しい問題なのは分かる。取り合う両者を裁量する県にとっても難しい舵取りであったろう。

大正9年末に補助発電所が完成するとにわかに発電建設が具体化し、10年5月に第二発電所が、翌年8月第一発電所工事が着工される。この第一発電所建設直前に信越電力から前述のような調整池方式への設計変更に伴う使用水量の増加の申請がなされ、それと関連して正面ヶ原関係の灌漑用水路の施設建設がやっと具体化する。

大正11年10月28日付の県知事の命令書は、今日知りえる最も古い資料であるが、その概要は(中略)正面ヶ原耕地整理区に最大50立方尺の補給を毎年5月20日から9月10日まで行うこと。しかしこのことの書き方は、「灌漑用水不足の場合に最大50立方尺の用水を補給する」こととあり、農業側の権利としての取水という理解からは後退している。そして(中略)灌漑用水路の設計・工事を信越電力で行うこととし、その責任を明示している。

『津南町史編集資料第19集』所収「中津川の水力発電と正面ヶ原開田事業」より

大正11年10月に新潟県は信越電力に第二発電所建設の許可証とも言える命令書を下付しており、その中に条件として、正面ヶ原用水への農期中の給水(最大50個)と、用水路の設計と工事は会社側で行うことが定められたという。

これが、工事用軌道と水路が仲良く並んでいた理由である。
一緒に建設されたんだもの、そりゃそうなるよな〜という。 ……でも、なんかギスギス…。

ともかく、信越電力側の仕事でようやく水路工事が行われたのであるが、出来上がった水路がまた、くせ者だったようで……。


『津南町史編集資料第19集』より

穴藤の発電用堰からの灌漑用水路の建設工事は、第一発電所建設と時を同じくして大正11年7月17日から始められ、翌12年8月9日には大方の工事を竣工している。

この工事は信越電力が国の開墾助成をうけて全面的に請負って完成させ、3年くらい後に新たにつくられるであろう水利組合に、引き渡される手はずになっていた。ところが種々の事情により、昭和26年まで発電側管理のままになり、それが農業側とのその後のさまざまな問題を引きおこす基本的な原因の一つとなっている、発電所側からすれば取水権を農業側に渡してしまうことに対する憂慮があり、また農業側では(用水路完成後に明らかになることではあるが)あまりにも欠陥の多い同水路を引きうける訳にはいかないということであった。

同水路の欠陥はすでに工事途中で明らかとなっていた。穴藤取水口から中深見分水口まで険しい断崖上に8ヶ所もの隧道があり、しかも中津川の流路に沿って用水路がつくられていたため、洗掘される危険性と同時に、冬期間の雪崩等による崩壊の危険もあった。そのため建設途中で早くも開渠を隧道化する設計変更(大正12年6月25日)があったばかりでなく、完成直後(大正13年5月26日)にも中津川の護岸補強工事の必要が説かれている。「…(秋成字細子の中津川右岸で)…灌漑用水路線(隧道)ト護岸洗面トノ水平距離ハ僅カニ二十六尺(用水路竣工当時は六〇尺)トナリ其儘放置スルニ於いテハ灌漑用水路ヲ維持スル事能ハズ…」と信越電力の文書に記されている。隧道の多い細子周辺は地形が険しく、しかも中津川流域の変化を十分考慮しなかった設計上の甘さにあったものと思われる。

『津南町史編集資料第19集』所収「中津川の水力発電と正面ヶ原開田事業」より

掲載した図を見ると、水路には確かに8本の隧道が描かれていた。
このうち軌道と併設している2本と、穴藤対岸の1本の計3本に、今回の探索では立ち入った。

そしてこれもこの図で初めて知ったが、「第二隧道(仮称)」の南に「細越」と「細子」という地名が隣り合わせに書いてある。
この細越という地名には見覚えがある。それは現地に建つ「事業の沿革」碑文中に、次のように登場している。

「……昭和24年、25年のアイオン・キティと相次ぐ台風と豪雨の災禍により、細越、宮の前地点に於いて水路が地山もろとも大崩壊を起こし通水不能となった……」

ずばりこの大崩壊地点というのが、私が撤退を余儀なくされた現場(←)に他ならない。(私も信越電力の欠陥工事の被害者だった?!)

細越(細子)の大崩壊が取水口変更の原因となったわけだが、この地点の水路が洗掘される問題は、完成翌年の大正13年6月には既に社内で共有されていた。
それにもかかわらず抜本的な対策をせずに放置した結果、起るべくして大崩壊は行った。そう疑われても仕方がない状況だ。
会社側の当水路に対する一貫した冷ややかな態度を現わしている出来事のように見える。

さらに、水路が工事用軌道と並走や一部トンネルの共用を行っていた件についても、次のような記述を見つけた。

この用水路工事は国の開墾助成金12万円余を信越電力がうけて行われたが、実際には5万円くらいしか要しなかったという話もある。何千万円もの発電所の大工事からすればこの用水路工事はほんの附帯工事にすぎなかったであろう。しかもこの用水路は発電所建設用の電車軌道がつくられた後その脇を掘ってつくられたものらしい。「…これは会社において工事の便益により工事用電車の軌道と併行開鑿したる点もあった…」(正面ヶ原水路改修組合「自昭和二十二年 文書綴」)と戦後の資料の中にでてくる。

『津南町史編集資料第19集』所収「中津川の水力発電と正面ヶ原開田事業」より

僅か数年の工事期間中だけ保てば良い工事用軌道と、今後ずっと維持されねばならない灌漑水路を一緒の場所に整備したのは、さすがに手抜きと言われても仕方が無さそう。
そんな色々な問題を含んでいた(含みすぎ?)水路であるが、ともかく大正12(1923)年8月に信越電力の手で完成した。
その後の展開については、本稿の主題からは離れるので簡単に触れるに留めるが…。

大正13年に一応の基幹用水路完成の後、同年9月1日を期して地区内の開田事業が始まり、いよいよ灌漑用水が必要になるに及び、会社水路の欠陥と用水不足が明らかになる。雪解け後の堰堤水路の崩壊とその修理要請、6月下旬からの夏場渇水期の用水不足に対する会社との交渉が大正14年以降年中行事のように繰り返される。

『津南町史編集資料第19集』所収「中津川の水力発電と正面ヶ原開田事業」より

用水の確保は農家にとって死活問題であり、いきおい強硬策を取ることもあった(会社事務所への集団での押しかけなど)が、終始会社側は優位を保った。
当初の計画では昭和6年度の完了を予定していた開田事業も、色々な事情から繰り延べになり、昭和13年度にようやく終了している。
その後においても会社は再三にわたる農業側の水門管理要求を無視し、水路一式の管理を一方的に続けていたが……

昭和24年に用水路の整備をなし会社(当時は日本発送電)から同水路を引き継ぐ協定が行われ、四半世紀にわたる懸案に一応のメドがついた。しかし24、25年の台風禍で同水路は壊滅的な破壊をうけ、再び危機を迎えたが、異例の国の災害復旧工事指定をうけ、これを機に秋成村下林地点でのポンプアップ方式に変え、従来の取水問題の過半を一気に解決することが可能となった。そして48年には、県営かん排事業により補修され、さらにその後電気揚水を廃し、中津川牛首砂防ダムから自然取水することになり、用水路施設は完全に発電側の手から離れることとなった。

『津南町史編集資料第19集』所収「中津川の水力発電と正面ヶ原開田事業」より

戦後、国策企業である日本発送電の時代となって、ようやくまともな交渉が出来る土壌が出来たらしく、地元農業団体との関係も正常化へ向かったようだ。
その折に、たまたまの台風禍で因縁の水路が大破し、結果として農家側により望ましい水路を獲得する契機となったのは、ここまでの経過を見ればむしろ救いであったのかもしれない。

なお、「事業の沿革」碑文には、「特例として緊急災害復旧事業として採択され、綿密周到なる設計と技術に加えて日本発送電株式会社及び東京電力株式会社の絶大なる援助を得て、ようやくにして揚水施設が完工し」という一文がある。

現場で目にしたときは特になんとも思わなかったが、今改めて読むと、皮肉が込められている気がする。綿密周到なる設計と技術で作られなかった水路を与え、最後まで絶大なる援助など提供しなかった“ある会社”の名は、それが水路の建設者であり、管理者であったにも関わらず、この長大な碑文にただの一度も登場していないのである。

……まあ、農業側の言い分だけで全てを結論づけてはイケナイが……、信越電力や東京電燈の地元を軽視する態度は、ちょっと露骨すぎたかと思うな。


第2章は、これで終わりだ。
また一つ、謎が解けた。

そして次が最後の章だが、肩の力を抜いて、「付録章」とした。
その内容は――、ある協力者のお陰で、まだ世には広く公表されていない画像が登場する見込みである。お楽しみに!!





 付録章 〜初公開古写真に、未知なるものを見る〜 


本レポートの第7回を執筆中だった2024年7月25日に、読者からのタレコミによって驚くべき事態を把握した。

なんと、某オークションサイトに、中津川第一発電所建設工事の古写真帖(現物)が出品されているというのである。

出品ページに掲載されたサンプル画像を見ると、確かに中津川第一発電所の工事写真と判断できるものであり、かつ見たことがない写真も多くあった。
偶然なのかは知らないが、とにかくタイムリーなニュース!
落札して、すぐにでも中身を確認したい気持ちにはなったのだが、即決約2万円という金額は、その貴重性を考えれば良心的であるかも知れないが、残念ながらこれをポンと出せるほど私は裕福ではない。そこで苦し紛れに、「誰か資金に余裕あって、かつ山行がに貢献したくて仕方がないという殊勝過ぎる人がいたら、落札して中身を教えて下さい」という旨の(恥知らずな)メッセージを、全くダメ元でSNSに投稿したのであった。


「歩鉄の達人」トップページ画像&リンク
当サイト読者にはもれなくオススメのサイトですぞ。

それから僅か数時間後、歩鉄の達人バナーの管理人である歩鉄の達人氏X:@hotetunotatujin)より、物品を落札したのでスキャン後に画像を提供するという、実際そうなると、もはやありがたさを通り越し申し訳なくなるほど嬉しいメッセージが届いたのである。
それから少しあと、超高画質にスキャンされた30枚以上の工事写真が彼から送られてきた!!

「歩鉄の達人」は恐らく当サイトの読者なら知らない人の方が少ないと思うが、私の知る限りで、WEB上に最も多くの鉄道廃線レポートを掲載し続けている、2006年から続く大老舗の個人サイトだ。当然私も随分昔から把握していて、内容を参考にさせて貰ったことは一度や二度ではない。氏とは以前トークイベントの会場で面識があるほか、SNSやメールでもやり取りをしたことがあったが(あとポケ○ンGOの大親友仲間)、まさかこんなにコストと手間が掛かるご貢献をいただけるとは感無量。 本当に、ありがとうございます!


というわけで、歩鉄の達人氏よりご提供をいただきました彼の所有する中津川第一発電所の工事写真を紹介するのが、この章のテーマです。

挨拶代わりに、まずは1枚(↓)。



【24】穴藤全景 提供:歩鉄の達人

まずは写真の左下に注目。数字と文字が書いてある。
「24」は通し番号で全部で1〜30まである。その隣の「穴藤全景」はタイトルで、撮影の対象物を撮影者自らが記したものと思われる。

そしてこの「24 穴藤全景」の被写体は、【現在の風景】には大いに見覚えがある、第一発電所と鉄管路である。
が、見えますねぇ。いと気になるものが、落水路とは別の斜面に……。(←次回作をご期待下さい)

それはさておき、これとほぼ同じアングルで撮影された古写真は、『日本の発電所 東部日本篇』など、これまでにも見たことがあった。完成時点で日本一か二の落差を誇った鉄管路である。当時貴重なカメラを持ってここを訪れたなら、まず撮らずに帰ることはない被写体だったと思う。
それでも、この写真には「ならでは」のものがある。それは、「工事写真」ならではの未完成状態だ。例えばこの写真だと、背後の鉄管路の中間付近はまだ存在していない。
惜しむらくは撮影日がプリントされていないことだが、完成後の写真と比較できる面白さがある。

あと、単純に非常に画質がいい。
掲載したものは縮小しているので、そう見えないだろうが……(↓)



【24】穴藤全景 ★部分拡大★ 提供:歩鉄の達人

元画像はとても高画質なので、例えば中央付近をよーく拡大してみると、このように、工事用軌道の写真で見た憶えのあるL型電気機関車が見えたりする。すなわち、この位置に工事用軌道が敷設されていたことを裏付ける写真となる訳だ。
あと、敷設中の鉄管路の隣に、完成後の写真にはないレールを見つけたり。これは工事用軌道の本体とは別の“仮設軌道”とでもいうべきものだろう。

こんな具合に、たとえ見覚えがある被写体であっても、工事中の撮影であることと、非常に高精細であるという2点から、多くの発見があったし、もちろん、まるっきり初めて見る被写体も豊富にあった。
総じてこの古写真帖、中津川第一発電所の工事を知りたい人間にとって、ホンモノのお宝といって差し支えないかと思う。


次に、私の方で作成した写真番号と写真タイトルのリストを掲載する。


番号件名撮影日
1雑魚川上流
2魚の川取入口堰堤
3魚の川取入口
4魚の川取入口・ローリングダム
5雑魚川排砂トンネル入口
6雑魚川取入口
7雑魚川取入口・堰堤及蓋渠
8沈砂池全景
9沈砂池溢流堤
10屋敷砕石場全景12.9.9
1124号隧道
12前倉砕石場全景
13前倉捲揚線
14調整池全景
15ホローダム全景
16ホローダム前面
17ホローダム背面
18水槽
19鉄管路1号ベンド12.9.13
201号ベンドより発電所を望む
21鉄管路最急勾配箇所
2250.20.噸捲揚機
23穴藤捲揚線12.9.26
24穴藤全景
25発電所平面
26水車及発電機
27配電盤
28余水路鉄管置場
29コンプレッサー
30修理工場
a(穴藤取水堰堤と第一発電所)
b(穴藤停車場全景)
c前倉スキー大会

このリストについて少し説明する。
番号の1〜30は、そのまま写真上に書かれているタイトルを記述した。
ただし、リスト最後のa b cの3枚は、通し番号がない写真であり、aとbは被写体の説明もないので、私が判断した被写体を括弧書きした。cは写真上に書かれたタイトルを記述した。
10、19、23番の3枚にのみ、撮影日とみられる数字が書かれていた。

1〜30までの被写体の順番は、ほぼ上流から下流へ向かって並んでいる。
すなわち、切明上流にある第一発電所取水口から、穴藤の第一発電所までの写真がある。
ということで、穴藤より下流にある第二発電所関連の写真は含まれない。

残念だが、今回の探索区間である反里口〜穴藤間の工事用軌道や、その附帯工事となった旧正面ヶ原用水路も、この含まれない部分に入っている。

が、

皆さまは、今回探索区間内の工事用軌道に1個所だけ、“第一発電所と密接に関係する場所”があったことを覚えているだろうか。

それは本編探索中ではなく、この机上調査編に入ってから明らかになったことなので、ピンと来る人はまずいないかと思うが…。

ともかく、これらの写真からは、本編の探索内容にとっても重大な発見があった。 期待していい。 これからちゃんと紹介する。

では、始めよう。

『 歩鉄の達人提供の古写真から判明した、今回探索区間に関係する新情報集 』を!




【a】(穴藤取水堰堤と第一発電所) 提供:歩鉄の達人

穴藤に設置された第一発電所と取水堰堤を撮影したものと推測。
他の写真と同じく工事中の風景だが、通し番号がある写真と出所が異なるものなのかは分からない。
全ての写真が1冊の無題のアルバムに収められているとのことで、写真内に直接書かれた文字情報以外、アルバム側の文字情報は一切ないらしい。
出品ページにもそれらしい情報はないので、今のところこの古写真帖(アルバム)の撮影者その他、一切の背後関係は不明である。

第一発電所は【現在】も同じ建物が健在だが、正面ヶ原用水への給水用に設置されていた取水堰堤は昭和40年代の発電所増設時に撤去され、灌漑用途を持たない穴藤ダムが新たに設置されている。
写真右奥、右岸の崖にへばり付く細いラインが見えるが、おそらくあれが正面ヶ原用水の旧水路(昭和24年廃止)、あるいはその管理用の通路だろう。
その近くで中津川を渡っていた工事用軌道の橋は、残念ながら左岸の陰になっており見えない。




【b】(穴藤停車場全景) 提供:歩鉄の達人

穴藤停車場の全景を今まで見たことがないアングルで写した写真。

これはさっそくお宝度合いがトンデモ高い写真である!!
単純な直線ではなく等高線に沿って蛇行したような構内配線が印象的だが、現在の同ポジ写真を持っていない。再訪したら撮影を試みたい。

手前の線路の台車上には運搬されてきた鉄管が並んでいる。線路の下を潜っている落水路にこれから設置するのだろう。
そしてよく見ると、レール幅の広い線路と狭い線路があるのが分かると思う。
これは当駅と接続していた穴藤捲揚線が、762mmと1067mmの2種類の期間を持つ複線だったためだ。捲揚線以外の工事用軌道は原則的に762mmだった。

なお、この写真の背後の山の裏側が、工事用軌道の中津川橋梁の所在地であるが、やはり頑なに、見えない!!


なんとかなんないのかい?




【19】鉄管路1号ベンド 提供:歩鉄の達人

場面変わってこれは、「鉄管路一号ベンド」と題された写真。ベンドとは管の曲がりの部分をいう。
第一発電所の落差417mもある落水路の途中で撮影された写真で、確かに鉄管路が曲がっている。
またこの写真は、撮影日が書き込まれた3枚の写真のうちの1枚だ。大正12(1923)年9月13日の撮影であることが明確なのである。

この写真でいま注目したいのは、フレームの大部分を占める鉄管ではなく、背後に空撮の如き高度感で俯瞰されている地上の風景だ。
この地上がどの辺りなのか、私にはすぐに分かった。【この辺】が見えている。

ピンク枠内を拡大してみると……(↓)




【19】鉄管路1号ベンド ★部分拡大★ 提供:歩鉄の達人

中津川に架かる工事用軌道の橋(中津川橋梁(仮称))が僅かに見えている!!!

これが、歴史上初めて写真として確認できた本橋の姿である。

【予想】していたとおり、上路トラスだ。
細かい構造は確認できないが、木造橋であったことは別資料から判明しているので、上路木造ハウトラスとみてよいだろう。
現地にある遺構の規模からして、壮大な橋であることは知っていたつもりだが、実際写真で見ると本当にそう思う。

これほどの橋の工事完了後の処遇については記録がないが、その時点でも完成から3〜4年しか経っていなかったはずなので、朽ちる任されたわけではなく、解体して部材の再利用が企図された可能性が高いと思っている。
本橋については、今後さらに接近した位置で撮影した写真が発見される可能性を期待しつつも、現時点ではこれが唯一の写真である。

ところで、橋の周りの風景も興味深い。
右岸のかなり高い位置には、現在その存在を確認できない崖伝いの道形が、はっきりと見えている。
最初は正面ヶ原用水の旧水路かと思ったが、いかにも高すぎるし、現地で見た隧道も存在していない様子だ。
おそらく用水路はこの道形より下にほんのり見えるラインの方だろう。この道形については正体不明なので、今後の調査対象としたい。

また、工事用軌道の橋の向こう側の地面は、現地探索で最後まで辿り着けなかった“中間部”である。
そこには鉄管置場があった
という情報を得ている。


いよいよ次の写真が、今回紹介する最後の1枚だ。
そしてこれは、写真帖に掲載されている全ての写真の中で最も下流側で撮影されたものだ。
中津川第一発電所関連では最も下流側に位置した施設が写っている……。




【28】余水路鉄管置場 提供:歩鉄の達人

それがこの写真、「余水路鉄管置場」だ。

ずばり、私が辿り着けなかった中間部に存在した施設。
ここには「鉄管置場」があったという話だったが、正確には第一発電所の【余水路】用の鉄管置場だった模様。

見ての通り、大量の鉄管が飼育箱の中の蚕みたいに並んでいる。
鉄管の代わりに木材の山であったら、林鉄のヤードさながらの風景だ。鉄管ヤードである。
そしてヤード内にも線路が張り巡らされている。
奥でヤード線と本線が分岐していて、本線側は少し登りながら手前に見切れている(撮影者が立っているのも本線路盤だろう)。
随所に架線柱が設置されているのが電気鉄道を主張している。

奥の背景は壮烈なる「石落し」グランドキャニオンだが、よく見ると……(↓)




【28】余水路鉄管置場 ★部分拡大★ 提供:歩鉄の達人

奥に小さく「第二隧道(仮称)」が見えている!!!

埋没して現存しない本隧道を写した現状唯一の写真である。

隧道手前のカーブしている辺りが「細子」や「細越」と呼ばれていた場所で、昭和24〜25年の水害で水路もろとも川に削られ、今ではまるっきり【風景】が変わってしまった。
だが、この当時はそこまでヤバイ場所には見えない。
この景色の中には軌道だけでなく、それと並走する水路もあったはずだが、ちょっと判別はキツイ。地形に対して凹んでいる水路は見えづらいのだろう。



未踏破区間内の軌道の姿を、上の図のようにアップデートした。
いずれ川の流れを制して辿り着ける日を楽しみにしている。
まあ、良くて一面の草原でしかないと思うがな…。

それでもいい。





pop氏の隧道発見という衝撃の報から始まった長いレポートを、やっと完結できた。
まだ再訪して確認しなければならないことはいくつかあるが、探索を始めた時点から見れば知らないことは随分減った。
日本の電気鉄道の中でもおそらく一二を争うレベルで謎が多かった路線の輪郭が、ようやく掴めてきた。
今後さらに調べるための手掛かりも、たくさん得ることができた。
貴重な史料を残した先人たちと、私の調査に協力をして下さる方々に感謝している。

知ることこそが、私の歓び。

そんな私の軌跡を語るこのサイトが、あなたの “未知しるべ” にもなれば幸いである。





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