全長8.7kmの軌道上で行われた2日がかりの探索を、導入から延べ19回も重ねたレポートで見て頂いた。これにより2013年現在における濁河線上部軌道の現状を一通り紹介出来たと自負しているが、ご満足頂けただろうか。
個人的には、私がこれまで探索した全ての林鉄の中で最も収穫に満ちた探索であったと思う。
ここには、レール、橋、トンネル、廃車体といった、林鉄探索者が渇望するアイテムが全て含まれていたし、私が初めて目にしたティンバートレッスル橋のような遺構さえあった。
しかも全線を通じて既知ではなく未知の状態で探索出来たことは、私にとっては掛け替えのない喜びであり、逆に、このレポートを読んでしまった皆さまに対して私が同情する点である。
(もっとも、私が一通り歩いた程度では、まだまだ沢山の見落としがあるに違いないから、ほとんど問題は無いだろう。)
現地探索で十二分満足したせいか、いくらか謎を残したにも拘わらず、帰宅後も特別に机上調査はしなかったのだが、後日別件で入手した“ある本”の中に、私よりも10年以上早く上部軌道の一部を探索した方のレポートを発見した。
しかもそこには、私が現地で「惜しい!」と思ったことや「謎だ!」と思ったことの答えが幾つも含まれていたのである。
『トワイライトゾーンマニュアル13』より転載。
“ある本”とは、言わずと知れた鉄道探索の名著『トワイライトゾーンマニュアル』シリーズ(ネコ・パブリッシング刊)のうち、平成16(2004)年11月に発行された『13』である。
そこに収録された「森林鉄道の終点」という記事が、濁河線上部軌道の終点付近を詳細にレポートしていたのだ。
記事の執筆者は、林鉄探索者にはおそらく知らない人はいない、竹内昭氏である。
プロフェッショナルの手による非常に質の高いレポートであり、分量も豊富で、皆さまにも本を入手して読んでいただきたいレベルだが、いかんせんトワイライトゾーンマニュアル(TZM)シリーズのバックナンバーは入手性に難がある。『13』もヤフオクなどで時々出品されているようだが、容易に入手出来ないかもしれない(図書館にも所蔵している所があるので、最寄りの館に依頼して取り寄せられる場合がある)ので、私が特に気になる部分を引用して公開しようと思う。
この記事の中には“あの橋”の在りし日の写真もあるので、(他人様のフンドシ頼みだが)期待していてくれ!
まず始めに引用するのは、竹内氏が調査した濁河線の歴史についてである。
私のレポートでも導入回で『全国森林鉄道』を引用して歴史の概要を述べたが、TZM13の記事にはそれ以上の内容が含まれていた。(引用文中、気になる部分に下線を付けた)
濁河線の起点は椹谷線の分岐点で、1.8km程進むと索道で濁河川を渡った後、畑さこ谷出合まで達し索道上流部だけで8.68kmあります。濁河線のレールは6、8、12kg/mで、主に8kg/mレールとJIS規格外の変わったレールが多く使われていました。軌道は営林署の管轄でしたが1947(昭和22)以降、伐採運材事業は小坂官材共同組合が行ない、昭和30年代になると索道上は組合所有の加藤製作所製のディーゼル機関車2台、集材機も組合の所有で他に営林署のモーターカーが1台あったそうです。運材台車は営林署からの借りたものを使用し、勾配のきつい根尾滝付近までは5台にまとめられた運材台車をブレーキのみで下り、機関車は単行で走りました。勾配の緩くなる根尾滝付近〜岳見台(索道上)は機関車が牽引する列車運材でした。索道より下は支線用の機関車が牽引、下島から本線の機関車で小坂の貯木場に送られていました。ブレーキは当初制動手による手動ブレーキでしたが、後にエアブレーキ化されました。1959(昭和34)年には本線を含めほとんど廃止されましたが、濁河線は間に中継索道のある特殊な線型だったためかその後も長く残り、運材終了が1970(昭和45)年、廃止が1971(昭和46)年でした。廃止後、組合の機関車2輌は里に降ろされ解体されたそうです。
最終回に登場した機関車パーツ。 | 第9回に登場した木造運材台車。 | 第7回に登場した鋼製運材台車。 |
今回の探索で見つけた「廃車体」に関する物は、右の三つであった。
このうち最終回で見かけた機関車パーツ(運転台の一部か)は、ここで活躍していたという加藤製作所製の2台のディーゼル機関車に由来する可能性が高い。
また、この機関車や道中で発見した各種運材台車の運用方法についても情報があり、根尾滝付近を境に列車運材と単行乗り下げ運材を使い分けていたらしい。
おそらく運行の中継地点は、レポートの第10回に登場した中間停車場と見られる複線部分ではないだろうか。
TZM13に記載された竹内氏による濁河線上部軌道の探索レポートは、右図に示した三ケ所について触れている。それらは、倉の平側の索道盤台(私のレポの第1回)、濁河川橋梁(仮称)(同第14回)、そして林道との交差点から終点まで(同第16回〜最終回)である。
終点付近のレポートでは、基本的に私が現地で見た物は漏れなくレポートされている。また、それらについては、特に大きく異なる見解が述べられていることも無かったと思う。
だが、私が知らなかった新情報や、私が見た物とは明瞭に違っている箇所もあったので、その辺りを重点的に紹介しよう。
まずは、第17回に登場した朽ちた吊橋(←)に関する情報だ。
濁河線終点へは、下島から小黒川沿いに上り濁河温泉へ行くバス路線に沿って進みますが、大平台〜追分間にかつて「林鉄口」というバス停があったそうです。これはかって濁河線終点の事業所へ行く歩道がこのバス停付近からあったそうですが、現在ではその歩道も消滅してしまい事業所直前の濁河川を渡る吊り橋が朽ちながらも辛うじて残っていると聞きます。
「林鉄口」というバス停が県道441号に存在し、件の吊橋を経由して林鉄と県道を歩道連絡していたという情報。
当時の吊橋の状況は伝聞の形で触れられているだけだが、既に荒廃していたのだろう。現状はもう、「辛うじて残っている」とすら言えなそうだが…。
竹内氏のレポートには、この中破したティンバートレッスル(←)の平成13(2001)年11月18日当時の写真が掲載されていた。
が、意外なことに、12年前も現状と全く差異が認められない姿であった。
当時から既に今と同じくらい崩壊しており、そこで崩れ方が止まっているようだ。
対して、明確に変化している遺構もあった。
例えば、ティンバートレッスルの直後に現れた、この大破した木橋(→)である。
こいつの平成15(2003)年6月8日に撮影された写真(下の2枚)を見た私は、思わず臍(ほぞ)を噛んだ!
『トワイライトゾーンマニュアル13』より転載。 |
『トワイライトゾーンマニュアル13』より転載。 |
10年前迄は、架かってたのか〜!! ぐぞーッ!
いいもん、いいもん! 私だって架かってる橋を1本見つけたもんね…。
林鉄探索においては思い立ったが吉日で、急いては事をし損じ「ない!」と心得るべきだろう。
続いては、“左の線路”の終点にあった複線桟橋で私が見た物(→)についての、種明かしだ。
ここの左側の桟橋の一部に敷かれていたレールは、枕木に固定されていないという大変不自然な点があったのだが、そのワケは…。
『トワイライトゾーンマニュアル13』より転載。
桟橋の先を行くと再びポイントが現れ、その先は複線桟橋になっていますが軌道が残るのは山側のみで川側は撤去されています。また、この辺りの笹藪になっていますが野地になっており、現役時代の事業所などはこの辺りにあったものと思われます。
←注目は、左の写真のキャプションだ。
「奥の軌道は撤去されていたものに、その辺に転がっていたレールを持ってきて“らしく”並べてみたもの。
」
はーい、解散かいさーん!
あの謎のレールは、10年前の竹内氏が残した後進へのプレゼントでした!(汗)
続く、複線桟橋から“左の線路”の終点についての次の記述も面白い。
『トワイライトゾーンマニュアル13』より転載。
複線桟橋の右に、これまた何やら鉄板が落ちていると思ったら、それは何と加藤製機関車のキャブの扉でした。金切り鋏で無理やり切り抜かれた穴まで開いています。歩道はこの辺りで消えてしまうので、その先は籔の中を複線桟橋を追って進むと、間もなく単線桟橋になりますがポイントは撤去され普通のレールに敷き直されたようです。その際で桟橋は終わり、すぐ先の緩い右カーブで軌道は途切れ、ここが終点、軌道最奥地ということになります。現役時代には、この位置に機関庫があったということです。
私も今回の探索で、“右の線路”の途中で機関車の運転台(キャブ)の一部とみられるパーツを発見している。
竹内氏もそれを見つけており、「加藤製機関車のキャブ前部、ボンネットの凸形や窓でそれと分かる
」と記していた。
だが、彼はそれと別に、“左の線路”の複線桟橋付近でも写真(←)のパーツを発見しているのである。
残念ながら、藪が深かったせいか、私はこれを見つけていない(行方不明)。
どうやら、終点の“加藤臭”は半端ないレベルのようだ。もっと探せば、他のパーツも落ちているかも…。
また、レールはあるのに車止めが存在しない事に不自然さを感じていた終点(→)についてだが、現役当時、ここには機関庫があったという新情報。
当然、機関庫は壁に囲まれていたのであろうから、それが車止めを兼ねていた可能性が高いのだろう。腑に落ちた。
『トワイライトゾーンマニュアル13』より転載。
“右の線路”の終点直前で山手に別れていた歩道(←)の正体についても、考察した記述があった。
その先から右上に歩道が延びています。畑さこ谷の集材は木馬によって運ばれていたので、これが木馬道跡なのかもしれませんがすぐ先で崩落していました。
木馬(きんま)とは、木材を乗せた木製のソリを、それが滑りやすいように作った木造の通路に走らせる輸送手段であり、各地の林業地帯の短距離運材手段として集材機の本格導入による機械化以前は盛んに行われていた。
右の写真は昭和30(1955)年の春先に撮影されたという、畑さこ谷付近の木馬桟道であるという。
この場所が現状どうなっているのかは調べていないが、林鉄の作業線によく似たこのような桟橋が、林鉄の終点よりさらに奥の山地を縦横していたのである。考えるだけで、ぞくぞくする。
なお、竹内氏のレポートでも、終点付近の分岐した線路については左の方が後まで使われていたのではないかと考察している。
右側の上の軌道が本来の濁河線のようですが、こちらの方が廃止が早かったのか、あまり軌道は残っていません。左側の下の軌道がほぼ全線残っているところを見ると、最後まで材出しをしていたのは下の線のようです。
これは私の想像だが、“右の線路”の複線幅の終点では、畑さこ谷の木馬道で降ろされた木材を積んでいた。
だが、後に架線集材機の導入により木馬運材が中止され、新たな架線集材に適した広い土地に積み込み場を設ける必要から“左の線路”を開設し、その末端に複線桟橋や機関庫を整備したのではないだろうか。
濁河線は、昭和25年の地形図に畑さこ谷までの全線が既に描かれているにも拘わらず、『全国森林鉄道』など複数の資料が、濁河線の開設年を昭和14年から38年という幅を持たせている。
昭和38年にいかなる開設が行われたのか疑問だったのだが、それが“左の線路”だったという可能性がある。
さて、最後はお待ちかね。
上部軌道最大の橋梁遺構であった、濁河川橋梁(仮称)の“架かっていた姿”を、ご覧頂こう。
果たして、どんな姿の橋だったと思いますか?
濁河本谷橋は車道のすぐ横にあり、資料によると長さ89m、高さもかなりある見事な木造方丈橋でしたが、
残念なことに2001(平成13)年の夏頃、自然崩落してしまい私は見ることが出来ませんでした。
『トワイライトゾーンマニュアル13』より転載。 |
↑これが、平成13(2001)年4月29日に 坊主岩太郎氏 が撮影した、
“濁河本谷橋”の在りし日の姿だ!!
全長89mの木造方丈橋! もし現存していれば、定義の木橋(大倉川橋梁)に匹敵する(高さは劣るが長さは勝る)存在だったろう。
方丈橋という形式も定義と一緒だが、中央の主径間長はより大きく、そのため桁を支える斜材(方丈桁)の存在感が、一層大きなものになっている。
全体の印象としては、とにかくワイルドで大陸風の雰囲気がある。間違いな林鉄界の名橋と呼ばれるべき一本だろう。
…が、この写真が最後の勇姿になってしまった。
『トワイライトゾーンマニュアル13』より転載。 |
↑こちらは、上の写真の僅か7ヶ月後、
平成13(2001)年11月18日に竹内昭氏が撮影した写真である。
4月の写真に、崩壊の近さを感じさせる要素を特に見えないが、
7ヶ月の間に何があったものか、11月の時点では、現状と同程度まで一気に崩れ落ちてしまっていた。
この写真と現状との違いは、橋下に見える大量の残骸が流失して無くなったくらいに見える。
大きな橋であればこそ、一旦バランスが崩れると、あっという間に自らの重さで崩壊し尽くしてしまう。そんな現実を垣間見た気がする。
私が10年以上前にここを訪れる選択肢は無かったので、後悔こそあまりないが…、 残念だ!
それでも、こうして当時の貴重な写真を見ることが出来た事を喜びたい。偉大なる先人探索者諸兄に感謝。