2010/5/6 16:00 《現在地》
私は嬉しかった。
一度目の探索でこの終点を確かめなかったことは、私の中に小さくない後悔を残していた。
それが、「無想吊橋で撮影した動画を不注意で消してしまう→リベンジ」という想定外の理由ではあったが、わずか2週間後の短期間で再訪の機会を得たのも幸運であったし、何よりも、長い危険な道のりを制してこの地を極められたことが、単純に嬉しかった。
ひと目で、残念ながらこの終点には目を瞠るような成果品はないということが理解出来たが、それでも無想吊橋再訪を前に一仕事を終えたという安堵感は確かなものだった。
路盤に立ち、終点を振り返る。
そして私は確信することが出来た。
間違いなく、ここが終点である。
この先には、軌道は建設されていない。
なぜならば、この先に伸ばすならば絶対に削らなければならない岩場が、削られていない。
末端部の岩盤は、“L字”に切り取られて終わっていた。
ここから旧無想吊橋へアプローチする道は確かにあっただろうが、それは橋自体そうであるように、人道に過ぎなかったのだろう。
終点には、レール、枕木、転轍機、犬釘など、軌道跡を示す物的証拠は何も残っていなかった。
ただ、複線のレールを敷くに足りる程度の幅を持った帯状の平場が、長さ20m程度にわたって存在するのみである。
冷静に考えれば、終点の風景としては物足りないのだが、ここに辿り着く苦労を想うと落胆などしてテンションを下げるのも癪に障る。
なお、この地が終点として機能していたのは、昭和37年の開通から43年の森林鉄道廃止までであり、最長でも7年に過ぎない。
そのことも、あまり遺構を残さなかった原因だろう。
だが、稼動していた数年の間については、この絶壁の中腹に用意された猫額の終点に、ガソリンカーが牽引するトロッコが一日1〜2度入線し、対岸から索道(ここに来る途中に見たワイヤーがその残骸だろう)で運ばれてきた木材を積込んで出発していったのである。
(地形的に考えれば、架空された索道から地上で荷受けを行う「盤台」という構造物が、路肩から谷の上に張り出す形で設置されていたと思うが、その痕跡は見あたらない)
この先、歩ける区間はそう長くないと予想されるが、実地で確かめるチャンスである。
そう思い、終点から起点方向へ軌道後を歩き始めてすぐ、予想外の出来事があった。
それは、2頭の成獣のシカとの遭遇である。
彼らははじめ路盤の上でこちらに尻を向けて枯れ草を食んでいたが、私の気配を感じたのか、こちらを振り返りもせず、奥の方へと駆けだした。
私は咄嗟に彼らの行く手となる路盤を見たが、そこには谷があり、路盤は明瞭に途切れていた。
そして私は彼らの前途を危惧した。
私の不用意な接近が、子ジカの命を奪ってしまった、2週間前の不幸な事故を思い出したのである。
だが、彼らはその途切れた路盤を前にすると、逡巡することなく180度向きを変え、今度は私をめがけて駆けだしたのである。
私は彼らの賢明さに安堵したが、次の瞬間には身の危険を感じることになった。
2頭は成獣であり、その体格はポニーくらいもある。
蹄があるのか分らないが、とにかく捨て身の体当たりでも食らったら、怪我をする羽目になるかも。
次は私が焦る番だったが、彼らは呆然と立ち尽くした私のわずか1m脇を颯爽と駆け抜けると、私がここへ来るのに歩いてきたガレ場斜面へ、跳ねるように消えていったのである。
…び、 びっくりしたなぁ…もぅ。
16:01
直前にシカが引き返した地点には、やはり険しい枝谷が横たわっていた。
橋が架かっていたらしく、コンクリート製の橋台が、両岸に残っていた。
橋台の形状を見る限り、長さ10mほどのプレートガーダーだったようだ。
だがその姿は残骸を含め、周囲に見あたらなかった。
何らかの災害で谷底まで転げて行ってしまったのか、或いは解体のうえ回収されたのだろうか。
そして、呆気なくて申し訳ないが…
これ以上は進めない。
正直に告白すれば、無理をすれば谷を横断し、対岸の橋台までは辿り着ける可能性があったようにも思う。
だが、獣さえも避けた崖がこの先にはあるのだ。
それを知っている私は、無理をする気になれなかった。
(あと、この日は体力的にも限界が近かった。)
先ほどシカとすれ違った辺りまで後退し、失われた橋の先の路盤を遠望する。
芽吹きはじめた木々にだいぶ隠されてしまっているが、岩場を削り取った平場が続いている様子が見て取れた。
だが、この次の小さな尾根の裏側には、踏破不能が濃厚な領域が広がっている。
再び無想吊橋上からの眺めに戻るが、今回私が辿り着いた橋台の対岸は、少しの間木々の生えた斜面になっているが、その先は“死亡遊戯”を思わせる崖が数十メートルにわたって続いている。
もちろん、まったくチャレンジしなかったわけではない。
この絶壁およびその先(起点側)にある軌道跡については、1度目の探索の復路にチャレンジを行っている。
その成果は、次回(第8回)紹介しよう。
この日(2度目の探索)の私は、とりあえず軌道の終点を確認出来た成果に納得し、続いて旧無想吊橋の袂へ行くことにした。
結局、この日に終点から歩き出して実踏出来た距離は、
この写真に写っている分でほぼ全てであり、わずか50mほどだった。
そして先ほども通った小尾根の上の【分岐地点】から、尾根の先端方向へ進路を取った。
小尾根は痩せた尾根ではあったが、その稜線上には障害物が無く、歩きやすかった。
というか、旧無想吊橋への通路として日常的に歩かれていた気配が濃厚だった。
上空から見れば、この小さな尾根など、
逆河内という絶望的に巨大な谷の縁へ僅かに突き出た、
いわば風前の灯火でしかないわけだが、
それでも上を歩く私には、十分に頼りがいのある存在であり、
このまま、ずっとなだらかな尾根が続いていきそうな錯覚さえ覚えた。
尾根のうえから左側の山腹を見ると、そこには盤台の土台と思しき石積み擁壁の一部や、ワイヤーの残骸が点在していた。
だが、そこはもう立ち入ることの出来ない崩壊斜面だった。
ほぼ平坦な尾根道を30mほど進むと、前方にコンクリートの舞台のようなものが見えてきた。
その正体は、なんだ?
旧無想吊橋が、この尾根の先に存在することは把握していたが、その袂まで踏み入れるのは初めてであり、そのような報告を聞いたこともない。
渡れぬ橋とは分っていても、とても興奮した。
コンクリートは上辺1.5m四方、地上高約50cmほどの大きさで、置かれていると言うよりは、地面に埋め込まれているように見えた。
そしてその肝心な正体だが、これは案の定、旧無想吊橋のアンカーだった。
コンクリートの根本付近から、尾根の突端方向へと二束のワイヤーが延びている。
現在の無想吊橋には一切コンクリートが用いられておらず、主索のアンカーも立ち木をもって代用していたが、旧橋はコンクリートでアンカーを建造していたのである。
こうした資材の運搬にも、軌道が利用されたのだろう。
そしてこのアンカーの上に立つと、旧無想橋はもう目の前だった。
16:12 《現在地》
既に吊橋の心臓である主塔は、崩れ去っていた。
写真中央右に立っている途中で折れた木柱が、その主塔の残骸である。
この旧無想橋がいつ建設されたのか、明確な資料はない。
しかし、極めて交通条件の悪い逆河内の本格的開発は、森林鉄道の敷設によって初めて可能となったのであり、
そこから考えれば、昭和37年の前後に、はじめて架設された可能性が高い。
そして現在の無想吊橋は、昭和51年頃の日向林道の開通にあわせて架設された可能性が高い。
よって、この旧橋が活躍した期間はあまり長く無かったと思われるが、
木造吊橋の寿命はそもそも十年程度なので、異常なことではない。
橋頭から枝葉の向こうの対岸を眺めると、無数のワイヤーが美しいカテナリーを描いている姿が見えた。
それは、切断せずに耐えている2本の主索と、敷鉄線(番線)だった。
橋の機能と形は完全に失われても、パーツに刻まれた渡谷への執念は、まだ残っていた。
橋頭部は比較的良く原型を留めており、やせ細って紙のようになった踏板がまだ数枚、番線の上に引っ掛かって揺れている状態だった。
廃止の際には特に人為的な破壊が行われず、放置されたことが伺える。
そして橋の構造自体は、現在の無想吊橋と極めて酷似していた。
このことは、現在の無想吊橋が、木材と鉄線で長大な吊橋を架設するという、この地域に伝わる技術の産物であることを支持している。
無想吊橋こそは、我が国が失うべきでない、優れた“伝統土木技術”の風景だと思う。
橋頭部からは、現在の無想吊橋の一部を見る事が出来た。
あまり望遠の利かないカメラでも、ここからならば無想吊橋の美しい側景を眺めることが出来る。
また、渡橋している人物をドキュメントするならば、ここは特等席かもしれない。
…もっとも、この探索後に橋が封鎖されたので、その実現はより難しくなってしまった。
自分が渡っている姿をここから眺めたいが、それはどうしても無理な相談だ(笑)。
以上で、逆河内支線の終点及び、旧無想橋の探索は終了した。
この後私は下ってきたガレ場を慎重に登り返し、林道へと復帰。
そのまま無想吊橋へ、渡橋動画を撮りに向かった。