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道路レポート 道道610号占冠穂別線 富内〜福山 机上調査編

所在地 北海道むかわ町
探索日 2022.10.08
公開日 2026.08.26


人口稀薄な山間部や農村部にはしばしば、地域を維持するためのライフラインという大義を以て、極めて少ない需要を念頭にしつつも、財政的に脆弱な市町村の手には負えない生活道路が、都道府県道として認定されているものがある。

もちろん、今述べたような“後ろ向きな認定理由”が公言されることはなく、資源開発のためとか、観光開発のためとか、正直実現性の疑わしい壮大な広域ネットワークの一翼を担うとか、表向きにはもっと前向きな認定理由が用意されるわけだが、そういうそもそもの需要が稀薄な道路は、必要以上に整備されることは普通ないし、災害をきっかけに荒廃し、万年閉鎖の事実上廃止状態となるようなこともある。

全長約40kmの道道占冠穂別線も、一見すると、そんな行政のお情けで認定された路線のような感じがする。
沿線の人口は、長大さに比して驚異的に稀薄だし、整備状態も決して上等とは言えない。
近年は災害をきっかけに万年閉鎖状態になっているようでもある。

しかし、本当にただそれだけの道ではないと感じる要素が、あった。
それは、要所要所に設置されている大型の電光式道路情報板や八幡覆道という大きな構造物の存在だ。
こうしたものの存在は、この道道がただの閑散路線としてのみ見過ごされてきたわけではないことを物語っていたように思う。
お金の掛かっているところと、そうではないところが混在する、ちぐはぐな整備状態だったが、これはつまり、改良の途中で放棄されてしまったのだとも解釈できる。

この道路については、Wikipediaに個別ページがあり、道路現状については不足なく述べられているが、その歴史については「1969年(昭和44年)6月18日 路線認定」とあるのみだ。


この机上調査編では、道道610号の歴史、あるいはその先代となって穂別と占冠を鵡川沿いに結んだ道の歴史について、文献を元に解説を試みたい。



 第一章 道道占冠穂別線の前史



上図は、和人の手による開発や入植が本格的に行われるようになる以前(明治24年)の鵡川中流域(穂別〜占冠)を描いた20万分1地勢図だ。
チェンジ後の画像は、比較用の平成7(1995)年版で、赤線で塗った位置に道道610号が描かれている(今回探索したのは富内〜福山)。

明治24年版は、そもそも本格的な三角測量が行われる以前の図であるから、地形表現自体が相当に大雑把で不正確なのだが、この図の範囲内にある「道」の記号は、左下の「穂別」や「辺富内」(=富内)の下流にしかなく、それより上は「道」がない。カタカナの地名は沢山あるが(これらがアイヌのコタンであったのかもしれない)、カタカナではない地名は「辺富内」より上流に一つもない。現在は小都会を形成している占冠すら地名がない。
内地では既に町村制が敷かれていた時期であるが、北海道は対象外で、自治体としての町村がまだなかった。もちろん地図でもそうなっている。(明治32年に北海道一級・二級町村制を施行)

こうした状況から開発は始まったのであるが。、これは北海道の多くの地域に共通した開発前史である。
しかし明治末頃になると開発は少しずつ進展し、拠点と拠点を結ぶ道も整備されていく。

明治44(1911)年に地質調査所が発行した『鉱物調査報告 第五號』所収の「胆振国勇払郡鵡川流域調査報告」に次の記述がある。
鵡川流域、富内上流部の交通事情が分かる内容である。

似湾村より鵡川本流に沿いて遡れば累標(ルイシベ)、カイクマ、辺富内(ヘトナイ)等の諸村落アリ何れも鵡川西岸に位す、辺富内村字上辺富内より下流は通路概ね平坦にして交通便利なりと雖も上辺富内より鵜川上流に横たわるニニュー村に至る間は経路険峻にして交通殆んど杜絶せり、然れども是より尚上流に遡りて占冠村近傍に至れば地形緩にして運輸の便少なからず

『鉱物調査報告 第五號』所収「胆振国勇払郡鵡川流域調査報告」(明治44年)より

上辺富内(今の富内の北部)からニニウまでは「経路険峻にして交通殆んど杜絶せり」とあり、川沿いの道路がまだなかったことが分かる。
さらに詳しい記述が続いているので、抜粋して引用する。

累標村、カイクマ村、辺富内村は皆一寒村にして人煙稀薄処々にアイヌ部落を交ゆ、然れども占冠村は鵡川上流地方の最大村落として地勢広闊道路平坦にして地味豊穣なり、石狩国金山停車場を去ること僅に五里、貨物の運輸常に絶えず、又一方日高国に通ずるを以て近傍交通の中心たり

上辺富内及ニニュー村間の険悪なる地形は鵡川流域を二分して南北に分ち、上流地方と下流地方との連絡を絶ち反て夕張山脈の支脈を越て石狩国金山地方にその交通を開くに至れり

『鉱物調査報告 第五號』所収「胆振国勇払郡鵡川流域調査報告」(明治44年)より

このように、鵡川上流の占冠が、石狩と日高を結ぶ交通の要衝として栄えていることが出ている。これは現在の国道237号の経路(富良野〜金山〜占冠〜日高)が既に通じていたことを述べている。金山から占冠への交通が早くから通じたことは、以前のこちらのレポートでも調べていたことである。

地図を見ればわかるが、占冠は鵡川の上流にあり、今でも占冠村は下流のむかわ町と同じ勇払郡に属している。そもそも、占冠という地名はアイヌ語の「シ・ムカプ(鵡川の本流)」という言葉から来ているとの説もあるし、明治38年に分村するまで占冠は辺富内村に属していた。
しかし、上述の通り鵡川沿いの交通路が整備されていなかったことから、占冠と下流諸村の人文的繋がりは薄く、それゆえ明治39年に占冠村は室蘭支庁(支庁は北海道において複数の群を束ねるものとして明治30年から設置されていた、これが現在の各総合振興局のもとになっている)から上川支庁(支庁所在地は旭川)へ移管され、現在も上川総合振興局の管内となっているのだ(むかわ町は胆振総合振興局管内)。


しかし、伝説的な要素にまで目を向ければ、決して鵡川沿いに古い交通路がなかったとはいえない。
たとえば、『新穂別町史』に、アイヌに伝わるこんな伝説が採録されていた。

大崩の蝮(まむし)
鵡川の上流の大崩には最近まで蝮が多く、行器(シントコ)のように積み重なっていることがあり、気味悪いほど蝮の臭いがあたりにただよっているので、魔物がいるところと呼ばれていた。
この蝮は、北見の湧別から山越えをして来て、穂別に夜襲をかけるつもりで来た人々がここまで来ると、岩の上に子供を背負った一人の女神が、赤い布で鉢巻をして踊っているので、自分たちの夜襲を応援鼓舞してくれると思い、その夜はここに夜営したところ、急に両側の崖が崩れおちて来て、夜盗どもはひとたまりもなくその下敷になって死んでしまい、その魂が蝮になってしまったのであるという。そのとき子守について来た女の子が一人助かって逃げ帰り、今後穂別に夜討ちなどするものではないと知らせた。

『新穂別町史』より

大崩とは言うまでもなく、八幡覆道がある、あの大崩壊地である。
通らなければ見ることのない景色を見たから、伝説が生まれたのだと思う。


明治末までの状況が分かったが、実は鵡川沿いの道が整備されるよりも前に、今回のスタート&ゴール地点となった福山の開発が始まっている。
次は『穂別町史』(昭和43(1968)年発行)からの引用である。

明治41年室蘭営林区署が、当時長和の高橋市郎右ェ門を先導に、福山・長和の分水嶺火防線刈払いをしたのを造林のはじめとして、翌42年には王子製紙会社苫小牧工場が、原料材として国有林を払い下げられ、オロロップ(福山)奥穂別(長和)中穂別(稲里)の3地区において、一斉に造材を開始した。この伐採及び運材は(中略)当初760余人の労務者を入れ、事務所はオロロップ橋の河原におき、飯場を今の市街地に設けて造材にあたったが、常時でも100人くらいの人夫がいて、9月に小屋掛けをして10月末に杣夫を入れて伐木するという方法で年間約4万石の原木をここから出材、オロロップ川の上流6kmの地点からテッポーで出したという。

『穂別町史』(昭和43年)より

このように、明治42年から現在の国道274号稲里トンネルがある山を越えて、オロロップと呼ばれた福山の地に杣夫が入り、伐採が行われた。出材は鵡川に鉄砲堰を作って流送したとあり、ここからも川沿いの道がなかったことが分かる。
福山の開拓は、この王子製紙による伐採から始まったのである。

そして次に、この切り開かれたオロロップ原野へ国策として全国より募集された入植者の団体が入った。
福山集落の黎明であるが、これがいかに苦難の始まりであったかが次のように述べられている。少し長いが引用する。

王子製紙会社の原料木造材で賑わった福山地区も、ようやく殖民地として解放されるに至り、東金蔵を団体長とする和歌山団体及び岡田清蔵を団体長とする山形団体の移住を見たのも、この大正7年のことであった。さらに同10年には大阪の博愛社孤児院団体・岩手団体・滋賀団体等相次いで来住開墾を見ているが、しかし移住者の苦労にもかかわらず、その成績は必ずしも良好とは言えなかった。由来この地境は平坦なる地形といえども、標高実に300米の高原に位いし、殊に明治44年には一円山火に見まわれて焦土が含み、加えて交通不便は営農上きわめて困難に陥入れた。

すなわち、和歌山団体のごときは、当初26戸をもって団体を組織したが、実際に渡道したのは内25戸である。一行はまず家族を夕張線の楓市街の旅館に残し、移住民世話所の指示によって、登川から長和に越え道もない荊棘をかき分けて、当時オロロップ原野といった入植地をさがして到着したのは4月10日のことであった。ところが故郷ではすでに百花繚乱の季節であるのに、オロロップの山々はいまだ白雪におおわれ、満目荒涼たる姿に絶望を感じたばかりか、おりから解氷期の鵡川は激流濤々として物凄く、それにもかかわらず一つの橋一つの舟筏さえない状況に、一行はただ茫然として天を仰ぐばかりだったという。
(中略)
辛うじてこの地に踏み止まったものは、当初団体長東金蔵・大野要太郎・大野寅吉外2人の5戸であったが、大野寅吉も同年10月兵役検査で帰郷したまま帰らず、ほかの2戸も程なく郷里に引揚げ、最後まで定着したのは東金蔵・大野要太郎の2戸に過ぎなかった。
(中略)
山形団体・岩手団体・滋賀団体等、いずれも人一倍の苦労をしながら、営農計画がなりたたず、全員または若干を残して転住の止むなきに至り、福山地区の開拓は昭和の初期まで失敗の歴史を繰返している。

『穂別町史』(昭和43年)より

右図は、大正9(1920)年版地形図に描かれたオロロップ(福山)の状況だ。
山と川に挟まれた山間の小平地に、一戸の人家も描かれていない。地図上では入植前夜の状況なのか、それとも既に退転した後なのか。
辛うじて小径はあり、一つは長和・夕張方面へ通じる山道、あとは川に沿う道が一応ある。この小径が道道の原形となったものである。

次に、いよいよ本題というべき、鵡川沿いの道路整備について述べる。
『新穂別町史』(平成3(1991)年発行)からの引用だ。

 辺富内・オロロップ・奥穂別間道路

明治45年に至って奥穂別(長和)地区の官林が解除され、いよいよ穂別の奥地にも入植者が増し農産物の増加にともなって、車馬道を開設してほしいとの請願が行われるようになった。だが、奥地での道路整備は諸般の事情からそう簡単に行われるものではなく、相当の歳月を要した。
当地においてこれがようやく具現を見たのはオロロップ(福山)では団体入植を見た後のことで、大正9年10月にはじめて夕張郡登川駅から奥穂別を経てオロロップに至る馬車道が完成した。
一方、穂別―辺富内間の道路は大正8年9月に出来ていたが、シマロップ(字富内)からイワナイ(字福山八幡)間は道がなく、川沿いを通るか、けもの道しかなかった。止むなく住民の自家労力によって駄馬道を開いて、辺富内との交通を図っていた。この辺富内―オロロップの殖民地道路の開さくが施行されたのは同15年で、同年辺富内―大曲間の第一工区を竣工、翌昭和2年12月には大曲からオロロップまでの第二工区が完成して全通をみた。

『新穂別町史』(平成3年)より

富内と福山を結ぶ道路は、昭和2(1927)年に殖民地道路として開通していた。
殖民地道路とは、北海道庁の拓殖計画に従って整備された道をいう。
この時点では占冠までは通じていなかったが、今回探索した区間の原形が、この時点で整備されたのである。

そしてこの整備の前段階、ほんの一行にも満たない記述だが、「止むなく住民の自家労力によって駄馬道を開いて」いたことも見逃したくない。
ともかく、昭和2年に最初の車道が富内から福山まで開通した。
個人的な印象だが、北海道の人口稀薄な山中の道路としては、思いのほか早く整備されたと感じた。皆さまはどう思われただろう。

また、北海道独自の旅行者向け官設休泊所である駅逓所が、大正8年の富内駅逓所に続き、翌9年に居路所(オロロップ)駅逓所が開設されている。
この時点のオロロップ(福山)は外部の旅行者が訪れる場所ではなかったと思われるが、後の道路整備を見越していたのであろう。(昭和18年廃止)

富内福山間の殖民地道路が開通した昭和2年は既に旧道路法の時代である。
同法によって道路整備の優先順位を決める大きな根拠である国道を頂点とするヒエラルキーが明確化したことで、沿線の人々は、この生まれたばかりの殖民地道路が、より上位の地方費道や準地方費道(現在の道道にあたる)へ昇格されることを目指しはじめる。
当然、より良い道となることを求めてのことである。

当時の穂別においては国道、地方費道はなく、鵡川村境界―【穂別市街】間だけがわずかに準地方費道であったため、地方費道として改修工事や、奥地へ通ずる道路や連絡道についての準地方費道昇格運動が行われた。昭和6年には準地方費道を地方費道として改修し、同時に【穂別橋】を架設する運動が、同7年には穂別市街から中穂別、上穂別を経て夕張町登川に至る路線を準地方費道に編入する運動が、同8年には似湾―知決辺間の道路を準地方費道に編入する運動が北海道庁長官に対して行われた。このうち穂別市街―登川間が同12年に準地方費道に昇格した。

昭和14年になると、穂別市街から辺富内(富内)を経てオロロップ(福山)に至る36kmと、辺富内から日高国平取村幌去に至る5kmを準地方費道に編入して改修する運動や殖民地道路開さく運動が行われたが、時は戦時下体制を迎え他に緊急を要することが多く、一部を除いてほとんど実現しなかった。

文・図ともに『新穂別町史』(平成3年)より

このように、昭和14年に富内〜福山間の道路を準地方費道へ昇格のうえ改修する請願運動が行われたが、戦時下のため実を結ばなかったという。

しかし、ここまで得られた情報だけでは、富内と福山を鵡川沿いに結ぶ道路の重要性は十分に見えてこない。
というのも、終点の福山は前述した通り、入植者たちが死ぬほど苦労した寒村であり、出入りする交通量などたかが知れている。
そんな道が、今日の道道に相当する準地方費道への昇格を目指されるほど重要視された理由が分からないのである。

実は、福山一帯の鵡川沿川には、ここで述べた特殊な地質構造に基因する、ある重要な“地球からの贈り物”があったのだ。
クロム鉱石である。

クロム鉱石は、地球のマントル物質に由来するカンラン岩の中に限定して産出する。
その用途は様々あるが、鉄にクロムを添加することで耐食性のあるステンレス鋼を作ることができる。これが最大の用途になっている。
旧穂別町の三大鉱産物が、石油、石炭、そしてこのクロム鉱石であった。



『北海道地下資源調査資料 (11)』(昭和28年)より

右図は戦後間もない昭和28(1953)年に北海道開発庁が発行した『北海道地下資源調査資料 (11)』に掲載された「沙流川・鵡川流域のクローム鉱山位置図」である。

左下の「穂別」から「富内」を経て中央上部の(占冠)「中央」まで、概ね鵡川に沿う道が描かれており、沿線の各所鉱山が示されている。沢山あるが、中でも「八幡鉱山」は主要鉱山として表記されている。その位置は、本編で通過した八幡地区の西の山中だ。

そしてこの資料には、鵡川沿いの道路の整備状態が次のように述べられていた。

穂別村富内市街は、国鉄富内線の終点で、ここから占冠村との村境に近い岩美鉱山まではトラック道路が通じている、さらに新入(ニニウ)部落を経て中央市街まで駄馬道あるいは馬車道がある。

『北海道地下資源調査資料 (11)』(昭和28年)より

ここに、現在の道道610号の全区間である富内〜占冠間の全線について、道路状況が明らかになった。
富内から福山を経て岩美鉱山まではトラック道路があり、そこからニニウを経て占冠中央までは駄馬道や馬車道であったという。
また、先ほどの地図をよく見ると、ニニウから占冠までは現在の道道のように川沿いを通っておらず、山越えをしている。

前掲の『穂別町史』は、町内クロム鉱山の盛衰について述べている。
それによると、明治27(1894)年に現在の福山発電所跡の近くでクロム鉱石が発見され、その後、明治、大正期に複数人の手を渡りながら小規模な採掘が行われた。
昭和8年に福山で日の出鉱山が発見され、馬車で辺富内駅へ出した。
そして次いで主力となる八幡(やはた)、岩美(がんび)両鉱山が発見、盛況を迎える。

しかるに支那事変勃発のころから、軽金属原料としてのクローム鉱石の需要は、事変の進展とともにいよいよ強調され、おりから昭和12年八田鉱業所は、本町福山地区モトツに鉱区を得、岩美・八幡の両鉱を開き積極的な採鉱事業が行われた。(中略)最盛期と伝えられた昭和17年頃の出鉱量は、岩美鉱山・八幡鉱山ともに1日各々1000俵を数えるに至り……

重要資源として、強力な開発を要求されたクローム鉱搬出のために、昭和18年福山―雁皮原(がんびわら)間のトラック道の開さくがあり、また福山―富内間の全域にわたって改修が加えられて完全道となして、活発な輸送が行われ、地方物資もこのトラックの便に託するようになった。

『穂別町史』(昭和43年)より

このように、昭和18年に富内〜福山〜岩美鉱山の間に、鉱石運搬のためのトラック道路が整備され、昭和2年以来の殖民地道路は、占冠村境に近い位置まで延伸されたのである。

戦後も両鉱山の盛況は続き、昭和25年の朝鮮動乱期に最高潮を迎えた。当地方全体で、国内クロム鉱石80%を産するほどであったが、その後はフィリピン輸入鉱石の進出で不況となり、町内のクロム鉱山は全て昭和30年代までに閉山したそうである。

右図は、昭和33(1958)年版地形図の福山一帯である。
鵡川に沿って車道である道路が描かれており、福山には市街地が形成されている。学校もある。
また、八幡にも僅かに人家があり、その西側に「くろーむ」と注記された鉱山記号がある。これが八幡鉱山である。
本編で通過した【八幡橋】の袂がその入口で、鉱山跡へ通じる道路は現在パンケオロロップ林道と呼ばれている。

昭和17(1942)年に発行された鉱山業界誌『鉱業之日本 13(11)』の記事「本邦クローム本山の全貌 八田鉱山視察記」に、岩美鉱山へ向けて建設が進められていたトラック道路の完成と鉱山の稼行を熱狂的に歓迎する、福山住民の姿が次のように描かれていた。

地元福山の部落は(中略)与えられた厖大な土地も痩地のためか耕すに耕せども家族の口を塞ぐに足らず働き疲れた移住民は、田畑を荒れるがままにまかせてどこともなく姿を消して行くのであった。今では残された三十幾戸の人々も、食わんがための土地を求めて移住の準備にかかっていた時、突然二十年振りで自動車の警笛を耳にしたのである。この時部落民は自動車が来たというので、トラックに駆けより、雀躍りして喜ぶやら感激の余りなき叫ぶものもあったということであった。このトラックこそは、岩美鉱山の開発車であり、地元民への福音を齎した第一便でもあったのである。爾来部落民は鉱山の開発に全力を注ぐことに一決、岩美鉱山が本年頭初より本格的稼行に入るに及んで、坑夫となり、選鉱婦となり、牛馬は荷車を引く等、ここにこの三十余戸は既墜に挽回されて、駅逓所には七千円の貯金を産するに至ったという向上振りを示している。

『鉱業之日本 13(11)』所収「本邦クローム本山の全貌 八田鉱山視察記」(昭和17年)より

このように、鵡川一帯のマントルに由来する特殊な地質は、軟弱地盤や崩壊地というネガティブな要素だけでなく、鉱石の恵みというポジティブも同時に与え、道路整備を推進する力となった。
昭和10年代に準地方費道への昇格運動があったことも、当時のクロム鉱山の盛況を見れば決して違和感はない。

『官報 1951年10月25日』に、北海道道路令の規定により公共事業費より支弁する市道及び町村道の費用の支弁期間を定める告示があり、物凄い数の市道や町村道の路線名が掲載されている。その中に、穂別占冠線という路線名が紛れていた。
昭和25年当時、穂別村道や占冠村道として、穂別占冠線という道路が認定されていて、それが公共費から費用を捻出できる、実質的な地方費道のように扱われていたことが分かる。

着実に改良への歩みを進めているように思われたが、しかしこの道路を支えていたクロム鉱山の賑わいは、昭和30年代に終焉を迎える。
行き交うクルマも大幅に減少したであろう。

昭和27(1952)年に道路法が全面改正され、地方費道や準地方費道の根拠であった北海道道路令は廃止となる。そして、従来の府県道が拡張され都道府県道となった。
それから17年後の昭和44(1969)年6月18日、ようやく道道占冠穂別線が認定されている。
かなり時間が空いているが、この期間にどのような整備や、あるいは陳情活動が行われていたかは、記録が見当たらない。
クロム鉱山の衰退によって、路線全体の重要度が下がっていたことは理由として考えられるところである。


しかしともかく、ようやく道道が認定された。
それでどうなっていったのか、次の章で見ていこう。


本稿は鵡川沿いの道路を主題としているが、ここに鉄道が整備される可能性もあった。

北海道庁が明治23年から順次発行した北海道実測切図という20万分の1縮尺の地図があり、その最終盤である大正9(1920)年に印刷されたものはGithubで公開されており見ることが出来る。

そこには勇払の海岸線から鵡川を遡り、穂別、富内を経て、福山、占冠と鵡川沿いをひたすら遡って金山峠を越え根室本線の金山駅へ至る鉄道予定線が描かれている。
大正12(1923)年には実際にこの予定線に沿って北海道鉱業鉄道金山線が富内まで開業し、戦時中にこれが国鉄富内線となる。

大正11(1922)年に公布された、国が建設すべき鉄道予定線のリストである鉄道敷設法の別表には、「膽振國鵡川ヨリ石狩國金山ニ至ル鐵道及ペンケオロロツプナイ附近ヨリ分岐シテ石狩國登川ニ至ル鐵道」が記載されており、この前段部分が鵡川沿いの鉄道を規定していた。なお、後段部分のペンケオロロツプナイは現在の福山周辺を指しているとされ、このことからも福山が鉄道予定地であったことが分かる。

別表は後に追加が行われ、昭和28年の改正で追加された「十勝國御影付近ヨリ日高國右左府ヲ經テ膽振國邊富内ニ至ル鐵道」を元に、昭和33年から39年にかけて富内線は日高町まで延伸された。
いずれの経路を採っても、最終的に富内線は占冠を経て金山へ達するはずであったが、以降の延伸は実現しなかった。

ただし、これらの予定線は、後に国鉄石勝線を建設する根拠として活かされている。
別表が「ペンケオロロップナイ」ではなく、「ペンケオロロップナイ附近」としていた柔軟性のためか、石勝線は福山を通らず、そもそもむかわ町内に駅を置かなかったが…。

鉄道敷設法は、各地に悲喜こもごもの鉄道誘致合戦を生んだ別表と共に、昭和62(1987)年に国鉄民営化に合わせて廃止された。
富内線の全線廃止は、その前年であった。










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