道路レポート 塩那道路工事用道路 第9回

公開日 2015.10.19
探索日 2011.09.28
所在地 栃木県日光市〜那須塩原市

塩那最高地点への“天空街道”を遊歩する楽しみ


2011/9/28 13:55 (下山開始リミットまで…残り12時間以上!) 《現在地》

もういい年なのに、未だに中二病の気質を大切にしている私である。
自ら下した「今夜は塩那道路泊りとする」という決断に対して、「行動時間のリミットを解除!!」などと、聞かれたら恥ずかしい独り言を得意げに放った憶えがある。
だが、想定外の山中泊への不安や恐怖心は、この時点でもほとんど感じておらず、限りなく開放的で快活な気分に満ちていた。

そうなる理由も明らかで、既に泊まるべき場所を確保していることや、天与の好天からくる朗らかな陽気の存在、そしてなにより、この塩那道路を既に一度は征服をした、私の支配地域のように感じられた事による。(それは奢りだとしても、私の気分は私だけが決めるもの)

そんな幸せの中、まさしく満を持して体感したのが、本日初、いや、
生涯初となる、塩那道路“天空街道”より見る西側の大展望であったのだから、そのテンションの高まりようは想像が出来ると思う。



それでは、眺めましょう!
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………………ふぅ。


私は、この景色の何事かを、文字で表現する必要があるだろうか。
身の丈に合わないような難しい讃美の表現を辞書に頼って持ち出すのでなければ、「綺麗だ」という極めて平凡な表現に頼るよりない。
そして、このとき現実の私の心を支配していたのも、小難しい表現ではあり得なかった。
ただただ、純粋に綺麗としか思われなかった。
だから、文章を練る努力を多分に欠いているとは思うけれど、ここではそれで良しとしたい。

また、この広大な風景には、この山域に詳しい人の目を喜ばせ、また語りたくなるような内容が数多く含まれていよう。
近い眼下に広がる樹木のあれこれや、中ほどから遠くに海波のごとく広がる山並みの頂点それぞれに名前を示す、山座同定の楽しみ。
いろいろあろうとは思うが、残念ながら私が今それをやろうとすると、その大半が後付けの内容になってしまう。
だから、それもやらない。

ここでは、私が現地で手元の地図と風景とを交互に眺めているなかで分かったことを中心に書こうと思う。


私が半日あまりを費やしてよじ登ってきた男鹿川の谷は、眼下に広がる緩斜面と、その向こうを横切る稜線の間に広がっている。
この密林の緩斜面の右端辺りを工事用道路が掠めていて、2時間くらい前に通っているのだが、もちろん道形が見えるはずもない。
男鹿川の向こうにある稜線は、栃木県と福島県の県境であって、太平洋側と日本海側を境する中央分水嶺という、我が国の国土を最も大きなブロックで分かつ、巨大な山脈の一部である。この一角は帝釈山脈と呼ばれる。
だが、見ての通りそれはさほど高いものでは無い(海抜1000m前後)ので、帝釈山脈の支脈である男鹿山塊の稜線(海抜1730m付近)にいる私からは、その頭上を越して容易く福島県側の山塊を覗き込むことが出来る。

この方角(北西)に遠望される以下のような代表的な山は、全て福島県会津地方(南会津町)にある。
中央の目立つ三角形は家老岳(1414m)。
西側を限っている顕著な連峰は七ツ岳(1636m)。
北側には高い山があまりなく、相当遠くまで視線が届いているように見えるが、霞む山像はおそらく岩鼻山(1226m)だ。そこまでの直線距離は、おおよそ25kmである。

このときは午後の時間で、逆光気味でもあったことから、天候は申し分ないものの、視線の到達距離はやや限定されていたようだ。
任意の地点からの眺望をシミュレート出来る「カシミール3D」を使って調べてみると、この地点から同方角に見通せる最も遠い山は、越後山脈(福島県と新潟県の境)の御神楽岳(1266m)辺りで、約60km離れている(画像)。気象の条件によっては、十分に実見可能性のある距離だろう。


右図は、実見した風景の範囲を地図上に示したもので、そのおおよそをピンク色の扇形で示している。
ひとことで言えば、阿賀川流域と只見川流域を隔てる駒止高原山地が視界の限界になっていたのである。

ところで、さきほどの遠望写真は、単にそれだけを見ていても、どこまでも山々が広がる山岳景色という実感しか湧かないかもしれないが、こうして地図と照らし合わせることで、我々が普段活動している生活圏、さらにはそれが積み重なった文化圏というべきものと地形の関わりを推察するうえで、役に立つ気がする。

もちろん、本稿はそのような高みを目指すものではないので、あくまでも「可能性」を言及するまでであるが、たとえばこの辺りの帝釈山脈(中央分水嶺)が案外に低いことは、関東地方の北端と東北地方の南端の間の自然な交流が、男鹿山塊を挟むものよりも遙かに多彩であっただろう事を、容易く推察させるのである。
また、帝釈山脈中の希有な低地である(中央分水嶺の中央日本における最低地でもあるかと思う)山王峠が、どれほど重要な交通路であったかも了解されることと思う。(会津西街道、会津三方道路、国道121号の系譜である)

なお、私は山に登って手近の動植物を見たとしても、それを語る知識がまるでない。また、見晴らす山座を特定する知識も皆無に等しい。さらには、風光の素晴らしさを表現する語彙にも乏しい。
唯一、山河の合間を縫って広がる交通網に対してのみ、やや少しの知識を持つばかりだ。
そのため、私による「風景の解説」は、大半がこの方面に偏ることを了解していただきたい。




続いては、同一地点から眺めた北方の風景だ。
この方角を支配するのは、塩那道路が縦走する男鹿山塊の主稜線である。
立ち枯れの白い木立が点在する高原的稜線の一番奥に見えるのは、男鹿山塊と帝釈山脈の合点をなす男鹿岳(1777m)であり、その先の帝釈山脈は右へ折れ曲がりながら那須連峰へと続く(が、その方面は次の写真)。

また、近い眼下に広がる広大な緩斜面は、私の苦痛に満ちた闘いの終盤の舞台であった。
決して険しい山ではないのだけれども、それでも人には荷の勝る天然の障害をなし、塩那道路の核心部を決定的に人目から遠ざける“厚み”を持っている。



最後は、同一地点から眺めた北東方向の風景。
この周辺の山域では際立っている男鹿山塊の高さは、男鹿岳で帝釈山脈に呑み込まれた後も、それを多分に維持しながら北東へ走り、遂には奥羽山脈の南端である那須連峰に至る。
右奥に見える火山らしい白禿の山並みがそれである。

この方面の山並みは一様に高く、視線もまるで地平には届かない。
しかし、この高い山脈の途中にもいくつかの峠はあって、男鹿岳の裏側を通る万年不通の“廃”県道黒磯田島線や、近世に大々的な開削が企てられるも、さほど長持ちしなかった那須大峠など、いずれも私に強い印象を残す“難所”ばかりである。
塩那道路こそは、この地区に散在する気狂いじみた大廃道たちを眼下に指呼する盟主なのだ。





しばらく景色に目を躍らせていたが、まだ最終の目的地には着いていないことを思いだし、再び前進を再開する。

そこに現れたのは、強烈な登り坂だった。
踏みしめる一歩一歩が、過剰に重く苦しい。
浮き石の多さも、まるで登山道のようだ。
自然に歩幅は小さくなり、地面を擦るように歩いていた。

精神的には解放されたが、肉体の疲労まで癒やされたわけではなかった。
したがって、私の記憶から消えていた急な登り坂の出現は、普段の探索時とは比べものにならないほど辛く感じられた。

だが、幾ら苦しい急坂も、それほど長いものではありえない。そういう場所に私はいる。
だから私は、激しい夕立を小屋に隠れてやり過ごす心境をもって、ただ黙々と足を進めることで、急坂がじきに過ぎ去るのを待った。



まだ登りは続いているが、幾らか緩やかになった。
そして、いま少し見通しが開けた。

目指す塩那道路の最高所は、鹿又岳の山頂の一角にある。
だが、今居る場所も既に鹿又岳の山頂の一角には違いなく、この山は標高1790mを越えるピークが、約1kmの南北稜線上に四つ並んでいる。
そしてこのうち北側から数えて二つめのピークに三角点があり、地形図にも「鹿又岳1817m」の注記がなされているのであるが、実は最も高いのは三つめのピークであって、そこには海抜1846mの独立標高点が記されている。また、塩那道路の最高所も、このピークからが最も近い。

いま目の前にある風景に立ち返ってみると、正面に見えるピークは鹿又岳の一つめのピークで、標高1790mである。
道はなおも緩く登りながら、その肩を回り込んで、第二、第三のピークへ迫っていく。
この行程の全てが、“天空街道”と呼ぶに相応しい高所にある。




14:36 《現在地》

それからまた数分を要して、前述した“第一ピーク”にほど近いカーブに到達。

路盤の標高もさらに高まり、約5kmの“天空街道”の中でも1.7kmを占めるに過ぎない、標高1750mより上の世界に入った。
見上げれば蒼穹に丸みを憶えるような絶天の世界で、心なしか空気に鋭さを感じるような気さえする。

なお、この時点で時刻は午後2時半をまわり、本来計画していた下山開始時刻(14:15)を過ぎている。
この山で一夜を明かす決断をした後は、疲労と風景の楽しさを言い訳に、本当にダラダラと休憩を挟みながら歩いたからこうなったのだが、ともかくこれで名実共に山中泊を避けがたい領域へ突入したことになる。
これ以降の方針転換は不可能というわけで、少しばかり口の奥が乾くような焦燥を覚えたが、しかしすぐにそれは冒険の楽しさに覆い隠された。




この“第一ピーク”から振り返って眺める風景は、その際立つ高度感の凄まじさにおいて、塩那道路中随一といってもよいかもしれない。

道が地上に対してどれほど高いところを通っているかも大切だが、なによりもこの景色が目を惹くのは、見渡せる全ての山々よりも圧倒的に高い所を道が通っているという実感だ。
日本広しと言えど、マイカーの“車窓”から、これほど圧倒的な卓越感を味わえるスカイライン(道路)は、他にあるだろうか。
これは平野や丘陵地に聳える独立峰的な高山からの見る眺めとは、また違うものだ。
周辺に多数の山々がひしめきながら、その全てが眼下にひれ伏し、ドングリの背比べを演じているというような、独特の優越である。

強いて言えば、富士山の5合目に至る富士スバルラインは当てはまりそうだが、あそこの遠景には、どうしても道路よりも遙かに高いアルプスの高峰が見えてしまい、いずく果てるとも知れぬ山々に視界が尽きるわけではない。
あるいは乗鞍スカイラインなども該当はしそうだが、残念ながら今ではマイカーが完全に排除されてしまっている。
やはり塩那道路の風景は、際立って特別のものであったと思う。

もっとも、塩那スカイラインが仮に完成していても、現代では真っ先にマイカー規制の対象となっていたような気もするが。



第一のピークから第二のピーク、すなわち、地形図上の鹿又岳山頂へ近付いていく道。
この辺りは、塩那道路固有の地名看板によると、「鹿の又坂」という地名が付けられているのだが、肝心の看板は(6年前も今回も)見あたらない。
道そのものは、どこにでもありそうな1車線の砂利道なのに、そのシチュエーションは超越している。

この辺りを歩いていると、不思議とくすぐったくなってきて、何度も笑い声を上げてしまった。
端から見れば、気でも狂ったように見えたかもしれないが、一応は理由がある。
だから、あなたが私と似た状況でここに立ったとしても、やはり笑うと私は思う。

この笑いの正体は、自分が圧倒的な強者になったという実感に対する、くすぐったさである。
もうとっくに抜きんでた高みにいるのに、まだこの道は登ろうとしている。
上には空しかないのに、尚も、尚も、空にかぎ爪を掛けようとする。
対戦相手とは既に大差がついているのに、まだ貪欲に点差を広げようとする、暴力的なまでの力。
この状況では、もう笑うしかないだろう。




右側の路肩はほぼ常にオープンで、気の向くまま、欲しいまま、こうした景色を見晴らせる。
もちろん、見える対象物は徐々に移ろっていて、私の今日これまでの全ての行程が一望の風景に収まりつつあった。

スタート地点の横川集落は、ささやかながらも平地であることを主張していたし、そこから男鹿川の谷を遡って見れば、途中には横川放牧場の牧草が、ひときわ明るく光を反射していた。
それより上流は、私が今いる足元から落ちていく男鹿川源流の山域であり、あらゆる山ひだを隙間無く、樹海の濃緑色が覆っていた。
さすがにこの濃さでは、そこを攀じる廃道の苦しかったことにも合点がいったが、明日にはまたあの緑に溺れねばならないという現実からは、少しだけ目を背けていたかった。



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14:42 《現在地》

第2のピーク、すなわち鹿又岳の三角点があるピークの肩を過ぎると、久々に道は主稜線のど真ん中に入る。
この地点は海抜1790mの等高線を踏んでいる。
いよいよ、1800mの最高所に大手をかけた!

なお、ここから振り返り気味に尾根を伝って鹿又岳三角点へは、約150mの距離と、わずか30mの比高があるばかりだ。
その気になれば“踏める”と思ったが、不思議とこの寄り道には食指が動かなかった。

そして、次に聳えているのは、前述ししたとおり三角点よりも高い、第3のピークである。
実は平成17(2005)年の探索では、最も高いあのピークこそ鹿又岳の山頂と疑わなかった。
事実、肉眼でもそこは明らかに第2のピークよりも高く“山頂らしく”見えるし、道もこの鞍部を足休めとして、ここから“最後の登り”にかかるのである。




ところで、この鞍部の路盤は水捌けが悪いようで、雨の度に水が溜まるようだ。
6年前の霧深い探索でも、ここには大きな水溜まりがあった。
今回は水は溜まっていなかったが、その形跡があった。

注目したいのは、この水溜まりの周囲にある轍である。
6年前には、水溜まりの外だけでなく、中にも鮮明な車の轍が見えたのだが、今回は、中はもちろん、外にもはっきりとした轍は残っていなかった。ちなみに踏み跡も見あたらない。
6年前に較べて、間違いなく交通量は激減している。

なお、6年前にはここにあった野生動物撮影用の無人カメラは、どこかへ消えていた。



“最後の登り”は、距離も高低差も小さい。
かなり短い時間で登り終える事が出来る。

私は、明け方の歩き始めから、ここまで、実直に1メートル1メートル刻んできた架空の高度計が、遂に頂点を極める瞬間を目前に迎えて、何か進む事が勿体ないような気分になった。
極めてしまえば、後は下るより道が無いというのが、残念なことのように思われた。

それでも足を止める選択肢は存在せず、ただ心の中での戯れをしただけで、歩みを進めた。
やがて、見覚えのあるようなカーブが、見えてきた。

だが、そこにはなぜか、見覚えのないものがあった。




14:46 《現在地》

塩那道路の最高所の手前30mほどの地点にあったのは、真新しいプレハブ小屋であった。
これが建っている位置は明らかに6年前は路上であった一角で、おそらくは現時点でも県道に認定されている塩那道路(県道266号中塩原板室那須線)の特例的な路上建築物かと思われる。

立地的に見れば、登山者を迎え入れるための避難小屋のようでもあるが、果たしてこいつの正体は…



植生回復経過観察小屋
平成22年9月 大田原土木事務所

建物に書かれていたこの文字が、建物の正体である。
前回の探索時に見あたらなかったのは当然で、その翌年から始められた塩那道路の「廃道化事業」の重要な要素である植生回復の具合を見るべく、県の係員が待機したり、場合によっては寝泊まりするための施設のようである。「大田原土木事務所」が管理者になっているのも、これが県の真っ当な道路事業の一環として行われていることを物語っている。
塩那道路の全長50kmのうち、実に37kmを悠久の昔の状況へ復元(すなわち「消滅」)させるという、賽の川原の石積みも真っ青になるような大事業は、その開始から4年めにして、この小屋を誕生させており、探索時点で築1年が経過していた。

率直に言って、この小屋で何が出来るのかという感想が湧く。
文字通り、ただ自然の流れに身を任せ、植生回復の経過を観察するのであろうか。私にはもはや批判も賛成もないが、単純に思う。作った道の大きさに較べ、それを消すために建てた小屋は、あまりに矮小だと。




そして、プレハブ小屋を過ぎれば、遂に夢にも見た、

頂上である。


海抜1800m、最高地点。

しかもこの位置は、だいたい塩那道路全体の中間地点でもある。
先へ進めば塩原温泉への26kmくらいの下りがあり、戻れば板室温泉への24kmほどの下りがある。

だが、この象徴的な立地条件にも増して、6年前の探索でここを印象的に感じ、
そしてまたそれゆえに、今回再びの目的地と定めたことには“別の理由”があった。

それはズバリ、この場所の道路風景にある!
↓↓↓



これを見なくてはならぬ。

これを見なくては、塩那道路に来た意味は半減する。

ここにはパイロット道路としてではなく、「塩那スカイライン」という、塩那道路が目的とした完成形(に極めて近い)姿がある。

これこそが、塩那“展望台”ではなく、塩那“道路”としての、“道路風景”の極め付けだ。

塩那道路は、この風景に最も凝縮していると、そう私は信じている!




5年と11ヶ月と19日ぶりに私はここへと戻ってきた!

あの日、見られなかった眺めを、取り戻すために。

そして、まだ知らない“夜の塩那”へと、私はもう引き返せない道を、歩むのだった。