道路レポート 塩那道路工事用道路 第10回

公開日 2016.01.01
探索日 2011.09.28
所在地 栃木県日光市〜那須塩原市

ここより「東」と「北」の国内に、これよりも高い車道は存在しない。


↑この表題は、どうやら事実らしいと思う。

すなわち、塩那道路の最高地点である標高1800mの地点の座標は、おおよそ北緯37度03分08秒、東経139度48分10秒付近にあるのだが、この座標よりも東と北の国内には標高1800mに届く道路が1本も存在しないであろうという“予想”である。

このことに私が思い当たったのは、実は結構最近で、2015年5月25日に自身のツイッターへこのツイートをしたのが最初である。
そして私のこの予想を検証して下さった方が数人いて、全員が「そのようだ」と判断された。

右図は、「カシミール3D」の機能を使って標高1800m以上の地点を白く着色した日本地図である。
ご存知の通り、わが国の高山は中部地方に集中しており、それ以外の地方では相当に限られる。(ある匿名読者さまの調査によると、東北の山は標高の高い順に、1位の燧ケ岳2356mから、12位の磐梯山1819mまでが1800mを超えているそうである。また、北海道については、1位の大雪山2291mから28位の1839峰1842mまでが1800mを超えているという。)

そして、これらの高所を逐一現在の地理院地図で確かめた限り、車道を示す実線の地図記号は、一切発見出来なかった。
もちろん、登山道は縦横に存在しているし、山小屋の物資運搬用のブル道のような特殊な車道は存在するかもしれないが、塩那道路のように普通自動車が通行できる(た)道路は未確認である。
塩那道路の北や東の地域に存在する車道で現状、最も標高が高いのは、宮城県の蔵王ハイライン(1750m)ではないかと思われる(北海道については道道1162号(1500m)か?)。

このことは、塩那道路がもし「塩那スカイライン」として華々しいデビューを迎えられていたとしたら、明瞭なアピールポイントになっていた事だろう。

これからご覧頂くのは、そんな誇らしい土木技術と山岳開発の記念地となるはずだった場所の、実際の風景である。






2011/9/28 14:48 《現在地》

この場所は、塩那道路の最高所(海抜1800m)であるだけでなく、全線(約50km)の中間地点に近い。
具体的には、塩原起点から26km、板室終点から24km前後の地点である。
この距離と高さの調和は偶然であるかも知れないが、もし遊覧道路としての理想を追い求めた結果なのだとしたら、あらゆるものを支配しようとした野望の大きさに、狂気さえ見る思いがする。

とはいえ、この程度の符合は、やはり偶然だった可能性が高い。
というのも、塩那道路の全線に数多く設置されていた例の地名看板(こういうの)が、ここには設置されていない。
現在地は、「大蛇尾展望台」と「鹿の又坂」という看板地点の間にあり、ここに固有の地名というのはないようだ。そんなに重要な地点とは見做されなかったのか。
だから私も単に「最高所」と呼ぶ事にしよう。

もっとも、ここに地名看板は無いけれど、6年前にはなかった1枚の看板が増えていた。
そこに書かれていたのは、「Y−6 25.20km〜25.90km」という、明らかに一般向けではないと思われる内容である。
6年前に無かったこととあわせて考えれば、恐らく例の廃道化工事、もっと言えば植生回復工事のために設置された見出し標のようなものなのだろうと思った。
書かれた距離も終点(ないし起点)からの距離と一致していると思う。



最高所から見る、進行方向(塩原側)の眺め。
6年前に来た時には、霧か雲にたゆたう尾根伝いの道路風景を「万里の長城」などと形容した気がするが、青天の下に眺めるそれは印象を改めて、確かに現代の我々にこそ根ざした「道路」だということが実感された。
道路、道路なのである。

さらに6年前の記憶をなぞれば、あのとき自転車に跨がって“最後の上り”を格闘した各地点が、大まかに認められた。
すなわち、地名看板を目撃した「鹿の又坂」に「つらら岩」と称されたそれぞれ地点と、我々が便宜のために名付けた「日留賀(ひるが)峠」地点までの道路である。
約5kmに及ぶ塩那道路中の白眉である“天空街道”の南端が、あの日留賀峠である。
あそこで道は稜線の向こう側(東側)に入り、後は稜線を離れてひたすらに下って行く。

さて、今夜の“宿”はこの山上に確保済み。
日没までは、おおよそ残り2時間半。
“宿”からここまでは約2.5kmである。
今から引き返せば、のんびり歩いても十分間に合うわけだが…。



プラス片道1km程度だし、せっかくだ、

「日留賀峠」まで行ってこよう!(笑)


だが、その前にもう少しだけ、ここ(最高所)を堪能する。

たとえば―


6年前、荒ぶ寒風にやきもきしながら待ち耐えて、ようやく雲の切れ間を撮影した、この西側の精一杯の眺望。

それが今回↓↓


(ほしいまま)だ!

6年前の幽玄な風景にも味わいはあるし、見てみたいと思う風景ではあるが、
やはり一度はこの晴天を見なければ、納得出来るものでは無かっただろう。
これを見ずして塩那道路を語るなど、我ながら笑止千万。おこがましかった!

この道の工事が本格化した当時の塩原町広報誌に、「完成すれば日本でも指おりのスカイライン」と
書かれたことがあるが、なるほど、確かにこの景色が車窓となる事を知っていた関係者ならば、
その表現が決して誇張でも奢りでも無いということを、誇らしく確信していたのだろう。
完成すれば必ず流行ると、そんな絶対の自信があったと私は思う。



最高所の道路状況を、この6年前である平成17(2005)年の探索時と比較してみると、基本的に変化はあまりない。

前回の探索は、昭和50(1975)年の工事休止から数えてちょうど30年目の風景だったが、この30年のうち29年目までは「最低限の維持管理」と県が表現する対応がなされていたのである。だが、平成16(2004)年8月に至って県は遂に「中間部36km余りの廃道化工事を行う」という、大きな方針の転換を発表した。

よって、前回から今回までの6年間に行われた道路管理者による介入は、すべてが「最終的な廃道化」のためのものであったはずだが、まだ景観の大きな変化には結び付いていない。
また、それが単なる“完全放置”ではないことは、先ほど見た「植生回復経過観察小屋」の新設や、この場面の山側路肩にロープが張られているような変化の存在からして間違いない。




山側法面下の路肩の幅1mほどが、木製の支柱とトラロープによって路面と仕切られていた。
そしてその仕切られた場所を良く見ると、6年前には見られなかった植樹が施されていた。

樹種までは分からないが、きっと植生回復の一環として県が試験的に植えたのだろう。
まだほんの苗木で、指で容易く摘んでしまえそうなものであるが、1本1本手植えにされたらしい感じがして愛らしかった。

これは、塩那道路にとって見れば、未来から自らを完全に抹消するために送り込まれてきた先兵、地獄の使者であるに違いない。
しかし、逆に苗木にとっても塩那道路は、その植生を破壊した規模や険悪な環境を含め、倒しがたい強大な敵なのだと思う。
人は自らが生み出した怪物との闘いに、まだしばらく時と資を奪われ続ける。



いや、前言は撤回しよう。

この最高地付近については、これまでの区間と違い、6年間での変化が決して小さくない。(右写真は6年前の同一地点)

変化は主に植生回復のための人為的なもので、すでに見た法面下の植樹だけでなく、法面の上にはそれより遙かに多くの植樹が、真新しいフトン籠工を寝床…いや苗床として、進められていた。
その量は莫大なもので、数百メートルにわたっている。
これがやがて実を結べば、とりあえず法面上の裸地対策は完了しそうである。



あったあった。
これら植樹や植栽の正体の表示が。

(←)法面下の植樹は、「平成18年度塩那道路対策工事」による「植生回復フィールドテスト」。

(→)法面上のフトン籠は、「H19 塩那道路建設工事植生回復対策工」。

下はテストで、上は本格的な廃道化工事の成果ということだ。



一方で路肩側の擁壁へ目を転じてみれば、そこでは人の手によるものではない天然の力による“廃道化”が、静かに進行していた。

この最高所付近の道が他の区間より明らかに高規格な整備をなされているのは、おそらく昭和46(1971)年にパイロット道路が全線にわたって開通してから、昭和50(1975)年に栃木県が工事休止を決定するまでの3〜4年に、当初の塩那スカイライン整備計画に則って本格的な道路整備が進められた賜物なのだと思う。

おそらくだが、この本格的な整備は、パイロット道路のままでは多年を耐えることが出来ない不安定な場所から優先的に進められたであろう。
そしてこの最高所付近を見れば、地形的に冬の北西季節風を真っ向から浴びており、強風衝、高高度、多積雪などを原因とする岩盤の風化や植生の貧弱さに加え、傾斜も非常に急であり、全線でも有数の難所であったと実感される。

そうした理由から、私はこの最高所付近をもって、「塩那スカイラインの完成形に最も近い風景を見せる、未成道としての白眉だ。」と評するのである。

工事休止から35年を経過した高規格スカイラインの雛形には、確かな破壊の足音が迫っている。
とはいっても、自然の回復力だけで完全に元の景観に戻る事は、ないだろう。
それは、道路を整備し、我々がこうして立ち入った時点で、ある程度の“自然破壊”という不可逆的変化が生じたであろうし――




そもそも人工物の規模が、この土地の持つだろう回復力に対して、大きすぎると思う。

ここまで大胆に大地を削り、天地を割れば、「無かったこと」にするのは容易でない。
そのためにどれだけの労力を割く覚悟があるかにも因るだろうが、自然に放置して荒れ果てるのは、元に戻るのとは違う変化だ。

(もっとも、個人的意見としては、このまま放置が望みである。“負の遺産”だろうが遺産には違いない。“黒歴史”だって歴史には違いない。私は、まだまだ日本には人が辿り着きがたい自然が多くあると思うし、これからそれらが過剰な開発に晒される可能性も極めて低いと感じている。だから、ここに巨費を投じて原初の風景まで復元しなくても良いと思う。むしろ、遺産や歴史としての活用を望んでいる。誇らしいぞ。途中までとはいえ、これだけのものをここに作った“力”の存在。今後の我々には不要かその“力”は。私はそうは思わない。)




「天にも昇る心地」なんて言葉があるが、ここを闊歩する気持ちよさは、まさにそれ。
全方位の全ての視界に道路を含めた美しいものが見えるのだから、道路好きの至福なり。

あまりのことで歩みを進めることが惜しいほどだったが、徐々に近付く終わりの地、日留賀峠。
その少し手前に、「鹿の又坂」の地名看板が孤高に立っているが、その周辺はとんでもない急傾斜だ。
まったく、無茶をしやがる。最高だぜ、塩那。マジ最高だ。確定的に日本一の道だ。



6年前にも目にした、「24.8km」のキロポストが健在だった。支柱には、「栃木県土木部」の文字も。
キロポストにしては妙に中途半端な数字だが、同じ標柱の反対側には「26km」のキロポストが取り付けられている。
こちらも健在。(表裏を合わせると合計50.8kmの全長となる)

ただしこのキロポストは、なぜかこの後に現れる「鹿の又坂」の地名看板の距離表示と矛盾が生じており、原因は不明だが、内容は誤っているのかもしれない。

そしてこの辺りを境に、塩原への下り坂が徐々に本格的になってくる。
終宴、“天空街道”離脱への兆しである。




キロポスト(矢印のところ)から少し下った地点で振り返って撮影。写真奥が「最高所」だ。

屈強な擁壁によって、急傾斜地に強引な確保がなされた2車線(部分によってはそれ以上)の幅を有する道路が大迫力だ。
路肩の擁壁上にはガードレールを植えるための穴も用意されているが、全く利用はされていない。

ちょっと不思議なのは、未舗装の路面と擁壁上面の高さが綺麗に一致している点だ。
最終的に鋪装をすると、その厚みだけ鋪装路面が高くなるため、鋪装予定があれば、その前段階となる未舗装路面は、擁壁上面よりも30cmほど低くするはずなのである。
そうなっていないということは、もしかしたら当初は未舗装での開通を予定していたのかもしれない。




最高所から500mほど前進し、「鹿の又坂」の標識地点が間近になると、しばらく続いてきた2車線幅が途絶え、もとの1車線に戻った。
必然的に切り立った路肩に近寄る事になるので、本能的に怖さを感じる。
つうか、ガードレールも何も無い路肩の外の景色が、とんでもない事になってきてる?!

多分この空と道の対比は、次のカーブで極まるだろう。
次のカーブは、「鹿の又坂」の標識地点だ。
わくぞくする。(わくわくぞくぞく)

なお、道幅減少に伴い、整ったコンクリート擁壁の法面工も消え、いかにもパイロット道路らしい裸の岩場にネット張り&軽くコンクリートを吹き付けただけの法面処理になった。
この部分でも、“宴の終わり”を実感する。
雲上に築かれた“スカイライン”の幻想は、もう終わりが近いのだ。



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↑ “天空街道”の超凡なる景観を、動画でどうぞ。 ↑



「鹿の又坂」の直前から振り返った、“天空街道”核心部の景観。
背後のピークは、鹿又岳の南に連なる標高1846mの独立標高点である。

同ピークは鹿又岳山頂の三角点より高く、男鹿山地の主稜線上において日留賀岳(1848m)に次ぐ高い頂きだが、
6年前の探索時には、塩那道路の法面上に出来た崩壊が、やがて山頂を壊しそうな不気味な抉れ方を見せていた。
だが、今回は崩壊斜面にコンクリートが吹き付けられ、さらにフトン籠で補強されたので、山頂の崩壊は回避されたようだ。



そして


天空のカーブ。


性懲りも無く、また“いつもの”命名能力が発動しちまった!

路肩の向こうは全部、大空。混じりっけ無しの、天空。




15:05 《現在地》

最高所から600m、日留賀峠まで500m地点にある、「鹿の又坂」標識地点に到着。

この場所に関しては、完全に今回の印象の方が良い。
6年前には、余り印象に残らない場面だったらしく、こんな景色が有ったのかと今回改めて驚かされたくらいである。

雲一つ無い、宇宙に突き抜けた晴天が、このカーブの真価を発揮させたのである。
塩那道路の力強さと危うさと、その両方が見事に引き立てあった、卓抜した景観地。
眺めも凄いが、それよりもここは「道路」という人工物と調和した、インスタレーションとしての芸術だ。

無論、この芸術の中にあっては、カーブの突端で絶空を背景に独り佇む標識が、とても大きな意味を持っている。
あれがなければ、ここまでの際立ちはなかったに違いない。




“天空のカーブ”に佇む「鹿の又坂」の地名看板は、塩那道路に数ある地名看板の中でも、一二を争う象徴的な1本だと思う。

単純に高さだけなら、勿論これよりも高い所に立つ道路標識や案内板のようなものはあるのだが、“高度感”の大きさという意味においてこれほどのものは、塩那道路の内外を含めて、そうは無い。
未成道であるが故の路肩の施工の適当さ(ガードレールのような視界を遮るものが無い)と合わせ、標識の背後にそれよりも高いものが全く見えないという超越ぶりが、非常に印象的だ。

なお、標識の根元に沢山積み重ねられているコンクリートの用地杭のようなものだが、これは6年前にはなかった。
その正体は――




どうやらこのカーブの下に新たな擁壁を作るための準備らしい。
もっとも、すでにこの柱を組み上げて作った擁壁が一基見えているので、単に余ったものを放置しているだけかも知れないが。
いずれ、「廃道化」が決定した後にあってもなお、「廃道化のために塩那道路を維持するため」という、不思議な工事が平行して進んでいるようだ。

それにしても、この辺りからハングライダーで飛び降りたら、眼下に見える横川放牧場まで、理想的なグライディングが出来そうな風景だ。比高は実に700mを超える。
もっとも、うっかり変な所に着陸すると、即座に遭難するが…。





← カーブの向こうには

空しか見えねぇ!(笑)


カーブミラーのようなものはないが、思いっきりブラインドカーブで、前後も勾配区間なので、このまま一般に開放したらすぐに落ちる人が出そうだ。
そして万一事故が発生したら、通報する術も、急行する術も、全く無い。
塩那道路を頑なに一般の目から遠ざけようとする管理側の対応も、この道が危険過ぎるうえに、魅力的過ぎるからに他ならない。





さあ、今度こそ、折り返し地点が近付いてきた。

初めての“塩那の夜”、心の準備は大丈夫?

完全に逃げ出せない状況になってるぞ、もう。