道路レポート 林道樫山小匠線 脱出編(林道樫山線)

公開日 2015.5.17
探索日 2014.3.27
所在地 和歌山県那智勝浦町〜古座川町

樫山を脱出し、人のいる世界へ!



2014/3/27 12:08  《現在地》

追想の樫山集落跡地から古座川町の中心集落である高池への道、林道樫山線は、左図のように南北に長い。
高池の一つ手前の集落で県道が通る池野山まででも11〜12kmの行程があり、途中には楠平、野平、上地、口広などの地名がある。いずれも集落ないし集落跡地と思われる。
そしてこの長い行程の途中に2つの峠が待ち受けている。



上の図は、樫山から池野山の県道合流地点までの林道樫山線の高低差である。
標高約130mの樫山を出発し、約3kmで標高320mの最初の峠に至る。それから標高100m前後の野平まで下るが、ふたたび登りに転じて標高220mの第2の峠。その後は一気に標高30mほどの口広へ下り、そのまま緩やかに池野山に下降する。


それでは、
まず最初の経由地である楠平を目指して出発!

最初から、なかなかきつそうな登り方だが、どうやら鋪装は完備されているようだ。



林道としてみれば、十分な規格を持った道だ。
1車線だが待避所が多く、道幅にも少し余裕がある。そもそも、鋪装があるだけでも林道としては上出来である。
集落が無人になってしまった今は分からないが、古座川町の町道に指定されていた時期があるのかも知れない。或いは、林道であっても道路法の道路としての整備対象となる「併用林道」の制度を用いている(た)のかも知れない。

という具合に、“規格”は文句ないのだが、実際の整備状況については、やはり交通量相応という雰囲気もある。
封鎖はされていないが、結構怪しい感じの落石跡が黙認のような感じになっていたり、路上に散乱する小さな瓦礫も少なくなかった。まあ、舗装路だから必要以上に目立ってしまうのだが。



12:48 《現在地》

集落の外れをスタートして、黙々と漕ぎ続けること40分(今までのこのレポートのタイムスケールから見れば一気に飛んだ感じであるが、この編は1回で終わらせたいので、特別なものが無い限りこの調子で行く)、1.9km地点にご覧の切り通しがあった。
風景的にも谷筋を離れ尾根筋に辿りついたなという感じなのだが、ここはまだ峠ではない。

とはいえキツイ登りが続くのはここまでで、この先峠までの1kmは等高線に沿って走るので、上り基調ではあるが緩やかである。

ちなみに、未だに他の車には全く出会っていない。
今日最後に動いている車を見たのは、小匠ダムだったな。それ以来は、廃車ばかり。



切り通しからは急に進行のペースが速まった。
標高300mの等高線を噛みながら二度三度と小さな切り通しをくぐったが、そのうちの一つに写真の朽ちた標柱があった。

「林道樫山線 古座川町 古座郵便局」
「郵便局の簡易保険 郵便年金 融資施設」

このような郵便局の名前が入った標柱は、地方の道路沿いで割と良く見つかるのだが、これは郵政事業が国営であった当時に簡保や郵便年金の積立金が地方公共団体に融資されて、それを財源に整備されたことを示している。
この場合は、おそらく和歌山県が事業者で、民有林林道の整備事業にこの財源を使ったのだと思われる。



12:57 《現在地》

稲荷山の山頂近くで越える尾根が最初の峠だが、現地には特に峠を示す標識などはなく、ただそこを過ぎると徐々に道が下り基調に転じるというだけだった。
その下りも最初の間は緩やかだから、峠としては誠に心許ない。
だが、峠を越えたことで周辺の景色には変化があったし、地名の上でも大字が樫山から楠(くすのき)に変わる。
もう明治初頭の樫山村の領域は外れて、ここからは隣村、楠村の領分である。

進行方向にこれまでは見えなかった領域が広々と俯瞰される。遠方にも新たな尾根が現れ、平地へ辿りつくにはまださらに峠を越える必要があることを訴えてくる。
そんな眼下の広々とした場所に現れたのは、樫山には見られなかった大きな屋根だった。住居と言うよりは、農業施設っぽい。
そこは「楠平」と呼ばれている場所である。


最初の峠から少し下って、でも下り半ばといったところで、唐突に三叉路となった。
私は写真の左の道からここに出て来て、振り返っている。

写真中央の壁面には、だいぶかすれたペンキで左右の道の行き先が書かれており、以下のように読めた。
「←  かし山 色川 」
「 くす平  →」
かし山は樫山である。色川は、今朝の私のスタート地点であった太田川の上流にある地名だから、これは私が辿ってきたルートを全て逆に辿った先、随分と遠い行き先だ。…まぁ、確かに道は通じていたのだが…。




楠平の分岐地点を過ぎると、道としてのスペックはそれまでと同様だが、路面に刻まれた轍の色に、交通の頻度が明らかに増したことを感じる。
今にもひょっこり軽トラ辺りとすれ違いそうな、日頃より車が通っている気配がある。

この林道は見ての通り山越えを繰り返しており、地形的なまとまりとは一致しないのだが、無人の樫山を“源流”として、小集落を点々と繋ぎながら大きな集落を目指す様子は、さながら支流を集めて大きな流れになる川のようである。それは午前中を一緒に過ごした小匠川の姿と綺麗に重なる。
道に刻まれた轍が、進むほどに勢いを取り戻していくのを感じる。それはとても心強い変化だった。



13:09 《現在地》

樫山から数えて6.5kmの地点で、楠平の分岐から2.7kmも続いた爽快な下りは、遂に底を打った。
久々に渡る橋は、小匠川の支流である楠川を渡るもので、銘板には「平成元年三月竣工」とあった。
そして橋の名前だが、「出合橋」だった。(笑)

なぜ(笑)かって?(笑)
だって、今日はこの名前の橋を見るの、これで3回目だぞ(笑)。
なんぼ出合が多いんだよ、今日の俺。
基本的に、同じ道の橋に同じ名前を2度使うことは避けられると思うので、今日私が辿ってきた3本の出合橋がある道は、本来が一連の道ではないことを暗示しているのだが、わざわざ書くほどでもないな。




おおっと!

こいつは大事なお宝をスルーすっとこだったぜ!!

一笑に付して通過しようと思った出合橋の傍に、見事な双子橋の姿が!!



いいな、ここ。

双子橋という呼び名は正式なものではなく、私がこの手の橋をそう呼んでいるだけなのだが、
現代よりも架橋技術が劣っていた時代は、このように川の出合に橋を架けるとき、
わざと出合の上流まで迂回してから、2本の短い橋を架けることが良く行われた。
そんなときに誕生するのが、形も大きさも誕生日も瓜二つの、双子橋だった。

さきほどは「出合橋」の名前を軽んじて笑ったが、
これぞまさしく、出合に架ける橋の典型であり美景であった。すまない。



楠川を渡った先から、双子橋の旧道へと、150度反転して進入する。

そして改めて思う。これぞまさに、私の中の理想的な双子橋だと。
2本の橋の共通性もさることながら、直進せずに微妙な角度を付けているのが素晴らしい。
2本目の橋の先は現道に断ち切られ、実質的な廃道状態になっているが、
封鎖はされておらず、オブローダーを優しく受け入れてくれる。完璧な双子旧橋だ。



これらは1本目の橋に取り付けられていた銘板だ。
水量的にはこの橋が渡るのが楠川の本流と思われる。

4本の親柱のうち1本は失われており、残る親柱に取り付けられた銘板も、竣工年を除いては読み取りが著しく困難だった。
そこに刻まれた「昭和三十七年三月竣工」という数字は、小匠川沿いで見た古い橋のそれに近い。橋の雰囲気もそっくりだ。
今では立派な道になった林道樫山線だが、最初に建設が進められていた当初は林道樫山小匠線と同じような狭くて怖い道だったのだろう。
それは小説「炭焼と魚」の冒頭のシーンで、主人公一行が転落死の恐怖と闘いながら樫山へ車を走らせた場面と重なる。



2本目の橋は幾らか水量が少ない楠川の支流を渡っているが、やはり一部の親柱が欄干ごと喪失しているなどしていて、読めない銘板が有った。
だが、「出合一号橋」という橋名が判明したのは値千金で、これにより本流側の橋が「出合二号橋」であったことがほぼ確定した。
樫山側に若い番号が降られているのは、起点が樫山側に設定されていた可能性を思わせるが、詳細は不明。

また、実際に旧道へ入って来るまでは気付かなかったが、一号橋と二号橋の間から、支流沿いを遡る別の道が別れていた。
そしてそのすぐ先、分岐からも見える場所には……。



山を背に立ち並ぶ数軒の無住らしき家屋の集まりがあった。

ここが、かつて楠村の中心集落だった野平、その跡である。

樫(かし)山村から楠(くすのき)村へ連なる、廃村の連鎖。

双子橋と運命を共にする美しい村跡を後に、本線へ戻る。



それから少しの間は大きなアップダウンが無く、楠川沿いを淡々と走るが、所々の路傍に堅く雨戸を閉め切った家屋が見て取れた。

そして地蔵。
雨ざらしにならないようにコンクリートの覆いを設えられた路傍の小地蔵には、いったい誰が立ち止まってお供えしているのか不思議に感じられるほど沢山の賽銭が置かれていた。30枚くらいはあったと思う。そして些か場違いな感じを与える、真新しいピンク色の「MATCH」!!
間違いなく、この道には今も血が通っている。



それからまた思い出したかのように急な上り坂が始まった。
今日これまでの全行程を過ごしてきた太田川水系と決別し、古座川水系へ抜け出るための第2の峠に挑んでいる。

だが、これは最初の峠に較べれば全然低いし、沿道は上地という名前の集落になっている(人が住んでいるかは不明)ので、景色には明るさが感じられた。

まあ、既に疲労困憊であった私が顔をしかめるには、これでも十分過ぎたのではあるが…。




13:35 《現在地》

樫山を出発して約8km、出合橋から約2kmの道のりで、第2の峠に到着した。

その景観は強烈なコンクリート・クレパスで、往昔の峠道を力の限りに掘り下げてみたようだ。
今でもここの日射しの熱かったこと、冷たい水を浴びたかったことをよく思い出すよ。

だが、潤いのない峠のコンクリートの傍らにも、可愛らしい大きさのお地蔵さまが、台座から溢れんばかりのお供え物に囲まれて座っていた。
台石には「明和五年」の刻字。
明和5(1768)の旅人に250年後のこの風景を想像出来るはずはなく、彼らが見たはずの集落も大半が失われてしまった。
だが、それでも地蔵は残っている。私も250年後の風景なんて全く想像出来ないけれど、この地蔵は残りそうだ。



そしてこの眺めも、ほとんど変わっていないんだろう。

標高220mほどの低い峠だが、南側の展望が優れ、一番遠くには熊野灘の海原を見晴らす事が出来た。
ずっと山の中に身を置いてた私にとっては、これは印象深い場面の転換だったし、
実際も第2の峠を越えたことで、私の前から登りという障害の全てが消えたのである。
最高に、きもちのよい 解・放・感・!



誰も見ていないのをいいことに、雄叫びを上げながら速力最大で駆け下った私は、あっという間に池野山川沿いの最奥集落である口広に降り立った。
そこには現役で稼動する大きな製材所があり、動いている車や人を久々に見た。

右の写真は、可愛らしい手押しゴムタイヤ車(笑)。意外にレアなんじゃないかという気が…。



廃村の連鎖を断ちきり、人と車が通い合ういつもの景色へ。
池野山集落内でついに県道と出会い、一連の樫山集落を中心とする探索は、ここに無事終了したのであった。

13:56 《現在地》

樫山を出て11.5km、1時間50分弱の行程だった。(朝のスタート地点からだと、寄り道なども含めて約7時間半の行程。)




最後にもう一度振り返ってみたが、
樫山の別天地は幾重の稜線に隠され、耳にこびり付いていたあの川の音も、
いつの間にか聞こえなくなっていた。