全長22km、内トンネルが18kmを占めるという、国内随一のトンネルづくし観光道路「奥只見シルバーライン」。
2輪車・歩行者の通行が禁止されている道中へと、決死の潜入を果たした私が目撃したのは、ウンザリするようなトンネルの連続ばかりではなかった。
その存在を車窓から気づかれる事のない秘密の領域へと、私は図らずも接近していた。
そして訪れる、感動の?ラストシーンへ。
長かったシルバーラインの旅も、残りあと4km!
全長22km、内トンネルが18kmを占めるという、国内随一のトンネルづくし観光道路「奥只見シルバーライン」。
2輪車・歩行者の通行が禁止されている道中へと、決死の潜入を果たした私が目撃したのは、ウンザリするようなトンネルの連続ばかりではなかった。
その存在を車窓から気づかれる事のない秘密の領域へと、私は図らずも接近していた。
そして訪れる、感動の?ラストシーンへ。
長かったシルバーラインの旅も、残りあと4km!
これがシルバーラインの日本最長隧道群を支え続けてきた送風装置の姿である。
いかつい!
でも、意外に動作音は静か。
というか、動いているのかも不明。
それよりも驚いたのは、換気所の建物には天井付近に窓があって、そこから外の光が入ってきていること。
曇ったレンズ越しに見えるその色合いには、まるで放課後の体育館のような気だるさがあった。
本坑からはかなり高度上げていると思うので、おそらくはどこぞの山の中腹に、この施設はあるのだろう。
残念ながら、出口と思われる分厚いシャッターには鍵が掛かっており、ぴくりともし無かった。
外へは、出られない。
年代を感じさせる銘板。
もはやその諸元は掠れて読めない。
昭和32年当時から黙々と働き続けてきたのであろうか。
扉をくぐって出た先のフロアには、ただ一基の巨大な送風機があるだけだった。
総じて殺風景な、いかにも管理施設の雰囲気である。
これが現役の施設であることは明らかで、監視カメラでもあるかと怖かった。
いや、もしかしたらあったのかも知れないが、気がつかなかっただけで。
ともかく、隅には薄暗い階段があり、上のフロアに繋がっていた。
階段の裏の暗がりの空きスペースに、なぞの立て札の残骸が落ちていた。
「…場」
見当が付かない。
どうやら、ただの送風機置き場ではないらしい。
2階部分には、フロアの中央に固まって18基の制御ボックスが設置されていた。
様々な色のランプが静かに点灯し、メーターの目盛りが小刻みに振れていた。
間違いなく、シルバーラインを管理するための枢軸の一つに、私はうっかり侵入してしまっていた。
ボックスに鍵が掛かっているのかは分からないが、万一イタズラすればどんな重大な事が起きるのか…考えるのさえ躊躇われる。
私は、事の重大さに元来の小心を発揮し、機械を詳細に観察することもせず、チラッと見て撤収した。
きっと、機械には鍵が掛かっていたと思いたいが…、入れてしまうことが驚きだった。
18T換気所へ続く横穴から戻った私を出迎える、大型観光バス。
観光地だけあって、こんな車も通行している。
すれ違いに関しては、はっきり言って大型車よりも圧迫感があって怖い。
特に追い越されるのは最悪で、隧道内の空気ごとピストンのように押しながら走ってくるものだから、突風で壁に押しつけられたかと思えば、通り過ぎた瞬間には車道へ引っ張り込まれる。
たしかに、この道に4輪の自動車以外が踏み入れると接触事故の危険性が高まると感じられる。
浜辺で孵化した子亀が自然と海原を目指して歩き始めるように、幾度も横穴へ潜って寄り道する私も、本坑へ戻るやいなや、東を目指し続けるのであった。
往復するにはあまりに過酷な道中であるが、私に帰りはない。
幸いにも、行くだけ行けば、あとは仲間の車が私と“足”を回収してくれる手筈になっているのだ。
ただし、その約束の時刻を、現時点で8分超過してしまった。
急がねばならない。
ちょうど出口も見えてきた!
建設当時日本第3位の長さだった18号トンネルが、いまようやくそのケツの穴を見せた。
だが!
どう見ても次の隧道が近い…(涙)
もう、
もうどうにでもしてくれ……。
……。
今度は、一応自由意志でトンネルの外へ出ることは可能だ。
車でも日光浴に退出することが出来る。
おそらく、冬期間はこの両側の隙間など全て雪の壁に覆われてしまい、結局真っ暗な隧道の一部のようになってしまうのだろうが。
ともかく今は夏。
この、眩しさに目を覆いたくなるような日差しへと躍り出る私であった。
地図を見るとどこへ通じているというわけでもないようだが、この場所から東西へそれぞれ延びる砂利道がある。
もうこの辺りはダム湖畔地帯であり、この仕入沢も満水時にはダム湖の腕の一部となる。
奥只見ダムの総設計貯水量は6億百万立方メートルもあり、これは完成後半世紀を経た現時点でも日本最大規模である。
そのダム湖(正式名称は公募により「銀山湖」というのだが、一般には奥只見湖と呼ばれているようだ)は、元々銀山平といわれていたダムサイト付近の盆地だけでなく、そこから四方へ伸びる谷の数々を遡って湖底に治めており、空から見た湖面の形はさながらモミジのようだ。
その多数の腕の一つが、ここ仕入沢にも食い込んでいるのであるが、夏草に囲まれた砂利道からは、その水面を見ることが出来なかった。
そして、私はこの旅でただの一度も、目指し続けた奥只見ダムの湖面を見ることはなかったのである。
緊急時の避難所ともなっている仕入沢の広場。
向かって左が18号トンネル、右がいよいよラストの19号トンネルだ。
それらを結びつける屋根は、見慣れたスノーシェッドやシェルターの風貌ではなく、単純な屋根。
道路と言うよりも、回廊のような雰囲気である。
背後は人跡未踏を地で行く仕入沢の谷。
遡れば未丈が岳山頂に達するが、この領域は広大な無歩道地帯となっており踏み込む者もない。
その一方、妙に人の営みを匂わせる、仕入沢という地名が印象的である。
電源開発の使命を帯びる以前には、この奥只見の山々も、ヤマ師(鉱夫)やマタギたちが跋扈した、生活の場だったのだろうか。
巨大すぎる湖が、全てを、歴史の連なりさえも、断ち切ったかのようだ。
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これが最後だ!!!
19号トンネル(仕入沢トンネル)
全長3129.5m(開通当時日本第二位の長さ)
17号から連なる三連隧道。
一度も光の下へ出ずに通過することが出来る、この三連隧道の総延長は…
もう計算するのも馬鹿らしくなってきたが…、10キロを優に超えていることは確かだ。
日本にも、こんな場所があるんだ。
午前9時46分、最後の闇へと進入開始。
入ってすぐ、右側に仕入沢電気室なるものがあった。
横穴20mほど奥に閉じられた扉があった。
これが最後の電気室かも知れない。
更に進む。
今度も右側に、謎の小断面坑口があったが、ここも扉がしっかりと施錠されており、内部を窺い知ることは出来ない。
銘板や引き込みの電線などがないことからも、おそらくはズリだしの横坑跡だろう。
この19号トンネルは、最後の一本に相応しく、シルバーライン隧道らしい素養を全て満たしている。
長さ、連続カーブ、素堀り、湧水、濃霧、大型車転回所に待避スペース、電気室に換気所、 そして“謎”。
まさに、最後にこそ相応しい、集大成隧道。
最後の隧道。
正直18号あたりでは“うんざり”を感じていた私だが、この出口に立つとき、何を想うのだろう。
大好きな隧道達との濃密な逢瀬、その掉尾である。
隧道も私のことが気に入ってしまったのか、私をなかなか進ませようとしない。
次々に、小さな見どころを準備していて、私を立ち止まらせる。
奥に光が漏れる窓が見える、小さな横穴。
ここもまた、謎の存在である。
なぜか、ベルトコンベヤが2基並んで置かれている。
天井の作りから想像して、ここは半分野外なのだろう。
もしここから外を見ることが出来れば、或いは少し歩くことが出来たとしたら、そこには青々と水を湛えた美しい湖が見えていたはずである。
19号は、湖畔を貫く隧道なのである。
右、左、右と、直線を挟んで繰り返しカーブを列ねる洞内。
あといくつのカーブを抜けると、出口が見えてくるのだろうか。
おそらく最後の待避所を通過する。
出口を期待して遠くを見るのに疲れ、走りながらも視線を落とした。
そこには、足元からすーっと伸びて、伸びきると薄れて消えて、また足元から同じように伸びていく、黒い影が忙しなく動いていた。
どことなくコミカルなその動き。
入洞より10分経過。
あるだろうと予感はしていたが、やはりあった「19T換気所」。
先を急ぎたい気持もあったが、寄り道。
真っ直ぐ伸びる細い横穴と、一対のレール。
50mほどでお馴染みの銀色の壁に突き当たって終わった。
シルバーラインならではの隧道風景が、次々と早送りのように現れる。
全線で3カ所目、最後の大型車転回所だ。(写真右)
入洞より15分経過。午前10時になった。
急いでいるつもりも、細かな寄り道が多く、時間が経過している。
しかし、確実に終わりは近付いている。
もう、いつ出口が見えてもおかしくない距離になっていた。
頭上にあるのは、おそらく、最後の青看。
「22km」から始まった終着地へのカウントダウン。
ついに、ラストカウント!
意外なことに、電気室がもう一箇所、この隧道にはあった。
「清水沢電気室」だ。(写真右)
そして、次のカーブ。
残り1kmの青看から、300mほど来ている。
これを曲がれば、おそらくは……。
みえたっ!
22キロ目の真実の光である。
今度こそ、闇の連鎖は終わりを迎えるはずだ。
あの光の向こうには、目的地が、終の地が待つ。
私の愚かしい挑戦の結末が、間もなく明かされる。
壁に記された、「21K」の文字。
この道が歩んできた歴史。
それは、ダムの資材運搬道路の時代と、観光道路の時代の二つに分けられる。
いま我々の目に留まる景色について、箱物以外の大半は、40年近い観光道路の歴史が生み出した物であろう。
しかし、この壁の文字は、さらに古いような気がする。
ついになされた、最後の予告。
今度こそ、本当に終わるのだ。
電光掲示板が、限りなく朴訥な言葉で表そうとしているのは、単に19号トンネルの終わりではないはずだ。
あらゆる通行者にとって、あまりに長かった22キロ。
その、終わりを予告しているのではないのか!
100mほど前方に迫った光のその眩しさは、大袈裟でなく、ここに至ってなお外界の景色が全く確認できない程であった。
最後の電光掲示板の表示は、「速度落せ」→「出口近し」→「左カーブ」のループを忙しく繰り返していた。
なお、シルバーライン(県道50号)は奥只見ダムが終点であるが、青看がカウントダウンしてきた終点は、ちょうどこの坑口そのもののようだ。
坑口から、奥只見ダムの駐車場までの距離は1kmほどだ。
徐々にシルエットから実像へと変化していく、坑口の姿。
昭和29年から3年の歳月を掛け、延べ180万人が従事した道路工事。
最盛期には3700人体制で突貫工事が行われ、44名の尊い殉死者を出して開通した。
開通後、本来の目的であるダム工事も難航を極めたが、奥只見、そして更に遠方に大鳥のダムを築き上げ、ここに国内最大級の大電源地帯が完成したのである。
総貯水量国内最大の奥只見ダムは、完成後の改造を経て現在、その発電許可出力においても560,000kWは、国内水力発電所第一位である。
間違いなく、日本のビックプロジェクトであった。
その建設第一歩として、どうしても道を通さねばならなかった、恐ろしく広大険阻な山並み。
人々は、国が、生活が豊かになるという希望を胸に、この闇を切り開いたのである。
崩壊と出水、そして極寒という死の影と戦いながら。
99機目が、最後の非常電話機だった。
カメラのレンズの曇りを拭いながら、光の元へと、今進み出る。
タイーホの影に怯えた3時間40分。
その苦闘、悪徳の苦難。
耐えた。
私は、恥ずかしながら、完全貫通を果たしたのである。
奥只見銀道
出れたー。
凱旋門を小さくしたような(と言うとちょっとギャップがありすぎるか)形状の、19号トンネル出口。
ただ、これまでの全ての坑口にはなかった装飾的な要素が、ほんの僅かだが感じられることに注目。
アーチに刻まれた放射線状の凹みや、翼壁に刻まれた水平線の列は、いずれも装飾であろう。
工事用の道路において、きわめて控えめながらも僅かの装飾を許したのは、貫通の歓びであったか、歴史的開通への誇りであったか。
昭和32年開通という時期を考えると、どの隧道も恐ろしく無装飾であった。(当時日本一の長大隧道群でありながらだ。)
この時期、各地にコンクリート隧道が普及していったが、その坑口デザインはなお前世代的な石造坑口をモチーフにしている物が少なくなかった。
ちなみに、この上の写真には一体何箇所「トンネル」という文字列があるでしょうか?
もう一度●●●で通りたいとはとても思えない、長すぎた道のり。
さらばだ。
…と、その前に…。
最後の横穴報告。
出口を横断するようにして、ダムの付帯施設である監査廊が通っている。
これをこのダムでは「覆道」と呼んでいるようだが、ようは発電所の建物とダムサイトとを繋ぐ冬期間も通れる通路である。
写真は、ダムサイト側を背にして、発電所方向の入口を写している。
これは、ダムサイト側の入口。
奥に扉があって、立ち入れないが、ダムサイト上までは300mほどと近い。
反対の発電所側には、更に長い通路が続いている。
柵は乗り越えることも出来そうであったが、これ以上罪を上乗せしたくないので…、帰ることにした。
発電所はまずいーよ。
その入口にあった警告表示と進入表示灯。
読んでびっくり、車も通るんだ。この狭い穴を。
それは怖いな。
おそらくシルバーラインが冬期閉鎖中もダムや発電所への往来車両はあるので、この廊下を通って行くのだろう。
怖いが… ちょっと、楽しそう。
現在時刻、午前10時09分。
約束の時間を遅刻したうえ、横穴生活のせいか全身煤まみれの状態になっていた。
しかし私には、他に頼るあてもなく、仲間の待つ車道終点の駐車場へと下り始めた。
ラスト、下り坂だがあと1km弱の道のりだ。
ダムのすぐ下流に広がる大きな駐車場とお土産屋。
奥只見は、この写っている範囲が殆ど全てという、いわば点の観光地である。
せいぜい、冬から春にかけて近くにスキー場がオープンするくらい(それもシルバーラインが閉鎖される1〜3月以外)で、この小さな盆地のような駐車場の周囲以外、一般人が行けるような場所はどこもない。
四方に広がる谷は岳人でさえ入山を躊躇うほど深く、尾瀬など遙か彼方である。
太い川はあるのに、その下流へ行く道が存在しないというのも、この地の険しさをよく現している。
この谷の主である只見川沿いを下っても、すぐに大鳥ダムに阻まれ、道はそこで終わる。
大鳥ダムの下流には田子倉湖(当然これもダム湖)の長く深い腕が迫っており、陸路なし、水路なし、空路不可能という、絶対拒絶の谷である。
(ダム群が出来る前には、当然道もあったらしい…)
これが最後とばかり、何度も坑口を振り返り見る。
背景の山々は、ダム湖の向こうに尾瀬方面、関東方面である。
こちらもまた、陸路なし。
湖上を尾瀬方面に行く観光船はあるが…。
堤高157mの奥只見ダムの全景を遂にとらえた。
この規模は、重力式コンクリートダムとして全国第一位。
単純にダム高だけで見ても全国第五位のランクにある。
日夜、そして年中、その発電電力は山脈を越え関東へ、そして一部は東北地方へと配電されている。
なお、19号トンネル坑口は、写真右端の方に小さく写っている。
私は、駐車場まで行くと、気楽な観光客たちに紛れて何食わぬ顔で乗り物を片付け、眠そうに待っていた仲間の車へと乗り込んだ。
日本の歴史に名を留める奥只見ダム。
幾多の犠牲を払い開通された地中の街道が、その歴史を開き、ひいては今日の我々の生活をも支えていたのである。