2009/7/31 12:23
出発から2時間50分を経過した現時点の所在地は、林道起点から5.3km附近にあるヘアピンカーブ地点。
標高も920mに達し、遙か遠くと感じられていた1050mにある峠も、いよいよあと“2本”の領域に迫ってきた。
これまでは、沢沿いに奥を目指す素直な道。
ここからは、峠へ向かって土木力を頼りに登る道。
そんなイメージの変化を予想していた私だが、実際にはどんな光景が待ち受けていたのか。
長い峠路も、いよいよ佳境へ。
林道としては例外的なほどアールを大きく取っているように見えるこのヘアピンカーブは、将来の観光バスの通行を考慮したからかもしれない。
こんな想像が妄想とばかり言えないのは、第1回で述べた通り、この林道は営林署の当初計画が地元の陳情を受ける形で変更され、初めて塩原方面と繋がる道になったからだ。
当初の計画路線は単純に大塩沢沿いに源流へと延びるものだったと考えられ、このヘアピンカーブ以降が計画変更の“賜物”ではないかと私は読んでいる。
仮にそうでないとしても、この道が一般的な林道より全体的に広幅員であることには、皆さんも既にお気づきのことと思う。
そもそも、営林署が計画しながら森林開発公団が施工を担当する「関連林道事業」なるイレギュラーが介在した時点で、この林道も当時の表現で言うところの「森林の高度利用」、すなわち林業だけでなく、観光にも森林を活用しようという方針の下で建設された道なのであり、そのため林道らしからぬ高規格も許容されたと考えられる。
この林野庁の方針は、次の「スーパー林道」事業で鮮明化し、さらに拡張されて「大規模林道」を生むことになる。(で、ポシャる)
大ヘアピンを回って進むと、その目と鼻の先にご覧の分岐地点が現れた。
このまま直進するのが、地形図にも描かれたとおりの“本線”だが、左後方に鋭角度で分かれる道がある。
振り返って見ると、本線の倍くらいの急角度で、かつ幅員は半分程度であり、おそらくは作業道だと思われた。
その行く先は確認していない。
…また、嫌な感じになって参りました。
無防備な法面から崩れ落ちてきたものか、更にその上に原因があるのか、大量の岩石が路上に散乱している。
いずれもよく苔むしていて最近の崩落は少ないらしいが、自転車を押して歩く身にとっては、こうした地面の小刻みな凹凸は疲労の大きな原因になる。
標高が上がってきたせいで、立ち止まっていても汗ばむような状態ではなくなっている(むしろ汗が冷えて寒いくらい)とはいえ、こういう路面状況が長く続くことを想像すると、うんざりしてしまう。
少しでも落石の少ない場所を求め、自然と路肩寄りを進路にすると…。
これは、良い眺め!!
なんか、不自然なくらいによく見えるあの平場は、
言うまでもなく、この道のごく近い過去である。
かつて轍があったことが信じられないほど、路面全部が均質に緑化していた。
ちなみにこう言うのは、明治馬車道という廃道世界でよく見るアングルだけど、
昭和の廃車道風景らしくはない。その原因は、決定的に不足しているものがあるからだ。
それはコンクリートや鉄(ガードレール)といった、現代土木の材料たちである。
そしてこの展開だと、次に見えてくるものの予想が出来る。
私は足元の悪いこともいっとき忘れ、期待に胸を膨らませた。
紅葉橋、再出現!
まさしく“手に取るような”眺めであった。
近寄れば決して小さくはないひとつの橋、現代土木の一作品が、
沈黙して緑の林野に横たわる光景とは、かくも美しいか。
橋の上は、まるで“かいわれ”を植えた春先のプランターのようだ。
大きな森の中のほんの一角に過ぎない舗装路面でさえ、
緑は放って置きはしない。
その侵蝕力の強さは、いかにも地上の覇者に相応しく思われる。
我々が物心を付けた頃から(私の場合は主にアニメの『ゲゲゲの鬼太郎』によって)植え付けられた、 「自然とは人にいとも容易く破壊される脆弱なもの」という理解は、実は我々の壮大な奢りなのではないかとさえ思えてくる。
これはそんな眺めであった。
いずれ橋の上が“新たな森”となるまで、人生の一巡分もかかるまい。
―橋の上を通過中―
といっても、橋を渡っているわけではない…そんなトンチが出来そうだ。
忍び寄る、月白色のヴェール…。
逆に上を見た私の視界に入ってきたのは、そんな光景であった。
目測でおおよそ50mほど上であろうか。
霧が樹林帯に広がりはじめていた。
その動きは思いのほか動的であり、林道を進むことで私が“にじり寄る”よりも、霧の方から迫ってくるというイメージがした。
思い出すまでもなく、30分くらい前に見た少し遠い山肌は、上の方から雲の中に消えていた。
あのときは、自分自身の進路をのことを不思議と深く考えなかったが…
霧の中の廃道となれば、それは「おつ」である以前に、怖いと思う…。
嫌だな…逸れていかないかな……。
この Stage3 は、これまでのやや冗長のきらいもあった Stage1,2 に較べ、展開がとても早く感じられる。
それは山の地形の特徴をある程度反映したものであるのだろうが、それ以前に道がこれまでとは性格を変えた。つまり、林道が沢沿いのトラバースから、尾根筋への登攀へと目的を移した事による変化だと感じる。
そして、得てして後者の方が地形に対する“攻撃”は大きくなりがちで、その分大きな“反撃”を食らいやすいものである。
今、ヘアピンを回ってさほど進んでいない私の前に現れたのは、ここしばらく遭遇を免れていた路盤完全消失の光景であった。
この崩壊は、よほど古いものなのであろう。
もしかしたら、この道の廃道化を決定づけた一発だったのかもしれない。
路盤を埋め立てた大量の土砂の上にも、既に森が育っていた。
しかもそうした森は、とりあえず私の目に届くずっと奥まで、終りなく続いていた。
もしも地形図という道しるべが無かったら、ここを終点だと判断しても何ら不思議のない光景であった。
12:32 《現在地》
大きい!
3.7km附近にあった崩壊に勝るとも劣らぬ規模の大崩壊である。
前のとの違いは、今回の斜面の方が“粒が小さい”ことであるが、
どちらが与しやすいかは一概に言えるものではない。
しかし、自転車同伴という条件であれば、安定感という意味から、
前者の方がまだマシと感じられることが多いように思う。
前方の“あまりの惨状”に、逃れたい気持ちから思わず下を見るも、もはや下段の道は遙かに遠くて、樹林の底へ消えようとしていた。
ここはやはり、正面突破しかない。
巨大な崩壊斜面のどこを通るのが最も良いか。
観察の結果、ここはいつもみたいに高巻きをするよりも、路肩の際を通る方が良いと判断。
路肩付近のみ、崩壊斜面がやや緩やかになっていて、かつ幸運なことに、土砂と一緒に供給された藪も路肩付近だけ浅かった。
このような状態になっていたのは、ひとえに道幅が広めに作られていたおかげであろう。
普通の林道や林鉄みたいな道幅しか無ければ、道全体が一様な急斜面になってしまい、これより遙かに苦労したと思う。
12:42
結局たっぷり10分もかかって、この大崩壊現場を突破した。
いくつかの崩壊現場が連なって、全体としては100mを越える巨大な崩壊になっていた。
ただでさえ疲れている状態で、こう言うのはマジでキツイ。
そして、こんな崩壊を見せつけられたことで、道の先行きがますます不安になる。
もう今さら引き返すのだけは、絶対に、絶対に嫌だ!
そういうプレッシャーが、私の心から余裕を失わせていった。
不安いっぱいの私が見た、崩壊現場を越えて最初の場面。
とりあえず、先ほどまでと変わらない雰囲気で道が続いていたことに安堵する。
そしてさらに、森の様子が変化してきたことにも気付く。
相変わらず緑の濃い風景ではあるのだが、地面から“緑の絨毯”が取り払われ、落葉のそれに変ってきた。
こういうのが、植物相の垂直分布という奴なのだろうか。
ともかく路上の緑は減ってきたが、かといって走りやすくなっているわけでもない。
相変わらず、自転車は延々と押しが続く。
いったいいつになったら、この廃道は終るんだろう。
峠を越えて、塩原の町が近付いてくるまでの、どの地点まで廃道が続くのか。
場合によっては、今日は終日この道で過ごすことになるのかも知れないな…。
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再び木々の隙間より大塩沢対岸の山並みを見れば、だいたい自分と同じくらいの高さを境に、白と緑の比率が逆転していた。
そうしているうちに、私の進路も白さの中に溶け込みはじめる。
雨よりは幾分ましかも知れないが、なんにせよ山で視界が悪くなるのは、物見遊山であっても穏当ではない。
大崩壊突破から5分前進。
路盤の状況は一向に改善されず、ともすれば道路跡というよりも、単なる緩やかな山腹を歩いているような景観が続出している。
昭和40年に開通した当時は当然現役であったはずであるが、尾頭トンネルが開通して本道の意義が薄れた昭和63年の時点でもちゃんと存続していたのか、それは極めて疑わしいような現状である。
現役の林道がある日から放棄され、それからここまで満遍なく風化するまでに期間とは、20年で足りるものなのだろうか。
結果的に乗車が出来ていない分、もう何キロにもわたって続いているそれなりに急な登り勾配については、特に苦労した印象が無いわけだが、私の体力はその面からも確実に消耗していたはずである。
……………
……………………
………………………………。
…え?
これは…!
ヱエーッ……(涙)
12:48 《現在地》
大崩壊突破から6分目にして、再度の大崩壊出現であった。
しかも、ひと目見た瞬間、今度の方が何倍も難しい事を直感した。
その根拠は、今までの崩壊が全て「埋もれ」だったのに対し、今度の崩壊は明らかに「削れ」だったからだ。
元々の道幅がある上に崩壊斜面がある(埋もれ)のと、元々の道自体が崩れてそこが崩壊斜面と置き換わっている(削れ)のとでは、似ているようでも状況が全く違う。
そしてこの現場には、大きな2箇所の崩壊が連続して存在する。
さらにそれと対応するように、2箇所に本来の法面や路肩工のコンクリート部分が見えている(写真の赤い部分)。
位置から考えて手前のものは法面であるはずで、奥のものは路肩工なのだろう。
ということは、手前の崩壊現場は「削れ」であり、奥は「埋もれ」であると考えられた。
まるで一箇所にまとめられた「赤崩れ」「白崩れ」である(by二居旧道)であるが、前述の理由で、危険度がより高いのは明らかに「赤崩れ」の方である。
つまり、いま目の前にあるこの土の斜面が、おそらく本件突破の最重要難所である。
大袈裟でないかって?
見た感じ、大した斜面には見えない?
まあそうかも知れない。
だが、現実は足がすくむような斜面に他ならなかった。
そう見えないのは、あなたが土の斜面を知らないか、或いは私の写真が良くないせいだとしか言えない。
それでもやはり写真だけでは分かりづらいのも事実なので、何が怖いかを説明しよう。
この土の斜面は、幅5m弱である。
斜度は45度か50度か、そのくらい。
ここが恐ろしい最大の理由は、一見すると軟弱な土の斜面のようだが、実際はほとんど岩の斜面に薄く土が乗っているだけだということだ。
この写真をよく観察し、また足で実際にこづいてみると分かるが、黄色い部分はほぼ岩である。
その部分は、爪先などでは掘ることが出来ないほどに硬い。
残りの土や砂っぽい斜面についても、やはり石がたくさん含まれていて、かなり固めである。
そしてこの斜面を横断する際に手がかりとなるような灌木や、草付きが皆無である。
このことも非常な問題であり、ようは足先のバランス感覚と、場合によっては覚悟を決めて走り抜けてしまうような対応が必要なのである。
ちなみに、下はこんな感じである。
滑り落ちたら、死にはせずともどうなるか知らない。
この下は、間違いなく下段の道の法上に続いているであろうが、ショートカットに使う人がいたら尊敬する。
そういうレベルの斜面だ。
では実際にどうやって越えたかと言えば、ビビりな私は、写真のように一歩一歩爪先でステップを刻みながら進んだ。
(というか、私にはこの方法で越えることしか許されていなかった。)
だが前述したとおり、この斜面はとても硬く、横断し終えるまでに爪先が痛くなってしまった。
こういうことを想定し、前に折りたたみ式の携帯ショベル(L字スコップ)を装備品に加えたこともあったが、滅多に使わない割に重いので、この探索の時点では装備品から除外していた。なお、現在もやっぱり装備は見送っている。
それに、頑張った割にはさほど安定したステップが出来たわけでもなく、私が通過し終えた3日後には元の斜面に戻ってしまったことだろう。
続いて間髪入れずに、“白崩れ”であるが…
こちらは路肩工が生きているために、ご覧の通り
ミニ“松の木”を思わせるスパルタンな切れ落ち方をしている。
万が一落ちた場合の被害はこちらの方が数倍であろう。
しかし、初見で予想したとおり、こちらはほとんど問題にはならなかった。
おおよそ6mの斜面横断の最中、少し慎重すぎるほどにステップを掘り込み、
さらに爪先を痛くしてしまったものの…
私が通り過ぎた後には、このように(↑)
完璧な “突破通路” が完成していた。
13:09
へい、到着!!
最初にこの一連の大崩壊現場を目にしてから、ここに立つまで実に21分を要していた。
その大半は、たかだか4mの“赤崩れ”に道を刻もうという活動に費やされたが、
その成果は、はっきりいって危うすぎるものだった。
↓↓↓
ここに自転車を通過させるには!
自転車さえなければ、赤・白 両方とも駆け抜けるんでも良かったんだ。
ぶっちゃけ。
でも、自転車を担いで駆け抜けるほどの超人ぶりは発揮出来そうになかったビビリ故の、
三島通庸閣下も納得(はしないだろうが)の即席道普請であったワケだ。
でも
それでもやっぱり、
“赤崩れ”は、
恐ろしかった。
この場所を、私のクソ重い“鉄の塊”の自転車によって
両腕を縛られた状態で移動するのは、
なんど頭の中でイメージしても、
最悪の結末が脳裏をよぎってしまった。
そのため、一時は真剣に断念も考えた(マジで)。
だって、ここを自転車で無理矢理突破しても、
その先の道がどうなっているのか分からないんだもの。
これ以上リスクを冒して、引っ込みが付かなくなるのも怖かったし。
と、ここで突然に私に“廃道神”からの福音が!
金○一少年なみのヒラメキが、脳幹を貫いた!!
←これを
こうして(分解)
から→
運べばいいんじゃねーか?
――10分後――
13:18 (ここに来てからちょうど30分後)
やったー!!!
私はこの斜面をさらに3往復し(合計4往復)、自転車のフレーム、前輪、後輪というパーツをそれぞれ、崩壊現場の先へ進めることに成功した。
普段、車で自転車を運ぶためにあれだけ頻繁に「分解」しているのに、これまで敢えて探索中に難所の突破のためにそれをしようと思わなかったのは、完全に「走行時に自転車が分解するなどもってのほか」という、固定観念に囚われていたからだった。
そして、いざとなれば自転車をこうして軽量ないくつかのパーツに分けて運ぶことが出来る事に気付いたのは、このときが最初であった。
以後も、ごく少ない回数だけこれをやっている(六厩川林道で河床から林道へチャリを復帰するときなど)が、消耗する時間と体力が非常に大きく、私にとって自転車の分解運びはほとんど最後の手段であると認識されている。)
もうマジで突破したい!
させてください! お願いです。
チャリで峠を越えることが、
こんなにも大変な事であったかと、そう自問自答したくなるほど、
絶対に撤退が許されない終盤戦になってしまった。
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