2007/3/6 16:52 《現在地》
南北に細長い南無谷集落では、明治のルートと昭和の国道が合致しており、旧道はない。
南無谷の豊受神社から豊岡久保までは、前回も述べたように、明治30年に開通した区間である。
既に見飽きた光景ではあるが、歩道を持たない国道が、直接民家の軒先を通過している。
前の旧道の終わりから1km強進むと沿道の家並みが途切れ、短い上り坂の上に、8/10番目の隧道が見えてきた。
それが相変わらずの狭隘トンネルであることは、坑門に先駆けて現れた各種の黄色い掲示物から、明らかだった。
なお、前述したとおり、この区間(南無谷〜久保)には、明治の旧道は存在しない。現国道にある2本の隧道は、いずれも明治隧道ということになるわけだ。
だが、今私の前には、右へ分かれる小径がある。
これは、もしかして…。
私は小径へ入り込んでいた。
今目指すは、正面に明確な切れ込みを見せている、あの“鞍部”だ。
あれが単なる地形なのか、それとも人が通るために掘り割った“掘割り”なのか。
それを確かめたかった。
小径は尾根の間近へ迫ったが、最後は広場で行き止まりになっていた。
元々は民家が建っていたのかも知れないが、広場の正体は分からない。
ここまで来たのだからと、最後に木立の下まで歩みを進めると…。
はずれないな〜。
なんて可愛い道なんだろうか、国道127号とそのご先祖様は。
この道では、私の期待がことごとく結果に結び付いている。
私が心の赴くまま歩みを進めた先に、こんな地形図にない古道を用意して待っているなんて。
これは明治30年の初代車道よりも古い道の遺構だろう。
これと非常にそっくりなものを、今から4時間前に打越隧道の上でも目にしている。
4回前の回で引用した『観海漫録』の小川泰堂が辿ったのもここに違いない。
なお、切り通しを越えて南側へ下る部分は、宅地開発のためよく分からなくなっており、国道へ引き返した。
国道を再び走り始めた私を迎えたのは、こんな初めて目にする案内板(標識)だった。
坂下トンネル 対向車標示板?
なんでも次に現れる坂下隧道には、3つの表示が切り替わる標示板がある模様。
その表示とは「大型車接近」「対向車接近」「歩行者あり」で、上の二つはブラインドカーブなどで良く見る表示だが、「歩行者あり」はあまり目にした憶えが無い。
しかも、上の2つはセンサーか何かで自動的に表示が切り替わるようだが、「歩行者あり」だけは、歩行者自らが通行の際に押しボタンを押すことで、表示が切り替わる仕組みであるようだ。
かつて国道45号の槇木沢橋(岩手県)にも、同じ仕組みの「歩行者あり」押しボタンがあったが、トンネルで見るのは初めてだ。
来た! 坂下(さかのした)隧道!
確かに狭隘さに磨きがかかっている感じがするし、「対向車接近」と表示された電光掲示板が坑門前に設置されていた。
さらに路面にも「歩行者注意」のペイント(法定外表示)がなされている。
だが『道路トンネル大鑑』によると、この隧道の全幅6.0mであり、この数字は高崎隧道から始まった一連の隧道と全く変わらない。
また全長は短く、57mしかない。
にもかかわらず、ここより遙かに長い岩富隧道や南無谷隧道(いずれも全長250mクラス)にも見られなかった歩行者保護用の施設があるのは、一つは南無谷隧道にあるような歩行者が迂回できる旧道が存在しないこと。もう一つは、立地的により歩行者の通行量が多いということなのだろう。
例えば南無谷集落の子供たちは、富浦小学校へ通うために、このトンネルを通る必要がある。
地元の読者さんの情報によると、南無谷集落の小学生はバス通学をしているとのこと。したがって坂下隧道を歩行通学する事は、通常ないようです。
う〜〜〜ん! ローテク!!
押しボタンを押して歩行者の存在をドライバーに伝えても、それをドライバーが見逃してしまえば、押してないのと同じこと。
歩行者はトンネル内の“車道”を無防備に歩いている事に変わらない。
そもそもこの配置だと、ガードレールを乗り越えて車道内に入ってからじゃないと、ボタン自体が押せないじゃないか。
隧道内に歩道は1mmも存在せず、側壁直下に路肩の白線が敷かれている。
こんなキツキツの路面利用が出来るのも、この隧道がこれまでの隧道とは違った断面の形をしているからである。
側壁がかなり高い位置まで、地面と直角なのである。
つまり、逆U字形の断面である。
この断面が許されるのは、地質がだいぶ良い証拠だが、それ以上に感じられるのは、「戦時形」という印象だ。
実は一連の隧道群の中で、この8本目から10本目までは、戦中に建設・完成しているのである(坂下隧道は昭和19年)。
そういえば、同じく戦時中に完成していた城山隧道も、これと全く同じ断面だった。(なお、城山隧道には別に歩道トンネルが併設されていた)
ボタンを押してから、自転車で洞内へ進入。
ちゃんと「歩行者あり」の表示がでているかは、確認しなかった。
つか、自転車にとって通過するならば、押すべきじゃないのか?
それはともかく、内壁オール・パネル貼りの洞内は、歩行者が側壁に触れても、出来るだけ汚れが付かないようにと言う配慮だろうか。
それ以上になすべき配慮があるような気がするが、国道127号の狭隘隧道群は、富津館山道路という自専道バイパスの開通に満足し、改良への歩みを止めてしまうつもりなのだろうか? だとしたら、少々考え物である。
自専道が無料なのならば、いざ知らず…。
オブローダー的には今のトンネル群は好ましいんだけど、通行量が多いので、歩行者が恐怖を感じる場面は結構あったぞ…。
押しボタン付きの坂下隧道を突破すると、民家数軒分だけの短い明り区間(約70m)を挟んで、9/10番目のトンネルが姿を見せる。
なお、この明り区間には坂の下バス停があるほか、右へ分かれる小径を辿れば、海岸線へ出ることが可能だ。
そして海岸沿いに南進すれば、9/10番目の歩道無し隧道をスルーして館山方面へ進むことも出来る。
私は真っ直ぐ国道を進んだ。
こいつが、久保隧道だ!
一目で短小隧道と分かる短さであり、全長たった25mしかない。
この数字はもちろん房総国道中最短の隧道…かと思いきや、これでも下から2番目であった。
一番短いのは、明鐘岬区間にあった全長24mの汐吹隧道で、こちらは1m長い。
しかし、竣功はこちらのほうが8年早く、昭和18年に完成している。
そしてこの隧道は、坑門も内部も共に素掘であると思われる。
コンクリート吹付けがなされていて、はっきり断言はできないが、この微妙な凹凸はそうとしか考えられない。
惜しむらくは、両側坑門ともロックシェッドが接続しているので、扁額の有無が確認できない事だ。(素堀隧道の扁額は珍しいので)
同一レベルに連続する2本の狭隘短小隧道を、振り返って視線串刺し。
押しボタン式歩行者通行現示装置があるのは、坂下隧道だけである。
久保隧道は全長が短いためか、前述の通りその気になれば回避できるためか、
同装置は設置されていない。
明治30年竣功の明治隧道が、2本も連続して
国道として活躍している様な場所は、きっとレアだろう。
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17:04 《現在地》
2本の隧道を抜けると、豊岡の集落である。
ここも南無谷集落とよく似た風景で、国道の両側に家屋が密集しており、歩道が無い。
そして、集落の前後を隧道に挟まれている(既に見えている)。
現在の地図や住居表示の地名には久保という名前は残っていないようで、久保隧道があるだけだが、南無谷新道の明治30年工事区間は「豊岡久保〜南無谷豊受神社」と記録されており、ここがその久保であるらしい。
前方に信号機が見えるが、そこは(本日)最後の旧道分岐地点である。
最後の旧道を抜ければ、間もなく今日の旅のゴールである。
交差点を左折すれば旧道…なのだが、私は右折していた。
右折して細い路地を通り抜けると、そこに海があった。
夏は多くの人が海水浴に訪れる、豊岡の砂浜である。
今日の旅で海は何度も何度も目にしてきたし、間近に潮騒を感じる場面も少なくなかった。
中でも旧明鐘隧道との遭遇が今日一番の興奮シーンだったが、あのときも波が足元に迫っていた。
今日の旅の大部分は、海と山のつばぜり合いに巻き込まれた道路の苦難に、他ならなかった。
それだけに、最後は今一度、海だと思ったのである。
それも、とびきり優しい海に、逢いたかった。
今日一日の無事な成果を、報告したかった。
出来すぎた一日だった。
右に見えるは法華崎、左に見えるは大房岬。
輝く小湾の遙か向こうには、水平線に棚引く伊豆半島の陸影があった。
完全に日が暮れるまで佇んでいても良かったかもしれないが、そこまで贅沢に時間を使えないのが、探索貧乏(探索中はとにかくせせこましく動きたがる)な私の性格。
5分ほどで再び自転車に跨り、忘れてはいけない最後の隧道へと移動を開始した。
この隧道は逢島(おおしま)隧道といい、国道127号が千葉〜館山間に指定された昭和28年当初から存在したトンネルの中では、最も館山寄りにある。
竣功は昭和17年と早く、全長26mは房総国道で3番目に短い。
私はここで、この距離のまま数枚の写真を撮影してから、旧道へと向かった。
だが、望遠で撮影した写真には、あとで「近付いて確認すべきだった」と悔やむ羽目になるものが写っていた。
穴の数が余分にある。
左から順に、車道の逢島隧道(昭和17年竣功、全長26m)、歩道の逢島歩道トンネル(昭和46年竣功、全長27m)。
ここまではOK。
だが、その右側の海蝕崖の露頭に、歩道トンネルよりも遙かに小さな二つの穴が口を開けており、そのうちの一つはあり得ぬ位置にありながら、貫通していた。
撮影した私は、これらの穴の存在に気付いていた。
にもかかわらず近付いて確かめなかったのは、砂浜で今日の探索を終えたという気持ちに(モードが)切り替わっていたことと(2007年の私は今よりも草食系だったのか)、漠然とこれらの穴の正体を防空壕や軍事施設の跡であろうと考えたからだった。
この二つの穴の正体は、現時点で不明。
だが、この二つの穴の他に、現地では私の意識に上がらなかったものが、写真には写っていた。
気付いていれば、おそらく探索を行なっただろうそれは、石垣である。
下の穴と同一レベルに、房州石の布積み石垣が見えている。
その石垣の左端は逢島隧道に切り取られて消滅し、右端は露岩の先を回り込むように続いているが、向こう側がどうなっているかは未確認だ。
石垣上には土砂が堆積しており、そこに根付きの切り株がいくつも並んでいた。
最近まで完全な廃道であった部分に、何らかの手入れが進みつつあったように見える。
もしかしたら2013年現在では、ここが異なる利用をなされている可能性もある。
この石垣については、道路の遺構である可能性が限りなく高いと思う。
一方、二つの穴は道路隧道ではなく、防空壕か軍事的な人工洞窟である可能性が高いと思うが、確認する必要がある。
上の図は、明治13〜19年頃に作成された迅速測図と呼ばれる地形図であるが、
ここに南無谷新道が開通する以前の海岸沿いの道が描かれている。
そして、その道は今回「穴や石垣」が発見された岩場を通っており、坂下隧道付近で発見した掘割も通っている。
(この件はいずれ再訪して確認しようと思っていたが、今日の今日まですっかり忘れていた…
万一道路隧道ならば、大変な事であるが…)
さて、最後の旧道だ。
現国道から左へ入ると、道はすぐに狭い路地へと変わり、上り坂となる。
両側には住宅が密集しているが、古い町並みという感じはあまりしない。
そして短い上り坂の先に、思いのほか高い尾根を背負って、南無谷崎区間では5本目となる旧隧道が見えてきた。
旧逢島隧道と言いたくなるところだが、台帳によれば、この隧道には別の名前が与えられている。
聖山(ひじりやま)隧道という。
たいそうな名前である。
逢「島」隧道は海岸線の近くにあり、確かに岬の突端には同名の島が浮かんでいる。
一方で聖「山」隧道は同じ尾根をくぐるものだが、50mほど山手にあり、この尾根を内陸へ向かって最初に現れるピークが聖山である。
聖山の名は地形図などには記されておらず、地元の人でなければ通じないだろうが、里見氏の山城跡(岡本城)だった所で、今は里見公園という公園になっている。
聖山隧道は明治29年の竣功で、南無谷新道にあった5本の隧道の中でおそらく最初に開通している。
全長は43mであり、逢島隧道よりも一回り長い。
完全素掘&内壁コンクリート吹付けである点は、生活道路として生き続ける旧小浦、旧南無谷の2隧道と同じである。
また、旧小浦隧道では口を開けていた洞内の防空壕が、こちらはしっかり埋め殺されていた。
こう言うのを見ると、壁の向こうには誰も近付けなくなった空洞がいささかでも残っているのだろうかと、戦慄する想像を働かせてしまう。
聖山隧道南口の風景。
右の小高い山が聖山である。
この場所には近世、明治、昭和と、少なくとも3世代の道があり、渚→山の隧道→海の隧道と、慌ただしく位置を位置を変遷させた可能性が高い。
最後の最後まで、この日は濃厚な道路体験に酔いしれた。
17:54 《現在地》
最後の旧道が国道と合流した地点から700mほど走って、ゴールの富浦駅へ到着。
(余力があれば館山市内の国道127号終点まで行くつもりだったが、タイムアウト)
輪行の準備を整えて時刻表を確かめると、次の帰り方向の列車は約1時間後だった。
「なに〜!」と思ったが、既に辺りは薄暗く、どこかを探索する感じではない。
何より、私はもうクタクタになっている。
国道127号で木更津〜富浦を真っ直ぐ走れば約50kmだが、旧道への寄り道、旧道から現道へのさらなる寄り道などを全て足し合せれば、3割増しで走った気がする。
現に10時間もかかっていた。チャリで時速5kmかよ(笑)。
ということで、駅に解体した自転車を置き去りにしたまま、プラプラして時間を過した。
びわソフトクリームを楽しんだり…
便座に腰掛ける女性の脚部を模した(?)モニュメントを物憂げに眺めたり…
ベンチに腰掛けて、うつらうつらしたり。
やがて約束の列車はちゃんと現れ、私の10時間を高速で巻き戻した。
完 結。