2018/4/26 6:37 《現在地》
また一つ、私は伝説を作っちまったなぁ〜。
端から見れば相当ウザいが、ここに有頂天の私がいた。
海食崖を高さ20m以上もよじ登って、旧道へのアクセスを成功させる一歩手前まで到達したのだ。
命のやりとりを実感した直後に必ず感じる開放感が、私をとても陽気にさせた。
左の写真は、背後の斜面を振り返って撮影したもの。最後まで横断できない急峻な部分があり、それを巻くために海面からおおよそ20mの高さまで登って突破した。
右の写真は、さきほど崖下から見た写真の振り返りで、どのように登ったかを大まかに表示したが、この通り移動すれば安全というわけではないので、信頼はしないようにお願いしたい。
……まるで、大変な新ルートを開拓したような浮かれようだが、実は私が歩いたルート、この旧国道を訪れるための必須ではない。
いま私がいる場所へは、前回の冒頭に思考した“第3のルート”こと山越えルートで、比較的安全に到達できる可能性大だった。
写真は私が背にしている尾根を見上げたもので、道のようなものは見当たらないが、普通に踏破出来る斜面だろう。
高低差は50m以上あるので、それなりに大変だとは思うが、崖をよじ登るよりはマシだと思われる。
もっとも、山越えルートでここまで辿り着いたとしても、さらに先にある3本目の隧道へ進むためには、湯内川河口の浜を通過する必要があるため、私がやったような崖の登降が必要になる。
だから、私の挑戦も無駄骨だったわけではないし、万が一、登ってきたところを下れなくなったとしても、山越えで生還できると思うことで、気持ちが軽くなった。
ここに到達したことで、ようやく落ち着いて観察することが出来る、第1と第2の隧道に挟まれた明り区間。
明り区間の長さは目測50m程度でしかなく、その大半が橋の上にある。
しかも、短い区間に橋は2本あり、1本は湯内川を、1本は巨大なクレバスのような岩の凹みを渡っている。
本来あるべきガードレールがないせいもあって、極端に薄っぺらく見えるが、実際薄い。
橋に挟まれたわずかな地上部も切り通しになっていて、この道が地形との交渉をすっかり決裂させてしまっていることを強調している。
力業というよりほかにない。
そして、ずっと音だけを私に聞かせていた湯内川河口部の滝も、ここでついに目視できるようになった。
ちゃんとした名前があるのかも知れないが、分からないので単に湯内川の滝と呼ぶ。しかしこれが予想以上に凄い滝であり、滝マニアではない私が興奮に震えた。
巨大な滝だ!
この川を交通路として利用することを、人にも、魚にも許さない、
雷電山への入登を圧倒的に拒絶する姿だった。
草木の命さえ穢れと断じる、冷徹な海の機関を思わせる河口の浜では、
世界で一番に透き通っているのではないかと思えるような、海と川の水が、
人類とは全く無縁に出会い続けていた。私はこれほど清澄な水の景色を見たことがない。
そしてなにより私を高揚させる―
ここに楔を打ち立てた、人の力よ!
ハハハはははッ! 雷電山から迸り、海を満たす全てが、
我々の道の下を潜っておるわ!!
人の栄華は、この絶景を、無言に通り過ぎるだけの場に変えてみせた。
この位置に立て眺めれば、雷電を描いた全ての絵葉書に勝る最高の絶景があるのに、
道はそれをひたに隠し、道としての鉄仮面を、最後まで脱がなかった。
当時、この凄さを知っていたのは、おそらく建設に携わった人々だけだ。
だが俺は知った! はははははははっ!
私の快哉を表現したような、巨大な岩の破顔せる横顔が、次の岬で海を見ていた。
立派な口髭を蓄えた、アイヌ酋長(しゅうちょう)を思わせる顔貌だった。
奥の岬に刀を置いたという伝説の武蔵坊弁慶と組み合えば、怪獣映画そのままのスケールだ。
ここから見る景色は、とにかく普段のもののスケールを狂わせかねないほどに、大きい。
小さな私が、次の岬を攻略し、最終目的地に辿り着けるか、こんなにドキドキして私は幸せ。
これより、あらゆる道から孤立した滝の上の旧国道への上陸を開始する!
ここまでの苦労を思えば、残りの行程は平易に思えるが、決して油断は許されない。
この写真に描いた線のようなところを歩いて行くので、うっかりすると滝へ落ちる。
そんな縁に近い所を歩く必要はないじゃないかという反論もありそうだが、チェンジ後の画像で分かるように、道路に近づくほど、そして高い位置ほど傾斜がキツいために、下手に高巻きをしてスリップすると、その勢いのまま滝へ滑落するリスクが大きいのだ。
この草の斜面は濡れ土なので、先ほどの岩場に比べると、遙かにスリップの危険度は高かった。
見た目の怖さと、実際の危険の大きさが、比例しない例といえるだろう。
次の写真は、ちょうど“線”の先端辺りで撮影した、足元の景色だ。
怖えぇ!!!
こんなに近くから滝の落ち口を見下ろすこと自体、廃道探索ではあまりあることじゃない。
しかし、水を見ていてはいけない。疾いようで遅いようで、目眩がする。連れて行かれそうだ。
凄まじい断絶の奔流だった。直下に叩きつけられる水の行く手には、普通なら巨大な滝壺があるはずなのに、ここにはそれがない。
常に海が新しい礫を連れてきているのだ。
つまりそれは、今日の穏やかな海がかりそめあることの証明だった。
場合によっては、激浪の海面に直接滝の落ちる状況があるということ。
滝は2段からなり、上の段は落差こそ小さいが、ぶっ壊れたジェットバスみたいな滝壺を持っていて、メインである下段の滝を幅広で豪壮な姿にする役割を持っている。
この滝壺も長く見るのはオススメしない。
浮かんだ朽葉の束が、いつまでも滝から落ちることなく回っていて、我が身の不吉を想像してしまう。ひと思いにやってやれ。
6:41
このやろう!
まだ観念しないのか!
かなりヒヤヒヤしながら草と土の急斜面を横断して、ここまで辿り着いたというのに、
道路はここに来てもまだ、私を拒絶する姿勢を崩さない!
今の私が完全に道の利用者ではなく、来襲する外敵の扱いを受けていることを痛感する。
無理矢理、邪魔な壁面を乗り越えて路上に立つことも考えたが、万が一、
一方通行で戻れなくなったら、最悪だ。この狭い孤立した路上で、
人知れずミイラ化死体になるか、自殺を強制されるだろう。
(←)
現在、坑門の直上を回り込んでいるが、ここは地味にもの凄い緊張の場面だった。
あまりの緊張のため、眼下の景色に目を楽しませる余裕はなかったようで、貴重なこのアングルのショットだが、少し手ぶれした1枚しかなかった。
私が何に緊張しているか、言うまでもないだろう。
間もなく判明することだが、次に左側から道へ上陸出来ないと、結局この区間には立てずに終わることになる。
(→)
同じ位置から見た、そしてやはり初めて目にする、湯内川の滝より上流の風景。
執拗に草が生えているが、絵に描いたようなV字谷の回廊だ。
とても私が通行できる場所ではないので、安易なルートで山越えを目指していたら、破滅したかも知れない。
そして、このような地形であるからこそ、橋の上に立てるかどうかは、本当にシビアなギリギリの決着になる恐れが高かった。 タノム!
タノムタノムタノムタノムタノムタノムタノムタノムタノムタノムタノムタノムタノムタノムタノムタノムタノムタノムタノムタノムタノムタノムタノムタノムタノムタノムタノムタノムタノムタノムタノムタノムタノムタノムタノムタノムタノムタノムタノムタノムタノムタノムタノムタノムタノム
行けるぅううううう!!!!!
マジで、ホッとした……。
へへへ…
来れちゃった。
Post from RICOH THETA. - Spherical Image - RICOH THETA
6:49 《現在地》
ついに辿り着いた、旧国道。
はっきり言って、ここの路面に立つということには、自己満足を満たす以上の意味は全くない。
前後のトンネルが完全に封鎖されているこの場所は、完全なる袋小路であり、どこへも通じていないし、
平成14年度まで我々が使っていた土地を再び踏むという意味しかない。
この全天球画像が1枚あれば、あとは説明の必要もないような狭い場所だが、折角なので、骨の髄まで味わおう。
まずは、弁慶隧道の南口を観察する。
このように全体像を撮影しようとすると、自動的に湯内川に架かる橋を半ば以上渡らないとならないが、この橋については次に紹介する。
なんといっても特徴的なのは、両側にある短い翼壁だ。
通常、このような翼壁の裏側は地山になっていて、空間があることはないのだが、この翼壁の裏側は空いており、現に私はそこを通るイレギュラーなルートから、辛うじて路上に到達することが出来た。
高さは3mくらいあるので、徒手空拳で乗り越えることはできない。
現役当時も、ここから背後の山へアクセスすることは、全く考慮されていなかったはずだ。
最後に小窓を塞いだ痕跡だけを残して、完全に密閉された坑口。
この痕跡の存在は、一連の旧道区間のトンネル閉塞が、南から北へ向かって(つまり私の探索とは逆順)行われたことを示唆している。
そしてもう一つ気付いたのが、坑門に掲げられた扁額の違いだ。
チェンジ後の画像は先に見た北口のものだが、こちら南口の扁額とはだいぶ違っている。
明らかに南口の扁額の方が現代的なもので、もしかしたら現役時代に坑門の微妙な延伸が行われたのかも知れないが、扁額以外の外装は十分に古ぼけている。
さらに、このようなものを見つけた。
これら2枚の写真は、左右の翼壁と坑門の接続部分だが、両側に銘板があり、その銘板が斜めに切断された上に翼壁が接続されていた。
この状況から、翼壁が後補のものだと判明したが、扁額に次いでトンネルの顔である銘板を、取り外すでもなく、コンクリートカッターで断ち切るような施行が行われていることに、愕然とした気持ちになった。しかし、この無残な形状が残っていたおかげで、翼壁が後補だと判明したので、役立ったともいえる。
だがもう一つ不思議なのは、なぜ両側に同じ銘板があるのかだ。
これまで見てきた坑口でも銘板はかなりの頻度で見たが、いずれも左右片側に1枚だけで、両側というのは初めだ。
残念ながら破壊されているために記載の内容を確認できないが、この謎の解決として考えられるのは、左右の翼壁が同時に建設されたのではなく、先にどちらかを建設した時点で銘板を反対に新設したが、後に残った一方にも翼壁が建設されたという説である。
これらの画像は、昭和63(1988)年に刊行された『北海道の道路トンネル 第1集』に記載されている、弁慶隧道の両側坑口の現役時代の景色である。
最初の画像がいまいる南口で、チェンジ後の画像が既に見た北口である。
これを見ると、南口の翼壁は既に両側に存在しているが、扁額は北口と同じ石版であることが分かる。
また、この写真で初めて気付いたのであるが、南口には坑門を山側へ1mほど延伸した痕跡がある。
こうすることで、翼壁との隙間から落下物が路上に入ることを防いだのだろう。
おそらくだが、翼壁は先に海側のものが増設され、後に山側にも増設されたと思う。
その痕跡が、この坑門の顕著な色の違いだろう。(現在もこの色の違いはあるが、現地で増設とは気付かなかった)
また、南口の扁額が付け替えられた理由は不明である。
さて、次はこの古い写真だと親柱や高欄が写っているが、現在それらは見当たらない湯内川の橋を見ていこう。
ドライバーの視点に徹する場合、この橋ほど魅力と凄みを表現しにくい橋は、なかなかない。
私はここへ到達する過程で嫌というほどこの橋の凄み……どんな場所に架かっていて、いかに壮大な人類賛歌の感情を私にもたらしたか……を知っているが、橋そのものは高くもなく、長くもない、平凡なコンクリート橋でしかなく、ましてこのように親柱や高欄といった鑑賞の対象まで取り払われて単なる路面のみになってしまうと、語る言葉は極端に減ってしまう。
この路面に人が立つ機会の珍しいことを自慢することや、この次に待ち受けているトンネルに早く近づいて見たいということしか、コメントが思いつかない。
あ、あと、この橋の名称だが、現地では知る術がなかった。
いかにも逃げ場がなさそうな、湯内川上流方向の風景。
2本のトンネルに挟まれた短い明り区間だったが、こんな景色では、実質的にはトンネル内とあまり違わなかっただろう。
弁慶隧道は長さ210mだったが、たったそれほどの距離で人心地のつく温泉郷に出られるとは思えない、トンネル1本で景色が劇的に違っていた。
下流側の路端から下を覗くと、本当に滝の落ち口である。
滝の奥に見える狭い河口の浜は、この景色の中で唯一の穏やかな顔をしているが、その前後に難所を抱えていて、まだ私は辿り着くことが出来ていない。
あわよくば、この旧道の上から楽にアクセス出来るルートを発見し、【この絶壁】をへつって歩くことを省略出来ればと思ったが……
まあ、そんな都合良く行かないよな……。
やっぱりこの旧道は袋小路だ。
私には、この滝の脇を上り下りするなんてことは、ちょっとできそうにない。
転落防止柵が全くない橋から見下ろす滝壺。
落ちたら死ぬだろうが、楽に死ねそうにはない、微妙な高さだ。
こんな怒濤の水が流れ込んでいるのに、背後の海が全く動じていないのも、不思議な印象。
この景色、誰もが息を呑む凄いものだと思うが、旧道と一緒に閉ざされてしまったのだから、惜しい。
続いて、第2の隧道へ向かう。
見ての通り、こちらも完全に密閉されているので、中へ入ることは出来ないが、ここまで来て近づかないことは考えられない。
これまで謎だった隧道名も、間もなく判明するだろう。
扁額と銘板が共に健在であることが、ここからも見て取れた。
隧道へ近づくと、右側にだけ低い欄干が現われた。
この部分は、接近してくる最中に見た通り、桟橋になっている。
おそらく鉄製で、その薄っぺらさに度肝を抜かれたのであるが、橋上にいる限り、そのことを意識することはない。
また、致命的な規模ではないが、多量の瓦礫や土が路上に山積しており、この小さな旧道区間内では最も荒れている。
大規模な崩落が起きて、その衝撃で隧道の閉塞壁が突き破られたりしないだろうかと考えてしまうのは、ワルだ(笑)。
隧道の前に、橋をチェックする。
先ほどの橋は、親柱も高欄も意図的に撤去されたようで失われていたが、本橋には一部現存していた。
残っているのは海側の高欄の3本の支柱と、南側の親柱だ。北側親柱は転落したのか見当たらず、また山側は法面に接触しているので、高欄自体設置されていなかったようだ
そのため、通常なら4本ある親柱が1本しかないのだが、その1本に銘板が健在であった。
雷電橋。
それが、この橋に与えられた名前だった。
相当広大な雷電海岸や雷電山がある区域の中で、この小さな桟橋に与えられた名前としては、いささか大仰に思うかも知れないが、それはこの橋の上面しか見ていない者の感想だろう。
この橋が架かっている地形の難しさを外から見たことがある者には、これぞ雷電の険悪を人類が克服した、その象徴に値する橋だと信じられるのである。
橋の下は、こんな感じ。
高さは15mくらいもあり、上り下りする余地は全くない。
風化して土が浮いたような崖なので、とても踏み込めない。
しかし、この橋の構造が謎だ。
以前、横から見た時には、錆びた鉄の色だけが見えたので、異常に薄いプレートガーダーかと思ったが、そう見えていたのは高欄の外に渡されていた鉄骨で、この鉄骨と橋の本来の床板は繋がっていない。鉄骨の正体は、現地で分からなかったが、帰宅後に判明した。
いずれ、橋の構造は下から見てみないと分からないものだが、ここにそれをする余地がないので、後回しだ。
問題は、この橋の下を訪れることができるかどうか。
ここからは湯内川河口の狭い浜辺が一望できたが、私が岩場を登ってきたラインを黄色い線で示した。
このようによく見える浜だが、辿り着けるルートは、おそらく一つしかない。
それは、海岸の岩場をへつって歩く、水色で描いたルートだ。
……これは、悩ましい……。
が、ここで悩んでいても仕方がない。
雷電隧道。
それが、2本目の隧道の名前だった。
雷電橋と雷電隧道が、セットで並んでいたわけだ。
雷電国道としては、この地点こそ雷電の核心部だったという印象を受けるネーミング。
なお、弁慶隧道の時にも指摘した新旧トンネル間での名前被りが、ここでも発生していた。
現在使われている雷電トンネルは、平成15年3月17日に開通したもので、こちらの雷電隧道が廃止されのは、同じ年の2月7日に刀掛トンネルが開通した時点である。
雷電トンネルという雷電海岸の中心的存在を思わせるネーミングは、わずかな期間を空けて、遙かに巨大なトンネルとなって復活したのであった。
片洞門というほど頭上の岩場は大きく迫り出してはいないが、それでも強烈な圧迫感を受けた。ほとんど草木の育っていない裸の岩場に、角が風化した丸くなったトンネルが突き刺さっている。この場所自体が空中で、私は本来の地面に足を付けていない。
人はこれほどのものを作り上げたのに、使い終わると後片付けもそこそこに、ただ通路としての機能だけを取り払って立ち去った。
人の世からは滅多なことで見えなくなったが、物はこうして厳然と残っている。
この“空中”は、いま誰のものなのか。
染み出で濡れているが、健在だった銘板。
「 発注者 小樽開発建設部 施工者 金沢組建設株式会社 」
竣工年や長さなどの記述はなく、分かったのは発注者と施工者のみ。
知りたい情報は、この反対側の坑口にありそうな気がするが……、辿り着けるのか。
これは、『北海道の道路トンネル 第1集』に記載されていた、現役時代の姿だ。
廃止後の姿とは、予想を越える違いの大きさがあって驚いた。
これまで、現役時にここを通ったという読者コメントの多くが、ここに橋があったことを知らなかったと書いていたが、さもありなんだった。
後補のものなのだろうが、このような立派な鋼鉄製の覆道が設置されていたとは思わなかった。
雷電橋は、覆道内部に覆われた橋だったのである。
しかし、この写真により、現地では謎だった雷電橋の鉄骨の正体が判明した。
鉄骨は、覆道を支える梁だったのだ。
それにしても、廃止後にわざわざ覆道を撤去した理由はなんだったのだろう。
撤去されていない場所もあるだけに、気になるところ。
理由は分からないが、雷電橋と雷電隧道が、廃止されたことによって、開通当時の姿を取り戻していたのは興味深い現象だ。
開通当時を知る人がこれを見たら、懐かしいという感慨を持つだろうが、実際に目にした人は、ほとんどいなかったはずだ。
私はいま、二重の意味で失われた、過去の風景を目にしている。
ここから、完全封鎖の雷電隧道を越えて、まだ見ぬ最終目的地である3本目の隧道へ到達するには、
あの河口を経由して、磯伝いに行くしかなさそうだ。
すぐそこに見える河口が、私には遠い。
この非力な人間を、車に乗ったまま移動させていた道路の、なんと偉大だったことか。
6:55 《現在地》
孤立無援となった二隧二橋の旧国道での滞在時間は、おおよそ6分。
一通り見終えたので、これより脱出する。
お読みいただきありがとうございます。 | |
当サイトは、皆様からの情報提供、資料提供をお待ちしております。 →情報・資料提供窓口 | |
このレポートの最終回ないし最新回の 【トップページに戻る】 |
|