見上げれば覆い被さってくるほどに迫力ある岩山の光景は、私に自分がいる場所を、ある程度明確に示してくれた。
感激の43kmポストの発見から1時間と10分ほどが経過し、現在時刻は午後4時半。
幸い、私がいるのは西向きの斜面なので日没まではまだしばらくありそうだが、それでも、絶対の活動タイムリミットまで、もう2時間はないはずだ。
私は、もし42kmポストというのが実在するならば、おそらくこの傍だと思える地点にあった。だが、残念ながら、その発見はならなかった。
こうなると、この先に41kmポストが存在するかも怪しくなってくるし、そもそも、ここまで目立った分かれ道など無かったが、どこか途中で本当の県道を見失ったのではないかという大きな心配が湧き出してきた。
不安材料はそればかりではなく、地形図を見る限り、県道を示す点線はこの付近で高度にして30mも斜面を下っているのだ。
この部分は、実は入山前から不安視していた部分である。道が判然としているならいいが、薮道での下りは、特にルートを見失いやすいのだ。(下りすぎるのが一番怖い)
この時私がいる場所は、おそらく霊山の不通区間の中でも、もっとも両側の出入り口から離れた辺りだと思われる。
それ故に、ここまで来る人もまず無いのだろう。
この不通区間も初めのうちこそ、造林関係者のものと思われる足跡や、或いは空き缶などが時折あってホッとさせたが、43kmポスト辺りからそれもなくなり、当然のように刈り払いもされていない。
そんな場所に、私は、この道に入って初めての、石垣を発見した。
ともすれば見逃すところであったが、道から1mほど上方の笹藪の地面がただの土ではなく、様々なサイズの石を積み上げた簡易な石垣であることに気が付いたのだ。
それは、幅2m、高さは1mほどであった。
地形的に、道路の法面とは考えにくい。
はたしてこれはなにか。
まさか、南北朝時代の遺跡なのか。
接近してみる。
規模は大きくないが、間違いなく人工的なものである。
さらに、背景色と混ざって気が付きにくかった(写真でもおそらく気付くまい)が、石垣の中央部に岩ひとつ分の空洞があり、石垣の裏の地面が見えている。
これは、やはり法面の石垣などではなく、裏に何らかの空間があるぞ。
やはり、遺跡なのか?!
石垣の裏には、やはり深さ1m、幅1mほどの小さな正方形に近い凹みがあり、その奥の壁も石垣であった。
左右は木の根や土に覆われ見えない。
どうもこれは、炭焼きの窯のような気がする。
もともとはこの上に覆いがあって、手前の石垣の穴から空気を送り込んだり、かき混ぜたりしたのではないか。
炭焼きは、産業に乏しい山村でごく近年まで貴重な現金収入源として行われたが、山で伐った薪をそのまま山中の炭焼き場で焼いてしまうということを、以前ORJに紹介した山形県のある「炭焼き道」調査時の聞き取りにて聞いた。
これまで、炭焼き場跡に遭遇したことはなかったが、この場所こそが、里から遠く離れた炭焼き場の跡ではないだろうか。
私は、再び前進を開始した。
ここまでで最高の不安感を覚えながらも、まだ細々と道形が続いていること、なにより、引き返すにしてもその道程も容易ではないことから、突破の可能性に賭けたのである。
そして、動き出してすぐに、その場所は現れた。
目の前には、これまで現れそうで、それでいて現れなかった、致命的と呼べるような崩壊地が、出現した。
ここまでは、たとえ笹藪で路面がまったく見えなくなっても、その路面が降り積もった土砂のために全て谷側に向いた緩やかな斜面になっていても、それでも、そこに道が通っていた最後の砦と言える、路盤の痕跡だけは残っていた。
だからこそ、「道はあるのだ」と言う確信を持って進むことが出来ていた。
だが、ここでついに、路盤は途切れ、荒々しい岩場が露出していた。
その先に目を遣っても、確固たる道の痕跡はなく、ただ、落ち葉が厚く堆積した雑木林の急斜面が、見渡す限り続いているのだった。
おそらくは、この辺りが素人である私の、安全を保証できる限界のポイントだろう。
ただ、引き返す前に気になるものを見つけてしまった。
大きく抉られた斜面の反対側、今いる場所からおおよそ10m程先の斜面に、石の標柱の様なものが見えていた。
そして、ここまでもこの標柱は無数にあって、私に「ここが道だよ」と、暗に示してくれている気がしていた。
その「石柱」というのは、これである。
この写真は、まだ道がこんな風になる前の、途中にあったものを撮影したものだが、この「文部省」と刻まれた石柱(というか、標柱)は、登山道県道の終盤から現れ始め、点線区間に入ってからは100m置きくらいの、かなりの頻度で現れていたのだ。(そして、霊山庵にもあった)
おそらく、この標柱が示しているのは県道ではなく、「国の史跡」に指定されている霊山のその指定範囲の境界線であろう。
しかし、その境界線が、ただ何もない山中ではなく、昔から存在するこの点線(県道)を目安にしている可能性は高い。
そう考えて私はここまで、時折あらわれるこの石柱を、滅多に現れないキロポストに替わる、“頼り”としてきたのだった。
もし、崖の向こうに見えるものがこの標柱ならば、道はまだ続くのかもしれない。
初めてチャリを置き、単身で見に行った。
果たしてそれは、間違いなく文部省と書かれた、例の石柱であった。
さらに、石柱前の崩壊地を乗り越えさえすれば、そのさきには、落ち葉に埋もれて分かりにくくはなっているものの、なお道の痕跡があることを確認した。
私は、このような崩落地が、最初で最後であることを心底祈りながら、チャリのフレームを片手に、もう片方の手でハンドルを持ち上げると、滑りやすい落ち葉の斜面へと進み出た。
少しの後、右の写真一枚を撮りつつ急傾斜地を無事に突破した。
だが、私はこの突破によって、ゴールが近付いたと言うよりも、退路を断たれたという、より大きな不安を抱くことになるのだった。
ますます広がる不安を少しでも解消してくれたのは、行く手に見えた何かの建物である。
まだ、相当に遠いが、おそらくあれは「霊山こどもの村」の施設ではないだろうか。
遠いとはいえ、「そこまで行ければ確実に生還」という目的地が見えたことは、大きな心の支えになった。
私は、カーブを曲がる度に新しい顔を見せるその道の挙動に、不安や期待といった気持をめまぐるしく抱いた。
舞台である道自体が私に対し、何らかの演出をしているわけでは、当然ない。
道には意識などというものはないのであって、ただただ、自然の摂理に任せているだけだ。
人の手を離れた道、廃道とは、そう言うものなのである。
崩れやすい場所は崩れ、日当たりの良い場所は笹藪となる。
そこに気が付くと、ますます廃道歩きは、「怖く」なる。
こっちが幾らピンチになっても、また、幾ら懇願しても、幾ら努力をしても、望む結果が付いてくる保証はない。
テレビアニメのような感動のドラマは、予め用意などされてはいない。
廃道を歩く者は、困難な局面になるほどに冷静で無ければならぬ。
それは、廃道あるきの、掟ともいえる。
西日に照らし出された山肌は、なお険しさを失ってはいない。
これから乗り越えねばならぬ斜面には、そこに道の存在を想像させるようなものは何もなく、おそらく麓から見ればこの辺りが岩場と岩峰との境目なのだろうと思われる、岩場と林が混ざり合った景色となっている。
実際にそこへ立ってみると、遠くから見た景色と印象は違わず、巨石が斜面にごろごろしていた。
道の痕跡とおぼしき僅かな踏み跡(というか、本当に微かな平場)は、この巨石を避けるように、小刻みに上へ行き下へ行き、全体としては下っている感じだった。
このあたりが、おそらくは地形図上での、30mほど高度を下げている場面か…。
もしそうでないとしても、もはやどこかに分岐があったのかと、前向きに取り組める時間ではないし、そんな場面もなかった。
時刻は午後4時40分をまわり、引き返すタイムリミットは過ぎていたが、もはやこの針穴のような道筋に日没前の生還を賭けた。
(なお、万一日没となっても良いように、食糧や水は十分所持しているし、防寒具、雨具、ライターなども然りである。無鉄砲に山へ入っているわけではないので、読者の皆様も気を付けていただきたい。)
いままででもっとも大きな水場があった。
ここでは、ゴツゴツとした岩場を、沢水が踊るように下っていた。
見上げると、木々の向こうに、周囲を取り囲むような岩峰が見えた。
いやに空が遠く見えるのは、夕暮れが近いせいか。
既に日が当たらなくなった場所からは、どんどんと日中の温かさが失われていく。
こんな、夕暮れと競争するような探索では、一度日影に入ると次に日向に戻ったとき、一気にその明るさが失われていたりして、余計に寂しく感じることがある。
だから、夕暮れの日影は嫌いだ。
もはや、路面が見える場所は少なくなっていた。
笹藪が大半の場所を埋め尽くしており、前半の道が比較的容易であったのも誰かのお陰だったのだと気が付いた。
一度でも刈り払いをすると、笹というのは繁殖力がおう盛でありながら、刈り払いされた場所はしばらく遠慮するようだ。
それは、笹が払われてもしっかりとした切り株(株ではないが)を残し、その株が再び芽吹くと言うことがない性質によるものだろうか。
だから、私の経験則では、笹に覆われた道というのは、もう何年も刈り払われていない場所ということになる。
あっ あー…
綺麗な道が見える……
この時、私はかなり物欲しそうな顔をしていたかもしれない。
道無き道を必死になって押しで進んでいた私の、遙か足元の穏やかそうな森の中に、おそらくまだ開通はしていないだろう綺麗なアスファルトが見えた。
そう言えば、登山道の入口のあたりでも、何か道を作っていた。関係があるのかは分からないが、いずれにしてもただの林道ではないだろう。
調べた限りでは、不通県道の新設線というわけでもないようで、あの道の作りを見る限りでは、新しい観光ルートか…。
道が見えたことは安心感に繋がりはしたが、近いように見えても、あれは結構近くないのだ。
山でのものの見え方に騙されてはいけないというのも、これまでの私の経験則のひとつである。
おそらく、この距離の中には、歩きならばいざ知らず、チャリを連れてはいけないような、沢、谷、ブッシュなどが、間違いなくあるはずだ。そもそも、一旦視界のない薮へと下ってしまったら、真っ直ぐあの道へと行ける訳もなく、迷うのが関の山である。それこそ、本当に退路を断つことにもなる。
正直、心は動きはしたものの、今はこの道を素直に進むのが一番安全なのだ。
あー…(終わったかも)
今まで見ることがなかった、白い地肌が見えていた。
そこは、間違いなく、道がなければならない高さである。
嫌な予感どころではなく、ここは一目見て、ヤバイと感じた。
おそらく、ゴッソリと道が落ちている……。
行けるのだろうか……?
ここでの断念は、本当に山中泊を余儀なくされる。
覚悟はあったが、その経験はないのだ。
…こう見えても、私は今まで…不意の山中泊に陥ったことはない。
どうだ、行けるのか。
チャリがなければ、100%行ける。
砂の露出した斜面は素直に渡ってはいけなさそうだが、5mほど下には草付きがあり、さらに下がっても良いのなら、崩れていない杉の若木の斜面がある。
だが、チャリはどうだ。
降ろすのは簡単だが、はたして、対岸の草付き斜面で、チャリを押し上げることが出来るだろうか。
かなり直角に近い部分もある。足場も悪そうだ。
逡巡したものの、ここは冷静に突破した。
チャリも一緒に、である。
大汗を掻きはしたが、かつて雄勝峠旧道(杉峠)でのように、登っている最中に身動きが取れなくなると言うことはなかった。
斜面に多くの根が張り出していたこと、そして土が湿っていなかったことが幸いした。
またか!(涙)
辛すぎる展開!
一難去ってまた一難!
どうにかこうにかチャリを押し上げ微かな路盤へ復帰したのも束の間、数メートル進むと、またしてもゴッソリと道がない。
しかも、この崩落はかなり昔のものらしく、どうやって越えていいものか、手掛かりも乏しい。
それに、仮にここを突破してもこんな頻度で崩壊が現れるなら、いよいよ進退窮まれりである。
この目の前の尾根越えは、地図上でも突出して描かれている部分のように思える。(地図はこちら)
「ここを突破すればもしや。」
そういう気持ちにさせるものが、見えていた。
この位置からは、それが何かは分からなかったが、尾根の上の大木の根元に、なにか赤い小さなポールの様なものが見える。
キロポストではないようだが…、今まで見たことのないものだと思う。
振り返れば、自分が尾根の傍にいる事を実感させるような圧巻の景色。
厳かな儀式のような日没を間近に、いよいよ陽は末期的な輝きを見せている。
シルエットだけになった低い山々の向こうに、広い信達平野が霞んで見えたが、その中で一際明るく反射している一角は県都福島に違いない。
だが、数十万が平穏に暮らす大地を一望する、この絶景も、あまりに大きな隔絶感の前では、ただ寂しさを増すばかりだった。
突破である。
私は、再び難しい斜面をチャリと共に乗り越え、遂に突出した尾根に至った。
ここまで来れば、不通区間2.8kmの道程も、ようやく残り三分の一。
ようやく……と言うべきか。
そこには、もはや完全に前進以外に選択肢の無くなった私がいた。
たどり着いた尾根の上にも、私を安心させてくれるような道の出現はなかった。
この先にも、これまでのような、アルミ箔を噛みしめるような道が続くのだろうか。
こんなにも苦しい現役県道が、かつてあっただろうか!
私が目印にしたその赤いポールは、脇に立つ小さな「界」標柱を目立たせるためのものだったようだ。
この「界」標柱はこれまで見なかったもので、界の一文字以外は何も書かれていない。
また、上面に十字の切れ込みが入っている
おそらくこれは、林班界の標柱であろう。
次に私を襲った難関は、秋田などにある甘っちょろいネマガリタケの薮などとはまったく違う、まるで鉄槍の隙間を縫うような笹藪である。
この写真の場所はまだ道跡が辛うじて判別できるからいい方で、この先少し行くと、完全に路面は笹藪に覆われてしまい、さらに私の背丈よりも深くなった。
乾ききった数年生の笹の葉は鋭いカミソリの刃のようで、顔面などで掻き分ければサクサク斬られてしまうので、自ら姿勢を落としチャリのハンドルを少し前に出しながら進むようにする。
深い笹藪では、上を見ていても何も分からない。地面を見るのが鉄則となる。
地面には、もしかつて道があったのならば、確実に一筋の密生度の少ない場所がある。
これは、あの南八甲田の死闘で身につけた技だった。
深い笹藪を潜り抜け、振り返る。
尾根を越えていることもあって、いよいよ地面は陽が届かなくなった。
後ろを見れば焦りが増すばかりである。
だが、不通区間の残りはだいぶ少なくなっているはず。
突破すると言っても、果たしてどこに続いているのか。
それが明確でないことはとにかく不安であったが、明るいうちは前進あるのみ。突破を目指すのみである。
出来ることなら、単独での山中泊は避けたい。
こんなに重いチャリはあっても寝具など無いのだからなおさらだ。(チャリいらねー!!)
猛烈な笹藪と、緑の全くない冬のままの林。
その対比は鮮やかだ。
ただ、その何れにも、もはや明確に道だと断ずれるような痕跡は無くなっていた。
それでも進んでいけるのは、ひとときに比べ斜面がなだらかになってきたこと、そして、相変わらず一定のペースで現れ続ける「文部省」標柱のお陰だった。
この標柱が、砕けそうな私の意欲を、支えてくれていた。
(これは根拠がある、つまり、標柱が霊山を中心とした指定範囲を示している物ならば、これに沿ってどこまでも進めば、かならず山頂と麓を結ぶ登山道に突き当たるはずなのだ。そして、それは私が目指す不通区間の終点とそう離れていないはずだった。)
あ。
きのこ。
すみません。
泣いてもいいですか。
あなた(黄色いあなた)の膝元で、涙を流してもいいですか。
来た。
来た、キタキタキタ。
キター
ここも現役の県道 。
41kmポストの出現は、私がおそらくあの激戦の中で42kmポストを見過ごしたかもしれないという残念感を、廃道においては完璧主義な私にもたらしたが、この期に及んで振り返っている場合ではない。
なんといっても、私は数時間前に40kmポストをまともな県道上で目撃しており、どう大きく見積もっても、残りの廃道は999m未満。
いや、40kmポストの位置を考えれば、残りは500mほどだろう。
これはもう、何とかなりそうな距離と言える。
おそらく車輪の付いた乗り物による突破は、この県道にとって初めての事態かもしれない。その実現が見えてきたのだ。
一度はそれを絶望視していただけに(本レポの第2回の最初のシーンの撤退で、突破は不可能だと思った。)、心底、嬉しかった。
あ、喜ぶの早いですか?
でもでも、何か新しげな人工物も見えてきたし…… むふふ。
それは、水源施設の井戸だった。
四方を錠付きのフェンスで閉ざされた1m四方の地面にはマンホールがひとつあり、その下からは水のサーという音が聞こえた。
おそらくこの斜面の直下の辺りが霊山こどもの村なので、関連した施設だろう。
となると、ここから先の道は管理に使われている現役の道なのかも……。
これまで見ることの無かった薄暗い森の景色となった。
巨石を栄養に育っているかのような不気味な枝振りの老木が林立していた。
頭上には、数百メートルも高い稜線から繋がる一枚岩の大岩盤「見下ろし岩」がすぐ間近に脚を降ろしている。
急速に光を失う空。
もはやゴールは近付いているはずだが、見覚えのある森の景色はまだ現れない。
果たしてどこへ向かっているのだろう。
いまだ、最近に人がこの道を歩いたような痕跡には出会えない。
一度は消えかけた不安感が、また鎌首をもたげはじめる。
道のすぐ下の斜面に、まるで舞台のような平らな巨石があった。
そこへ登ってくれと言わんばかりだ。
うあー …… 絶景かな。
眼下の谷間に見えるのは霊山こどもの村で、数時間前にもこれと殆ど同じアングルから見下ろした覚えがある。
やはり、終着地は近いのだ。
向かいに見える輝く稜線は、最登山という変わった名前の山だ。
乾いた雑木林の斜面と、背丈よりも深い笹藪とが交互に現れた。
相変わらず明確な道の痕跡はなかったが、それももう慣れっこである。
今ここに見える道なりは、数時間前では気がつけなかった。
或いは気付いたとしても、「いくらなんでもこれでは……」と引き返していただろう。
まさかこれが現役県道であるとは、誰だって思わない。
キロポストさえなければ、私もおそらく、県道ではない道を走ってしまったのかもしれないという疑念を晴らせなかっただろう。
本当にありがたいキロポストであった。
廃道にドラマなど無いはずなのに……涙した。
午後5時26分。
振り返ると、おそらく日没の瞬間。
もう二度と通りたくない、恐ろしい道だった。
特に、チャリは無謀だった。
全体の8割は押しだった。
道はそのまま笹藪に吸い込まれた。
今度の薮、終わりが見えない。
地面にあるはずの道の痕跡も薄過ぎる。
いよいよ水平移動を続けることも苦しく、すぐ傍にあるはずの登山道が現れることを祈った。
ここで挫けてしまっては、これまでの努力が無駄になるかもしれない。
冷静に、ちゃんと道を見つけるまでは、耐えて進もう。
道だ!
道だー!
道を20mほど下方、笹藪の向こうに見つけた私は、速攻でチャリを笹のクッションが効いた斜面へと押し流した。
10mほど巧くバランスを取りながら自走していったチャリは、ちょうどいい辺りで転がって止まった。
それを追う私。
全身笑顔。
とおちゃん、おれはやったんだ!
薮を文字通り転げるように転げ、愛車を薮から引きづり出しつつ、
午後5時30分。
突破!
霊山山域の合計4.2kmの交通不能区間を、3時間20分を掛けて全線攻略した。
特に、地図上で点線にて描かれていた2.8km区間は至難で、ここに2時間30分を要した。
チャリがなければ、もう1時間は短縮できたに違いない。
しばし、脱力状態で、見慣れない砂利道に転げたまま呆然とする私であった。
脱出地点から、県道が隠れていた笹藪を見上げる。
そこに道があるとは、誰だって思うまい。
これでは、こちら側から進入する人が無いわけだ。
だが、私は最後に笹藪を強引に突破してしまったが、本来の県道とこの登山道との合流地点はどこなのか。
最後にそれを確かめるべく、私はチャリをそこに置いたまま、歩きでもう少し上手へ進んでみた。
どうやら、そこから50mほど先の、この写真の地点辺りが、登山道と県道との接点のようである。
この右手には巨岩の犇めく断崖絶壁があり、そこを跨ぐような道筋はあり得ない。
しかし、この地点にも何ら県道との分岐地点を示すもの、いや、道が分かれている事を示すような一切は無い。
まさしく、一方通行である。
時間も時間である。
このあと、私は伊達市梁川町までチャリで行き、車を回収して、その足で秋田まで帰らねばならない。
レポートにならないが、ある意味廃道よりもハードで、しかもつまらない。
ともかく、今自分がいる場所を確定すべく、その道を下りはじめる。
もの凄い急な下り坂は、すぐに九十九折りを見せ始め、階段もあった。
短い階段を下りると、そこが登山道の入口で、見覚えのある看板も立っていた。
ここで、生還を心底実感。
どうやら、地形図や現地の看板、配られているパンフレットなどに描かれているルートは、もっとも東寄りの部分で間違っているようだ。
あるいは、昔は地形図などの通りに道があったのかもしれないが、私が今回微かに残る道跡を辿った結果は、以下の地図の通りで、県道と登山道とのぶつかる地点が少しずれる。
青色の点線で示した部分が、地形図などと異なる今回辿ったルートで、県道と登山道の分岐地点(地図中では青の実線と点線の接点)は、九十九折りひとつ分だけ上方へずれていた。
そして、地図は本当に間違っていて、このルートこそが本来の県道であるという確信を私は持っている。
なぜならば、地図中の青い実線の部分の大半は車道(階段から上は登山道)なのだが、この沿道にも、そこが県道であることを示す「福島県」の石標柱が何本も並んでいるのを見つけてしまったのだ。
おそらくは、地形図が間違って描いたために、これを参考にした案内看板やパンフレットも同じ間違いを犯したのだろう。
どうりで、地図の場所に道など見つからぬ訳だ。
……正しい場所を知っていたとしても、おそらくこちら側からでは見つけられなかっただろうが……。
両側に、「福島県」の標柱が並ぶ、“今回新たに県道と確認された”部分。
先に見えているヘアピンカーブこそが、半日前に突入を試みた、誤・分岐点である。
その誤差は僅かに100mほどであったが、山中ではこれは致命的な差であった。
何度も言うように、地図が正しくても、結果は変わらなかったように思うが。
大駐車場まで降りると、ここからは鋪装された立派な県道である。
駐車場にはもう一台の車もなく、私が今日最後の霊山の客だったようだ。
私は、久々に心底満足した。
おそらく、過去にも未来にも二度と車の通ることのない不通県道に、一条の轍を刻みつけた。
際どい戦いに勝利した余韻を、暮れなずむ霊山の大きな大きなシルエットを見つめながら、いつまでも味わった。
文句のない、ハッピーエンドである。
ひとつ気がかりなのは、何時間も前に霊山閣の傍の伐採現場で出会ったオヤジに、「またあとで戻ってきます」と言ったきりだったことだ。
まさか…、遭難したと思ってないだろうな……。
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