2020/12/23 16:20 《現在地》
「前代未聞」という言葉が、これほど似合う坑門には、なかなかお目にかかれない。
20年を超える私の探索歴の中でも、橋台の内側に隧道があるのは、初めて目にする光景だった。
仮にこれが最初からこのような構造であったとしても驚きだが、ここについては当初からではなく、ダムの嵩上げに伴って道路の嵩上げが必要になり、橋と隧道をセットで嵩上げした結果、旧隧道の坑口前に新道の橋台が建設されたという経緯がある。
嵩上げの際に、旧隧道を橋台によって塞いでしまうことも選択できたはずだが、敢えてそうしなかったことにはどんな理由があったのだろう。
この大きな疑問については、現地でもいくつかの仮説を持ったが、これについては机上調査に委ねるとして、いまは目の前にある奇抜な光景の観察に注力しよう。
目の前の隧道は、仮称「旧々5号隧道」であり、坑門の形状はこれまで見てきた旧々2〜4号隧道と同一であった。
坑門に接続する手前の大きな門構えは橋台で、刳り抜かれた部分は高さ6m、幅3m、奥行き3mほどである。敢えてアーチ状にしてあるのは、坑門との統一感を狙ったのに違いない。観光地を彩る構造物に対する修景の意図を感じた。
観察もほどほどにして、さっそく隧道へ侵入していきたい。
隧道が通り抜け出来るかを、早く確かめたかった!
もし通り抜けられない場合、もう一度危険な現場を潜り抜けなければならず、ますます先を急がないと日没前に探索を終えることが出来なくなる。それだけに、貫通の確認は一刻を争うものであって……
願うはただ一つ!
貫通!!!
この瞬間、数分前の私のハクチョウだけが見ていた危険行為が、
探索遂行上の必須の行為ではなかった可能性が、一気に高まったがのだが、
そんなことは何十倍もの嬉しい気持ちに押し流されて、結果オーライ!
それにしても、こんな変態じみた立地にある隧道が、令和2年時点でも普通に貫通していたことが、素直に驚き。
すぐ直上にあるこれよりも数年だけ新しい旧隧道(三坂第一隧道)は、壁で塞がれていたのに、この対比が面白い。
おそらく、旧隧道は未だに人の管理下にあり、一方の旧々隧道は完全に見捨てられているということなのだろう。
遺跡の防塁を思わせる謎の石積の間を縫うようにして、いざ入洞!
入洞直後、まず目に留まったのは、洞床に散らばった多数のゴミだった。
通行人がただ散らかしていったとは思えない量があり、空き缶が目立つが、洗剤容器などの生活ゴミも混じっていた。
こんなところまでわざわざゴミを捨てに来る人がいる……?
……いや、あり得るのか。
いまの状況で考えてはいけない。
昭和60年という比較的近年まで、この隧道の立地はいまとは全然違っていた。いまのように、近くに見えてもどうやって辿り着くのか分からないような場所ではなかった。現役の県道のすぐ真下に口を開ける、身近な廃隧道だった。
現に、空き缶はどれも懐かしい銘柄や、見覚えのない銘柄ばかりで、最近のものは皆無だった。
(そうは言っても、わざわざゴミを捨てに来るかと言われれば、やはり不思議ではある)
この洞内に散らばる由来不明のゴミについて、読者さんから「!!!」と思わせるコメントがあった。
これらのゴミは、ダム湖の満水によって洞内が浸水し、その際に流入したモノではないかというのである。
いわれてみれば、確かにここにあるゴミはいずれも水に浮かぶ軽いモノばかりであり、それっぽい。
しかし恥ずかしながら、現地での私はこのことには全く思いが至らなかった。
確かにダムの嵩上げを原因に廃止された隧道なのだから、冠水の可能性を想定して然るべきだったと思うが、少なくとも頻繁に水没している形跡はなかった(旧々橋台上にも樹木が生えている)ことから、意識が向かなかった。
厳密にダムの設計上の上限の水位(設計洪水位)がどの高さであるのかが分からないので断定的なことは言えないものの、通常の満水位(サーチャージ水位)よりも水位が上がるような極めて稀なケースにあって、この隧道が水没したというのは可能性があるように思う。
…たとえば、最近なら平成30年7月豪雨(西日本豪雨)とか…。
さすがに、この隧道が水没しているのを見たことがある人を募っても、反応は期待できないと思うが、私は現時点で、この隧道は水没したことがあるものと考えを改めている。
洞内から振り返ると、橋台が隧道の出口で邪魔をして、全幅の3分の1ほどが塞がれている状況がよく分かる。
このことからも、橋台は隧道を完全に塞ぐことはしなかった一方で、従来通りの道路機能を維持しようとも考えていなかったことが窺える。
しかし、対岸の橋台にこのような開口部はないので、明らかに隧道の維持を目的にした構造ではあった。
それにしても、3世代の橋とトンネルが狭い土地を奪い合う、異様な状況だ。昭和60年までは、この出口の真上に【巨大なトラス橋】が架かっていたわけで、その景色も異様なものであったろう。
時代的に私が小学生の頃にはその状況がまだあったわけで、当時の「オブローダー」のアルバムに、その異様な光景が収まってはいないだろうか。
心当たりのある先輩オブローダーは、いませんか?
洞内は、びっくりするくらい綺麗な状況だった。
自転車を持ち込んだら、何の不自由もなく走り回れただろう。
奇抜な地形でも、地中に潜ればどこも変わったところがないというのは“隧道あるある”だが、堅牢さで工事関係者を苦しめであろう石灰岩の大地は、ひとたび完成したトンネルについては半永久的に保存するような安定性を持っているようだ。
なお、洞床が未舗装で、両側にコンクリート製の小さな排水溝があるのも、旧々2号隧道で見た造りであった。
隧道の全長は、目測で約80mといったところ。
この上に存在する三坂第一隧道の長さは74mと記録されているので、だいたい同程度とみられる。
しかし、前方に見える出口においても、再び“2階建て”になっているのかどうかは、まだ分からない。
チェンジ後の画像は振り返って撮影した入口だが、旧々隧道の入口は鈍角に15度ほどカーブしており、このカーブが頭上の旧隧道にも反映されているのかどうかが気になるところだ。
(ただでさえ見通しが悪い隧道と橋のコンビネーションなのに、トンネル出口がカーブしているとか、まさしく自動車同士のすれ違いを全く考慮しない線形であり、大正時代の交通量を窺わせるものがある)
あっという間に地中を横切り、出口の光へ近づいた。
やはり坑口付近だけは巻き立てがなされているが、土砂が高く積み上がっていて、本来の断面の8割以上が埋没していた。
天然の崩土なのか、あるいは一度は埋め戻された痕なのか、ここからでは判断できない。
果たして外はどんな場所なのか?
簡単に出入りができる状況なのか?
並行している三坂第一隧道との位置関係はどうなっている?
これら全ての疑問に対する目隠しを一斉に外されるような脱出の瞬間は、とてもドキドキした。
16:23 【現在地はGPS測位待ち】
どこだ、ここは?
ぽっかり空いた半分の坑口から外へ出るなり、ぽかーん…。
例によって今回も、旧々道は地上に出るなり、急速に存在感を失った。
地上では生きられないという呪いでも受けているかのように、、これまでほとんどの区間で地上に出た旧々道は存在感を失っている。
その一方で、なぜか隧道だけは1本残らずに現存していて、発見されるのを待っていた。
とりあえず、このまま道なき斜面をまっすぐに進めないことはないが、敢えてそうする気にはならない。
なぜなら……
すぐ上に、擬木コンクリートの手摺りが!
おそらくこれは旧道だ! 旧々道が地上に出たならば、その上にあった旧道も出ているはず。
いますぐ斜面をよじ登って、旧道や現道との位置関係を確認しよう!
変態2階建て隧道の全容が、いまこそ白日の下に!
うおー!
廃隧道から廃隧道への異世代間移動だ。
旧々隧道の坑口前から、最短距離で斜面をよじ登った先に、
擬木コンクリート手摺りの向こうに建つ、一回り大きな坑門を発見!
案の定、この2本の隧道は、出口でも極めて近接していた!
が、完全な上下の位置関係ではない!
ちょうどこのタイミングでGPSの測位に成功したので、現在地が判明することに。
それもとに、旧隧道と旧々隧道の位置関係を表現したのが次の地図だ。
↓↓↓
このように2本の隧道は、西口については上下に重なっていたが、
東口では10mほど南北にずれた位置に存在していることが判明した。
つまり、完全に2階建てになっていたのは、旧々紅葉橋と旧紅葉橋だけであったことが判明した。
そこから、旧々紅葉橋を足場として利用して旧紅葉橋を建設することを目的とした2階建てだった
――という推測が、この極めて特異な配置からは導かれるのではないだろうかと思った。
さて、これは旧道から撮影した写真である。
分かりづらいと思うが、ちゃんと旧々隧道は見えていた。
坑門付近の拡大写真。
見えるには見えるのだが、夏場はおそらく樹木や下草で隠されてしまうだろうし、
坑口だけがそこにあって、繋がる道が全くないため、発見しづらいものと思う。
そういえば、三坂第一隧道さん…。
こっち側はすっかりがら空きじゃないか。
なんか怪しい物体が置かれている。
2020/12/23 16:27 《現在地》
堅いアスファルトの感触に、身体から張り詰めた緊張感が急速に抜け出して、代わりに安堵で満たされていくのを感じた。
当初想定していなかった絶壁との相次ぐ格闘により、いつの間にか、私は自分で思っている以上に体力と精神力を消耗していたようである。
もはや遠い昔のことのように思われる探索開始時点からは、全く思いがけないような展開の目白押してここまで来た。圧倒的な主役は、旧々道という想定外の存在であった。
しかし、そんな旧々道との激闘も、ようやく終わりに近づいた。
最大の山場は間違いなく超えている。それも、私の完全勝利という望ましい形で。
日没まで残り30分という、もはや時間的にギリギリの線であるが、探索対象区間も残り極めて僅かとなり、どうにか間に合いそうな雲行きだ。
そういったところで、まずは目の前に口を開けている三坂第一隧道の内部探索を完了させてしまおう。
既に【西口の閉塞】を確認している隧道だが、予想外にこちら側が開いていたので、入らないわけにはいかなくなった。
ところで、隧道の前で右に上っていく階段歩道が見える。
この道は地形図には徒歩道として描かれており、時間がなくて私は確認できなかったが、情報によると、この奥に湖面展望台がある(あった?)そうだ。
特に通行規制はなされていないようだが、賑わいからは縁遠い。しかし、旧道がわざわざ擬木コンクリートの手摺りになっているのは、この歩道整備の一環だったのだろう。
前回のレポートに対するコメントで、なぜか唐突に、国民的人気の某猫型ロボットに言及したものが複数あり、いったい何のことかと不思議に思っていたのだが、今さらに納得。
前回の最後の場面で写真に写っていたこの物体(←)が、あれの頭部を模したものに見えたと言いたかったのでしょう?(笑)
言われてみれば確かにそう見えなくもないが、この物体の本当の正体はなんなんだろう。
熱気球? アドバルーン?
私にはそのどちらかのように見えたが、冷静に考えてみると、空に浮かべるほど軽くはなさそう。
玉転がしの玉にしては、殺人級に巨大だしなぁ…。(上の写真で隧道と大きさを比較して欲しい)
まあ、一つはっきりしているのは、この道路や隧道と直接関係あるものではないということだろう。スルーします。
これが三坂第一隧道の東口である。
非常に辿り着きづらい立地にある西口は完璧に閉塞工事を受けていたのに、簡単に来られるこの東口は、封鎖とも言えないような手ぬるい感じだ。
おそらくこれは、どこかの誰かが隧道を物置か何に利用するために、出入口としては使えない西口だけを封鎖したものと思われる。
しかし、その“何か”としても、既に管理はされていないようだ。
特に立入禁止などとも書かれていないが、普通の感覚だと、なんとなく気持ち悪いから立ち入らないという判断になるだろう。
セパレートの隙間から何食わぬ顔で洞内へ入ると、まさしくそこは物置であった。
廃材が散らばっている感じではなく、意外に綺麗だったので、ちょっと申し訳ない気持ちになる。
また、置かれているのは個人の持ち物というよりも、どこかの商業施設の備品っぽい感じだ。外にあった謎物体も、この施設の出し物だったのかも。
入ってすぐ目に付く場所に、平成26年の日付が書かれた、「そうめん流し」のポスター看板があった。開催場所は、近くのスコラ高原にある帝釈峡山荘という施設で、問い合わせ先は帝釈峡遊覧船と書かれてある。これらの施設が、この“物置隧道”の関係者だったのだろうか。
さらに周りに目を向けると、こうした催し物の看板がたくさんあった。
(↑) 湖上でのアクティビティの大定番である「カヤック」に始まり…
(→) 実は全国屈指の豪雪地帯である中国山地の雪を生かした「雪上バギー体験」や、さらには揚陸艇のようなイカツイ外見の「水陸両用車」まで試みた模様。
そんなに「ハードアドベンチャー」がお好みなら、オブローディングというのもあるぞ!
それはともかく、ここには遊歩道の崩壊などの不運から近年苦境に立つ帝釈峡という観光地が、新たな集客のために試みた様々な努力の回想場であった。
探索の本筋とは関係のない内容ではあるが、私を一日中夢中にさせてくれた帝釈峡の真っ当で涙ぐましい努力を見て、思わずエールを送りたい気持ちになった。
だからこそ、「オブローダーなら一度は帝釈峡においで」、と言っておこう。
闇の濃い洞奥へ近づくと、本来の廃隧道の光景が迫ってきた。
特に珍しいところのないコンクリート吹き付けの隧道で、カーブはなく直線の線形、全長も74mと短かったが、出口は失われた。
天井に少数のナトリウム灯が取り付けられているが、その【制御ボックス】とは壁で隔てられている。
洞内に残されているのは、どこかの商業施設の物品だけかと思いきや、道路と直接関わる物も僅かながらあった。
表面が剥がれてしまったカーブミラー……。
旧道のどこかで使われていたのだろうが、もうゴミである。
さらに、そのすぐ傍らに――
「51年度 広島県」のシールが付いた標識柱が2本転がっていた。
ということは、柱にくっついてひっくり返っている標識板も、昭和51年度に設置されたものか。
旧道がバリバリ現役だった時代の道路標識……、いま顔を上げてやる。
12km/h制限?!
……と、あり得ぬ数字に一瞬だけ面食らったが、よく見ると数字の右上に小さく「t」のスペルがあって、これは「最大重量12トン」の標識。
なるほどなるほど…。
おそらくこいつは、隧道を出たちょうどその場所、旧紅葉橋の袂に設置されていたのだろう。(2枚あったので両岸か)
図らずも、移設されていなくなった旧紅葉橋の“忘れ物”に遭遇したことになる。
しかし12トンといえば、序盤で登場した旧剣橋の14トンより厳しい制限である。昭和5年生まれの橋も昭和51年頃には老朽化が相当進み、点検の結果、制限の必要が生じたのではないだろうか。
そしてその9年後に新道が開通したというのは、リアルな感じがする。
完全に本来の廃隧道の風景となった中盤から終盤。
旧道世代では初の廃隧道として、地味ながらも、廃ならではの味をしっかりと見せてきた三坂第一隧道も、唐突な終わり、閉塞の壁が迫っている。
なお、お使いのモニターは正常です。
まるでドット欠けのように、閉塞隧道の奥にあるはずのない白点が見えていると思うが、実は閉塞壁に水抜きの小孔が存在していて、そこから僅かに外光が入っていた。
こうして洞内にいても、それを暗示するものは全くないが、画像に表示したとおり、この辺りから先は特異な2階建ての地下構造になっている。
2本の隧道が、紅葉橋橋頭では完全に上下に重なり合うように地表へ出ているので、洞内でもある程度までは重なっているはずだ。
高さ約4mの旧々隧道の天井の上に、おそらく6mほどの厚みの石灰岩の地盤があって、その上に旧隧道が乗っかっている状況だろう。
トンネル同士の立体交差はそう珍しくないが、このように同一進行方向に近接して重なり合うのは非常に稀で、建設当時の技術者もその安全性について大いに研究したところだと思う。
しかし、外形的には洞内に何らかの補強が施されている形跡はないし、また半世紀以上安定して2本の隧道は存在し続けている。
16:29
西口閉塞壁の裏側に到達したので、撤収する。
この古い隧道の中にあって、ツルツル光る閉塞壁裏側だけが真新しかった。
16:30 《現在地》
地上へ戻ってきた。
三坂第一隧道の東口を背に立つと、わずか50mほど先に現県道が見えた。
左奥の湖畔に大きなホテルの建物が見えるが、あそこが今回の最終探索目標、5本目の最後の旧道隧道である三坂第二隧道の擬定地だ。
旧道と現道については、このようにひと目見ただけでよく分かる状況だが、旧々道は最後まで隠れキャラの立ち位置に徹するつもりであるようだ。
場所が分かっている状況で見ても見えないのだから、旧道を建設した時点か、あるいは旧道が拡幅された機会などに、容赦なく埋め戻されてしまったものと思う。
16:31 《現在地》
現道との合流地点側から振り返る旧道の眺め。
このように典型的な新旧トンネルの並ぶ光景になっているが、すぐ傍に旧々隧道が存在していることは、意識を向けて探さない限り気付くことはないだろう。
また、旧々道だけが低い位置に存在しているのは、ダムの嵩上げという特殊な事情が介在しているためであり、もしこのことがなければ、いまの旧道は存在せず、大正生まれの旧々道が拡幅改良を受けながら比較的近年まで活躍を続けたものと思われる。
湖面の上昇が旧々道という一世代を極端な短命に終わらせてしまった。
古きを愛し、新しきを疎んじる……というわけではないが、探索の流れとしては偶然にも古い方のトンネルから順に潜ることになった。これが最後だ。
昭和58(1983)年完成の神龍トンネル(全長108m)は、3世代のうち唯一の現代のトンネルで、車の高速走行に適した十分な幅員と、前後のカーブとの連続性に配慮した理想的な洞内S字カーブによって特徴付けられる。このトンネルがある限り、よほどのことがなければ、次の世代は必要ないだろう。
もう見慣れた紅葉橋が見えてきた。
その橋の欄干に、自分でも驚くほど無造作な感じで、我が相棒が立て掛けられていた。
この状態で20分ほど放置していたわけで、どう見ても、衝動的身投げの跡だった。
自転車を回収し、いよいよ最後の場所へ向けて出発する。
長かった廃の重奏も、クライマックスを越え、静かなフィナーレへ。
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