道路レポート 広島県道25号三原東城線 神龍湖旧道 最終回

所在地 広島県神石高原町〜庄原市
探索日 2020.12.23
公開日 2021.02.06

旧道最後の隧道と、旧々道との決着と


2020/12/23 16:36 《現在地》

日没まで残り30分を切り、湖畔の風景も暮れの色を深めている。
進行方向、湖畔の緩やかなカーブの先に、新旧2本のトンネルが、やや離れて並ぶ。
今回探索を予定していた県道25号三原東城線の龍神湖畔旧道、最後の区間だ。

右は現道で、昭和62(1987)年竣功の帝釈峡トンネル(全長129m)。
左は旧道で、昭和5(1930)年竣功の三坂第二隧道(全長46m)である。
エキセントリックな景観を見せた同第一隧道と較べれば、あくびが出そうな長閑な眺めだった。

しかし私の脳は既に、この湖畔の風景に、ある隠された物を探し続けることを習慣づけられていた。
いうまでもなくそれは、旧々道だ。

旧々道はどこだ。
旧々道があるはずだ。
旧々道を出せ!!

……道に取り憑かれた者のさほど哀れでもない、むしろ滑稽な末路であった。
しかし、ぱっと見たところでは、私の周囲に旧々道の気配はない。
またしても、またまたしてまでも、またまたまたまた、ヤツは雲隠れしてしまった!!
一瞬でも目を離すとすぐこれだ。



でも、出来上がった俺の目は、ごまかされんぞ!

湖面スレスレの湖岸に、崩れかけた石垣を発見!
上部が崩れて本来の形を保っていないし、道らしき平場も皆無だが、あの石垣の上に旧々道が存在していた可能性は極めて高いだろう。

しかし、最後の最後まで旧々道は低い位置を走り続けるつもりのようだ。
こうなると、旧道が三坂第二隧道で越える眼前の尾根を、旧々道がどうやって回り込むのか、よく確かめる必要がある。
この調べが、今日の最後の仕事になるだろう。




ぬうぅおぉ!

思わず変な声が出た!

旧々道は、私の直下でも最大級の険阻を見せていた。
ほぼ真上から見下ろすような形で眺めた旧々道は、城壁のような高い石垣を桟橋代わりに使って崖を横断する、極めて険しい道だった。
旧々道が見ていた神龍湖は、現道の車窓から受ける印象とは全く異なる、全く恐ろしい峡谷の湖であったと思う。遊覧どころではない場面が、大半だったのではないか。

旧々道の末端は、現道を支える高い擁壁の下に消えていた。
現道と旧道は重複しているが、旧道の時代にはこれほどの道幅はなかったであろうから、旧々道の石垣も、広い範囲で原形を留めていたことだろう。

しかし、仮に時間が十分あったとしても、あの石垣の上を歩行することはもちろん、辿り着くことも容易ではなさそうだった。
とりあえず、隧道が隠されてはいないことを望見によって確かめたので、ヨシ!とする。




また、この位置から湖面の対岸に目を向けると、湖水に映える大きな赤い鉄橋が遠望される。

あれは神龍湖の本流部分(帝釈川)を跨ぐ神龍橋で、前の回で登場した旧紅葉橋の移設後の姿である。
橋桁は巨大なフロート船に乗せられたまま、湖上を約600m移動して、あの場所に収まった。
昭和5年の仮設当初から戦前を通じて長らく道路用トラス桁として最長の径間長を誇った希代の橋だった。

移設後も依然として、広い湖面に脚を濡らさぬ孤高の姿を保っている。
旧地に残してきた【12トン制限標識】のこと、いまも憶えていますか?



少しだけ移動し、最後の新旧道分岐地点へ。

この先の旧道は、地形図にはなぜか隧道もろとも描かれていないが、見ての通り健在で、ホテルへの進入路になっている。

それは良いのだが、ホテルが邪魔をしていて、旧々道が向かった尾根の突端方向へ行くことが出来ない!
神龍湖畔の大半の施設が、与えられた地面に素直に建たず、嵩上げ&増床された人工地盤に立地している。
仕方がないので、尾根の反対側からのアプローチを狙おう。




来た道を振り返ると、先ほどは真上から見下ろす形だった石垣のある旧々道が、よく見えた。
石垣は何箇所かあり、いずれもかなり大規模だった。

旧々道には隧道も多くあり、巨大な紅葉橋という橋もあり、手の込んだ石垣もたくさんあり、大正時代としては極めて先進的な新道建設であったと思う。
にもかかわらず、ダム湖の嵩上げという、道路そのものの出来とは無関係の都合から、ほんの数年で役目を奪われたというのは悲劇的だ。
これほど悲劇的な道が随所に遺物を晒している神龍湖は、たった1日で私の大好きな場所になってしまった。



16:39 《現在地》

それではまた、一つの景色に区切りを付ける隧道へ。

この三坂第二隧道についても、『大鑑』にスペックの記載があるが、これまでの旧道世代の4本と同形状である。
現在は、市道か、もしかしたら私道かもしれない。
通行規制は特にないが、トンネル内部にホテル関係者(?)のものと思われる乗用車が何台も停まっていた。
また、補修というか、汚れ隠しという感じで、内壁一面に白い塗装が施されているのも独特である。

旧道世代最後の隧道だから、じっくり噛みしめて…と言いたいところだが、ホテルの軒下に消えた旧々道の行き先が気になっている私は、やはり残り時間が気になって、さっと通過してしまった。



隧道を通過。

出口の向こうに、あの広い湖面はもうなかった。
小さな岬を潜っただけで、景色ががらりと変わってしまった。
湖と共に過ごした半日の終わりを、探索の終わりを、唐突に突きつけられた気分になった。
地形的には湖に注ぐ小さな支流に入った形で、県道は今後この谷を遡っていく。




ここは異様な谷だ。
とても広い谷底があるのに、道は追いやられたように山際を通り、湖面に代わってだだっ広い駐車場が谷を満たしていた。
巨大な歩道橋が駐車場と化した谷を高らかと跨いでいたが、廃橋だった。

ここでは湖面を埋め立てて、何千台も停められる巨大な駐車場を作ったのだ。
しかし、季節も時間も全て悪条件であったため、観光客の車は1台も停まっていなかった。



16:42 《現在地》

巨大な駐車場の片隅に口を開ける、三坂第二隧道。
そのすぐ傍に何かの小屋があり、そこで作業が行われていた。
私はその場所をやや遠巻きに見ながら、三坂第二隧道があるこの小さな尾根を、旧々道がどのように越えてこちら側に来ていたのかを、観察した。

しかし、そのような観察が実を結ぶとは正直思えないほどの、決定的な地形の変わりようだった。
三坂第二隧道の高さまで地面が埋め立てられてしまっており、湖面スレスレの高さにあった旧々道は、同じ高さでこちら側に来ていたとしたら、10mも下に埋れているとみられた。
似たような埋め立てによる消失の状況を、犬瀬集落内でも体験している。

だが、最後がこれか……。
旧々道は、とことんまで亡き者にされている…。



駐車場の下流側の端へ向かった。

そこには湖面と駐車場を分かつ、広大なロックフィルの護岸があった。
湖上には無人のボートが係留されているのも見えた。
左の影になっている小さな岬が、旧々道が回り込んでくるはずの岸であった。

あそこに何か残っていやしないか。
見るからに道などありそうにない岩角の岬だったが、一縷の望みを胸に、自転車を降りて暮れなずむ湖畔へ降りていった。




近づいていくと岬の様子が見えてきたが、やはり道はなさそうである。

……うーん。

ここに来ていないとなると、ホテルに消えていった旧々道は、どこへ行ってしまったのだ?
もしや、6本目の旧々隧道があったのに、西口はホテルに潰され、いまいる東口は駐車場の下に埋め立てられてしまったか……。
これまでの隧道多発の展開から見て、その可能性が高い気がするな…。

そんなことを考えながら、少々暗澹とした気分のまま、岬の付け根まで近づいていった。




旧々隧道、発見!

求めよ、さらば与えられん。


探索は、徹頭徹尾、積極でなければならない。

神龍湖は、このオブローディングの基本姿勢を、徹底的に祝福した。



有終の美、旧々6号隧道(仮称)の探索


16:44 《現在地》

嬉しい! また見つけてしまった!

側壁だけの跡も含めれば本日通算6本目となる旧々道世代の隧道だ。旧々6号隧道(仮称)としておこう。

隧道が発見された位置を、少し前に駐車場の端から撮影した右の写真上に表示するとこのようになる。
ロックフィルの護岸が切れた所から唐突に平場が始まり、そこを20mほど進んだ位置だ。

本来ここは駐車場から見えて良い位置だが、水辺の灌木が邪魔をしていて、葉が落ちた時期でも見えなかった。隧道に繋がる平場も見えないので、駐車場からの観察だけでは見つけることが出来ない隧道だった。


改めて隧道を観察する。
一見して、これまで見つけた5本のうち素掘りだった1本目を除く4本と、全く同じ断面の坑門だ。そして相変わらず、扁額などの文字情報は皆無であった。

長さも短いが、土被りも浅く、岩脈のような岬の突端を潜るだけの役割である。
道幅がもっと広ければ、確実に切通しにされそうな浅さだ。




いかにも石灰岩を好みそうな濃い色のツタが怪しくぶら下がる洞内へ。
最初から出口まで見通せる短い隧道なので、不気味さは感じない。
むしろ風通しが良く、清楚な雰囲気だ。それに、観光駐車場のこんな近くに口を開けていたのに、ゴミ一つ落ちていない。もちろん落書きなんで全くない。そんなピュアな雰囲気に、発見の嬉しさが倍増した。

探しに来なければ、見つけにくい隧道だった。
そしてそもそも、旧々道への意識をずっと保ち続けていなければ、探そうという気にもならなかった。
これは後から分かったことだが、旧々道は代々の地形図に一度も描かれる機会がなかったから、その方面からの発見も望めなかった。



刻一刻と暗くなる景色に反し、私の顔面は今日イチの明るさを見せていたと思う。
顔面の明かりで照明は要らず、そのまま隧道を潜り抜けた。
それは本当にあっという間の約20mだった。

洞内は例によって今回も素晴らしく保存されており、路面には大正時代か遅くとも昭和初期の砂利が敷かれたままであった。
湖面に近いように見えて、洞内が浸水するような機会は、一度もなかったらしい。
両側に排水溝がある点も、これまでと共通している。
年代相応に古ぼけてはいるが、例えば煤煙とか擦傷とか、そういう使用感めいたものが極端に薄いのも、これら旧々隧道の特徴的部分であった。

隧道を抜けると、すぐ足元に見慣れた湖面があった。
さすがに例のハクチョウも、ここまで私を追っては来てくれなかった。ここまでは現道の車の音は届かない。とても静かだった。
そして道は珍しく、隧道を抜けてもまだ続くそぶりを見せていた。




隧道西口を振り返る。

こちら側は鋭い岩峰の付け根に唐突な感じで口を開けていて、立地は旧々1号隧道とよく似ている。
ちょうど出口のところで道幅の半分が崩れ落ちていて、暗がりの中で不用意に歩けば、うっかり湖面まで転げ落ちそうだった。

隧道を後に、湖畔の旧々道を進んでみることにした。
隧道によって岬を越えており、もう100mも進まぬうちにホテルの下に到達するはずだが、その最後を見届けたい。




隧道から30mほど、刈り払いされていたことがあるのか、不思議と歩き易い平場を進むと、苔生したコンクリートの塊が、道幅を半分占拠する様子で置かれていた。

コンクリートからは一つの金属環が突出しており、これはおそらく湖面を横断する形で設置していた流木留め浮きのアンカーと思われる。
現在はこの先の湖面の大部分が埋め立てられたせいかは分からないが、浮きは撤去され、アンカーも無用の物となっていた。
浮きがあった頃は、隧道にも通路としての役目が残っていたろうに。




16:47 《現在地》

そして、アンカー地点を過ぎると、道は“本来の廃道”になってしまった。
おそらく昭和初期に廃止されたまま、一度も顧みられることのなかった廃道だ。
笹藪が深くなり、同時に道全体が湖側に傾斜するようになったので、今にも見失いそう。
それでも、位置を推測しながら、もう何もないような笹藪を進んでいった。

が、それも遂に終わりの時が。
ホテルの三角屋根が、見上げた斜面の間近なところに現われた。
それが合図で、完全に道形は斜面に消えた。背丈よりも高い笹藪で前は見えない。
この先に隧道がないことは、反対側から【見ている】ので、潮時だった。

隧道から60mほどの地点で、撤収した。




16:52 《現在地》

旧道を通り越し、一気に現道まで戻ってきた。
谷は一面の駐車場であるから、道でなくてもどこでも自由に走り回れた。
写真は駐車場の出口から、下流側を振り返って撮影している。

なお、これは机上調査に属する成果だが、歴代の航空写真を確認したところ、谷が駐車場になったのは、昭和50年から平成2年の間のどこかであった。
この時期に三坂第二隧道に代わる帝釈峡トンネルも開通しており、同時期に駐車場の造成も企てられたものらしい。

旧々道も谷ごと埋め立てられたので、跡形もなくなった。
地形的には、ちょうどこの写真の辺りで現道の高さまで上ってきて合流していたと思われるのだが…。
したがって、万が一この区間にも隧道があったとしたら、完全消滅確定である。



16:54 《現在地》

駐車場の範囲内で現道、旧道、旧々道が一つになり、現県道として東城駅がある庄原市東城の中心市街地へ向かって走り始める。
観光地としての帝釈峡および神龍湖の景色は、駐車場の200mほど上流にある写真の観光施設で区切られるようだ。

施設内には旧遊している部分があって、そこには年季の入った観光案内看板が残っていた。それらは旧道の華やかな現役時代を描いていた。(参考画像

私はここで探索を終えて、Uターンした。
その後、現道によって出発地点へ戻るのはたった2.4kmの行程で、自転車で15分も掛らなかった。
オブローディングに興じなかったら、たったこれだけで済むサイクリングシーンを、私は5時間以上にまで引き延ばしていたのだった。
恐るべき、探索の魅力に満ちた5時間だった。


次回、本編探索を補足する机上調査編の完成を以て完結。