2010/5/5 16:10 《現在地》
この寸又川左岸林道へは、左の写真の目印も何もない路肩からよじ登ってきた。奥が上流の釜ノ島・柴沢方面である。右の写真は、同地点から反対側、すなわち下流の林道起点・大間集落方面を眺めたものである。
苦労して辿り着いた左岸林道は、明らかに荒廃した、廃林道然とした状況にあることが、一目のうちに見て取れた。
だが、このことに特段の驚きはなかった。なぜなら、当時私が見ていた登山者のブログに、「この林道の奥部は手入れがされておらず、特に大根沢付近には大きな崩壊地点があって、この道を利用して光岳を目指す登山者は注意を要する」ということが書かれていたのを知っていたからである。
林道としては手入れがなされず、多少荒れているとしても、これまで歩いてきた軌道跡との差は、この景色だけでも歴然としていた。
最大の違いは、ほとんど別次元と言いたくなるほどの道幅である。それは、昨日我々が自転車で走行した、起点から12.5km地点までの左岸林道と較べても遜色のないものであり、一般的な林道より豪勢であった。その割に舗装がないというアンバランスさから、どこか日本離れした、発展途上国の“国道”をイメージするような、ワイルドな幹線道路の雰囲気を放っていた。
私はくたくたに疲れていたが、この安心感を感じさせる道幅と、この時間でも燦々と太陽を浴びている高所の開放感から、本当に救われたような気分がした。
これからも相当に長い旅路を避けがたい場所にいるのだが、まずは最大の苦闘を制したことは明らかだったし、生還……というか凱旋の予感に歓喜していた。
率直に言って、私はここまでの探索成果に非常に満足しており、自身の技量を超えるような大変な難敵を制した(制しきれなかったにしても)と感じていた。
しかし、私がここでこうして満足したと、探索者としてのハングリー精神をほとんど失っていたと、そんな心情を表明したことで、この探索の目的の完遂を楽しみにしていた読者諸兄は、嫌な予感を持ったかもしれない。だが、察しの良い賢兄諸君ならば、この状況で私が選んだ決断を早い段階から予測したかもしれない。
文章としてはここで初めて確定させるが、私は釜ノ島以奥への探索を中止する決断を下した。
そして、この決断を絶対のものにしたいという覚悟から、私はここにデカリュックを置き去りにした。
もちろん、置き去りにして帰るわけではない。私は、釜ノ島で探索を打ち切ると決めたのである。そしていまいる場所は、私が想定していた釜ノ島ではない。釜ノ島には営林署時代の宿舎があるという情報を得ており、それは地形図にも描かれていたのだが、現在地から2〜300m奥(柴沢側)の林道沿いであるはずだった。そしてその辺りで、谷底近くを通る軌道跡と、この左岸林道が、初めて合流すると考えていたのである。
私が行った決断は、釜ノ島で林道と軌道跡が合流する部分を見届けて引き返すというものだった。
そして、この決断が後から決して揺らがないように、ここに全ての食糧と飲料を収めたまま、デカリュックを残していくことにしたのである。
こうすれば、柴沢まで行こうと心変わりすることは出来ないだろう。そうでもしないと、いざ踵を返す瞬間(=撤退)の悔しさに克てくなるのではないかという、自分自身の性質を誰より知るが故の懸念から、荒療治的に、ここにデカリュックを残すという“約束事”を行ったのであった。
その効果は、覿面だった。
16:12
7分ばかり留まっていた林道到達地点を再出発した。
前述の通り、デカリュックを置き去りにして向かったのは、上流方向である。すぐさま、今までより高い位置から見る峡谷風景が、私の目を楽しませた。
このとき正面に、この景色を見た誰もが名付けたくなるほど目立って見えた山が、千頭山だった。
千頭山、標高1946.4mは、地図の上では目立たない、南ア山脈の主脈に属さない山であり、似たようなピークが無数にある中で、なぜこのピークに周辺の広大な山域を代表するような「千頭山」という命名があるのか不思議だったが、実際にここに至ってみると、合点がいった。かつてこの地を職場とした大勢が、この景色を目指して入山し、また共有した中で、ここに特別の命名を与えたのは当然であった。夕暮れの千頭山は、神聖ささえ覚えるほどに清楚な姿で、この峡谷を見下ろして輝いていたのである。
なお、千頭山は柴沢のすぐ奥にある山だ。
ようするに、この写真に収まっているものが、私が置き去りにして立ち去る決断をした、千頭林鉄本当の最奥までの僅かな残距離であった。
本当に、これだけだったのだから、悔しい気持ちはいまもある。
しかしこの瞬間の私の感想は、悔しさよりも快楽にあった。
歩き出した最初の数歩で、私は天に昇るような爽快感に酔っていた。 なにせ、背中が軽いのである!! デカリュックがない歩行の素晴らしさよ! 世界の重力が減少したかと思うような、圧倒的身体の軽さに酔っていた!!
この軽さで歩ける時間は、ここから釜ノ島まで往復する間だけの、特別なウィニングランのようなものだった。
ずっとこの軽さが続けば、どんなにかすばらしかったろう。
正直、この軽さならば柴沢まで往復できるのではないかという“誘惑”は、すぐに私の頭を惑わせにかかってきた。
だが、そういう誘惑を断ち切るためのデカリュック放置だと己を律し、ギリギリのところで誘惑を断ち切って、リュックを取りに戻ることなく前進を続けた。
16:13 《現在地》
上の写真にも写っている、路傍に立つ高い柱の元までやってきた。
これは昨日の午前中に自転車で走った区間でもときおり見たもので、林道沿いに奥地へ伸びる電信柱だ。
軌道跡でときおり見た碍子の後釜だったが、肝心の架線は見当たらず、林業の衰退とともに機能を喪失しているのは間違いない。
ちなみに、素材は錆びた廃レールにも見えるが、実際は違っていて、コの字型に形成した鉄柱だった。
注目すべきは、柱と一緒に設置されていた、これまた見覚えがある形をした金属の標識板の方だった。
錆びきっていたが、よく見るまでもなく文字が読み取れた。
「34.0」という文字が。
いうまでもなく、これはキロポストである。
これと同じ形のものを昨日何度も見ていて(画像は6:42のシーンにある)、その最後が12.5km地点のものだったから、実にそこから21.5kmも奥地へ来ていることになる。 その間、この林道には少しも頼らずに…!
しかし、これから少し後に引き返してからは、この22キロ近い“林道歩行”が待ち受けているのである。
その距離たるや、なんと並走しているはずの軌道跡(大樽沢〜釜ノ島の軌道跡はおおよそ16km)の4割増しに近いという……。いかに現代の林道が山腹をのたくっているか分かると思うが、車を持たない歩行者となった私には、これはもうなかなか途方のない距離であった。
……ははっ、 はははははっ。
ほんとうに、この34という数字を見たときは、変な笑いがこみ上げてきたモンな。
千頭の山深いことを、こんなに如実に感じさせてくれるアイテムも、なかなかない。
私も林道サイクリスト(懐かしの「山チャリスト」)だったから、長大林道にはたくさん接してきたものだ。学生時代に挑んだ全長60kmクラスの弘西林道とか。
しかし、今まで挑んだ30kmを越えるような長大林道には、常に自転車があったし、また行き止まりではなかったから往復する必要はなかったし、それになにより、廃道ではなかったのである。
未だに私は未知の状況に身を起き続けている。 そのことを思い知らされるためのキロポストであった。
キロポストの所から、路肩を覗き込んでみた。
そこには、先ほどまで私がいた軌道跡の続きが横たわっているべきだったが、案の定、見当たらなかった。
まあ、一度離れてしまえばもうこうなることは予想していた。
終盤は、あれほど酷い状況だったのだ。
おそらくここも隧道になっているというわけではなく、崖の中腹に一応見える帯状の草付きっぽいところが、軌道跡なのだろう。今まであんな感じの所を何度も歩いた自覚がある。
とはいえ、本当ならば隧道ではないことを確かめるべきで、相応に余力があればそうしたに違いなかったが………堪忍してくれ。
16:14
林道は釜ノ島へ向けて下っていた。川の上流へ向かっているのに下ることに違和感があるが、林鉄とは異なる林道の自由度の高さ故の逆勾配だ。
そしてそんな下り坂の向こうに……
現われた!!
釜ノ島宿舎とみられる大きな建物の姿!
赤いトタンの屋根と、プレハブっぽい白い外壁が見て取れた。
その姿は、昨日今日と目にしてきた林鉄沿いの廃墟たちが、いずれも木造建築であったこととは一線を画しており、林道の時代になってから建設された建物だと推測させた。
ここから見る限り、大破している様子はなく、林道がこんな状況でさえなかったら、普通に人が滞在していてることを期待したかもしれなかった。
刻一刻と向いの山に沈みゆく太陽は、こちらの山には、宿舎の辺りから上にだけに光を当てていた。
そのことがまた、私の最終到達地点をより尊く演出してくれる、一種の舞台装置になっていた。
16:15
釜ノ島宿舎を正面に見ながら林道をまっすぐ下っていく途中、これまでは寸又川があった路肩を覗き込むと、その滔々たる清流は姿を消していた。
そこには代わりに釜ノ島から流れ出る小さな流れがあって、林道の路肩から谷底に至るまで、ほとんど均一の勾配を持った疎林とガレの斜面が続いていた。
そして、このなんの面白みもない斜面は、私が諦めた軌道跡の行き着く先であった。林道と合流する直前のほとんど最後といえるシーンだった。
その証拠は、路盤も何も見当たらない谷底近くの斜面にポツンと1基だけ佇む、コンクリート製の橋脚だ。
これは、路盤を離れる決断をしてから初めて目にした軌道跡の確たる遺物であった。
なお、このあと林道はこの小谷を回り込んで対岸へ向かう。
そこでこの橋脚と接近し、そのまま合流地点を迎えると思われた。
釜ノ島到着!
ここは、千頭林鉄の栃沢停車場跡から、軌道跡(牛馬道)経由で、おおよそ5.9kmの地点である。
栃沢以奥の林鉄が先行廃止され、牛馬道化していたとみられる昭和30年頃に作成された「路線図」に、この地名は書かれていない。
おそらく、昭和40年代に林鉄や牛馬道に代る左岸林道が整備された時点で、大々的に拠点として整備されたのだろう。
当初計画では、今日の12時とか13時にはここまで辿り着きたかったが、4時間ほど遅れての着であった。
そのうえ、探索の生命線であるデカリュックを持たないという、先細り鉄砲玉状態でのなんともギリギリの到達だ。
千頭の奥山に激しく責め立てられた結果、私にはここまで来るのが精一杯だったと認めねばなるまい。
小沢を渡る林道を見下ろせる小高いところに、数棟のプレハブの建物が建ち並んでいた。
地形図で見た印象より建物は大きく、数も多く、ここが林鉄時代の大根沢のような、
林道時代の千頭山国有林経営を支えた最大の奥地拠点であったこと感じられた。
朗らかに日の光を浴び続ける山の建物は郷愁を誘い、少し探検したかったが、先に「引き返す」ことをしよう。
そしてそのためには、もう少しだけ林道を先へ進む必要があった。宿舎の探検は「帰路」にやるつもりだ。
左岸林道が釜ノ島の沢を渡る地点は、橋ではなく巨大な暗渠になっていて、地割れのような洗掘が進んでいた。
道幅はこれまでにも増して広く、県庁所在地前の道路が必ず立派にこしらえられているのと同じようなものだろうと思った。
道路作り一つを取ってもこれだけ力を注いでいたものが、数十年の間でことごとく見捨てられてしまったことに、わが国の林業を取り巻く情勢の変化の大きさを思った。
ここから先は、一応、新しい区間の始まりだ。
釜ノ島〜柴沢間、推定距離2.5km。
今回の探索目標に含まれる最終区間であるが、今の私には、どうやっても悔しい体験を避けがたい区間となるだろう…。
16:18
釜ノ島宿舎の前で反転した林道は、宿舎を背にして、寸又川の本流がある方向へさらに下っていく。
依然としてもの凄い広幅員で、地形図にはこの左側の空き地に、先ほどの宿舎とは別の建物が1軒描かれていたが、撤去されたらしく存在しなかった。
そして、先ほど見下ろした“橋脚”があるのも、この空き地の左側である。
私は空き地を通って、左の谷の縁へ近づいていった。
あった! さっき見た橋脚が近くに!
この地点は、私が軌道跡を離脱した地点から直線距離で200mほど離れており、等高線に沿って軌道跡が続いていると考えると、私がここで歩かなかった区間の長さは270m前後と推定された。
いま、さらっと書いてしまったが、この地点から逆に路盤をたどってみることはしなかった。
したいという気持ちにならなかった。なにせ、橋脚だけは確かに見えたが、両岸とも全く路盤の気配がなかったのである。
近すぎる林道が排出した土砂によって、完全に埋立てられてしまったのだろう。もう谷の辺りは薄暗いし、とても踏み込みたいとは思えなかった。
正直、期待は出来ないと思うが、この未踏の270mにも、隧道が眠っている可能性はある。
もし再訪するなら、前に迂回したこの辺りの区間や、釜ノ島〜柴沢間とともに解明したいものだ。
16:20 《現在地》
橋脚の地点で軌道跡と林道が合流してはいなかった。
そこではまだ5m程度の高低差があり、軌道跡は林道の路肩の土の下に埋没しているようだった。
そこから50mほど林道を上流へ進むと、この写真の場所がある。
目に見えるような分岐はないが、ここが軌道跡と林道の合流地点であった。
より正確な表現を使うと、ここから先の左岸林道は軌道跡を転用しているのであった。
左岸林道の起点大間(おおま)を去ること34kmあまりを経て、林道が代行の使命を与えられた林鉄(やその後裔である牛馬道)と、初めて直接接続する記念すべき地点である。
その割に特徴は薄い地点だが、一つだけ強い証拠があった。それは、林道の勾配の変化だ。
ずっと下ってきた林道は、ここで底を打ち、微かな上り坂へ転じていたのである。
上り坂一辺倒であった林鉄との、密かな合一を物語っていた!
橋脚が、林道合流前の最後の軌道跡の痕跡だったろうか。
否。
振り返ってみると、直前の林道路肩に埋め込まれていた擁壁が、林道の建設された昭和40年代後半には似つかわしくない風体をしていた。
それは、私がこれまで軌道跡で飽きるほど目にしてきた風体……、苔生した石垣に他ならなかった!
間違いなく、ここまで軌道跡は伸びていた。
そして、ここで林道に呑み込まれている!
千頭林鉄の軌道跡探索は、ここに至って一つの重要な区切りを迎えた。なにはともあれ、ここまでは辿り着くことができた。
写真は、記念すべき合流地点を振り返ったものである。
ここから林道が激しい上り坂になっているのが分かるだろう。
軌道跡は、右のカーブミラーの辺りから、路肩に埋没する形でほぼ水平に奥へ伸び、50mほど先の橋脚跡から独立し、あとは千頭堰堤までひたすら寸又川に沿って20km近い危険な廃路を延ばしている。
私は今回と2週間前の探索で、その大半を完歩した。歩かなかった距離は、合計600mくらいだろう。
16:21 《現在地》
軌道跡と重なった林道は、間もなく寸又川の本流と再会した。
正面は再びの千頭山。谷底に近い所からも、これほどよく見えた。
それにしても驚くべきは、これほどの奥地まで、戦時中に線路が敷かれ、機関車が出入りしていたという事実だ。
この線路は、幾多の乗り継ぎを要しはしたが、ここから都心に、全国に、通じていた。
当時は御料林と呼ばれる皇室の財産であった千頭山から、帝室林野局の事業として、天然林が伐り出されていた。
16:22
引き返すべき時が来ていた。
デカリュックを残す決断をしたときに課した自分への約束を、果たすべき時が来ていた。
林道は荒廃しつつも、もし自転車がここにあったら十分自走出来そうな感じであった。
路は美しい峡谷の奥へ尊く伸びて、柴沢よりもさらに4kmほど奥にある独自の終点を目指していた。
その確かな歩みからは、私の苦闘や苦悩を斟酌しようという意図が感じられなかった。去る者を引き留めはしない、山のルールが徹底されていた。
私を励ます者はなく、支える者もなく、独自に判断しなければならなかったが、その判断は既に下されていた。
デカリュックに食糧と飲料を残してきたのは、引き返しへの絶対的な約束であった。
この疲れた身体で、補給もなしで、これ以上先へ行けないという弱気にさせてくれた。
足取りは、もはや軽くもなかった。荷を下ろしたことによるスーパーモードは数分の出来事でしかなかった。
この地点で見たのを最後に、翌朝まで日光が途絶えた。
私が約束を果たすときも、すぐそこに迫っていた。
16:25
路傍に34.5kmのキロポストを見つけた。
林道に脱出してから500m前進したことが分かった。たった500mを無荷で歩いた、それもほとんど下り坂だったにもかかわらず、新たに疲れた感じがあった。
このうえ柴沢まで行くとなれば、片道2km以上あるのだ。
いや、ぶっちゃけ2kmという数字では、引き返すことの説得力など皆無であろう。
なにせ、昨日から延べにして40km以上も移動してきた中での最後の2kmの話である。
しかも、道は全然悪くない。今までに較べれば圧倒的に安牌な林道が柴沢まで続いていることが、ほぼ確定していた。
この林道上であれば、もし真っ暗になってしまっても、手元のライトだけで安全な宿舎まで移動することが出来るだろう。
それでも引き返したかった!
デカリュックを残した時点でも、本当の本当を言えば、まだ完全には決めきれていなかった撤退の決断は、ここで最終的になされた。
ひとつ、足と腰の痛みがこれ以上奥へ進むことに不安を感じさせるレベルになってきていたこと。
ふたつ、明日の計画にあった、無想吊橋への寄り道が出来なくなることを恐れたこと。
みっつ、軌道跡との合流地点以降の林道をこうして少し歩いてみたが、全く軌道跡の痕跡は見当たらなかったうえに、この先についても高確率で最後まで林道に呑み込まれていると考えられたこと。そもそも牛馬道区間であり、遺構の発見期待度が小さかったこと。
この三点を理由として、あと僅か2kmほど先に柴沢を捉えながら、撤退する最終決断を下した。
なお、上記の2番目の撤退理由については、こう考える人もいると思う。
「山中泊をしなくても訪問できる位置にある無想吊橋への再訪は次回に回しても良いはずで、もう二度と来ることは難しそうな柴沢をこのときに詰めなかったのは失敗だ」と。
確かにこの天秤は大いに私を悩ませたことであったが、どうやっても駆け足にならざるを得ない状況で柴沢を目指することの「気持ち悪さ」と、そもそもこれまでの区間にもいくつか再訪を要する「やり残し」があったわけだが、ここで柴沢を無理矢理に詰めてしまえば、いよいよ残余の再訪理由は小さくなり、もはや二度と再訪のモチベーションを得られないのではないかという懸念があった。
現時点で再訪を行っていないので机上の言い訳にしかなっていないが、このようなことも考えて、無想吊橋再訪を優先する決定を下したのであった。
16:26 《現在地》
お変わりなく道は続いていたが、34.5kmキロポストから50mほど先のこのカーブを私の終着地点とした。
ここにはカーブミラーと一緒に、林班の境を示す小さな標柱が立っていた。
対岸に赤沢という急流が流れ込んでおり、このような特徴から現在地がはっきり分かる地点を撤退地点に選んだ。
ここから150mほどで、左岸林道は初めて右岸へ渡る(この路線名なのに)。
そこには当然橋が架かっているはずで、軌道跡時代の旧橋痕跡が期待できる地点だったが、敢えてここで引き返すことにした。
再訪のモチベーションを残そうという意図もあったし、どうせ引き返すならば後の負担が少ない方がマシだとも思ったのだ。
ちなみに、2019年現在、左岸林道の荒廃はさらに進行しているという情報を得ている。
帰路のネタバレを避けるために敢えてリンクは張らないが、掲示板に優れたレポートが紹介されている。
拝見した限り、確かに荒廃しているが、それでも軌道跡を歩くよりはだいぶマシに柴沢を目指せそうである。
いずれ、山歩きが好きな仲間でも誘って、今度はもっとリラックスしながら再訪したいものである。
柴沢まで あと2.0km にて撤退
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