二ツ屋手前の現在地から、再び軌道は国道よりも上のレベルを通行していた。
今回はここから、「吉ヶ原」手前に架かる国道橋「二ツ屋橋」までの、約1.8km区間を紹介しようと思う。
実は、二ツ屋橋の先から終点手前の「鹿間」までが、今回の神岡軌道探索全体を通しても大序盤の「中山〜横山地区」と並ぶ、重要な攻略目標であった。
その訳は次回以降に改めて明かすが、いわば今回の区間はクライマックス前の最後の足溜まり程度の期待感であった。
はっきりいって、ここだけはスンナリ行ってしまってくれたほうがいいかなと、そう思っていたくらいだ。
2008/7/4 8:43
現在時刻は9時をまわり、早くも日差しは容赦がなくなってきた。普通なら「まだ9時だし」という時間なのだが、今日は昨日以上に暑くなるに違いない。
そして我々が国道上の石垣を目印にして軌道跡へ通じる小径を上がっていくと、その途中で山菜採りかは知らないが、作業着姿の一人のオヤジさんと出会った。
我々が神岡軌道の跡を辿っている事を話すと、どうやら地元の人であったらしいオヤジさんは気をよくしたらしく、次のような話を聞かせてくれた。
どうやらこのオヤジさんが語ってくれたのは、旅客営業免許が下りる以前、すなわち戦前の状況であるようだった。
戦後間もなくに現在の国道と近い位置に車道が造られたはずだし、地方鉄道となってからは裸のトロッコに人を乗せることも無くなったはずだからだ。
再びオヤジさんと出会った石垣の下へ戻る。
ここからは、いよいよ前進。新しいステージへ進むことになる。
チャリを国道端に置いてきたので、きりの良いところでまた戻らねばならないのは鬱陶しいが。
左右の写真は、オヤジさんによって「軌道の擁壁」との太鼓判を貰った、谷積みの高石垣である。
石垣の下を抜けると、昨日さんざん見たような景色になった。
すなわち、草むした軌道跡(電線付き)の下に、国道の乾いたシェッドの屋根が延々と連なる眺めだ。
前方が嫌に緑が濃いので、早くもハードな藪漕ぎが始まるのかと内心ゲッソリしていると…
緑濃すぎるだろ。
つうかそこ、隧道だろ!!
というわけで、さっそく“本日の1本目”を頂いちゃいました。
ここからすでに出口が見通せている、そんな短めの隧道である。
東猪谷からの通算では、第12番目の隧道。
(このカウントに恐らく見過ごしはないと思うが、現存しない国道との交差部分(隧道だった可能性あり)や、ロック/スノーシェッドは除いている)
ちなみにこの隧道は、昭和28年版地形図にも描かれており、いわゆる“旧線”は持っていないようだ。
コンクリートでの巻き立ては戦後だろうが。
短いわりにジメジメした隧道内は、特に目立った壊れもなく、真っ直ぐに50mほど先の出口へと通じていた。
それにしても隧道の涼しさが心地よい。
この日に限っては、隧道を見つけた事への悦びよりも、しばし涼める安楽の方が勝るかも知れぬ。
隧道を抜けて、順調に“次のステージ”へ移るものかと思いきや…
ちょっとばかり、様子がおかしい。
妙に先が明るいし、国道の落石防止ネットを引き支える鋼製のワイヤーが狭い視界を何本も横切っていた。
出先、やばそうだ…。
8:56 《現在地》
隧道を出た先に路盤は少しも存在せず、いきなり国道のロックシェッドの真上に出てしまった。
そこは重機で削り取った斜面に金属ネットを敷いて雑草の種子を撒くという、完全に人工的な法面である。
非常に歩きづらいのだが、我慢して100mもトラバースし続ければ、きっと国道から少し離れた軌道跡が復活すると思ったが、それを確かめる前に右写真の猛烈な笹藪になってしまったうえ、いよいよ斜面が急傾斜となってトラバース困難となった。
そこでいったん自転車を回収しに戻り、今度は反対側からここへアプローチしてみることにした。
一 時 撤 収。
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9:06 《現在地》
長さ300mほどの「D二ツ屋洞門1」をくぐり抜け、二ツ屋集落へ到着した。
ここで国道は、やはり廃線となった「神岡鉄道」を跨ぐ。
軌道跡は山裾のやや高い位置をトラバースしており、こちらは神岡鉄道の隧道の上を通過している。
ちょうど向こうに見える杉林の辺りだ。
我々は国道端にチャリを止め、線路脇にある神社の境内を通って、その裏山の軌道跡へと登ってみた。
この間に道はないが、さほど大変ではなかった。
キタキタ。
我々にとってはすでに馴染みとなった風景、山腹を緩やかに横切る軌道跡だ。
ここはまだ日差しが射し込まず、夜気が微かに残っているようであった。
目的地の神岡方向は手前だが、先ほど一旦撤退した地点を確かめるべく、逆方向へまずは進んでみた。
そして歩き始めた直後、我々の前に
“異形の物体”が出現した。
まあ、
木だよね。
でも、この木はちょっと…、
意志(石)が宿ってませんか?
これを見て永冨氏がどんな感想を持ったかは分からないが、私は「荒ぶる巨大ナメクジ」の連想をした。
おおよそ普通人が想像し得ない造形を、純粋な自然が作り上げてしまった例である。
触れれば何か御利益がありそうにも思えたが、近付くことは敢えてしなかった。
異形木を過ぎて少し行くと森は途絶え、代わりにコンクリートの擁壁が現れた。
軌道跡はその下の平場だが、雪崩や落石が運んできた土にもの凄い密度で草が生え、踏み込むとたちまち視界が不良となった。
それでも少し我慢して進むと、やがて檻のような笹が夏草を卓越し始め、遂に前と同じように進路が遮られた。
身をよじってその先を確かめると、そこは確かに先ほど撤収した「ロックシェッド上の人工斜面」であった。
満足してこの方面の探索を終えた。
続いて、南側へ向かう。
なお、写真左下に見える隧道は、神岡鉄道のものである。
先ほど国道からも見えた若い杉の植林地の中を、軌道跡の平場は小さな石垣を従えて穏やかに通り抜けていた。
(→)
古い電柱の残骸が地面に埋もれかかっていた。
9:17 《現在地》
杉林を突っ切ると、携帯電話の基地局のフェンスに行き当たった。
フェンスを回り込んでその裏側へも行ってみたが、国道の法面の上に出てしまい、そこからはもう辿れる道が無かった。
二ツ屋から先の軌道跡は、一部が国道法面に完全に同化してしまっていたのだった。
二ツ屋裏手の軌道探索をこれで終え、チャリを回収しに戻った。
二ツ屋をチャリとともに出発し、基地局直下のカーブを曲がると、すぐにこの「C大堀平洞門」が待ち受けていた。
軌道跡はこの洞門の屋根の位の高さを通過していたはずだが、何ら痕跡は見あたらない。
完全に国道拡幅の時点で切り崩された模様である。
(前も書いたかも知れないが、この国道41号も昭和40年代までは、市街地を除くほとんどが1車線の砂利道だったのである)
この洞門は長さが600m以上もある、この道の中でもかなり長いものだが、入ってすぐのところに左写真のような洞門上へ出るためのスロープが存在していた。
昨日の東茂住付近でもこのような通路から外へ出て、軌道の隧道を発見したことが思い出される。
チャリを路肩に停め、埃くさい通路をジグザグに上って外へ出ると…
ロックシェッドの屋根に出ることが出来た。
しかし、今度は軌道跡を見出すことは出来ない。
シェッドの基礎工の部分に呑み込まれ尽くしてしまったようである。
このシェッドが尽きる先まで、軌道は「だめ」っぽい。
或いは、つぶさにこの屋根の上を歩いて山肌を観察していけば、何らかの遺構(例えば石垣)を発見できる可能性はあったが、ここに自転車を持ち込むことは困難であり、先に降りられる地点も無さそう(実際無かった)ことから、この600m区間の調査は断念した。
現役当時から軌道と国道が相当近接していたはずだが、同一平面であったかは分からない。
古地形図の縮尺では、そこまで見分けが付かないのである。
9:34
国道は洞門を抜けて間もなく、久々に高原川を渡る。
この橋は昭和39年完成の「二ツ屋橋」で、現国道は右図の通り、この橋と約500m先に架かる「割石橋」の2本の大きな橋で両岸を往復する。
これらの橋が架かる以前のルートは旧版地形図(右図にカーソルオン)の通りで、素直に右岸を通じていた。
そして、軌道もまた右岸通りである。
当然我々は旧道へと進路をとる。
全線中でも屈指の激戦地。その静かな始まりであった。
急坂となったコンクリート簡易舗装の道を20mほど進むと、予想外にも道はヘアピンカーブとなって後方へ転回していた。
だが、旧国道はそちらへは行かず、カーブを突っ切るようにして川べりを進んでいたはずである。
無理に突っ込もうとした我々だったが…
道形は残っているが夏草が烈しく、チャリごと進んでいっても突破できそうにない。
今回は軌道跡を探ることがメインであるから、旧国道は後回しにして、舗装路の方を追いかけることにした。
軌道跡は旧国道よりも一段上にあったはずだから、舗装路の行く手でぶつかる公算が大である。
なお、急坂を嫌って、チャリはこの場所へ置いていくことにした。
地形図にはない道をまた30mほど登っていくと、軌道跡と思しき平坦な直線道路にぶつかった。
予想外だったのは、この平場に古い、そして巨大な民家が建っていたことである。
一階部分はほとんど夏草に埋もれているなど、現在は無人のようであるが、周囲には畑の跡も電柱柱もあり、かつては集落然としていたのかも知れない。
例によって、先に進行方向とは逆側へ進んでみる。
我々の見立てが正しければ、すぐにロックシェッドの上に出てしまうはずである。
なお、この広場からも高原川や国道方向の視界は開けており、対岸に例の「割石の高崖道」を鮮明に見ることが出来る。ほぼ目線の高さである。
下に見える重機は国道脇の空き地に止まっているものだ。
事は想定したとおりに進んだ。
北へ軌道跡を100m弱進むと、ロックシェッドの真上に出たのである。
まだもう少し道は続いていたが、見通せる部分についてはこれで良しと判断し、南側へ向かうことにした。
我々の意識は既に、この先にあるはずの難所地帯へとかなり引っ張られていたと言わねばならない。
もしも「次回」があるならば、この長いシェッドの屋根をチャリで通行し、山際にあるかも知れない遺構を明らかにしたいものである。(第二次探索でもここは未着手)
9:44 《現在地》
民家前の広場へ戻ってきた。
そしたら、あった。
隧道があった。
嘘です。
さっき、最初に登ってきたときにも気付いてました。
そもそも、この隧道は旧版地形図にも記載されているものだ。
難所の始まりに穿たれた、
第13番目の隧道。
短いけれども…
通り得ぬ隧道。
隧道内は完全に物置として使われており、これらを壊すことなく通行することが出来ない状況。
ここは諦め、隧道上にある戸の壊れた「熊野神社」の堂を掠めて、南口へと迂回した。
南口。
こちらは薪によって頑丈なバリケードが築かれており、隧道内への進入は不可能であった。
隧道前は丸石練積の掘り割りで、路盤には降り積もった落ち葉が厚く堆積している。
最近に人の出入りした気配は、全くない。
閉ざされた“門”を背に、いざ歩き出す。
間もなく下に現れたのは、完全な廃道と化した旧国道。
廃線と廃道の激悪コラボレーションに、次回、苦闘。
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