神岡軌道 第二次探索 (牧編)

公開日 2009.10.26
探索日 2009. 4.27

これから紹介する区間は、「土〜牧〜漆山」である。
ここは第一次探索でも探索済みで、そのレポートの「第11回」「第12回」で紹介している。

そして、右図で青く示した区間が探索の終了している部分であるが、「牧」地内に僅かな未探索区間(赤)を残すのみで、ほぼ探索完了の印象である。

だが、季節が変われば見えるものもまた大きく違うというということをここまでの探索で強く思い知らされた私は、西の残陽を頼りにさらなる南下を試みた。

日が暮れるが早いか、新たな成果の出現が早いか。
ある種の自然との競争である。


※このレポートで特に注釈無く「前回」という表現を使った場合は、2008年7月の「第一次探索」を指すこととします。




 前回は軽く流した「牧」集落内での発見


16:51 《現在地》

まずはじめに、今回のレポはこの“赤い枠”のある画像が多いので、こういう赤枠があったらカーソルを合わるという、山行がのルール(笑)を守って閲覧してくださいね。そうしないと、何を言っているのか訳が分からなくなるかも知れまへん。

というわけで、現在地は「土(ど)」の集落を過ぎて軌道跡が国道41号の上に出てくる地点。
ここまでは第一次探索「第10回」で紹介済みなので、橋や隧道があった区間を覚えている方も多いだろう。

ここから南下を再開する。
なお、股間には前回拾った自転車が納まっている。




南下を開始すると、50mほどでこの地点に着く。

ここが何かというと、東猪谷からここまででもっとも長い隧道の坑口がある。
それは第一次探索「第11回」で反対側の南坑口を見つけたことで、はじめて探索されたものである。
だが、そのときは貫通を確かめてはいるものの、はたしてその北坑口(写真)がどこにあるのかを、深い藪による視界不良のため明確にせずに終えてしまっていた。

それが今回、明瞭となったのである。
すなわち、この区間における第二次探索の最初の成果である。




これが、その南口だった。

酷道法面上の幾重にも設置された落石防止柵と、更に覆い被さるような落石防止ネットとの隙間に、確かに巨大なコンクリートのシェッドとその坑口が見えていた。
これでは、草木の繁茂する時期に全く所在を掴めぬ訳である。ひとつ解決。

そして次は、この300mほどの長い隧道(東猪谷から数えて第11番目の隧道である)には旧線が存在したのではないかという疑惑の解明である。
だが、これについては前回すでに、国道の拡幅によってほとんど法面に吸収されてしまっていると結論付けていた。




今回この旧線については、新たな遺構の確認は出来なかった。

しかし、前回発見していた各種「旧線に関わると思われる遺構」について、より明瞭に前後との関わり、すなわち、現在の国道によって切り取られている状況などを把握することが出来た。

写真は、200mほどの“消失区間”から明けて、石垣が出現しはじめる地点である。
前回もこの石垣は目撃しているが、よく分からない存在であった。




上の写真の位置で復活した旧線路盤は、そこから牧集落の入口まで国道とぴったり並走している。
その中間部にある小さな石造橋台とともに、非常に多くの人(ドライバー)が目にしているだろう遺構だが、あまり本などで紹介されているのを見ない。
或いは単に国道の法面のように捕らえられているのか、平凡に写るのか。

個人的には、新線との年代の違いを感じさせる空積み石垣の風情が、とても好ましい廃線風景であると思う。




そして、これ。

旧線橋台の奥を注意深く覗き込んだ人だけが得られる、至福?の光景。

枕木の残る新線のガーダー橋と、先ほどの隧道の南側の坑口とが並んで現れる。

ここも春だと、旧線と新線を同時に眺めることが出来るのだった。
すばらしい。

で、間もなく新旧線の合流が予感されるわけだが、その地点というのも前回は判然としなかった。
いまから、見直していこう。



《現在地》

合流地点と目されるあたり(厳密にはその直前)は、このようになっている。

前回紹介しているので憶えのある人もいると思うが、ここには“狛アナグマ”のいる神社があって、その参道が掘り割りになった「新線」を跨線橋(写真)で跨いでいる。

旧線はというと、先ほどの橋台からほぼそのままの高度を維持したまま、鳥居の前あたりを横切っていたと思われる。
そして、この両者の真の合流地点はというと…。




残念ながら、そこはすでに「牧」集落の畑となってしまっており、家屋も建っていることから明瞭なルートを追うことが出来なくなっている。

牧集落内には路盤の痕跡がほとんど無い。

前回はそのように結論づけ、時間があまりなかったこともあって、早々とこの集落を通り過ぎたのであった。

だが、今回はこの「出鼻挫かれ」にめげることなく、集落内の路盤調査を敢行した。

まずは、写真内のA地点(合流地点)へ行きたいところだったが、そこは畑になっていることが見て取れたので遠慮した。
そして、次にアプローチが可能そうな場所として、B地点へと向かった。



ここから集落内の”やや”ややこしいレポートになるので、別途大縮尺の地図を準備した。

次は、B地点である。




【B地点】

国道から分かれる小径を辿ってB地点へやってくると、そこには半分土に埋もれた石垣が存在していた。

ちょうど路肩と思える場所にも石垣があるのだが、これは恐らく民家(写真左は民家の敷地)の垣根であり、軌道廃止後の構造物だと思う。
だが、埋もれかけた石垣の方は古色蒼然で、単に畑の段差では無さそうであるが、まあこれだけを見ていても路盤だというはっきりとした根拠はない。

このB地点を路盤の一端であると考えられるのは、ここから南側へ向かって“道”が存在するという、“状況証拠”による。




これ…、路盤だよね?

前回は民家に阻まれ確認し得なかった部分だが、この小径は明らかに廃線路盤の匂いを醸している。

ことさらに大きなフォントを使うような発見ではないけれど、静かに浸潤するような喜びが… ヒタヒタと。




やはり路盤跡で間違いなかった。

それから100m足らず進むと、前回の見覚えのある場所へ出て来た。
前は国道から見上げるだけで素通りした、“発電水路橋”の部分だ。




《現在地》

これも今回撮影したものだけど、前回は国道からのこの眺めだけで満足したのだった。

昭和17年に神岡水電株式会社が建設し、日本発送電に合併されてから運用を開始した、「牧発電所」の発電水路である。
神岡軌道の最初のより遙かに新しい構造物であるから、それを渡るこの大きな石垣の築堤は発電所の建設にあわせて建造されたに違いない。




これが、路盤上から見る“渡管部”である。

国道の側は石の築堤になっていたが、今回はじめて見る山側は垂直なコンクリートの壁だった。

軌道は廃止されてかれこれ40年以上も経っているが、発電水路の方は今なお現役である。
こういう、生の死の交雑した風景には、ほぼ無条件で惹かれる。
まあ、軌道路盤の方もまるっきり捨てられているわけではなく、集落民が散歩するくらいには使われているのだろう。
この一連の区間は藪もなく、路盤もよく締まっていた。




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この牧という集落は、発電水路のある300mほどの無人地帯によって、南北2つの地区に分けられている。
さしずめこの先が“南牧”であるが、集落としての規模は北も南も違いはない。

写真はその集落の間隙のあたりで、発電水路を渡った路盤は引き続き国道上を、丸石練積みの石垣に囲まれて続いている。

ここも無理をすれば通して辿れそうだったが、全く使われていないらしく、この時期でも藪が多いのと、あまりに国道から明け透けであることから、時間節約のため国道へ迂回した。

そして、次に路盤が国道から離れるのは“南牧”の北端にある、「公民館」の裏手である。




《現在地》

え?
ホントにこれでいいの?

これまでの裏切られた思い出から、何事にも疑いから入るオブローダーにとって、ここまで鮮明な痕跡というのは、にわかに受け入れがたいものがある。
まして、前回はすっかり素通した遺構である。
だが前後とのつながりを考えると、中段の平場は間違いなく路盤跡である。

ここは流石に前回も“夏草に隠されて”はいなかったはずで、“大のオブな”が二人も雁首揃えて何をやっていたのかと言われそうだが、全く返す言葉もない。手を抜くとこうなるのだ。(確かに国道からちょっとだけ脇に入らないと見えない場所であるが)

ここには公民館の建物がポツンと建つが、見るからに旧グラウンドで、片隅にまだ新しい「漆山小学校跡」という石碑があった。




同グラウンドより南へ続く路盤を目で追うと、山裾へ綺麗に滑り込んでいた。

しかもその入口には、これまた前回気付かなかった小さな橋が発見されたのである。


それにしても、路盤の残り方がとても好ましい。
集落内だというのにこれだけ痕跡を留めているのには、思わず愛しさを覚える。




近付いてみると、それは橋と言うよりも、暗渠だった。

また、本来水が流れる場所も乾いていて、跨道橋のようでもあるが、やはりその先は単なる沢である。

この地で学んだ子供達にとっては、思い出深い隠れ家だったのではないだろうか。


そして、路盤はこれより山裾をやや高く巻いて、“南牧”の集落を迂回するのであるが、この部分もグラウンドの一隅から見晴らすことが出来た。





はぅ〜  イイ〜〜!


写真が大きいのが、私の萌えの琴線に触れた証拠なわけだが、

皆様には間違いなく路盤を目で追っていただきたい。


大きな木の元に祠があって、その裏手を真っ直ぐに路盤が貫いている。


さらにアングルを変えて先を見る。



公民館裏手の路盤を見つけた時点で、「これはもしや」と思い始めたのだが、予感は的中した。

前回の探索で路盤だと思って辿っていた道は、路盤跡ではなかった。

ここまでもいろいろと前回の発見を補足するものを見付けては来たが、“覆す”のはたぶん初めてである。

具体的に言うと、前回の探索で路盤だと思っていたのは「赤いライン」であるが、どう見ても路盤はその上だ。

続いて、C地点へ向かう。
これには路盤を通っていっても良かったが、いい加減日暮れが近いのと、自転車を持ったまま行くことには不安があったので、申し訳ないがまた国道を迂回した。





【C地点】へやってきた。

今の季節ならば、山腹にある路盤は大変明瞭である。
だが、これまた前回の写真と比較すると…

「気付けないのも無理はなかった」

そう言ってあげて欲しい…。




というわけで、地図中に赤く示したルートは軌道跡ではないようだ。

では何なのかということになるが、旧国道か、それよりももっと古い時代の「越中街道」の流れを汲む道だろうと思われる。
このうち、赤破線の部分は現在は民家などに吸収されて痕跡がないが、昔は道があったのではないだろうか。

さらに進む。





あれ、なんでnagajisさんが?!

そんなツッコミをする人はいないだろう。
どう見ても、この暑苦しさは前回の映像である。


…ウフフフフ。

なぜか知らんが、私は今回せっかく路盤へ続く「階段」を見つけていたのに、スルーしてしまった(笑)。
写真を撮り忘れたとかではなく、存在自体をスルーしていた。

スマン!
誰か通勤かなにかでここを通る人がいたら、ちょっと寄り道して、階段の上を確かめてきてもらえないだろうか。
路盤があるはず。もしかしたら、漆山駅の跡がある可能性も…。




これで牧の集落は外れ、漆山までの山間区間が始まる。
そして、路盤の下の小径をそのまま走っていくと、100mほどで小沢を渡る新しい橋に出る。(写真は下の国道から撮影)

この橋も前回渡っているが、実は本来の路盤は橋よりも少しだけ高い位置にあったはずだ。
だが、橋の前後は護岸工事や治山工事で地形の改変が著しく、全く痕跡を失っている。
これでは前回最後まで間違いに気付けなかったのも頷ける。




橋を渡ると間もなく小径は国道と合流して終わる。

軌道もここで国道合流していたと考えていたのは前回までで、実際にはまだ上にあったということも、今回の修正点だ。

とはいいつつ、幸か不幸かこの数メートルの違いは、これから先の探索には影響しない軽微なものに終わった。

というのも…




17:14 《現在地》

どうせ国道のスノーシェッドに遮られて終わりなのだ。

しかも、断続的に約500mも続くこの長いシェッドを出た先では、軌道は国道の下に現れる。

つまり、軌道はこの先で国道とますます接近し、最後は立体交差(旧地形図による)をするのであるが、その痕跡が何もないことは前回確認済みなのである。

もう一足伸ばして、シェッドの先へ進もう。
そこは、第一次探索の初日を終えた地である。




17:19 《現在地》

やってきた。見覚えのある場所。

前回の初日を終えた場所であり、またレポート的にもこれまでの“最南端”地点である。

このように国道の築堤下から唐突に現れてきた路盤跡の平場は、そのまま小さな川へぶつかってきて…。





この衝撃的なガーダー橋に窮まる。

前回は半分以上が葛に覆われ、その全長が判然としない有様(写真)だったが、今はその弊害はない。

ただ、前回は見られなかった杉の木が一本、岸から橋上に倒れ込んでおり、今も岸辺の崩壊が止まっていないことを思わせた。


以上である。

これで、第一次探索初日の全行程をカバーすることが出来た。
新たに発見された隧道や橋梁の数は、両手に余るほどである。
そして、この第二次探索はもう少しだけ先まで南下したのであるが、それをお伝えするのはまたもう少し第一次探索のレポートが進んでからにしようと思う。
ひとまず、おさらばである。