廃線レポート 元清澄山の森林鉄道跡 机上調査編

公開日 2016.12.22
探索日 2014.12.27
所在地 千葉県君津市

路線の全体像を振り返ってみる。


以上をもって、現時点における「小坪井軌道」に関する現地調査レポートは終了だ。
それを踏まえて、路線の全体像は右図のようなものであったと考えている。
以下、解説する。

起点は、地元の人が「真崎」と呼ぶ、片倉集落近くの笹川沿い低地にあって、貯木場と製材所が置かれていた。
起点を発した軌道は、間もなく木橋で笹川の右岸へ渡り、全長150mほどの隧道(貫通確認)を通じていた。
隧道を抜けると間もなく、平成12(2000)年に完成した片倉ダムの堤体に突っ込み、以後は湖底の区間となる。
起点から片倉ダムまでの距離は、約1.1kmと推定される。

更に進むと、坪井沢と笹川の合流地点があり、軌道はここから坪井沢沿いに入る。
それから「分岐A」地点に差し掛かり、ここで坪井沢沿いの本線と、田代川の谷へ向かう「支線A」が分かれる。
片倉ダムから「分岐A」までの距離は、約0.6kmと推定される。

「支線A」は、坪井沢と田代川の水系を隔てる小高い山を全長300m前後の長大な隧道(南口のみ発見)で抜け田代川の谷に入ると、やや下流方向に逆走して現在の衛星管制センターの南辺りに注ぐ支谷(名称不明)に入っていたらしい(第三の証言者の地図情報)が、未探索である。
「支線A」の全長は、約1.8kmと推定される。

本線の軌道は東進の過程で、坪井沢の激しい蛇行の一つを短い隧道で抜けていたが、この隧道は水没のため未発見である。
ビル沢出合を通過してから南進に転じ、小坪井沢と本坪井沢の出合に至る。この辺りが笹川湖の通常水位におけるバックウォーターである。
「分岐A」から出合までの距離は、約1.3kmと推定される。

小坪井沢の谷に入り、蛇行する谷底を小桟橋や簡易築堤の連続で遡り、「分岐B」に到達する。
「分岐B」では、そのまま小坪井沢沿いを遡る路線(支線B)と、尾根を越えて本坪井沢の上流部に抜ける路線(本線)に分岐するが、第三の証言者の地図には「支線B」が描かれていないので、実際は軌道が敷設されていなかった可能性もある。
出合から「分岐B」までの距離は、約1.2kmと推定される。
また、「支線B」の全長は、約0.4kmと推定される。

軌道は小谷に沿って東進すると、間もなく小坪井沢と本坪井沢を隔てる尾根を全長300m前後の隧道で貫通して本坪井沢の上流部に入る。
そこから本坪井沢の上流方向へ南進を開始し、元清澄山山頂の1kmほど北方の標高220m付近までは路盤の痕跡が断続的に発見されている。
第三の証言者の地図もこの辺りを終点としている。
「分岐B」から終点擬定点までの距離は、約1.1kmと推定される。

以上の路線網の全長は、本線(と考えられる路線)が、約5.3km。
支線(と考えられる路線)が2本あり、合わせて約2.2km。
総計、約7.5kmである。

すなわちこの7.5kmという距離が、千葉県内に過去存在した国有林森林鉄道の私の知る限りの最大版図ということだ。


改めてこの路線像を俯瞰すると、尾根を貫いて隣の水系まで移動する隧道が複数用いられている点が特徴的だ。
このような特徴を持つ林鉄は数は少ない。山形県では最大の路線網を有した真室川森林鉄道(秋田営林局)や、和歌山県の高野山森林鉄道(大阪営林局)などの路線が思い出される。しかしこれらの路線は全長が7.5kmより遙かに長く、昭和40年前後まで運用されるなど、利用期間も長かった。

「小坪井軌道」は、その規模の割にふんだんに隧道を用いていた印象がある。
トンネル王国である房総の林鉄たる面目躍如を感じるが、このようなルート設計になった理由としては、一帯の河川が激しい蛇行を見せているために、川沿いに路線を敷設すると非効率に路線が長くなり、小さな隧道や掘り割りを無数に設ける必要が生じるからだと思われる。



笹川湖の水没区間を追想してみる。


この項では、手元にある資料や情報を駆使して、湖底に沈んだ軌道跡の解明を目指したい。

「小坪井軌道」の約7.5kmと推定される総延長のうち、おおよそ3分の1が笹川湖の湛水区域にあり、路盤を歩いて位置や現状を確かめることが出来なかった。
探索は出来ないまでも、せめて水没以前の状況を少しでも知りたい。そう考えるのは当然だろう。
まして、片倉ダムの竣工に伴う笹川湖の完全湛水は平成12(2000)年頃の出来事であり、これは当サイトが誕生したのと同じ頃である。
当時私は秋田に住んでいたから探索は難しかったかも知れないが、誰か湛水前にこの地を訪れた人がいたとしたら、その記憶も記録もまだ鮮明であるはずだ。
そう思うと、余計この湖底に後ろ髪をひかれる。



まずは、いつもの手だが、歴代地形図だ。
古い方から、ずらーっと見てみよう。
右図は、昭和19(1944)年版昭和55(1980)年版の5万分の1地形図「大多喜」の一部である。

2枚とも「小坪井軌道」が描かれていないのはもちろんのこと、軌道が敷かれていた位置に何か別の道が描かれているということもない。
小坪井沢など、周辺の交通路から完全に切り離された人跡未踏の谷のようにしか見えない。
ちなみに、この2枚以外の歴代地形図も見たことがあるが、軌道が描かれた版がないことを確認済みだ。

このように、5万分の1の旧版地形図から分かる事は、ほとんどない。
せいぜい、古い地名(例えば亀山村という村名など)が、この後の資料調べの役に立ったくらいであった。
古老の証言なくしては、私がこの軌道に辿り着く事は決して無かったと断言出来るだろう。

続いては、より最近の地形図2枚を比較してみよう。



右図は、平成12(2000)年版平成24(2012)年の2万5千分の1地形図「坂畑」の一部である。

これら2枚には笹川湖の出現という大きな変化があるが、注目すべきは出現前の地形図だ。
軌道跡などは描かれていないが、はじめて大縮尺で見る湖底の地形は、水没した軌道跡のルートを想像する上で大いに参考になる。
従来は第三の証言者の地図に示されたルートをただ信じるしかなかったが、湖底の等高線が明らかになったことで、自分でも考える余地が生まれた。

もっとも、だからといって第三の証言者の地図のルートに新たな疑いが生まれたかというと、そういうこともなかった。
単に自分でも考える事が出来て「納得した」ということである。

それにしても、最初の証言を得た当時の私は、笹川湖の誕生によって小坪井沢や本坪井沢が離れ小島的に孤立し、アクセスし辛くなったのだろうと考えていたが、こうして地形図を見る限り、昔から湛水域一帯に道らしい道は見られず、根っからの秘境だったらしい。
だからこそ、この軌道跡の存在が外部に知られる機会も、凄く少なかったのだろう。


さて次は、湛水前の航空写真を見てみよう。




上の図は、昭和50(1975)年に撮影された片倉ダム(当時はまだ建設予定地)周辺の航空写真である。
元の画像(→リンク)はこれよりさらに高解像度であり、じっくり目を凝らして見ると、川沿いの所々に軌道跡らしきラインが見えた!

チェンジ後の画像で示した緑色のラインが、その断続的な線を繋げた「推定軌道跡」である。
それは第三の証言者の地図に描かれた軌道跡のラインとほぼ一致するようである。
だが、航空写真にそれらしいラインが見えるのは、片倉ダム付近からビル沢の出合辺りまでだけで、それより上流は全く分からない。
この区間も沢の蛇行が激しく、未発見の隧道が存在する可能性があると思っているが、手掛かりは得られなかった。

右の写真は、2013年の探索時に小坪井沢と本坪井沢の出合から撮影した、下流の坪井沢を満たす湖面である。
この一見して両岸に逃げ場のなさそうな谷を、軌道はどのように通過していたのだろう。
ここも小坪井沢と同じような河床と一体化した路盤だったのだろうか。
謎はまだまだ多く残っている。

とはいえ、昭和50年という比較的近年の航空写真に軌道跡らしいものが写っていたのは、予想外の収穫だった。
それだけにますます、「水没前に訪れてることが出来ていたら……」と、思ってしまう。



次は、古写真の調査である。
が、この分野については、今のところたった1枚しか、お見せするようなものはない。
それも、かなり核心からは遠い写真である。
出来ればズガーンと軌道の現役時代の写真が見つけられたら良かったのだが、未発見だ!!



『プレストレスコンクリート技術協会 第10回シンポジウム論文集(2000年10月)所収
「非対称2径間連続吊り床版橋(ヅウタ橋)の設計・施工」』より引用。

左の画像がその1枚の古写真だ。
「分岐A」地点付近の水没前の風景である。

これは、一連のレポート制作の過程でほとんど偶然見つけた。
最終回」に登場した「ヅウタ橋」について調べていて、この変わった形式の橋の施工についてまとめた論文を発見。「プレストレスコンクリート技術協会 第10回シンポジウム論文集(2000年10月)」に所収の「非対称2径間連続吊り床版橋(ヅウタ橋)の設計・施工」がそれだ。
そしてその中身を見ていくと、「ヅウタ橋」の完成直後に撮したとみられる、ダム湛水前の写真があったのである。

先ほどの航空写真と照らし合わせてみると、この現場は「分岐A」のほんの少し上流辺りで、うっすら川の右岸に軌道跡らしきラインが写っていた。
そしてこの古写真(というほど古くもないが)にも、良く見ると、川底から3mくらい高い位置の右岸に平場が連なっているように見える。
これが軌道跡である可能性は高い。

軌道跡は、当時から藪に覆われた完全廃道だったように見えるが、これをもう200mばかり上流方向に辿れば、今は水没していて見る影もない“隧道”が口を空けていたのだと思う。
また、田代川に抜ける「支線A」を辿れば、そこでも長大な隧道に遭遇していたはずなのだ。
ああ、笹川湖よ…。


そしてこれ(この「机上調査編」そのもの)を書いている最中に、衝撃の情報が読者さまからもたらされた!

感想公開機能(おぶコメ)で公開している読者さま(トビミケ氏)の“コメントNo.24433”がそれだ。
以下に転載する。

40年くらい前に、ツボイ沢からビル沢を経由して、三石山に登りました。
その時、沢が隧道になっている個所を通りました。川回しにしては長いな、と思ったのを覚えていますが、あれが軌道跡の隧道だったのでしょうか。
隧道の上に増水時用の小さい隧道がありました。

また、湖水出現以前、ビル沢は、4mくらいの滝で、ツボイ沢に出合っていました。


!!!!

この情報はまさしく、私が見ることが出来なかった湖底の隧道(写真左)の通行体験談なのではないだろうか?!

「ツボイ沢からビル沢を経由して、三石山に登」るルートを考えると、この場所の他に、「沢が隧道になっている箇所」は思い付かない。
笹川本流まで下ればそのような場所はありそうだが、ツボイ沢に入ってからとなると、それはもうこの場所の他に無さそうなのである。

しかし、「川回しにしては長い」と感じられる隧道の「上に増水時用の小さい隧道が」あったというのは、もしかしたら、“上の隧道”が軌道跡だった可能性もあるのだろうか?

いずれ、高度の違う2本の隧道が並んでいたという目撃証言は、なんとも想像を駆り立てる!!
右の写真は、房総半島の某所にある川廻しのトンネルと道路のトンネルが上下に並んでいる光景だが、これと似たようなものが、水没前のこの場所にはあったのだろうか。

当時、ツボイ沢→ビル沢経由で三石山へ登るルートがどのくらい歩かれていたのか分からないが、登山者の体験談方面から湖底の過去を探るのは有力そうである。
誰か写真も撮っていないのか〜!!



追記: トビミケ氏が通り抜けたトンネルの位置が、ついに判明!

現在は笹川湖に沈んでいる坪井沢で、かつて隧道を通った事があると述べた“コメントNo.24433”の証言者は、以前からメールのやり取りをしていた千葉県在住の読者“トビミケ氏”であったことが後日に判明した。
そのため証言の内容について、ご本人から、さらに詳しく伺う事が出来た。

以下、新たに判明した内容を列挙する。

  • ツボイ沢の隧道を通ったのは、昭和52(1977)年の10月か11月(大学3年の時)で、2人パーティだった。貧乏学生だったので、カメラは持っていかなかった。
  • 当日は上総亀山駅からバスで片倉まで行き、三石山への登山道を経由しツボイ沢へ入った。
  • ツボイ沢の隧道は長さ100m程で(もう少し短かったかもしれない)、出口(上流側)に近付くと緩く右にカーブしていた。
  • ツボイ沢の水は隧道の中を流れていた。隧道内を地下足袋にワラジ履きで右岸の壁に沿って怖々歩いた記憶がある。入口の右側に川床らしきのもがあったが、水流はなかったと記憶している。
  • 隧道の上にあったもう一つの“小さな隧道”については、出口(上流側)は確認したが、入口は確認していない。
  • “小さな隧道”は増水時用と書いたのは、千葉県山岳連盟のガイドブック『房総の山』に書かれていたのを、そのまま書いただけで、どちらの隧道が軌道跡なのかは正直わからない。
  • アプローチに時間がかかってしまい、ビル沢から急いで三石山へ登り、押込尾根(今は多分廃道)を亀山に下った。

一気に情報量が増えて、“湖底の隧道”の風景が、だいぶ想像出来るようになってきた。

長さが100m程度もあったこと、洞内は東口付近で緩く右カーブしていたこと、そして、隧道内をツボイ沢の水が流れていたこと。
こうした情報から想像されるのは、率直にいって、林鉄用の隧道の姿ではない。
これほど長い川廻しの隧道を見たことはないが、しかし水路と林鉄が1本の隧道を共有したというのは、私の想像力の外である。
となると、その上方に見えていたという“小さな隧道”の方が軌道跡だったとみるべきなのか?

結論を急ぐ前に、更に情報を集めることにしよう。
トビミケ氏によると、『房総の山』というガイドブックの第2版にこのルートが紹介されているはずだという。彼らもそれを読んで行ったそうだ。
しかし現在は手元に無いとのことだったので、古本屋で購入した。右はその表紙である。



『房総の山(第2版)』(千葉県山岳連盟/昭和52年)より転載。著者加工。

左は、『房総の山(第2版)』(千葉県山岳連盟/昭和52年)に記載されていた、ツボイ沢周辺のルート図である。

当時の地形図にも描かれていない、ツボイ沢を通る歩道が、はっきりと描かれていた!
隧道はさすがに描かれていないが、トビミケ氏が歩いたのも、このルートに違いない!

そしてこの図と共に注目すべきは、各ルートを詳細に解説した本文である。
トビミケ氏が歩いたルートは、同書では「ツボイ沢(ビル沢)から三石山」として紹介されている。
以下にその主な部分(ビル沢まで)を転載する。少しだけ長いが、当時の軌道跡や、問題の隧道の姿に迫る、おそらく重要な内容を含んでいる。

亀山駅からバスに乗り、片倉でおりる。片倉部落より清水トンネルに向けて約1km南下した地点、道路が大きく右へカーブをきるところがこのコースの出発地点である。この場所は、自動車が何台も駐車できるような広場になっているのですぐわかる。ここから笹川に向かって降りるには、雑木林の中の溝のような道に従って進む。ほどなく杉林の中に入り笹川に出る。川幅10m余りの笹川を渡るのであるが、雨後の増水時などは渡渉を強いられることがある。笹川を渡り対岸に出会うツボイ沢に入る。
ツボイ沢に入り、右岸通しのまき道をしばらく行く。尾根どおしに三石山から降りてくる道を左に分け、沢が左へ屈曲した地点より河原に下りる。間もなく沢は洞くつとなり、どうどうと音をたてて流れている。最新の国土地理院発行の地形図にもしめされていないが、この洞くつは人為的につくられた100mもあるりっぱなものである。洞くつの中は、右岸を岩肌沿いに進む。明るい所から急に入ると、足もとが不安で懐中電灯が欲しくなる所である。入っていくにしたがい、ゆるやかに右へ曲がり、出口が大きく口をあけている。洞くつを出て振り返ると、上部に降雨時など増水の際のまき道として使える小さなトンネルが見られる。つまり洞くつの上にもうひとつのトンネルがあるわけである。この洞くつを出たあたりは明るくのどかな気分にひたれる。
なおも広い河原を、さしたる勾配もないまま右へ左へと進むと、どこともなく硫黄のにおいが漂ってくる。右岸の水中からボコボコとガスが噴出しているらしく、岩が白くなっているのが認められる。間もなくビル沢が4mの滝をかけてツボイ沢に出会う。本流はここから右へ大きくカーブをきり、元清澄山へと登っている。このあたりは、りっぱな指導標もあり、休憩するに良い所である。
ビル沢は、三石山南面にひろがる明るい沢である。(以下略)



これら記述と地図とによって、トビミケ氏が通行したツボイ沢の隧道は、私が捜していた“軌道隧道”とは異なるものである可能性が、極めて高くなったと思う。

トビミケ氏が通行した隧道は、右図の青の線上に示した位置にあった可能性が高い。
右岸通しのまき道をしばらく行く。尾根どおしに三石山から降りてくる道を左に分け、沢が左へ屈曲した地点より河原に下りる。間もなく沢は洞くつとなり」という説明文のあるこの隧道は、第三の証言者の地図に描かれていた軌道の隧道とは、潜り抜ける尾根からして違っていたのだろう。

この隧道は、現在は“星の広場”がある尾根(半島)の下を潜っていたものと考えられる。
今は湖底に沈んでいるはずだが、低水位時には「上部に降雨時など増水の際のまき道として使える小さなトンネル」の方が先に浮上するはず。
注目していれば、いつか見られる日が来るかも知れない。私はまだ諦めていない。

しかし、本当に右図のような配置で複数の隧道があったとすると、トビミケ氏の一行が途中で軌道隧道を目撃しなかったのは、なぜだろう。
単に見逃されたのか、崩れて原形を失っていたのか、或いは私が思っている隧道の位置が既に誤っているのかもしれない。

新たな情報を得て核心に近付いたような気がしたものの、むしろ軌道の隧道については更に謎が深くなってしまった感じがする。

…というか、もはや底なし…。 何とも怖ろしいことだ。




2018/1/4追記: ダムに沈む前の隧道の写真が発見された!

ガイドブック『房総の山』に記載があり、トビミケ氏がかつて通り抜けたという、現在は笹川湖の湖底にあるとみられる隧道の水没前の写真が発見された!
この隧道については、本ページのここに、これまで判明した情報をまとめているので、ここでは繰り返さない。
早速、その貴重な写真を見ていただこう。


以下の4枚の写真が、新たにオブローダーたぴおか氏@obroader2017)からご提供いただいたものである。
撮影者はやセイジン氏で、たぴおか氏がコンタクトを取って下さり、掲載許可をいたくことができた。 タピオカさま、やセイジンさま、ありがとうございます!

@ B
A C

撮影者のやセイジン氏はかつて、友人と共にドラム缶をを背負ってツボイ沢へ入渓し、“隧道”を通り抜けた先の河原で手製のゴエモン風呂を楽しまれた。4枚ともその際に撮影されたものである。正確な撮影時期は不明だが、カラー写真であり、それほど古い時代のものではないようだ。軌道の廃止(戦中か戦後間もなく)からは相当の時間を経ているはず。

右図は、これら4枚の写真の撮影位置を『房総の山』に掲載されている地図に表示した。

写真@は、入渓の序盤に笹川の本流を渡る場面だそうだ。
注目すべきは、人物の左側の河中に木製橋脚の残骸とみられる木材が2本突っ立っていることである。撮影者の記録によると、「道路の近くに平場があって、そこに車を置いて、小道を進むと笹川に出ました。笹川の手前付近(の河床)に3〜4個の孔が並んでいて、その先はしばらく孔がなく、さらにその先に写真の2本の木があり、その先は、ツボイ沢に向っていました」とのことであるが、駐車場からの道筋は『房総の山』の記述と一致するように思われる。
写っている河中の廃材が軌道跡のものであった確証はないが、可能性はありそうだ。

写真Aは、ツボイ沢の隧道を通り抜けた上流側の坑口だ。
遂に見(まみ)えることが出来て感激! こいつが、現在の“星の広場”の地面の下あたりに、水に満たされた湖底の穴となって沈んでいるとみられるのである。その状況を想像するだけで、ドキドキが止らない!
『房総の山』によると、隧道の内部をツボイ沢が流れていて、登山道は右岸伝いにあったとのことだが、確かに写真でも右岸側に通れる場所があるように見える。同一の隧道であることは間違いないだろう。
サイズ感としては、一般的な軌道の隧道よりも遙かに大きく、いかにも川廻しのトンネルといった感じだ。きっとその通りの由来なのだ。

私にとって最も重要なものが写っているのが、写真BとCである。
隧道の上流側坑口前の川原で撮影されたこれらの写真には、右上の辺り(矢印の位置)に撮影者が通り抜けたものとは異なる穴が見える。

この右上の穴は、『房総の山』に「洞くつを出て振り返ると、上部に降雨時など増水の際のまき道として使える小さなトンネルが見られる。つまり洞くつの上にもうひとつのトンネルがあるわけである。」と記載されていたものであるに違いない。そしてこれこそ、私が小坪井軌道の廃隧道だと考えているものだ!

隧道内部を撮影した写真はなく、内部状況は依然として不明であるが、位置と外見が判明したことは非常に大きな成果といえる。この坑口の大きさは、私が見た小坪井軌道の他の現存する隧道と同程度のようであるし、私は既にこれが軌道跡の隧道であったと確信している。
そもそも、この位置に当時ほとんど使われなくなっていた隧道があったという時点で、状況証拠的にも軌道跡である信頼度は相当高い。
これが登山道として別に掘られたバリバリ現役のものだったならば、『房総の山』の著者もトビミケ氏もやセイジン氏も、わざわざ川廻しの隧道を通る理由が薄いのである。


今回は読者さまの協力により、時空上の私の限界を超えて調査を進めることが出来た。 感無量です!


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軌道の存在を裏付ける“公的な記録”が発見された!


「小坪井軌道」は、本レポートの「導入回」の冒頭で述べた通り、これまではほとんど存在が知られていなかった林鉄である。
林鉄ファンのバイブル的存在である『全国森林鉄道(JTBキャンブックス)』巻末の「林鉄一覧」や、林野庁がサイトで公開している『国有林森林鉄道路線データ (平成28年1月31日修正)』にも記載がない。
だが、第三の証言者は、この路線が東京営林局千葉営林署が運用していた、歴とした国有林森林鉄道であると証言している。

「小坪井軌道」が存在した事自体は疑いないが、その素性については上記証言の他に頼るべきものはないという状態が、探索後も長く続いていた。
だが先日ついに、東京営林局側の公的な資料にも、「小坪井軌道」の存在を強く疑わせる内容があることが、判明した。



これは、サイト『西宮後停留場』の作者である“にしみやうしろ氏”の情報提供によって判明した資料だ。
にしみや氏の許可を戴いたので、2016年9月24日(レポート第1回公開日)に頂戴したメールを、以下に転載する。

「元清澄山の森林鉄道跡」を拝見して以前「東京営林局事業統計書」で調べた情報と重なる部分があったのでメールさせて頂きました。
千葉営林署を所管する東京営林局が毎年出していた統計書で林鉄関係の情報も載っています。

それによると千葉営林署には作業軌道が存在してたこともわかったのですが距離と車両数だけで軌道所在地が分からなかったので放置してました。
東京営林局内各営林署のレールは6kg軌条で戦後は労基法で動力車使用が原則禁止になったレールです。
車両は小トロリー(豆トロリーとも)と言う木製単台車だけで営林署の機関車やモーターカーなどの動力車はいません。
手押しか畜力(あるいは出材の請負業者がアヤシゲな機関車を入れてたかも知れませんが)だったのでしょう。
以下に年度別の作業軌道データをまとめます。

<千葉営林署作業軌道データ>

1953.4.1 延長2,080m 小トロリー3台(運材用)

1954.4.1 延長2,080m 小トロリー6台(運材用)

1955.4.1 延長1,170m 小トロリー6台(運材用)

1956.4.1 延長0.5km  小トロリー2台(運材用)
 この年度から作業軌道路線延長の単位がkmに変更

1957.4.1 延長0.0km  豆トロリー4台(運材以外用) ←軌道撤去用か?

1952年以前は統計書に該当欄が存在せずわかっていません。
東京営林局事業統計書は国会図書館に毎年度分が所蔵されており、図書館向けデジタル化資料送信サービス参加館で閲覧、複写ができるのでご興味があればご確認下さい。
統計書は全国の各営林局が発行しており営林署別の林道路線数や延長、1953,1954年頃からは営林署別の車両、機械の数も載っており重宝してます。
最後になりましたが今後の記事を楽しみにしております。

にしみやうしろ氏より戴いたメール

東京営林局が毎年発行していた「事業統計書」という統計書により、千葉営林署管内には昭和28(1953)年4月1日現在で延長2080mの“作業軌道”(6kg軌条)が存在し、運材用の小トロリー3台が所属していたという事実が明らかになった。

残念ながら、千葉営林署管内の統計としてこれらの数字が出ているだけなので、具体的な路線数も路線名も所在地名も書かれていない。
だが、千葉営林署の管轄とは千葉県内の国有林全部であって、他県域を一切含まない。
ゆえにこの資料を以て「千葉県に森林鉄道があった」ということの根拠にはなる。(ただし、“厳密な意味”ではそうはならないのだが、理由は後述する)
そして、千葉県内に「小坪井軌道」以外の森林鉄道があったという情報はないうえ、記載された内容も「小坪井軌道」の現地調査内容と矛盾しないので、私はここに記載されたものが「小坪井軌道」(の一部)であると考えている。
以下、その前提で話しを進める。


まず、この事業統計に登場する“作業軌道”という用語は、路線の素性を知る上で重要である。
国有林における“作業軌道”という用語は、昭和22(1947)年に定められた「国有林野事業特別会計経理規程」で、林道を固定資産とみなすための耐用年数が規定された際、耐用年数3年未満のものを“作業線”として区分し、これを林道(=固定資産)としては扱わないというルールによるもので、現に軌条が敷設されている“作業線”(=林道ではない)を“作業軌道”と呼んだのであった。(これに対して、軌条の敷設された林道を“土木軌道”と呼んだ)

以上は国有林における林道の会計上の区分だが、林道の構造上の区分としては、昭和22年当時、「森林鉄道」「車道」「牛馬道」「歩道」「木馬道」の5種類があった。これら5種類だけが狭義の意味での国有林林道であって、前述した“作業線”(作業軌道や作業道)は、そこに含まれない。
これら多種の用語の関係性をまとめたのが右図である。

さて、わざわざここで長々と用語の解説をしたのには、もちろん理由がある。
それは、次の結論を述べるための説明だった。

結論、「小坪井軌道」が“作業軌道”であったなら、それは“厳密な意味”での森林鉄道(林道)ではない。

ややこしい事に、「森林鉄道」という語は「林業の目的に敷設されたナローゲージの簡易な鉄道」というような意味で辞書にも記載される一般名詞であると同時に、『全国森林鉄道』巻末の「林鉄一覧」や林野庁サイトの『国有林森林鉄道路線データ』が掲載する「森林鉄道」は国有林用語であり、少なくとも昭和22年以降に存在した“作業軌道”は、そこに含まれないという事実がある。

多くの“作業軌道”も一般人の目からは森林鉄道のように見えるだろうし、地元でもそのように言い伝えられていたとしても、一般的な「林鉄一覧」的な資料には通常現れないのである。
しかもそれは規模の小さな末端の支線のようなものばかりでなく、今回紹介した「小坪井軌道」程度の路線でも、そういうことがあり得るのだ。
このようにして存在を看過されている路線は、まだまだ全国には多数あるのだと思う。


そしてこの「事業統計書」によって、千葉営林署管内から森林鉄道(実態は“作業軌道”だが)が全廃された運命の時期も明らかとなった。
昭和28(1953)年4月1日時点で2080mあった千葉営林署管内の作業軌道は、昭和30(1955)年4月1日時点には1170mへ半減し、翌年は500mに減少。そして昭和32年4月1日時点では0mになり、完全に消失している。(にしみや氏が引用したのは“作業軌道”の延長だが、統計には“森林鉄道”の延長を記した欄もあり、そちらはゼロ。)

なお、「事業統計書」は昭和24(1949)年度版以降しか存在が確認出来ておらず(国会図書館の蔵書による。それ以前の版が発行されたかは不明)、さらに昭和27(1952)年版以前は“作業軌道”が統計に出ていないので、その有無を知る術が無いとのことだ。
したがって、「小坪井軌道」が“作業軌道”に格下げされたであろう、昭和22(1947)年の「国有林野事業特別会計経理規程」制定以前のデータは全く不明である。

果たして「小坪井軌道」の戦前の状況は、どのようなものであったのか。
その答えを垣間見せてくれたのが、やはり東京営林局が発行した次の文献である。



昭和8(1933)年当時の「東京営林局統計書」にも記載があった!


昭和15(1940)年に東京営林局の庁舎が全焼する火災が発生し、多くの資料が失われたといわれるが、幸いにして国会図書館には同局が昭和9(1934)年に発行した『昭和七年度 東京営林局統計書』が所蔵されており、しかもデジタルライブラリで自由に閲覧が可能である。(→リンク)

この資料は先ほど紹介した「事業統計書」と同じ性格のものであり、その昭和7年版と言っても良いものだ。
したがって、管内の林道の営林署毎の統計が含まれている。
次に掲載する表は、「国有林野附帯設備(林道)」という統計表から、東京営林局全体と千葉営林署単体の2欄を抜粋したものである。

この表に示されているのは、昭和8(1933)年3月末日現在の種類別林道の延長である。
当時の林道は、「軌道」「車道」「木馬道」「牛馬道」「歩道」の五種類に分けられていた。
昭和22(1947)年以降との違いは、「森林鉄道」の代わりに「軌道」という種類があるくらいで、基本的には変わっていない。

何より注目すべきことは、当時の千葉営林署管内に「軌道」が2718m存在していたという事実である。
ついに“厳密な意味”でも、千葉県に国有林森林鉄道があったことの証明となる記録だ。第三の証言者の記述が立証された。

ちなみに、東京営林局全体では約470kmもの軌道が存在したことになっているが、これは当時の管内に45署あった営林署の総計である。
45署のうち25署に軌道が計上されているが、その中では全長810mの後閑営林署(群馬県)に次いで千葉営林署は距離が短かった。

なお、この「昭和七年度 東京営林局統計書」には、上記のほかにもう一つ、千葉営林署管内の林道を記録した統計表がある。
それが次に抜粋を掲載した「国有林野土木事業 昭和七年度」である。

この表から分かる事は、昭和7年度の林道に関係する事業の規模(長さ)と経費である。
元の表では五種類の林道種別毎の新設と修繕それぞれの長さと経費が掲載されているが、「軌道」以外は新設の延長のみ抜粋した。
その中身を見ると、千葉営林署は昭和7年度に520mの軌道を新設し、2700mの軌道を修繕しているらしい。
ただし、元の表の「520」の数字には括弧が付されているが、その括弧の意味の説明がどこにも見あたらず、何を示しているのか不明だ。(元の表には45署の全てのデータが揃っているが、括弧付きの数字は、千葉営林署の軌道の新設延長の欄だけにある)

当初不明であった括弧付きの数字の意味だが、同書中の別ページ(212p)の欄外注釈に、「面積数量欄中括弧ヲ附セルハ翌年度ノ準備事業ニ属スル分トス」とあることが分かった。(コメントNo.24489による)
つまり、昭和7年度の「軌道」新設の欄にある括弧付きの「520m」は、昭和8年度に520mの延長工事を行うための準備工事という意味となり、矛盾なく解決する。


厳密に言えば、これら二つの統計表から「小坪井軌道」について断定出来る情報は何も無いのだが、やはり私は、ここに記録された約2700mの「軌道」もまた「小坪井軌道」であったと考えている。
第三の証言者は軌道の廃止時期を昭和12〜13年頃と述べており、第二・第四の証言者も戦前から軌道が存在した事をほのめかしている。
その他の現地で見た様々な遺物からも、これが戦前から存在していた軌道であることは、ほぼ間違いないと思うのだ。

また、私が現地探索の末に検討した「小坪井軌道」の全長は少なくとも5km、最大7.5kmほどもあったので、この資料に出ている約2.7kmという数字はだいぶ足りていないが、その理由も色々と想像することが可能だ。
例えば、昭和7年当時は2.7km程度だったものが、その後に延伸されたのかもしれない。
或いは、当時から林道として計上されない、後の“作業線”的な部分が相当に存在していたのかもしれない。

第三の証言者が戦前の廃止と述べているのに対して、第四の証言者は戦後に山を下ってくるトロッコを見たと証言していること。そして実際に戦後の資料にも“作業軌道”として計上された長さがあることなどから、私は「小坪井軌道」の開設と廃止は相当複雑な段階を経ていると考えている。
よって、断片的な統計資料だけでは、このようなデータの不一致もやむを得ないと思う。
そして残念ながら、「東京営林局統計書」の昭和7年度版以外は見たことがない。年ごとの変遷を追えれば、なお良かったのだが。


とはいえ、千葉営林署には戦前から「軌道」が存在した記録があるということが分かっただけでも、大きな成果だと思う。



さらなる進展!! 「農山漁村経済更生運動」関係の資料に、軌道開設の記述あり!


統計からの推測では、詳細を解明するにはどうしても限界がある。
「小坪井軌道」について、もう少し具体的に採り上げた文書は、どこかに残っていないだろうか。

そんな“渇望”を部分的に満たしてくれる資料が、これまた国会図書館デジタルライブラリの中で発見された。
これは、るくす氏(@lux_0の大手柄である(“コメントNo.24440,24443”)

その文献とは――

農山漁村經濟更生計畫樹立指定町村ニ於ケル國有林野各種業務ノ状况並指導助長ヲ爲シツヽアル事項ノ概要”(のうさんぎょそんけいざいこうせいけいかくじゅりつしていちょうそんにおけるこくゆうりんやかくしゅぎょうむのじょうきょうならびにしどうじょちょうをなしつつあるじこうのがいよう)

――という、とんでもなく長い題名(48文字、読みは85文字)を持つ、東京営林局が昭和10(1935)年に発行したものだった。
以下、この文献名を「経済更生計画の概要」と略する。

凄いのは、タイトルよりも内容だ。
だがそれを紹介する前に、この文献の性格について説明しておこう。私自身、最初はこの文献がどうして軌道と関係するのか飲み込めなかった。
まず、文献名の前半に出てくる「農山漁村経済更生計画指定町村」だが、『日本大百科全書』の「農山漁村経済更生運動」の解説文に、以下の内容がある(一部抜粋)。

農山漁村経済更生運動
昭和農業恐慌後、農民の自力更生を基本として恐慌救済を図り、農山漁村経済の「計画的組織的整備」を推し進めた官製的国民運動。1932年(昭和7)より、政府は毎年1000町村を経済更生指定町村として、一町村当り100円の補助金を支出し、町村有力者を網羅した経済更生委員会をつくらせた。事業内容は、土地分配の整備、土地利用の合理化、農村金融の改善、労力利用の合理化、農業経営組織の改善、生産費・経費の節減、生産物の販売統制、農業経営用品の配給統制、各種災害防止、共済、生活改善などであった。(中略)40年までに9153町、全国の81%が指定された。以上は財政的裏づけのまったくないもので、一名自力更生運動といわれるように、精神運動的色彩が強いものであったが、(後略)

昭和農業恐慌後の政府による農村更生政策といえば、各地の道路史にしばしば登場する「時局匡救(じきょくきょうきゅう)土木事業」が思い浮かぶ。それは困窮する農民に当座の現金収入を与えるべく、彼らを雇用した臨時の人海戦術的土木事業を全国的に行おうとする政策だった。対して「農山漁村経済更生運動」は、将来的な生活の安定のため農林漁業という彼らの本業の生産性を高めるべく、皆で知恵を出し合おうという、精神運動的色彩の強い政策だった。

このことが分かると、文献題名の後半「國有林野各種業務ノ状况並指導助長ヲ爲シツヽアル事項ノ概要」というのもすんなり頷かれる。
つまりこれは、国の林業政策の監督者の立場から、各指定市町村の林業従事者に対してどのような指導と助言をするかということを、まとめた文献である。
したがって本書の目次には、東京営林局が管轄する地域の町村名がずらずらと並んでいる。
そしてその中に「千葉県君津郡亀山村」の頁があった。390〜395pだ。
亀山村の名前は先ほど見た昭和19年の地形図にも出ていたが、今回探索した全域は昭和29年まで旧亀山村だった。

亀山村の頁では、「要指導、助長事項の概要」として、次の一から五の項目を挙げている。

  •  一、 製炭事業に就て
  •  二、 農閑期の余剰労力に就て
  •  三、 森林労働者に就て
  •  四、 運輸設備に就て
  •  五、 苗木育成に就て

「四、 運輸設備に就て」の内容は、以下の通りである。

 四、 運輸設備に就て
小坪井官行斫伐事業のため従来交通不便なりし本村中1600mの車道及び7200mの軌道敷設せられある外なおこれに接続して更に延長する計画なり これがため従来未利用の民有林も経済価値を増加したるを以て活動を開始するに至れり なお国有鉄道久留里線の延長工事は目下実行中なるも昭和10年度迄には本村藤林迄完成する事となり居るを以て本村産業資源は著しく開発せられ消化促進するものと認めらるるを以て更生計画も着々実現せられ其の成績も見るべきものあらん


キターーー!!!!

「7200mの軌道敷設せられある!!」

7200mという数字は、私が現地調査の末に推定した7.5kmという「小坪井軌道」の総延長に、かなり近い。
7.5kmが実測ではなく地図上での推定であることを考えれば、これはもう、一致したと言っても良いくらいの誤差だ!
マジで7kmクラスの路線網が存在していたのである。
すなわち、探索中に出会った小坪井沢の滝や急流、例えば右の写真のような場面にも軌道が存在していたのだった。ぜんぶ私の妄想じゃなかった!
しかも、更に延長する計画があるとまで書いている。
実際に延長が行われたのかどうかは定かでないが、夢がある。ありまくる!!

ただーし! この重大な記述が具体的に「何年」のものなのかは明示されていない。
文献自体は昭和10年に発行されており、本文に昭和7年度と8年度の林業関係の実績データを列挙した一覧表が掲載されているので、おそらく昭和9年度に書かれたものであると推定する。

となると、先ほど紹介した「東京営林局統計書」では、昭和8年3月末日時点の千葉営林署内の「軌道」の延長が2718mとされているのに較べ、最大でも1年程度しか経っていないのにも拘わらず随分と伸びていることになる。
昭和9年度に一挙に4.5km前後も軌道を延伸した可能性があるが、断定は出来ない。

とはいえこれで、戦前の小坪井国有林に軌道が敷設されていた確証が得られた。

また、「小坪井軌道」の敷設目的も、この記述から明らかになった。

小坪井官行斫伐事業のため」である。
官行斫伐(しゃくばつ)事業という言葉は聞き慣れないかも知れないが、営林署が行う伐採のことである。造林事業と対になるのが斫伐事業だ。
亀山村の交通が「従来不便」だったために、小坪井国有林の伐採を行うべく、1600mの車道と7200mの軌道を敷設したのである。
そしてその副次的な効用として、「従来未利用の民有林も経済価値を増加した」ともある。
国鉄久留里線(現在のJR久留里線)の延伸開業でますます前途有望だとも述べている。

これらの内容を現地探索の成果に照らしてみても、矛盾はない。
例えば、私は“トロッコ谷の奥の隧道”付近で削岩機のロッドによると思われる小孔の空いた石(右写真)を見ており、隧道も手堀ではなく機械掘であった可能性が高いと思っている。
我が国の土木工事に削岩機が本格的に利用され始めたのは大正末から昭和初めの時期であるから、隧道の建設時期もその頃と思われるのだ。


当文献で得られた「小坪井軌道」についての直接的記述は以上であるが、「要指導、助長事項の概要」にある他の4項目も興味深い内容だった。当時の亀山村の林業について知る事は、軌道の生きた背景を知る事に繋がる。文献より抜粋して紹介しよう。

 一、 製炭事業に就て 
亀山村は山間僻陬(へきすう)地にして耕地少なく農業のみを以ては生計困難なり副業としては他府県に出稼して籠箕製造をなすもの多きも家庭にあるものの大部分は山稼ぎを以て生計を助くるの外なき状態にして其の主なるものは製炭とす
本村より生産せらるる木炭は多く安房方面へ出荷せられ所謂房州炭と称せらるるものにして其の資材の多くは国有林より供給しつつありこれが供給の永続及び製品の改良を講ずると否とは村民の経済上に影響するところ甚大なるを以て資材の供給を円滑ならしむると共に品質改善の方法を指導し斯業の発展を期せしめんとす

 二、 農閑期の余剰労力に就て
(中略)農閑期を利用して家庭副業たらしむべく官行斫伐製炭用の萱俵縄の制作を行わしめたる(後略)

 三、 森林労働者に就て
本村小坪井国有林においては目下官行斫伐事業実行中なるも特殊技術を要する人夫を除く外はほとんど本村住民を傭役せり 其の就業者は四百名に達し一ヶ年の労銀約二万円に上る 其の他造林土木事業に従事する等就業者は勿論村民としても余恵を被るところ少なからず(後略)

本軌道と製炭の関わり深さは、現地でも強く感じたことであった。

右写真は2013年の探索で辿り着いた終点(支線Bの終点)で撮した炭焼き窯の跡だが、このような窯跡が無数に集まっていて、まさに一大製炭拠点を思わせる光景だった。
また、田代川で聞き取りをした第2の古老が、「トロッコは木炭を作るための原木を伐り出すための人力トロッコ」だったと明言をしていたのも重要な情報だ。
軌道敷設の最大の目的が「官行斫伐事業」の遂行であったとしても、村民の副業として有望な製炭材の搬出も、軌道の重大な任務であったに違いない。


以上が、昭和10年の文献「経済更生計画の概要」から判明した、「小坪井軌道」敷設の背景である。
謎はだいぶ解けてきたが、紹介する文献も次でいよいよ最後である。




昭和25(1950)年度の千葉営林署「経営案説明書」からの新事実。


文献調査の最初に紹介した「東京営林局事業統計書」を教えて下さったにしみやうしろ氏が、私とのメールのやり取りの中で、新たな情報源として期待を示したものがあった。

国立公文書館つくば分館に林野庁関連の資料が保管されています。
不便な場所で平日のみの開館ですが古い林鉄、林道関係の膨大な資料を一般でも閲覧することができます。
「経営区経営案説明書」には林鉄や林道の敷設計画や経緯が書かれていることがあります。
「千葉営林署」で検索してみると「千葉経営区経営案説明書 昭和25年度6次編成実行期間昭和25年度〜34年度」というのがあり、かなり臭いですね。

にしみやうしろ氏より戴いたメール

なるほど。これまで林鉄に関して本格的な一次資料調査など行った事が無かった私には目から鱗の情報だったが、「つくば市は遠いなぁ」とぼんやりしていたところ、先日(12月10日)になって、にしみや氏から突然データが送られてきた。

それは、氏が目を付けていた“かなり臭い”資料こと、『千葉経営区経営案説明書 昭和25年度6次編成実行期間昭和25年度〜34年度』だった!

自分で中身を読んで自由に使えということなのか、内容についての説明は特になかった。だから私は期待に胸を膨らませながら、約40ページからなるノート用紙に肉筆された資料を読みあさった。

「経営区経営案説明書」は各営林署が10年毎などに策定する国有林経営の事業計画書である。各営林署の管内には、林業経営上のまとまりから1以上の経営区が置かれており、それぞれに事業計画が定められることになっている。
もっとも、同書の緒言によれば、千葉営林署は昭和25年度に管内に3つあった経営区が統合されて一営林署一経営区の体制になったとある。
したがってこの「千葉経営区経営案説明書」をもって、昭和25年度から34年度までの千葉営林署全体の事業計画を知る事が出来た。
既に述べた通り、この年代というのは管内に2080mばかりあった“作業軌道”が全廃された時期にあたるから、何かしらの記述が期待された。

だが先に結論を言うと、本資料には直接的に「小坪井軌道」に関する記述はなかった。
おそらくだが、当時既に“作業軌道”に堕ちていた「小坪井軌道」には、経営計画を左右するほどの価値が無くなっていたのだろう。
営林署にとって“作業軌道”とはもはや財産でさえない“林道”未満の一時的作業施設に過ぎない。いわば消耗品のようなものである。


『千葉経営区経営案説明書 昭和25年度6次編成
実行期間昭和25年度〜34年度』より転載。著者加工。

では何の収穫も得られなかったかといえば、そんなことはなかった。
例えば、これまで漠然と読んでいた「小坪井国有林」というモノの範囲を、だいぶ正確に推し量る事が出来るようになった。

左図は、昭和25年度時点の小林班を図示した地図だ。
小林班とは国有林内を地形のまとまりなどから分けた林業経営上の最小単位である。(営林局→営林署→経営区→担当区→小林班)
この地図を見ると、例えば小坪井沢沿いが61小林班、本坪井沢の上流部が60小林班であることが分かる。
本坪井沢の下流部はどこの小林班にも所属していない、つまりは国有林ではないということだ(=民有林)。
また、「支線A」の行き先とされる辺りも国有林(66小林班)であったことが分かる。

林鉄のルートは、予算や技術や地形といった要素のほかに、国有林か否かという肉眼では見えない要素によっても左右される。
長大隧道を複数用いた奇抜といえる「小坪井軌道」の路線を決定づけた要素として、国有林と民有林の入り組んだ位置関係が重視された可能性がある。

ところで、同資料には林道一覧表が掲載されている。
昭和25(1950)年時点に千葉営林署管内にあった林道のうち、「自動車道」「車道」「牛馬道」の三種類をリスト化したもので、(厳密な意味では“林道”ではない)“作業軌道”は掲載されていない。
だが、その林道一覧表の中に、1本だけ、「小坪井軌道」と極めて関わりの深い路線が掲載されていた。


『千葉経営区経営案説明書 昭和25年度6次編成実行期間昭和25年度〜34年度』より転載。


「小坪井林道 小坪井線」という名を与えられた、全長1600mの「車道」の存在。

ちなみに、開設年度は昭和5(1930)年。

林道の区間は、「亀山村県道分岐点」から「小坪井土場」

小坪井土場という場所は、おそらく一つしか無い。

私は、上の地図に赤線で示した位置に、この林道があったと考えている。

「小坪井林道 小坪井線」の現在の景色が左の写真だ。レポート第11回で通った道だから、見覚えがあるはずだ。

そして同林道を現在の地図に重ねたのが、右図である。
土場の位置を基準に1600mを数えると、林道の起点が現在の県道上になってしまい不自然に見えるが、同資料によると、当時県道は途中までしか開通しておらず、その県道の終点から林道を分岐させた(というか延伸した)ようである。

さて、
「1600mの車道及び7200mの軌道敷設せられある」という記述が、昭和10年の文献「経済更生計画の概要」にあった。

この数字の一致、偶然ではない。

つまりこういうことになる。

千葉営林署は、昭和5(1930)年に、県道の終点から「小坪井林道 小坪井線」という名の1600mの「車道」を開設し、終点に「小坪井土場」を設置した。
そしてこの土場を起点に、全長7200mの軌道を開設したのである。

これまで「小坪井軌道」の誕生時期を考える手掛かりは少なく、昭和8(1933)年以前ということしか分からなかったが、昭和5(1930)年の開設である可能性が一挙に高まった。

「小坪井林道 小坪井線」という路線名を、全国の営林署で使われた林道命名パターンに照らすと、軌道部分も「小坪井林道 ●●●線」のような路線名だったと思われる。もっとも、車道も軌道も同じ「小坪井林道 小坪井線」だった可能性もある。


追記: 「小坪井林道工事從業員一同」が贈った見舞金

読者さまの手によって、小坪井林道の名前が意外なところに発見されたので追記する。

コメントNo.24481によると、昭和8(1933)年3月11日付けの毎日新聞に掲載された昭和三陸沖地震の義捐金名簿の中に、「小坪井林道工事從業員一同」の名が見つかったという。(昭和三陸沖地震は、同年3月3日に発生した大地震で、岩手県と宮城県を中心とする東北地方の太平洋側に大規模な津波災害を引き起こしている。
当該の記事は、「津波ディジタルライブラリィ」で公開されており、閲覧が出来る。(→リンク

三 陸 震 災 義 捐 金                 本月十五日締切り
本社委託十日午後五時迄の分
(中略)
▲五圓宛
(中略)、千葉君津郡龜山村小坪井林道工事從業員一同、(以下略)

時期的に一致しているし、当時の林道名も「小坪井林道」であったことの証拠にもなる内容だ。
なお、この義捐金名簿には全国の百を優に超える個人や団体の名前が列挙されているが、「林道工事従業員」というのは、一団体だけである。
千葉県の山中で林道を作る人々が、距離的に遠い三陸地方に宛て、個人名ではなく団体名として高額な義捐金を贈っていることも、災害の規模を考えればおかしな事ではないかもしれないが、或いは工事関係者に東北出身者が多く含まれていたのかもしれない。当時の東北地方の農村は、昭和恐慌による困窮の最大被災地であり、出稼ぎや身売りの嵐が激しく吹き荒れていた。
そんな時代を打開するために取り組まれていた、「農山漁村経済更生運動」に関わる土木工事に、故郷から遠く離れた土地で取り組み、自らと、自らの家族、そして子孫の未来へ汗を流す人たちが多くいた。




以上が、これまでの現地調査と文献調査の全ての成果である。
短くまとめると――

「小坪井軌道」とは、千葉県君津市の小坪井国有林内に、東京営林局千葉営林署が昭和5(1930)年頃に開設し、昭和31(1956)年までに全区間が撤去された、全長7200m、6kg/m軌条による人力単車乗り下げ運材を行っていた、千葉県内で唯一存在の確認された国有林森林鉄道だ。