この項では、手元にある資料や情報を駆使して、湖底に沈んだ軌道跡の解明を目指したい。
「小坪井軌道」の約7.5kmと推定される総延長のうち、おおよそ3分の1が笹川湖の湛水区域にあり、路盤を歩いて位置や現状を確かめることが出来なかった。
探索は出来ないまでも、せめて水没以前の状況を少しでも知りたい。そう考えるのは当然だろう。
まして、片倉ダムの竣工に伴う笹川湖の完全湛水は平成12(2000)年頃の出来事であり、これは当サイトが誕生したのと同じ頃である。
当時私は秋田に住んでいたから探索は難しかったかも知れないが、誰か湛水前にこの地を訪れた人がいたとしたら、その記憶も記録もまだ鮮明であるはずだ。
そう思うと、余計この湖底に後ろ髪をひかれる。
まずは、いつもの手だが、歴代地形図だ。
古い方から、ずらーっと見てみよう。
右図は、昭和19(1944)年版と昭和55(1980)年版の5万分の1地形図「大多喜」の一部である。
2枚とも「小坪井軌道」が描かれていないのはもちろんのこと、軌道が敷かれていた位置に何か別の道が描かれているということもない。
小坪井沢など、周辺の交通路から完全に切り離された人跡未踏の谷のようにしか見えない。
ちなみに、この2枚以外の歴代地形図も見たことがあるが、軌道が描かれた版がないことを確認済みだ。
このように、5万分の1の旧版地形図から分かる事は、ほとんどない。
せいぜい、古い地名(例えば亀山村という村名など)が、この後の資料調べの役に立ったくらいであった。
古老の証言なくしては、私がこの軌道に辿り着く事は決して無かったと断言出来るだろう。
続いては、より最近の地形図2枚を比較してみよう。
右図は、平成12(2000)年版と平成24(2012)年の2万5千分の1地形図「坂畑」の一部である。
これら2枚には笹川湖の出現という大きな変化があるが、注目すべきは出現前の地形図だ。
軌道跡などは描かれていないが、はじめて大縮尺で見る湖底の地形は、水没した軌道跡のルートを想像する上で大いに参考になる。
従来は第三の証言者の地図に示されたルートをただ信じるしかなかったが、湖底の等高線が明らかになったことで、自分でも考える余地が生まれた。
もっとも、だからといって第三の証言者の地図のルートに新たな疑いが生まれたかというと、そういうこともなかった。
単に自分でも考える事が出来て「納得した」ということである。
それにしても、最初の証言を得た当時の私は、笹川湖の誕生によって小坪井沢や本坪井沢が離れ小島的に孤立し、アクセスし辛くなったのだろうと考えていたが、こうして地形図を見る限り、昔から湛水域一帯に道らしい道は見られず、根っからの秘境だったらしい。
だからこそ、この軌道跡の存在が外部に知られる機会も、凄く少なかったのだろう。
さて次は、湛水前の航空写真を見てみよう。
上の図は、昭和50(1975)年に撮影された片倉ダム(当時はまだ建設予定地)周辺の航空写真である。
元の画像(→リンク)はこれよりさらに高解像度であり、じっくり目を凝らして見ると、川沿いの所々に軌道跡らしきラインが見えた!
チェンジ後の画像で示した緑色のラインが、その断続的な線を繋げた「推定軌道跡」である。
それは第三の証言者の地図に描かれた軌道跡のラインとほぼ一致するようである。
だが、航空写真にそれらしいラインが見えるのは、片倉ダム付近からビル沢の出合辺りまでだけで、それより上流は全く分からない。
この区間も沢の蛇行が激しく、未発見の隧道が存在する可能性があると思っているが、手掛かりは得られなかった。
右の写真は、2013年の探索時に小坪井沢と本坪井沢の出合から撮影した、下流の坪井沢を満たす湖面である。
この一見して両岸に逃げ場のなさそうな谷を、軌道はどのように通過していたのだろう。
ここも小坪井沢と同じような河床と一体化した路盤だったのだろうか。
謎はまだまだ多く残っている。
とはいえ、昭和50年という比較的近年の航空写真に軌道跡らしいものが写っていたのは、予想外の収穫だった。
それだけにますます、「水没前に訪れてることが出来ていたら……」と、思ってしまう。
次は、古写真の調査である。
が、この分野については、今のところたった1枚しか、お見せするようなものはない。
それも、かなり核心からは遠い写真である。
出来ればズガーンと軌道の現役時代の写真が見つけられたら良かったのだが、未発見だ!!
左の画像がその1枚の古写真だ。
「分岐A」地点付近の水没前の風景である。
これは、一連のレポート制作の過程でほとんど偶然見つけた。
「最終回」に登場した「ヅウタ橋」について調べていて、この変わった形式の橋の施工についてまとめた論文を発見。「プレストレスコンクリート技術協会 第10回シンポジウム論文集(2000年10月)」に所収の「非対称2径間連続吊り床版橋(ヅウタ橋)の設計・施工」がそれだ。
そしてその中身を見ていくと、「ヅウタ橋」の完成直後に撮したとみられる、ダム湛水前の写真があったのである。
先ほどの航空写真と照らし合わせてみると、この現場は「分岐A」のほんの少し上流辺りで、うっすら川の右岸に軌道跡らしきラインが写っていた。
そしてこの古写真(というほど古くもないが)にも、良く見ると、川底から3mくらい高い位置の右岸に平場が連なっているように見える。
これが軌道跡である可能性は高い。
軌道跡は、当時から藪に覆われた完全廃道だったように見えるが、これをもう200mばかり上流方向に辿れば、今は水没していて見る影もない“隧道”が口を空けていたのだと思う。
また、田代川に抜ける「支線A」を辿れば、そこでも長大な隧道に遭遇していたはずなのだ。
ああ、笹川湖よ…。
そしてこれ(この「机上調査編」そのもの)を書いている最中に、衝撃の情報が読者さまからもたらされた!
感想公開機能(おぶコメ)で公開している読者さま(トビミケ氏)の“コメントNo.24433”がそれだ。
以下に転載する。
40年くらい前に、ツボイ沢からビル沢を経由して、三石山に登りました。
その時、沢が隧道になっている個所を通りました。川回しにしては長いな、と思ったのを覚えていますが、あれが軌道跡の隧道だったのでしょうか。
隧道の上に増水時用の小さい隧道がありました。
また、湖水出現以前、ビル沢は、4mくらいの滝で、ツボイ沢に出合っていました。
!!!!
この情報はまさしく、私が見ることが出来なかった湖底の隧道(写真左)の通行体験談なのではないだろうか?!
「ツボイ沢からビル沢を経由して、三石山に登」るルートを考えると、この場所の他に、「沢が隧道になっている箇所」は思い付かない。
笹川本流まで下ればそのような場所はありそうだが、ツボイ沢に入ってからとなると、それはもうこの場所の他に無さそうなのである。
しかし、「川回しにしては長い」と感じられる隧道の「上に増水時用の小さい隧道が」あったというのは、もしかしたら、“上の隧道”が軌道跡だった可能性もあるのだろうか?
いずれ、高度の違う2本の隧道が並んでいたという目撃証言は、なんとも想像を駆り立てる!!
右の写真は、房総半島の某所にある川廻しのトンネルと道路のトンネルが上下に並んでいる光景だが、これと似たようなものが、水没前のこの場所にはあったのだろうか。
当時、ツボイ沢→ビル沢経由で三石山へ登るルートがどのくらい歩かれていたのか分からないが、登山者の体験談方面から湖底の過去を探るのは有力そうである。
誰か写真も撮っていないのか〜!!
追記: トビミケ氏が通り抜けたトンネルの位置が、ついに判明!
現在は笹川湖に沈んでいる坪井沢で、かつて隧道を通った事があると述べた“コメントNo.24433”の証言者は、以前からメールのやり取りをしていた千葉県在住の読者“トビミケ氏”であったことが後日に判明した。
そのため証言の内容について、ご本人から、さらに詳しく伺う事が出来た。
以下、新たに判明した内容を列挙する。
- ツボイ沢の隧道を通ったのは、昭和52(1977)年の10月か11月(大学3年の時)で、2人パーティだった。貧乏学生だったので、カメラは持っていかなかった。
- 当日は上総亀山駅からバスで片倉まで行き、三石山への登山道を経由しツボイ沢へ入った。
- ツボイ沢の隧道は長さ100m程で(もう少し短かったかもしれない)、出口(上流側)に近付くと緩く右にカーブしていた。
- ツボイ沢の水は隧道の中を流れていた。隧道内を地下足袋にワラジ履きで右岸の壁に沿って怖々歩いた記憶がある。入口の右側に川床らしきのもがあったが、水流はなかったと記憶している。
- 隧道の上にあったもう一つの“小さな隧道”については、出口(上流側)は確認したが、入口は確認していない。
- “小さな隧道”は増水時用と書いたのは、千葉県山岳連盟のガイドブック『房総の山』に書かれていたのを、そのまま書いただけで、どちらの隧道が軌道跡なのかは正直わからない。
- アプローチに時間がかかってしまい、ビル沢から急いで三石山へ登り、押込尾根(今は多分廃道)を亀山に下った。
一気に情報量が増えて、“湖底の隧道”の風景が、だいぶ想像出来るようになってきた。
長さが100m程度もあったこと、洞内は東口付近で緩く右カーブしていたこと、そして、隧道内をツボイ沢の水が流れていたこと。
こうした情報から想像されるのは、率直にいって、林鉄用の隧道の姿ではない。
これほど長い川廻しの隧道を見たことはないが、しかし水路と林鉄が1本の隧道を共有したというのは、私の想像力の外である。
となると、その上方に見えていたという“小さな隧道”の方が軌道跡だったとみるべきなのか?
結論を急ぐ前に、更に情報を集めることにしよう。
トビミケ氏によると、『房総の山』というガイドブックの第2版にこのルートが紹介されているはずだという。彼らもそれを読んで行ったそうだ。
しかし現在は手元に無いとのことだったので、古本屋で購入した。右はその表紙である。
『房総の山(第2版)』(千葉県山岳連盟/昭和52年)より転載。著者加工。
左は、『房総の山(第2版)』(千葉県山岳連盟/昭和52年)に記載されていた、ツボイ沢周辺のルート図である。
当時の地形図にも描かれていない、ツボイ沢を通る歩道が、はっきりと描かれていた!
隧道はさすがに描かれていないが、トビミケ氏が歩いたのも、このルートに違いない!
そしてこの図と共に注目すべきは、各ルートを詳細に解説した本文である。
トビミケ氏が歩いたルートは、同書では「ツボイ沢(ビル沢)から三石山」として紹介されている。
以下にその主な部分(ビル沢まで)を転載する。少しだけ長いが、当時の軌道跡や、問題の隧道の姿に迫る、おそらく重要な内容を含んでいる。
亀山駅からバスに乗り、片倉でおりる。片倉部落より清水トンネルに向けて約1km南下した地点、道路が大きく右へカーブをきるところがこのコースの出発地点である。この場所は、自動車が何台も駐車できるような広場になっているのですぐわかる。ここから笹川に向かって降りるには、雑木林の中の溝のような道に従って進む。ほどなく杉林の中に入り笹川に出る。川幅10m余りの笹川を渡るのであるが、雨後の増水時などは渡渉を強いられることがある。笹川を渡り対岸に出会うツボイ沢に入る。
ツボイ沢に入り、右岸通しのまき道をしばらく行く。尾根どおしに三石山から降りてくる道を左に分け、沢が左へ屈曲した地点より河原に下りる。間もなく沢は洞くつとなり、どうどうと音をたてて流れている。最新の国土地理院発行の地形図にもしめされていないが、この洞くつは人為的につくられた100mもあるりっぱなものである。洞くつの中は、右岸を岩肌沿いに進む。明るい所から急に入ると、足もとが不安で懐中電灯が欲しくなる所である。入っていくにしたがい、ゆるやかに右へ曲がり、出口が大きく口をあけている。洞くつを出て振り返ると、上部に降雨時など増水の際のまき道として使える小さなトンネルが見られる。つまり洞くつの上にもうひとつのトンネルがあるわけである。この洞くつを出たあたりは明るくのどかな気分にひたれる。
なおも広い河原を、さしたる勾配もないまま右へ左へと進むと、どこともなく硫黄のにおいが漂ってくる。右岸の水中からボコボコとガスが噴出しているらしく、岩が白くなっているのが認められる。間もなくビル沢が4mの滝をかけてツボイ沢に出会う。本流はここから右へ大きくカーブをきり、元清澄山へと登っている。このあたりは、りっぱな指導標もあり、休憩するに良い所である。
ビル沢は、三石山南面にひろがる明るい沢である。(以下略)
これら記述と地図とによって、トビミケ氏が通行したツボイ沢の隧道は、私が捜していた“軌道隧道”とは異なるものである可能性が、極めて高くなったと思う。
トビミケ氏が通行した隧道は、右図の青の線上に示した位置にあった可能性が高い。
「右岸通しのまき道をしばらく行く。尾根どおしに三石山から降りてくる道を左に分け、沢が左へ屈曲した地点より河原に下りる。間もなく沢は洞くつとなり
」という説明文のあるこの隧道は、第三の証言者の地図に描かれていた軌道の隧道とは、潜り抜ける尾根からして違っていたのだろう。
この隧道は、現在は“星の広場”がある尾根(半島)の下を潜っていたものと考えられる。
今は湖底に沈んでいるはずだが、低水位時には「上部に降雨時など増水の際のまき道として使える小さなトンネル
」の方が先に浮上するはず。
注目していれば、いつか見られる日が来るかも知れない。私はまだ諦めていない。
しかし、本当に右図のような配置で複数の隧道があったとすると、トビミケ氏の一行が途中で軌道隧道を目撃しなかったのは、なぜだろう。
単に見逃されたのか、崩れて原形を失っていたのか、或いは私が思っている隧道の位置が既に誤っているのかもしれない。
新たな情報を得て核心に近付いたような気がしたものの、むしろ軌道の隧道については更に謎が深くなってしまった感じがする。
…というか、もはや底なし…。 何とも怖ろしいことだ。
2018/1/4追記: ダムに沈む前の隧道の写真が発見された!
ガイドブック『房総の山』に記載があり、トビミケ氏がかつて通り抜けたという、現在は笹川湖の湖底にあるとみられる隧道の水没前の写真が発見された!
この隧道については、本ページのここに、これまで判明した情報をまとめているので、ここでは繰り返さない。
早速、その貴重な写真を見ていただこう。
以下の4枚の写真が、新たにオブローダーたぴおか氏(@obroader2017)からご提供いただいたものである。
撮影者はやセイジン氏で、たぴおか氏がコンタクトを取って下さり、掲載許可をいたくことができた。 タピオカさま、やセイジンさま、ありがとうございます!
撮影者のやセイジン氏はかつて、友人と共にドラム缶をを背負ってツボイ沢へ入渓し、“隧道”を通り抜けた先の河原で手製のゴエモン風呂を楽しまれた。4枚ともその際に撮影されたものである。正確な撮影時期は不明だが、カラー写真であり、それほど古い時代のものではないようだ。軌道の廃止(戦中か戦後間もなく)からは相当の時間を経ているはず。
右図は、これら4枚の写真の撮影位置を『房総の山』に掲載されている地図に表示した。
写真@は、入渓の序盤に笹川の本流を渡る場面だそうだ。
注目すべきは、人物の左側の河中に木製橋脚の残骸とみられる木材が2本突っ立っていることである。撮影者の記録によると、「道路の近くに平場があって、そこに車を置いて、小道を進むと笹川に出ました。笹川の手前付近(の河床)に3〜4個の孔が並んでいて、その先はしばらく孔がなく、さらにその先に写真の2本の木があり、その先は、ツボイ沢に向っていました
」とのことであるが、駐車場からの道筋は『房総の山』の記述と一致するように思われる。
写っている河中の廃材が軌道跡のものであった確証はないが、可能性はありそうだ。
写真Aは、ツボイ沢の隧道を通り抜けた上流側の坑口だ。
遂に見(まみ)えることが出来て感激! こいつが、現在の“星の広場”の地面の下あたりに、水に満たされた湖底の穴となって沈んでいるとみられるのである。その状況を想像するだけで、ドキドキが止らない!
『房総の山』によると、隧道の内部をツボイ沢が流れていて、登山道は右岸伝いにあったとのことだが、確かに写真でも右岸側に通れる場所があるように見える。同一の隧道であることは間違いないだろう。
サイズ感としては、一般的な軌道の隧道よりも遙かに大きく、いかにも川廻しのトンネルといった感じだ。きっとその通りの由来なのだ。
私にとって最も重要なものが写っているのが、写真BとCである。
隧道の上流側坑口前の川原で撮影されたこれらの写真には、右上の辺り(矢印の位置)に撮影者が通り抜けたものとは異なる穴が見える。
この右上の穴は、『房総の山』に「洞くつを出て振り返ると、上部に降雨時など増水の際のまき道として使える小さなトンネルが見られる。つまり洞くつの上にもうひとつのトンネルがあるわけである。
」と記載されていたものであるに違いない。そしてこれこそ、私が小坪井軌道の廃隧道だと考えているものだ!
隧道内部を撮影した写真はなく、内部状況は依然として不明であるが、位置と外見が判明したことは非常に大きな成果といえる。この坑口の大きさは、私が見た小坪井軌道の他の現存する隧道と同程度のようであるし、私は既にこれが軌道跡の隧道であったと確信している。
そもそも、この位置に当時ほとんど使われなくなっていた隧道があったという時点で、状況証拠的にも軌道跡である信頼度は相当高い。
これが登山道として別に掘られたバリバリ現役のものだったならば、『房総の山』の著者もトビミケ氏もやセイジン氏も、わざわざ川廻しの隧道を通る理由が薄いのである。
今回は読者さまの協力により、時空上の私の限界を超えて調査を進めることが出来た。 感無量です!
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