道路レポート 塩那道路工事用道路 第11回

公開日 2016.01.03
探索日 2011.09.28
所在地 栃木県日光市〜那須塩原市

最後の往路 長途を望む峠。


2011/9/28 15:08 《現在地》

「どうだ? 晴れの日の“天空街道”も良かっただろ?」

…この声は勿論、幻想。
だが、そんな道の声が聞こえてもいいくらい、私は今日の塩那道路を深く楽しんでいた。
今は、もう間もなく“折り返し地点”であり、再度の延長はしないと決めていたので、前途に対する不安も解消された状態である。

今回、このようにリラックスして、時間にほとんど縛られず“天空街道”と過ごせたことは、本当に幸運なことであり、また我ながら優れた決断をしたとも思った。
最初からこうする(山中泊する)つもりで夜営道具を準備して臨んでいたとしたら、荷物の重さのために“工事用道路”で大幅に時間をロスし、“天空街道”ではこんなに時間を使うことが出来なかっただろう。
全ては結果論だが、“日帰り”のつもりで“工事用道路”に挑み、“天空街道”で“鍵の開いた小屋”に出迎えられたうえで“夜営を決断する”という、今回のこの流れが、私と塩那道路の間に得難い幸福な時間をもたらしてくれた。



終宴に向かう、“天空の道”。


“天空街道”の終わりを目前として、道は堰を破って流れ落ちる水のように下り始めた。

その下りの先には、遠近感を圧縮した迫力で突き上がるこの主稜線の最高峰、日留賀岳の威容があった。

だが、塩那道路がこの主稜線を蹂躙するのは、もうオシマイ。次の上りには付き合わないし、付き合えない。



この唐突な急坂の周辺は、パイロット道路ならではの荒々しい風景を見せていた、
大小の落石が路上に積み重なり、これまでの区間では“最も廃道に近い”と思った。
それはこの道の決して遠くない“未来”の風景、その先取りなのだろう。
ここに散らかっているのは、もう2度と退かされることのない落石なのかもしれない。



15:12 《現在地》

道の荒れ方に気を取られ、うっかり素通りしかけたが、振り返り際にぎりぎりで看板の存在に気付いた。
つらら岩」の看板地点はここだった。

この看板は6年前から全く変化した様子はない。
そして、相変わらず「つらら岩」というのがどの岩なのかは、分からないままだった。

とはいえ、こうして所々に地名が付けてあることは、この道が単なる林道などではなく、訪れる人に愛着を持たれる観光道路として生きるための工夫だったのだろう。
少しくらい無理矢理であっても、とにかく退屈させない程度の密度で、道中の各所に地名が用意されている。




「つらら岩」から見下ろす男鹿川源流の谷。
中央に一箇所だけ色の薄い地面があるが、あれは工事用道路に入る直前に近くを通った、横川放牧場だ。
直線距離なら僅か2.5kmだが、比高は700mある。
圧倒的に往来不便な近地である。

それにしても、ここから見晴らす広い広い世界には、私の立っている道と、あの牧場だけしか、人の作ったものが見あたらないようだ。
もしも地球の人口が今の1万分の1しかなかったら、日本の風景は、どこもこんな風であったのかも知れないな。
全く馬鹿げた想像だが、この広い視界には、鉄塔とか、道路とか、村落とか、そういう見馴れた物が(少なくとも肉眼では)見えなかった。

飽きもせず、何度も何度も景色を目に焼き付けた。
今日の私の本当に長く辛かった前半戦は、この道に辿り着いた後の全てに労われている。報われている。



ついに、やって来た。
下り坂の途中の地点というのが“峠”らしくはないものの、地形的には鹿又岳と日留賀岳の間の明瞭な鞍部をなし、かつ、これらの峰を結ぶ主稜線の東西を道が乗り越す地点。やはりこれは“峠”と名付けるのが相応しかろう。
私称「日留賀峠」とは、この写真奥の左カーブのことである。

ちなみに、日留賀岳の山頂からここまでは、尾根伝いに僅か1kmである。また、地理院地図では、この間に破線の徒歩道が描かれている。
見た感じ明瞭な踏み跡はなく、典型的な藪山の登山道だろうが、日留賀岳山頂までは塩原側から比較的整備された登山路があって、片道4時間程度で登れるという。
ということはだ。
山頂からここまでの藪尾根歩きは結構大変かも知れないが、おそらく塩那道路の“天空街道”へ最短時間でアプローチする手段というのは、この日留賀岳の登山道経由と目される。
多分、6時間くらいで来られるのではないか。




「日留賀岳」の直前に少し広い所があるが、ここは6年前、塩原側から登ってきた私が、最初に“天空街道”の威容を目の当たりにして、心の底から畏怖と興奮を覚えた印象的な場面である。

また、あのときはここに2台の重機が止まっていて、人影こそなかったが、未だ塩那道路は見棄てられておらず、現在進行形で整備が続いているという印象を持った。(関係者に見つかって、追い返されるのでは無いかという不安も、感じ続けていた。)

しかし今回は重機の姿はもちろんのこと、新しい轍は全く見あたらず、すでに麓の道がどうにかなっていて、車はここまで辿り着けなくなっているのではないかという、そういう疑惑を持たせた。
その検証は、容易な事では無いわけだが…。

と も か く 、 お疲れ様、俺!




15:15 《現在地》

塩那道路に這々の体で登り着いてから、2時間と7分。
この道を歩いた距離は3.7kmの上りと下り、「最高所」からなら1.1kmの下りだった。
私はいま、“天空街道”区間の南端である「日留賀峠」(標高1730m)に到達。
今度こそ、本当の折り返し地点である!

カーブを回り込んだ向こうに見えている山々は、今までと違う東側の眺めとなる。
今回の旅の範囲では、この場所からしか観れない眺めだ。
もう待ちきれないので、早速観よう。



日留賀峠から臨む、東方。

この方角に連なる山脈は、これまで辿ってきた男鹿山塊の主稜線から東に分かれた支脈である。
この支脈は、鹿又岳(1817m)―長者岳(1640m)―小佐飛山(1429m)というふうに次第に高度を下げつつ、
最終的には大蛇尾川と小蛇尾川に挟まれる形で那須野ヶ原の扇頭に沈んでいく、相当長いものである。
その遠大さは、山の向こう側に見えていいはずの那須野ヶ原を、見知らぬ雲の下に隠していた。
ちなみに、写真の中央やや右に見えている稜線の高まりが、支脈中の最高峰、長者岳だ。

そして塩那道路はと言えば、まずは長者岳まで尾根近くを走り、そこからこの山体を上手く利用し、
螺旋階段のように巻き付きながら下って行く。
そして、向かって右に大きく開いた小蛇尾川の谷へ入り込むのだ。



塩那道路の進行方向をなぞるように、今度は南東方向の眺め。

正真正銘の足元から始まっている谷の広闊さに、思わず息が漏れた。
日留賀峠を峠たらしめた雄大なる浸食の原因者、小蛇尾川の源頭谷である。

小蛇尾川の右に連なる山脈は、日留賀岳(1848m)―弥太郎山(1392m)―安戸山(1151m)を連ね、
那須野ヶ原に落ちていく男鹿山塊の主脈である。その向こう側には塩原温泉を養う箒川の広い河谷があり、
男鹿山塊と、遠くに霞む高原山の山塊とを分断している。塩那道路の終わりは、その塩原温泉である。

直接見えるわけではないが、その果ての位置を知れば、果てしない距離が、容易に“想像”されるだろう。




…なんてな……


…………甘い。


想像だけで済ませるなど、甘すぎる!


「心の目で見なさい」なんて、呆けたことを言うつもりはない。



そのらせ!!



15km先まで、肉眼で見えるから(笑)。

山岳道路で、今居る場所の15km先の道が見えるとか、半端ない!
つうか眼下の「10km先地点」は、ここから直線で1.5kmしか離れてない(高低差は600m近い)。

なお、15km先といえば、ちょうど塩原側の通行止地点となっている「土平園地」付近である。
つまり、ここに見えている塩那道路は、その全てが「未成道」として消されようとしている徒花だ。
そして徒花咲き誇る小蛇尾川両岸の山岳地帯は、全て日光国立公園の「特別地域」(参考地図:pdfなのである。

ゆえに、塩那道路の建設だけを例外とし、さらにそのことを反省し、もう永久に新たな車道の建設は認めないし、
この自然は見るという方法でしか利用はしないと、子孫に対してもそうあるべきだと、我々自らが枷を嵌めた世界である。
だから、見馴れた植林地も伐採地も、視野の届く限りに皆無だ。さほど高くはないが、普通の山の景色ではない。

やがて、塩那道路が完全に廃道となれば、この景色は日光国立公園という名の下に、我々からさらに遠ざけられる。
それは人類にとっての価値よりも、地球の生命全体にとっての価値を優先した決断だろう。より「正義」に近い気はする。
塩那道路のこの辺りは登山者には冗長すぎるだろうし、木も伐らないならば、もう私が何を言っても道の未来は覆らない。


↑ ちなみに、「カシミール3D」で眺望をシミュレートしたところ、
那須野ヶ原の望洋たる大地も、条件如何では見えそうだった。



南、日留賀岳の眺め。

日没約2時間前の太陽は、目に見えて中天より傾き出した。
余りこの場所にいて東を眺めていたら、広がる影の大きさに心細くなるだろう。
遠からず、長い長い闇の帳に、この身を委ねなければならないのだ。
こんな段階で不安に溺れることがあったら、生命の保持はままならない。
もう東を見るのは、やめる。



北、日留賀峠のカーブと擁壁。
来た、本当に良く来た。
もう思い残すことはない。



……おや!? ヨッキれん のようすが……!



ダウーン!!


ここで遂に、ヨッキれん氏ダウンです。

突然路面に座り込んだと思いきや、そのまま仰向けダウン!

立ち上がれるかー?

いや、動かないぞ。

動けないのか?!

これは危険な状態かッッ?! 



しかし、表情は満ち足りています!

完全に、やり遂げた表情です! 天空を掴み取ったその腕が、今高々と掲げられます!

勝利の栄冠を掴み取ったオブローダーの表情です!!

歩き出しから10時間。 いま、万感の想いで、

ゴォォォォーーール!




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15:33 《現在地》


…さて、帰ろうか。


15分以上も日留賀峠に滞在した。
その大半は、道の真ん中に寝っ転がっていた。
意識は保っていたが、靴を脱いで、大の字になっていた。
背に感じた温かな小石の感触が、忘れられない。

塩那道路と私の相思相愛を、確かめ合うひとときだった。




最初の帰路 “天空街道”の斜暉。


贅沢な とき の使い方へ、ようこそ。

ここから先は、もう道路探索としては、ほぼ“終わった”話である。
ただの復路だから、おそらく新たな発見は無いだろう。
だが、どこに何があるかを解き明かすだけで“終わった”とするのは、いささか勿体ない。

塩那道路が、これから先の時間帯に見せる風景は、
この道が置かれた状況を考えると、生半可な体験ではあり得ない。
自画自賛の誹りを怖れずに言わせてもらうが、ここから先は、特に貴重な光景である。

(塩那スカイラインが開業していたら、手軽に見られたのだろうが)





現在時刻は16:00。
私は「最高所」まで戻って来ていた。
気象庁発表による本日の宇都宮の日没時刻までは、あと1時間30分だ。

路肩に立って、西の方角を眺めてみる。
そこには宇宙があった。
地表に近い大気が、ギラギラとした陽光に温められ、上空の冷たい空気との間に白いヴェールのような雲を生み出していた。
その様は、自分が大気圏よりも上にいるような、不思議な錯覚を与えた。

地上の全てから、遠く隔絶した世界がここにある。




隔絶した世界といいながら、足元のモノは、どう見ても我々の世界の「道」だった。
そもそも道の面白さの核心は、どんな場所にでも存在しうるという多彩さにこそあると思うわけで。

ここは、「本当にこれを廃道にするか?!」と思ってしまうだけの、景観に優れ、構造に意を払った、素晴らしい道路に思える。

ここだけな(笑)。
“天空街道”だけ、ここに隔離して保存されていても、仕方ないんだろうけどな。

なお、(←)の写真は、(→)の梯子に上って撮影した。




16:06 《現在地》

「最高所」の一角に建つ「観察小屋」に到着。

ここは便利な場所で、写真に写る小さな切り通しを挟んで手前では西の、奥では東の眺望を愉しむことが出来る。
ようするに、男鹿山塊の主稜線を跨ぐ地点である(からこその「最高所」)。

そしてここで、往路では見れなかったものを見る事が出来た。




東側に横たわる、巨大な大蛇尾川の谷。

谷の果てに目を向けると、上空には薄い雲が棚引いていて、それが視界を完全に限ってしまっているのだが、よくよくその辺りに目を凝らすと、雲の底に怖ろしく平坦な地面が広がっていることを認めた。
大地には一面にモザイクの模様が描かれており、その正体は、人の耕した大地に他ならなかった。

今回の探索ではじめて視線を届かせることが出来た、那須野ヶ原の姿である。
本当に果てしなく山並みしか見えなかった東側の“山国”会津とは異なる、“平原の国”下野の姿だと思った。

孤独の夜を迎える前に、人の居る場所が見られて、良かった。




ここまで来てしまえば、「記念碑」にある今夜の宿まで残り2kmで、しかも下り坂が大半なので、どう歩いても心配は無い。

また、次のイベントは地平の向こうへと夕日を送り出すことであるが、それをどこでやりたいかを考える。

考えた結果、ここから「記念碑」まで歩く途中で自然な形で迎えるのが良かろうということになった。
というか、野外で夕日をただ待つようなことをして、夜を迎える前に、体温を失いたくないと思ったのだ。
なにせ、日が傾くにつれ、ちょっとだけ肌寒くなってきたのである。そこに一抹の不安を感じた。

幸い、「観察小屋」の鍵が開いており、私は中に入ると再び大の字になったのだった。


ちょっとだけ、

目を瞑っても、

いいよね…。




Zzz………

………

……