2008/7/31 12:20 11.6km 《現在地》
出発から7時間20分が経過した時点で、塩原出発から11.6kmを前進し、峠までの残距離は推定5.7km……すなわち、峠までの3分の2を歩き終えたところであるが、この遠大な単独踏破に挑む私自身の消耗も目立ってきた。
ズボンに空いた大穴はまだ笑い話だとしても、枝にぶつかって頭頂部から流血しているなんていうのは、それが大きな負傷ではないとはいえ、疲労が私の集中力を乱している証しのようなものだ。年中山を歩いていても、こんな負傷は滅多にないのだから。
そしてまだその実感はなかったが、私のステータス(健康)を脅かそうとする“ある存在”との遭遇も、このときは既に始まっていたはず。
とても微少な敵……
そしてまた、それとは全く別の“想定外”も、迫りつつあった。
とても巨大な敵……
あらゆる種類の障害と孤独に立ち向かう、“塩原新道の最奥”へと踏み込んでいく。
ここはほぼ完璧に道の形を留めている。
なぜか植林もここでは路上を避けているので、現役の道のように見える。
もし持ち込めるなら自転車でも走れそうだし、その気になれば軽トラだって……。
路上には真新しい踏み跡も鮮明だが、もちろん人に由来するものではないだろうな。
おそらく、廃道区間に突入してから一番長く歩き易い道が続いていると思う。
疲れた足には、とても有り難かった。
変化に乏しい植林地の中を、淡々と歩き続ける。
しかしどんなに歩き易くても、歩いているだけで疲労が溜まるのは、人体の根本的欠陥ではないかと思う。
……疲れた身体と頭は、そんな詮無いことをボイスメモに吹き込んでいた。
12:39 12.0km
「峠見の尾根」を越えてから、白倉沢のささくれた山肌を迂回して歩き続けること約2.6km。約2時間15分を費やして、ようやく善知鳥沢の本流沿いに復帰した。ここは「峠見の尾根」と対をなす地点であり、白倉山の真東にある尾根上であるから、「白倉尾根」と呼ぶことにする。
周囲の地形は穏やかで、樹木が鬱蒼と茂っているので、峠方向はおろか下界も全く見通せなかった。
しばらく続いていた植林地もこの直前に終わり、広葉樹の森が戻ってきていた。
直接ここから峠を目視出来ないのは残念だが、いま私と峠の間を隔てる邪魔な支流はなくなった。
王手と言うにはまだ早いだろうが、確実に喉元へ迫りつつある。
虎の巻の位置図を見る限り、ここから峠まで残り5km強の道のりは、素直に善知鳥沢の右岸山腹をなぞっていけば足りる道だ。
大きな迂回といえるのは、峠手前にある最終の九十九折りだけである。
とはいえ冷静に考えると、峠まで5kmある廃道は、普段ならそれだけで1日がかりを想定してもおかしくない規模だと思う。
ん?
?????
え!!!
上の動画を見て欲しい。
想定外の“巨大な敵”が近づいていることに、気が付いてしまった!
それは、急激な天候悪化の兆しであった。
廃道に突入した後に今日の日の出を迎えて以来、ずっと穏やかな木漏れ日を歩き続けていた印象が強く、これは終日晴れが続くものと安心しきっていたのであったが、確かにここ30分くらい木漏れ日を見ていないことは、少しの違和感として意識の中にありはした。
そして、この見通しの利かない尾根に辿り着いたところで、たまたま小さな梢の窓から善知鳥沢の対岸にある山が見えたところで、想定外の空の状態に、驚いたのである。
晴れてないじゃん!!
見ているそばから流れているのが分かる濃いガスによって、向かいの山の上はすっぽり覆われていた。
【2時間前に見た空】と、あまりに違っているじゃないか!
昨夜確かめた天気予報でも、今日の関東地方は全域晴れと言っていなかったはず。
「子ども相談室」の終了以降、チェックを怠っていたラジオを慌ててつけてみると、ちょうど天気予報が始まった。
……なんと言うことだ!
栃木県の午後の降水確率が40%と言っていた。しかも、恐ろしいことに、「関東地方北部山沿いの広い範囲で、午後から雷が発生する恐れがある」と注意を呼びかけているじゃないか。
山で雨は我慢出来ても、雷はシャレにならない。
いや、ぶっちゃけこれまでに越えてきたシビアな地形を考えると、濡れただけで相当厳しくなるんじゃないか……。 大袈裟抜きで!
以後、空の同行にも注意しながら進まねばならず、心の負担は大きくなった。何があっても引き返すより越えてしまった方が得な領域には来ているが…。
……まあ、天気についてはもう、願うことと、あとは少しでも早く目的を達することくらいしか「あらがえない」ので、仕方がないことだと割り切って、前進を再開する。足を止めて休む気分には、ちょっとならなかった。
精神面でのダメージが結構大きかった。
これは生死というよりも快不快レベルの問題になるが、猛烈な笹藪だった2ヶ月前の峠の姿を思うと、濡れたあそこを進むのは正直気が重いしな……。
前回に続いて今回もこういう天気になるのかという、理不尽への恨めしさもあったし。
そんな気持ちを汲んでかは知らないが、可憐な鳥の羽根が与えられた。
私の指と比べたときの可愛らしいサイズがお分かりいただけるだろう。
そういえば、前回の探索では雄々しいシカの角を拾って家まで持ち帰っていることを思い出す。今回も戦利品アリだ。
(ただ、今も家にあるシカの角とは違い、こちらは自宅で一度見たきり行方不明になってしまった)
久々に帰ってきた善知鳥沢の地形であるが、沿道ではしばらく見ずに済んでいた険しさが戻ってきてしまったようだ。
早速自己主張の強い大岩盤が現れた。
一枚岩という言葉があるなら、これは二枚岩というべき眺めか。白い岩の上に、黒い岩が乗っている?
不思議な景色だが、この岩場は不動であるらしく、路上に小石1つ落ちていなかった。
大原則として、谷に近づくと、地形は悪くなる。
これは善知鳥沢の本流へ近づいていく終盤にも適応されてしまうのかもしれない。
ほとんど源流になるので、激しい浸食に晒された峡谷的な険しさからは距離を置けると期待したいのだが。
これは………?
路上に突如現れた、笹藪の不思議な濃淡。
右手の濃い部分の藪は、探索進行上憂慮すべき危険なレベルだ。
こんなもので路上が覆わたら、進行ペースは文字通り半減するだろう。
ただ、2月前に峠で見たのは、これに近い濃さの藪だった気がする。いずれは、こういうのとも戦わねばならなくなりそう…。
ちょっとでも後回しになれと願うよ。
これまた、スパルタな予感…。
巨大なひびが上下に走る、危うげにオーバーハングした巨岩の下へ、道はもぐり込んでゆく。
しかもそんな大岩は、道の上だけではなく、下にも存在していた。
ようするに、トサカのように長く薄い岩尾根を道は突き破っているのである。
オーバーハングした岩の下を通り抜ける。
が、これはいわゆる“片洞門”と呼ばれるものに見受けられる、いかにも人工物らしい作為をあまり感じない。
自然のままではないだろうが、なんか爆薬で崩して、あとはそのままみたいな印象がある。
荒いし、雑い。
現代だったら絶対に建築限界に抵触する形をしている。
オーバーハングを潜り抜けると、すり鉢状に凹んだガレ谷が待ち受けていた。
広々としていて見通しが良いが、道は完全に途切れていた。
薄暗い中で見ると迫力があって恐ろしい。気付けば動画を回していた。
12:53 12.4km 《現在地》
谷を渡り終えてすぐに振り返った眺め。
すばらしい!
思わず腰を下ろしていた。
人が自然に抗う道が好きで、それが自然界に取り戻されていく姿が好きだ。
それに、勝者より敗者の物語が好きだ。
廃道には私の好きの全てがあるようだ。
ここで私は「長いソーセージロール」をもぐもぐと食べた。
飲料水の余裕がないので水を節約しながら食べたから、よけい喉が渇いた。
12:56 再出発。
あああっ!
出発から8時間が経過するところで、遂にこのレベルの笹藪が行く手を阻んだ。
覚悟を決めて、いざ………
13:02
笹仕事5分経過。
この笹藪自体は、今までもっと深いものを何度も体験したことがあるというレベルだが、ますます空が薄暗くなってきていることもあって、先の見えない不安感が強い。
さらに、こうした土砂崩れなんかも混ざってくると、見えない足元に転び石が潜んでいることから、転倒や捻挫のリスクが高い地味な危険地帯となる。
当然ペースは一層落ちるのだが、もともと時間に余裕がないから、やり場のない焦りは切迫感となって精神を傷付け始める。
そうやって、笹藪の廃道は徐々に私を追いつめるのだ……
…………
……
貴様の手口は百も承知なんだよッッッ!!!
笹仕事、10分経過。
何のこれしき。何のこれしき。
この展開が3時間前だったらヤバかったろう。
だが、もう貴様は私を奥まで進ませすぎている。
ここまで来れば、もう悩み迷う余地はない。
絶対に引き返すよりも先へ進んだ方がラクな場所まで来ているのだから!
ただし、この笹藪には、進路を妨害するというだけではない、
場合によっては、後日に致命的となるかもしれない問題があった。
……微少の殺人鬼…… マダニである。
実は第一次探索後、この辺りの笹藪にはマダニが多いから気をつけろと、地元の人間に教えられた。
幸い、前回の探索はずっと雨だったこともあり、長袖の合羽を着っぱなしだったので全く被害が無かったが、今回は真夏であり、晴天であったから、本来は薄着で探索したいところだったが、私は敢えてここまで長袖を脱がず、腕もまくらず頑張っていた。
マダニの怖さはwikiあたりで調べて欲しいが、私の仲間には瞼を切開手術する瀬戸際まで行った者も、ヘソを食われて散々な目にあった者もいる。緑を恐れぬオブローダーにとって、大きな脅威となる敵だ。
そしてそんなマダニの最大の友は、鹿の類であるという。
彼らの蹄が無数に刻まれたケモノ道と、彼らの体毛が密着する笹藪の組み合わせは、マダニにとっての天国だ。
ここはヤバそうだと直感したが、それでも直に見るまでは辛うじて余地を持っていた私に、「ボクいるよ」と微少の声が聞こえた。
写真はない。
そんな物を撮ってどうなるというのだ。
でも、笹の葉の上に動く粒が目に付いちゃったんだよね。
います本当に。
いっぱい!
13:14 12.8km 《現在地》
峠が見える!
約3時間ぶりの目視であった。
ガスに隠されかけているが、完全に雲に入っている様子はないので、今のところ雨は降ってなさそう。
【前に見たとき】と比較しても、流石に近づいた実感があった。
距離もそうだが、高さなんて、もうこれ以上は登る必要がないんじゃないかと思うくらい目線近くに見えた。(実際は120mほど上である)
ここまで来たら、お互い総力戦と行こうじゃねーかぁ!!
13:15
笹仕事、13分経過。
ここで唐突に、笹が全く生えていない場所へ出た。
笹藪を押しのけるように、苔とシダによって彩られた緑のガレ場が広がっていたのである。
そしてここに来た途端、驚くほどひんやりとした空気が、汗だくの私を包み込んだ。
この特徴的な光景と冷気は、このガレ場が風穴の役割を果たしていることを示していた。
春先に隙間が多いガレ場の奥深くまで冷たい雪解け水が浸透することで、地中の冷気と合わさって氷の塊を生成する。それが夏場も溶けずに残り周囲に冷気を吹き出すのである。まさに天然のクーラーであり、気持ちが良かったが、これで晴れていれば最高だった。
13:18
さらに数分、濃い笹藪を漕ぎ進むと、また視界が開けて、涼しげなシダが生い茂る明るい谷が現れた。
そしてこれは特筆すべきことだが、ここは谷でありながら、道は壊されていなかった。
道は小さな築堤で横断しており、それがそのまま残っていた。
120年を眠り続けた道の穏やかすぎる姿を前に、
思わず喉元に上がってきたモノがあったが、
…まだ我慢した。
っくぅうう!!
ちょっといい気になればこれだ。
このような一面の濃い笹藪が、もう完全にこの山のデフォ植生というか、基本的な地表の状況になってしまったように見える。
もしかしたらこれはもう、峠に立つまで、二度と開けない藪になるかも知れない。
藪漕ぎには慣れている自負があるが、まだ5kmはある。
しかも、マダニまみれ(実見済み)の笹藪だから、気が休まらない。
変化に乏しい緑の海を、ただひたすらに漕ぎ続ける、そんな体力勝負の行進が、この道の“達成者”に求められる最後の試練なのかも知れない。
ひとことでササと言っても、いろいろな種類があり、竹みたいに硬くなる種類や、途中で幹が枝分かれするものもある。
その両方の特徴を持ったチシマザサ(ネマガリタケ)というのは本当に最悪で、マジで地表に這いつくばって匍匐するよりないことがある。
だが、ここにあるササはそこまで太くも硬くもないので、まだマシだ。体重を乗せた腕の力で、はねのけて進んでいくことが出来ている。
これでマダニを意識する必要がなければ、もう少し気分は良かったのに。
やや振り返り気味に路肩を覗くと、もえぎ色の谷が数千万の木々に溺れていた。
いまだ善知鳥の谷底は150mも下方にあり、そこに一切の道はない。
戦国の兵たちが亡骸を沈めたと伝説される谷である。
塩原新道はいま、この谷を待っている。
ほとんど水平に近いトラバースを続けながら北上を続ける道は、谷が登ってくる時を待っているのだ。
そして、次に道がこの谷を渡ることが出来るようになったときが、峠へ向かう最後の九十九折りが始まるときなのである。
そんなわけで、道は待つだけだが、私はこの足を動かして進まなければ、その道を辿れない。
峠に立つことも、生きて帰ることも出来ない。
時間も少しだって待ってはくれない。5時間後には日が落ちる。
当たり前すぎる事だが、助け人のない山はいつだって致命的だ。
13:36 13.9km 《現在地》
ひたすらに笹藪を漕いで辿り着いた、次の谷らしき場所の入口。
ここで久々に笹が離れて、路面が見えるようになった。
ただ、GPSを持っていなかった当時の記録からは、ここがどこだったのかという「現在地」の正確な保証はできない。
前後の歩行に費やした経過時間などから予想した。
そして、へばった……。
でも、許してくれ。
一度マダニの多さを見てしまったあの笹藪の中では、とても腰を下ろして休む気にはなれなかった。
それからやっと解放されたのだ。
どっかり腰を地面につけて、ほんとうに、へばった〜って感じで、休んだ。
13:39
息が整い、よっこいせっと起ち上がる。
そして、目前にしていた緑の谷へ足を踏み入れた私は、
出会う。
あぁ!
!!!!!(雄叫び)!!!!!!
(ここで実際には「みしまーーー!!!」と叫んでいるが、ふざけたわけではなく、溢れ出た叫びだった)
13:42
“碧緑の石垣回廊”。
谷を巡る石垣の築堤道路が、驚くべきことに、完全に原形を留めていた。
見渡す限り、谷の向こう側の見えなくなるまで、ずっと続いている。
たぶん100m以上ある。
峠まで3km強の地点と予想される、海抜1100mの名も知れぬ谷の奥。
まさかこんなところに、こんなものが残っていたなんて…。
出発から8時間42分後の遭遇であった。
2ヶ月前の探索では一度も石垣は見ていないから、そこも合わせれば、どれほどレアな遭遇だったか分かると思う。
これは事前に予測していたことではあったが、とんでもない突貫工事であったうえに、道としての現役時代がほぼ存在せず、補強や改修の機会を持たなかった塩原新道は、遺構というものに恵まれていない。
アノ万世大路のような輝かしい隧道はなかったし、巨大な橋はあったのだが、木橋であったため、具体的な構造物は残っていない。
橋も隧道も無いなら石垣くらいしか期待できるものはないが、前回探索に引き続いて、それさえもほとんど見ることなく既に終盤へ近づいていたところであった。
が、遂に私の執念の踏破が閉ざされた発見の扉を蹴破った。
先ほどは抑えた叫びが、今度は溢れた。
完全な独りを良いことに、心のまま雄叫びまくった。
だが、熱は身体を離れない。馬鹿みたいだが、涙まで溢れてきた。
外国からもたらされたあらゆる種類の新らしいものが、国の中央を介して地方へ洪水のように流れ込み、旧の破壊を日常としていた明治10年代。
その破壊的改新の旗手として、頑迷とみられた東北地方とその入口である栃木の地へ順繰りに送り込まれた三島通庸が、赴任先の各地でまずに欲したものは、治めるべき民の信頼や平穏な日常ではなく、中央と地方を最短で結ぶ確実な交通路だった。
彼は現実的な視点から、人民を利用した人海戦術的工事によって比較的容易かつ低廉に完成が見込める馬車による交通網の整備を企てた。
そして、彼の10年間に及ぶ地方経営の集大成として、関東東北連絡道路の中核となる塩原新道を計画し、24万人を動員して4ヶ月で作り出した。
明治17年10月23日に営まれた開通式より本日(探索当日)まで、123 年と9ヶ月余りの遺棄されていた歳月は、石垣の全部に鍍金のような緑を育てていたが、その構造自体は奇跡的に谷の狼藉に耐え、絶えて久しき通行人を待ち続けていたのである。
この道と今日作られる道が決定的に異なるのは、形作るあらゆる素材が現地調達されているか否かであろう。
現地にあったものだけで造られた道は、異形であっても異物ではない。廃道になってもそれは変わらない。
萎れたつぼみが自然と実を結ぶように、この地の景色に根付いて見えた。
これまでの淡泊さが嘘のように、この石垣は贅沢に続いている。
今までの場面なら、ただの盛り土で終わっていそうな傾斜になっても、まだ石垣が終わらない。
でもこれは、別にドラマチックでも何でもないのかもしれない。
ここはずいぶんと広いガレ谷の横断であり、そもそも土が乏しい。
だから外から土を運び込んで築堤とするよりも、そこら中に散らばっていたほどよい大きさの砕石を積み上げた方が易かっただけ。そのことは、この周囲にだけ笹が育っていないことでも証明されている。笹はガレ場に育たない。
ここで終わり。
石垣が始まってから、おおよそ150m。
途中一度も切れなかったが、谷を出外れたところで潔く、終わっていた。
三島時代の工事であることが明確な石垣としては、この世に存する最長のものであるかもしれない。
13:47
夢のような5分間が、私の感涙の叫びと共に走り去り、再びもとの廃道が始まった。
峠までは推定3km台だが、廃道の3kmはまだ何があっても不思議はない。
タイムリミット(当日中に帰宅可能な列車に乗れる男鹿高原駅の最終発車時刻)までは5時間を切っており、今しがたの感激を悠長に反芻する暇は、たぶん与えられていない。
すぐに前進を継続する。
一瞬北東の視界が開けるところがあり、谷の奥に那須連山の一座として名前を知られ、3年前の塩那道路探索ではその肩に聳える「立岩」に迫った日留賀岳(1848m)が見えた。
高い嶺にはガスではなく雲がまだらにかかり始めていた。そして、全体的に薄暗くなっていることも感じた。
現状で雨は降っていないと思うが、ラジオが言っていた雷雨の可能性というのが気がかりだった。
桃の木峠がいかに遠い峠であったかを、体に叩き込まれている。
塩原から峠まで17km以上という数字の現実を思い知らされている。遠い。ただただひたすらに、遠い。
技術的には全く難しくない藪道であったとしても、この物量となると全く易くはない。
しかも、信頼のできるエスケープルートは途中に皆無であり、救援を呼ぶための電波もない。ここでは軽い捻挫に陥っただけでも、下山に窮する恐れがあった。
そも、歩きの旅人を想定した道じゃなかったろう。
この道は、馬車なり人力車なりの乗客として通るのが、“普通”の利用方法だったんじゃないだろうか。由一の絵もそれを暗示していた。
馬車や人力車といった非力な車輌の通行を想定し、勾配を極端に抑えた反動で、道のりの長さが直線距離の3倍以上に拡大してしまった。峠まで640mの高度差を17km以上も使って登ろうとしたのは、歩きにとっても、現代の自動車にとっても、無用な迂遠に満ちていた。
ゾクッ
……先が、白んでいる。
まだ結構遠いがよく見えるというのは、規模が大きい崩壊地がある予感……。
この手の難所は、もうしばらく現れなくなっていたのだが…、
まだあるのか……。
ぐっ……?!
止めてくれよぉ……。
突破出来ないなんてことは、もう絶対に許されない。
………………くぅ
桃の木峠まで あと2.7km
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